1.プロローグ
「そこをなんとかっ! わたしここを追い出されたら行くところがないんです!」
「いい加減にしてください! うちのマンションは家賃の滞納は一切許しません!」
九月中旬の朝。俺──志喜屋陸はゴミを出そうとドアノブに伸ばした手を止める。一人暮らししているマンションの部屋の外から、どこか聞き覚えのある騒がしい声が聞こえたからだ。
一人はマンションの管理人さん。もう一人は……誰の声だっけ。
「今日中に家賃を払うか退去するかしてください! そうしなければ訴えますよ」
「そ、そんなぁ……」
「では、失礼します」
言い争う声がやみ、管理人さんが去る足音が聞こえなくなる。
もういないよね?
物音がないことを確認し、扉を開ける。けれど次の瞬間、隣室の扉の前で蹲っている美少女と目が合った──合ってしまった。
「え? 志喜屋……くん……?」
「こ、心矢さん……」
そこにいたのは、同じクラスの完璧美少女──心矢小春だった。眉目秀麗で文武両道。誰にでも優しくてよく頼られて、どんなことでも人並み以上にこなす。当然、男子からは数えきれないくらい告白されているが、すべて断っているそうだ。
いつも大勢に囲まれて、サラサラのセミショートの黒髪を明るく揺らす。まさに絵にかいたような高嶺の花。しかし今の彼女にそんな面影は微塵もない。
中学時代の物らしき赤ジャージに身を包み、髪はボサボサに乱れている。うっすらと涙が浮かぶ目は暗く、現実逃避するように遠くを見ていた。
不意に彼女の目が、一筋の希望を見つけたように輝きを取り戻す。同時に、俺の背筋に悪寒が走った。
なんだろう……学校一の美少女に見つめられたのに、すごく嫌な予感がする。
「心矢さん隣だったんだ。奇遇だね。じゃあ俺はゴミ出してくるからもう行くね」
早口でまくし立て、俺はすぐに心矢さんに背を向け階段に向かう。だが──。
「ちょっと待ってよ志喜屋くん!」
心矢さんに、手首をがっしりと掴まれた。意外と力が強くて振りほどけない。
女の子と手を繋ぐ──手首から伝わってくる柔らかくて温かい感触に、普段ならドキドキしてしまいそうだ。けれど今の俺にとってそれは死刑宣告に思えた。
うっ……遅かったかぁ……。
「……何?」
恐る恐る振り向いて聞き返す。すると心矢さんは俺の足にすがりつき、半べそをかきながら言う。
「お願い志喜屋くん! わたしお金も行くところもないの! わたし、家賃の半額なら払えるから! それに今月からバイトも始めたんだよ。だから滞納中の家賃払い終わって、生活の目処が立つまで一緒に住まわせてくださいお願いっ!」
「いやいや心矢さん! 俺男だよ? しかもここワンルームだしまずいよ」
「そこを何とかお願いっ! 志喜屋くんはわたしが自分の部屋の前で野垂死んでもいいって言うの!?」
「俺そこまで言ってないからね!? 親とか友達とか、他に頼れる人はいないの?」
そう聞き返すと、心矢さんは目を伏せ黙ってしまった。
あ、これ聞いちゃいけないやつだ……そうだよね。関係がうまくいってるなら真っ先に親に頼らない時点でおかしいよね。それに学校でも、心矢さんの周りはなんか歪だし……。
「ごめん心矢さん。変なこと聞いて……」
「あー、えっと……うん。いいよ。だけど親はちょっと無理かな……それに学校のみんなにはこんな情けない姿見せたくないの」
「そう、なんだ……」
「だからお願いっ! わたしを志喜屋くんの家に居候させてっ!」
「……っ!」
俺の服にしがみつき、夜空のように透き通った瞳で上目遣いをしてくる心矢さん。服越しに彼女の体温が伝わってくる。
普段の俺なら「あざといなー」とでも思って白い目を向けていたかもしれない。が、今の心矢さんからは必死さが伝わってきて、それらのあざとい仕草は狙ってやっているわけではないとわかった。
どうしようこれ……何か解決策は……。
心矢さんは教室ではいつも大勢に囲まれているが、特定の誰かと仲良くしているところを見たことがない。「仲のいい友達はどう?」なんて聞いても、心矢さんを傷つけるだけだ。
どうしよう……心矢さん、本当にもう頼る人いなさそう。でもだからって同級生の男の家で暮らすって……犯罪臭しかしないなぁ……でもなぁ……ここで見捨てるのもひどいよね。外は温かいとはいえ、九月の北海道は朝晩冷えるし、それこそ不審者に襲われる可能性だってある。
俺は顎に手を当て、心矢さんを見る。彼女は汗と涙にまみれてなおかわいいままの顔で、不安そうに俺を見上げている。
でも俺、こんなクラスのアイドルみたいな女の子と一緒に暮らして理性を保てるの? 心矢さんに手を出して高校一年生で人生終了なんて嫌だよ? でもそれと同じくらい、俺が見捨てたせいで心矢さんが苦しい思いをするのもかわいそう……。
「……そうだ!」
要は、俺が心矢さんに手を出さないと、俺自身が確証できればいい。なら、思い込めばいい。心矢さんは俺の本当の妹だと、そう思い込めばいい。
実の兄妹に手を出すなんて現実じゃありえないし、俺は思い込み──というより、自分を騙すのがうまい。自分に催眠術をかけられるといっても過言ではないくらいに。
心矢さんは俺の妹……心矢さんは俺の妹……心矢さんは俺の妹……心矢さんは俺の妹……。
心矢さんの顔を見て、体温を感じて、シャンプーや洗剤のいい匂いを感じて、説得力のある兄妹イメージを本物の記憶として自分に誤認させる。
心矢さんは生き別れの兄妹、両親の隠し子。そんな嘘情報すら、俺の中では真実として処理される。そうして俺は心矢さんを本当の妹として──劣情なんて絶対に抱かない対象として認識することで、同棲を受け入れる準備を終えた。
俺、こういうかわいい妹欲しかったんだよね。姉さんはいっつも俺をこき使うし、ウザいくらいちょっかいかけてくるからなー。
「わかったよ心矢さん。今日から一緒に暮らそう」
一切のやましい気持ちなく言い切ると、心矢さんの表情がパッと明るくなった。
「ほんとにっ!? ほんとにいいのっ!?」
「うん。もちろん。これからよろしくね」
こうして、いつも教室の隅にいるような俺と、クラスの中心に咲く高嶺の花こと心矢小春の、少し変わった同棲生活が幕を開けた。
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