帰ってこないよ
暗い色をした背中がマンションの廊下の先に消えるのを見届けても、僕はしばらく玄関から動くことができなかった。薄暗い玄関で閉まった扉を睨みつけたままつったっていた。
「来栖、」
リビングの入口で長い間黙って僕の横顔を見ていた律が口を開いた。
「ユーゴは?」
「出てった」
律の顔を見ないで僕は言う。日の差さない玄関にその言葉は冷たく落ちる。律が戸惑っているのが震える空気を通して伝わってきた。柳眉を歪めている馴染んだ律の顔を僕は簡単に想像できてしまう。その後ろで律にくっつきながら泣き出しそうな顔をしているであろう美宇のことも。
「出てったって…」
口にすることを見つけられずに律は言葉を濁す。顔を上げない僕の反応を待つようにしばらくその場にいたが、やがて何も言わずに自室に引き上げていった。律を追いかける美宇のスリッパの音がやけに僕の耳に残った。僕は何もできずに、ついさっきまで四人全員がいた寒くて暗い玄関にたった一人で立ちつくしていた。
その日の夜にユーゴが帰ってくることはなく、僕は律や美宇とも顔を合わせることができなかった。三日がたっても玄関のタイルに紐の太い、茶色いブーツが揃えられることはなかった。ユーゴがでていって三日間の間に変わったことといえば、共同スペースであるリビングに誰かがいることは少なくなって、美宇が律の部屋にたびたび押しかけているのを僕は見かけた。二人で一緒にはいるものの、廊下に声が聞こえないことと押しかける美宇の腕に最先端のノートパソコンとヘッドフォンが抱きしめられているところを見ると、前のように話してじゃれているわけではなく別々のことをしているようだった。
「なぁ、君ってユーゴと住んでいるやつだよな?」
半地下の学生食堂で土色のどんぶりから明太釜玉うどんを啜っていると、頭の両側を少し刈り込んだような髪型をした男に話しかけられた。一人で食事をしているときに邪魔をしてくるのはユーゴぐらいなものだったから僕は驚く。知らない学生だ。
「そうだけど…何?」
訝しげに僕は訊く。初めて見る男の耳の上の方にある大きなピアスを痛そうだな、と思う。
「あぁ、やっぱり。聞いてた話からそうかなとは思ってたけど、俺すげぇな」
男は自慢げに笑った。
「あいつ、ここんとこずっと講義サボってんだろ。明日のはさすがにはずすとまずいぞって伝えといてくれない?何連ちゃんなんだっつといて」
「え、ユーゴ学校きてないの?」
僕は言う。学科の違うユーゴと僕は授業がかぶっていることがない。それでもこの広い学内でほぼ毎日のように会っていたのはユーゴが絡んでくるからで、僕はユーゴに避けられているのだろうと思っていた。
「来てない来てない。俺、学科一緒だからほとんど授業かぶってっけどここ数日あいつの姿見てないよ」
まぁ、もともとサボリ魔で有名だけどさー、と笑う男を僕はまじまじと見つめた。家にも学校にも来ていないなんてどこをほっつき歩いているのだろう、と思った。
「うん、わかった。もし会ったらね」
僕が頷くと男はじゃあな、と手を振って離れていった。券売機の長蛇の列に並ぶ人ごみにその姿が隠れる。たくさんの学生の話し声と、調理の音や食器を洗浄する音で賑やかな食堂の中で僕は自分だけが隔たっているように思いながら眉を顰める。ガラス越しに見える、学生食堂の中央にある青銅色のテーブルが置かれた屋外テラスはひどく寒そうだった。
「ねぇ、ユーゴ帰ってこないよ」
ステンレスの調理台に山盛りのちぎられたサラダ菜とスライスされたオニオンが浸けられたボウルを並べて律が言った。ガスコンロのミルクパンのなかでは茹でかけの卵がぐつぐつと踊っている。
「もう、五日目だよ」
背中をむけて冷蔵庫の中を漁っている僕に律が繰り返すように言った。
「知ってる」
僕は短く答えて、冷蔵庫の隅から取り出した袋に入った余りものの食パンの耳をボウルの横に置いた。僕の言葉の冷たさにキッチンの中は静まり返る。ぐつぐつとお湯の煮えくり返る音が響いた。
「知ってるじゃなくて、さぁっ」
声を張り上げて律は僕を見上げる。律の手から離れてボウルの水面が波立った。睨みつけるような律の視線を僕は受け止める。
「来栖、冷たいよ…心配じゃないの?もう五日も帰ってこないんだよ…」
僕の仏頂面に律は泣きそうな声で言った。ぴちゃん、水が動く音が鳴る。
「この間、ユーゴの友達に話しかけられたよ」
僕は静かに言った。僕は律から目を逸らした。
「ユーゴはたくさん友達いるんだし、出身だって近くだろ?友達の家か実家にでもいるんじゃないか?」
「そんなわけ、ないじゃん!」
律が叫んだ。鋭い目にあてられて、僕は否応なく律と目を合わせる。
「ユーゴに、実家はないよ…。ユーゴに両親は、家族はいないんだよ…」
小さな律の声に僕は呆然とする。腕にあたるステンレスの調理台が痛いほどに冷たい。
「どういうこと…それ」
「フェアじゃない…フェアじゃないとは思っているんだけど、ユーゴがあまりにもバイトばかりしているから二人でお酒飲んでいる時に聞いたの。私は少し酔っていて、気遣いにかけている状態だったしすごく不思議に思っていたし…ユーゴはだいぶ酔っていて何をきいても正直に答えてくれそうな状態だったし」
切なげな律の表情は少しの罪悪感を滲ませていた。
「ユーゴはどうしてそんなにバイトばっかりしてるの?何を買うの?って。生活費だよーって軽く言うものだから、親から仕送りもらってないの?って聞いたの。そしたら、俺両親いないんだよねって。気軽なひとり身、根無し草って笑っていたけど…」
律は唇を噛んで、少し黙った。僕は硬直する。
「学費がどうしても足りない分は美宇の親に払ってもらっているんだ、でも俺あんまり美宇の親と仲良くないんだよねーって。両親と美宇の親は仲悪かったらしくてって」
何も言うことのできない僕に律は続ける。
「ユーゴは私が来る前も美宇に心配して訊いていたらしいんだよ…俺はほとんど午前様だし、美宇は従兄弟だからいいけどお友達、夜が遅いの迷惑じゃない?って。そんな人が友達の家に急に押しかけられるわけ、ないじゃない…。ユーゴの居場所、ここしかなかったんだよ?来栖はそれを奪っちゃったんだよ…!」
顔を赤くさせて律は叫ぶ。律の言葉は鋭利に僕を引き裂いた。ごめん、と呟いて律はふらふらと危うい足取りでキッチンからでていった。潤んだ目を片手で押さえて律が自室にむかったのが見えた。知らなかったことが急に明るみにでる衝撃を処理しきれなかった僕はへなへなとキッチンに座り込んだ。調理台の影の暗さに、深夜にたびたび行われたユーゴの上映会を思い出す。明かりの落とされた静かな室内で、ソファーに座って壁に映る映像を真摯な面持ちで眺めていたユーゴ。彼に選ばれた滑らかに物語を進めていく映像。
両親をなくして、親の不倫相手の息子と住んでいたユーゴは何を思っていた?今、何を思っている?
「来栖くん…」
頭上から小さな声が聞こえて僕は見上げた。サイズの大きすぎるカーディガンをきて、目元の赤い美宇が少し怯えたような顔をして立っていた。僕は美宇の腕にぎゅっと抱きしめられたアパレルショップの袋に目をやる。傾いた袋から美宇の腕のせいで皺のついてしまっているラッピングされた包みが見えた。
「ユーゴの誕生日、明日なの。ユーゴ、あと三時間で二十二歳になっちゃうのに…初めてわたせる贈り物なのに…ユーゴに会えない」
決壊したようにぼろっと、美宇の目から大きな雫がこぼれ落ちる。白い頬を弧を描いてつたった雫は僕の裸足のすぐそばに落ちて染みをつくった。僕は勢いよく立ち上がる。頭上にあった美宇の顔がかなり下の位置へ行く。僕は走って玄関に向かい、靴下も履かずに冷えたスニーカーに裸足を突っ込んだ。
僕は、夜の街に駆けだした。