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乱声・二拍──欲触愛慢明妃の蓮華(伍)

 その夜、新しい本陣で、法化党の面々は燻され煤けた顔で祝杯をあげた。そして、次なる作戦を練ると、早めに就寝することにした。


 経実はどうにも体に染み着いた煤臭さが気になった。髪も鎧も、肌着さえ臭い。


「これでは気になって眠れぬぞ」


 経実は女武者の吉祥に訴えた。


「洗いに行ってもよいか?」


「また、川に入るおつもりで?」


「駄目か?」


「まあ、さすがに今夜は敵襲もないとは思いますが、お寒くはございませぬか?」


 とはいえ、経実の訴えは吉祥にはよくわかる。さぞ気持ち悪いだろう。


「近衆三十人を伴うならば……」


 吉祥からの許しも出たので、その夜、経実は近衆どもと共に近くの川に来た。先日沐浴した日よりも気温は低いが、興奮しているためか、あまり寒くは感じない。風がいくらか湿り気を帯びて、南風になってきたこともあるかもしれない。


 今夜も先日と同様、経実が水に浸かる周囲には囲いをする。今日は陣幕で囲った。


 とにかく、全てが煤臭い。着ているもの全てを脱ぎ捨てて、全て洗い流したかった。


 経実は川の水に浸かると、先ず顔を、次いで体をごしごしと擦った。そして、髪を洗う。


 洗髪には吉祥も手を貸してくれた。櫛で丁寧に梳いていく。


 今夜も幕の中に入れるのは吉祥だけ。他の近衆どもは、幕の側にさえ寄れない。少し離れた下流に控えている。


 戦に大勝した夜。朧月も出て、渓流からそれを眺めると、なかなかに風情があり、どこかまったり、のんびりした夜だった。


「替えのお召し物を持って参ります」


 髪を洗い終えると、着替えを取りに、吉祥は一度幕外に出た。


 その間に経実は川から出て、春風にその身を乾かしていた。


 すぐに吉祥は戻ってきた。


 経実はこちらに背を向けて立っていた。川の流れを眺めている。


 吉祥は経実の肩に新しい下着を掛けた。が、次の瞬間、低い呻きとともにどさっと崩れ落ちた。経実、自分の背中でのことに、瞬時に振り返る。


「きっ……!」


 足元に崩れ落ちた吉祥。そして、彼女を眠らせた者が、経実の目の前に立っていた。


「……教……理」


 大乘党の頭・教理がそこにいた。余りのことに、経実は声も出ない。


 教理はぎらぎらとした眼光の中に、どこか恍惚を覗かせ、


「やはり女ではないか、経実よ。いや、希姫君」


と言った。


 経実の下着の襟から、眩しい胸が覗いていた。


 それを見つめる教理。


 経実ははっと、襟を合わせた。恐ろしい予感。頭いっぱい警鐘が鳴る。


 助けを呼ばねば。吉祥は気絶させられている。向こうの近衆達を呼ばねば。しかし、恐怖からか、声が出ない。


 そして、教理の眼光に、何故か全く動けなくなってしまった。逃げられない。


「経実、いや、希姫君よ。この教理の心は知っている筈。どうか情けをくれ。狂おしいほど、姫君が欲しい。その体を……」


 言うが早いか、飛びかかってきた。


「嫌だっ!やめろ」


 経実はうまく声にならない。そして、教理を払い退けることもできずに、そこの岩場に押し倒された。


 もがく。抵抗する。だが、男の強い挑みには勝てない。


 教理は乱暴に衣を剥ぎ取り、経実に荒々しい愛情を示す。いや、憎悪か。


 しかし、


「儂がこれまで戦ってきたは、姫君を得んがため。こんなに恋狂っておるのに、何故姫君は拒絶するのだ!」


と言う。


 知るか、そんな心。経実は反発した。


 こんな男に汚されてなるものか。未通で済まさなくては。


 経実は戦慄きながらも、力の限り声を振り絞った。


「嫌だ!離せいっ!!」


 それは戦場の号令よりも、遥かにか細かったかもしれない。だが、近衆達の控える所まで、届いたのである。


 川のせせらぎにかき消されていたが、平五はちゃんとその声を聞いた。


「すわ!」


と、真っ先に陣幕まで駆け寄る。


「殿!殿!」


 必死に主を呼びながら、幕内に飛び込んだ。


「と……」


 そこには、倒れている吉祥。そして、あられもない姿の主。その上に覆い被さる賊。


 目を覆いたい光景があった。


 考えるより先に手が出た。反射的に平五は抜刀し、武者声とともに踊りかかった。


「おのれ、主に何をするっ!!」


 振り落とされた刃を、さっと横に転がり、教理は避けた。そして、すぐに起き上がって、体勢を整える。


「教理だ!捕まえい!」


 羞恥も忘れ、経実は身悶えながら叫んだ。


「教理!?」


 平五は驚愕しつつも、身構え、間合いをとる。教理は素手で構えた。


 平五が斬りかかる。教理がかわす。


 騒ぎを聞きつけ、近衆達がばらばらと駆けつけた。


「んなっ!」


「教理だっ!教理だ!」


「教理!」


 近衆達が一斉に斬りかかる。


 教理、見事にかわして、川の方へ逃げ出す。


「待てっ!」


「逃がすな!」


「それっ」


 近衆達は次々に追って行った。


 あとには平五を含め三名の近衆が残る。


「殿っ!」


 彼等は何よりの気がかりへ、青ざめた顔で走り寄る。


 経実の顔を見つめ、


「ご無事でございますか?」


「聞くな……」


 いちいち……見ればわかるだろうに。


 見るな……!


 彼等は何より経実を案じた。真実経実を心配したからこそ反射的に出た言葉なのである。だが、それはかえって経実を傷つける言葉であった。


 それは女の身の吉祥にしかわかるまい。


 こんな現場を見られて。無事かと問われて。


 結局、教理は取り逃がした。


 経実は何事もなかったように、すぐに陣に帰り就寝したが、無論、眠れるわけがなく。


 吉祥は明け方前に、正気を取り戻した。


 翌朝、経実は家臣達を急遽集め、軍議を開いた。


「作戦変更だ」


 そう言う経実の瞳は、今までに見たことのない色であった。青く燃え盛っている。どこか冷酷でさえあった。だが、とてつもなく熱い。


「総仕上げだ。これで戦を終結させる。雲門、十二安を集めておけ。この戦、十二安なくては成り立たぬ」


 経実はそう言うと、皆に作戦を打ち明けた。


 このような恥辱。絶対に許せなかった。





 十二安の一人・正安は以前、上野殿と敵対関係にあった頃、そこに潜り込んで信時朝臣の乳父に謀反を起こさせようと工作したことがあった。その時、平五と名乗っていたのであるが、実は正安は経実の近衆の平五の実兄である。あの時は弟の名を使ったのだった。


 今日、正安は経実に呼ばれた。そして、大事な役目を言いつけられ、一通の文を手渡された。


 受け取り、退出した彼だったが、任務を遂行する前に、弟の平五を見つけて、ひそひそ話しかけた。


「いったい何があったのだ?」


「何のことでしょう?」


 とぼけたわけではなく、平五は本当に何のことかわからなかったらしい。だが、それがまた優秀な兄を失望させるのである。


「何があったかと問われただけで、相手が何について訊いているのか察することができねば、十二安にはなれぬぞ」


「すみませぬ」


「まあ、よいわ。儂が聞きたかったのは、殿の御事よ。今、ある密命を仰せつかったが、殿はとても正気とは思えぬ。おことは常に殿の御側におる者。殿に何があったか存じておろう?」


「それだけは死んでも申せませぬ」


「殿が心配じゃ。とんでもない無謀をなさろうとしている。反対したが、いくら申し上げても聞く耳持って下さらぬ。仕損じれば、殿のお命が危ないのに……殿は死んでも構わないと仰せられる……若殿がおわすこと故、殿はどうなられても構わないのだと……とんでもないことだ!」


「どんな無茶をなさろうというのです?」


「言えるか」


「それがしもです。殿の御身に起きしこと、決して口にはできませぬ」


「……そうか」


 近衆としての正しい答えであろう。兄は頷いたが、それでも聞き出さなければならぬ一大事と思った。それほど経実は無茶をしようとしている。


「兄者。殿の御命を守るだけが忠義とは思いませぬ。御命より大事なることもありましょう」


「戯け。殿あってこその法化党だ」


「いいえ。申せませぬ。何としても殿をお止めするというなら、殿に何があったかと問うなら……それがしはこの場で自害致します。法化党の主という存在を守るのが家臣の務めならば、その主という立場にある一人の人間を守るが近衆の務めと存じます。殿という一人の人を、一人の人としてお守りしたい」


「ふん、小賢しいわ」


 けれど、正安は満足そうであった。


「もうよい。おことはよき近衆になったな」


 正安はそう言って、立ち去ろうとした。だが。


「もし、兄者」


 平五は呼び止める。


「家臣なら、法化党を守るために無茶をなさろうという殿を、お諫めしなければならないのでは?もう、それがしを問い詰めないのですか?そのまま任務を遂行するのですか?そんな無茶な策、法化党は負けるのでは、滅びるのでは?」


「法化党は滅びはしないだろう。殿の御身一つの問題だ」


 背中を向けたままそう答えると、正安は藪の中に消えた。


 経実の身に起きたであろうこと。平五の様子からだいたい想像できた。なるほど、それをさえ策として利用するわけか。


 経実の心の強さに感じ入るばかりだ。


 正安は任務を果たすべく、大乘党が陣を構える五浦の砦に向かった。


 その晩は、赤く大きな月が空に鎮座していた。風はない。明日は嵐とかいうことだが、まだそんな気配もない。


 その砦の中で、小太郎教理は一人、酒を呑んでいた。やけ酒のように、どんどん杯を重ねている。飲む勢いはなかなか衰えなかった。


 経実との戦に敗れ。朱雲城の炎に呑み込まれた。


 輔胤は煙を吸って死んでしまった。沢山の者達が、火と煙の犠牲になった。


 そして、教理自身の命も危うかった。


 あの炎の中、どうにか逃げ出すことができたのも、総大将という立場だったからだ。


 辛うじて逃げることはできた。けれど、一人になってしまった。散り散りになり、付き従う者もなかった。総大将でさえ、一人はぐれてしまった程の敗戦。


 だが、それでも教理の経実への情念は潰えなかった。悔しかった。憎かった。その感情はもっと烈しくなった。いや、敗れたからこそ、さらに経実への執念は増したのであろう。


 教理は単身、法化党の陣営を目指した。もはやどうでもよかった、自分の命など。


 今の経実と同じ。やけになっていたのだ。


 どうなってもいい。滅茶苦茶をやっても、恥も誇りも、命さえどうでもいい、経実の首を手に入れようとした。


 そうして、山中にさまよい、そこで幸運にも水浴びする経実に会った。


 経実は鳥肌が立つ程の美しい女だった。


 その肌を目にして、沸き起こった憎悪。そして恋情。


 激しい愛憎。


 経実を殺すのも、犯すのも、どちらも同じことだ。


 教理は本能のままに経実を愛した。が、邪魔が入った。


 教理は愛する女の首を斬ることも果たせずに、逃げた。


 逃げて逃げて。何も考えずに逃げた方向は北。自然に自分の陣に向かっていた。


 追っ手から逃れた教理は、気がつけば五浦にいた。いつの間にか、涙を流して歓喜する手下どもに囲まれていた。


「頭、頭。よくご無事で」


「頭。さんざん捜しましたよ。もう駄目かと思いました。頭が死んじまったら、これからどうすりゃいいんですか」


 仲間に、可愛い手下どもに泣かれて、教理はようやく頭目としての自覚を取り戻した。この者達を守らなければならない。


 教理は砦に入って、また元の頼りになる頭に戻った。総大将として、次の戦闘に備え、作戦を練る。


 だが、それでも経実への情念は消えない。


 今のように、一人でくつろいでいると、経実への怨念で溢れ返ってきて、つい酒が進む。飲めども飲めども、気持ちは鎮まらない。


 赤い月を睨みながら、またもう一杯。


 その時、彼の頬に一陣の旋風が突き抜けた。


 びゅんっ。


 ぱんっ。


 旋風は甲高い音とともに、そこの柱に突き刺さった。


 驚いて、教理は、けれど冷静に身を捩り、背後の柱を見た。矢が刺さっている。そして、それには文が結びつけてあった。


 教理は矢を引き抜いた。文を解き、開いて読む。


 暗く、よく見えぬ。立ち上がって、薪の火に翳して読んだ。


 途端に胸が高鳴った。警鐘の筈だが、このときめきは何なのだろう。心臓の警告とは裏腹に、頭はじいんと甘い悦楽に痺れた。


 経実、いや、希姫君からの文だった。文末に、羽林息女とある。


 会い見たいと書いてあった。


 誰にも気づかれずに、二人きりで、忍び逢いたい。日と刻限と場所を決めて。逢いに行く、と。


 逢いたい。つまり、教理の女になるという意味だ。


 教理は息の仕方さえ忘れた。あの女と恋仲になれるのだ。


 首なんかどうでもよくなった。生きたままのあの女の全てを手に入れられるなら。


 教理は闇に目を凝らした。文使いの者がそこら辺に潜んでいる筈だ。だが、教理の野生の目でも、それを見つけることはできない。


 教理は闇に語りかけた。


「承知!明日、亥の刻。この砦の東の東屋の脇に六角堂がある。そこで待っている」


 藪の中の文使いに言った。


 文使いには聞こえただろうか。伝わっただろうか。

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