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乱声・五拍──恋の重荷(拾)

 数日経ち、いよいよ明日は決戦という晩。


 下野の地を、一人の美女がさまよっていた。


 小袿を羽織っている彼女は、貴人であることは明らかだ。望月に照らされ、白い顔はより一層蒼白に輝いている。


 彼女の明眸は、見覚えのある風景を見ていた。


 尼達が暮らす庵。池になって溜まった湧き水。


 池水の水面に住む月は氷のように白い。光っている。


 彼女はその池の中に入って行った。


 すると、全く動きのなかった水面が揺れて、その月の姿を歪める。


 彼女はふと立ち止まった。すると、月も形を整えて、もとの姿を留めた。彼女はそれをそっと掬い上げる。しかし、水面の月は溶けて滑って、彼女の両手には掬えなかった。


 彼女はそのまま天を仰ぎ見た。そこには全き姿の月が居る。


 その月光を浴びて、彼女は目を閉じた。


「私は……この水に命を救われました……。あの方が私にこの水を下さったから……だから、今日まで命を永らえられました」


 覚えていないけれど、意識を無くした彼女には、その時のことはわからないけれど。でも、確かにあの時、この場所で、彼女は信時に出逢った。


 信時にこの水をもらった。彼に命をもらった。


 助けられた思い出の地。気付きはしなかったが、初めて出逢った場所。彼に命をもらった……


 貴姫君の命。


 貴姫君は愁眉とともに瞼を開けた。


 懐から割れた水晶を、信時の、貴姫君の命を取り出して、月に掲げた。水晶は彼女の涙に似て、月光に透ける。


「天よ!」


 水晶を胸に抱き、天を仰ぎ見た。


「信時朝臣はこの国になくてはならない人です。あの方を失うことはできません。賊徒から国を守り、皆を守る大切な使命を負っています。この国と民を守ることのできる、ただ一人の人です。どうか、かの人の命をお救い下さい。信時朝臣を死なせないで下さい。どうか、どうか!……その代わりに、私の命は差し上げます!だから、どうかお願いします!」


 姫は水晶のような涙を池に落として、天に願った。


 姫の命は、姫の命を信時が救ったこの場所に。信時にもらった命を信時に上げる……


「どうか、天よ!」


 姫は言うと、水晶を抱いたまま池水の中に身を沈めた。


 月影は水底までをきらきらと輝かせている……





 その時、信時は何かを感じて虚空を見やった。


 夜明けの決戦に備え、時光に指示を出していたその陣中に、何か。感じる。


 鬨か?


 近い……?


「敵襲かっ?!」


 立ち上がった。同時に、ひゅんっと矢が目の前をすり抜けた。


「敵襲だ!」


 陣中のあちこちで怒号が飛び交う。わっと鬨の波が迫ってきた。やけに近い。


「敵の奇襲か?」


 信時が時光に言った時。


「殿っ!殿!」


 信時の郎党が転び入ってきた。


「寝返りでござる!」


「何?」


 鬨は陣中より上がった。


「長行めの寝返りです!」


「長行?確かに長行なのか?」


「はっ!」


 言っている間にも、矢がひゅんひゅん飛んでくる。そして、


「南殿っ!」


 聞き覚えのある声が、殺気を帯びて近づいてきた。


「南殿!お命頂戴つかまつる!」


 太刀を手に飛び込んできたのは、紛れもなく長行だった。


「おのれい!血迷うたか、この海賊!」


 時光が飛び出して、長行に太刀を構える。


 陣中は大混乱。味方と味方で斬り合いとなり、怒号と悲鳴の嵐だった。


 総大将を守らねば!


 総大将の首を得ん!


 味方も裏切った方も、一斉に信時目指して駆け寄ってきた。


 短期決戦こそ長行の勝利。初めのうちは、味方からの攻撃に陣中は混乱し、長行に有利だろう。おもしろい程、討ち取れるに違いない。


 しかし、兵力に差がある。時間の経過とともに、信時は態勢を整えて行くだろう。そうなれば、信時が圧倒的に優位に立つ。


 また、信時の本陣ばかりではない。周囲には時光や三河介、若狭介など、他の追討軍の陣もある。それらが救援に急行してくる筈だ。


 長行が勝利できるのは最初だけ。その間に信時を討ち取らなければならない。


 長行は本陣中央を闊歩した。ひたすら信時の首を目指して。


 しかし、すぐ近くにありながら、目の前にありながら、なかなか手に届かない。


 長行もその手勢も、あっという間に信時の前に群がった敵、いや、つい先程までの味方に、行く手を阻まれた。


 斬っても斬っても、信時との距離は縮まらない。手勢もどんどん討ち取られて行く。


「ええい、怯むな!まだまだ敵は混乱中だ。今こそ我らの勝機!総大将を討ち取れ!矢だ。矢をもっと放てい!」


 長行は大声で怒鳴った。


 まだ長行の方が優位だ。背後も右手も左手も、大混戦の中、敵は簡単に討ち取れているではないか。


 難しいのは前方だけ。


 その強固な信時の周囲に矢を放った。次々に。


 ばらばらと敵が倒れて行く。


「今だっ!」


 長行は倒れた敵の群れの中を突進して行く。矢に負傷した敵を次々に襲う。しかし、敵は死に物狂い。血を噴き出しながらも、猛然と刃を振るってきた。


 かきん!


 信時の太刀にも敵の刃が交差し始める。


「おのれ!」


 しかし、一太刀浴びせただけで、敵は信時の周辺の兵達に必ず斬られた。


 そうしているうちに、長行の弓隊がまた矢を放つ。


「うっ!」


 流矢は信時の左肘にも一本刺さった。


「南殿!」


 時光が駆け寄る。


「南殿!大丈夫ですか!?」


 そう案じる時光も背中に矢を負い、左足に手傷を負っている。


「大事ない。かすり傷だ。時光こそ、その足で大丈夫か?」


 信時は眉をやや歪めながらも、そう言った。


「それがしなぞ!それより、御傷の手当てを」


「構うな、平気だ」


 そう言っている間にも、また次の矢が飛んでくる。ばたばた又倒れる者が出て、ばらばらと敵が迫ってくる。


「もらったあ!」


 長行がそう叫んだ。同時に信時目掛けて突進してくる。


 しかし、踊りかかって信時を斬ったのは、長行より一歩早かった彼の郎党だった。


「南殿お!」


 時光の絶叫。


 信時の体が揺らいで、やがて地に倒れる。長行が飛び上がる。信時の横臥した脇腹目掛けて太刀を振り上げた時だった。


 わあと、右翼から新たな大軍が湧き上がった。大軍は次々に長行軍を襲う。


 時光の軍だった。時光不在ながらも、郎党頭の判断で、彼が率いてきたのだ。


「長行の殿!殿!引かれませい!」


 長行の郎党が叫んだ。


「ち!」


 予想外に時光軍の到着が早い。


「長行の殿!早うお逃げ下されい!」


「くそっ!」


 あと一歩なのに。


 長行は振り上げた太刀を下ろす暇もなく、両手を掲げたまま、郎党達に引きずられて行った。


「追えい!逃がすな!!」


 信時の周囲にいた者達が凄まじい勢いでそれを追う。


 信時はそれを無言で見送ることしかできなかった。


 何が起きたのか、よくわからない。


 信時は彼等の後ろ姿をただ眼で追っていた。次第に彼等は遠退いて行く。


 それを追うように、どす黒いものが地を這って進んで行くのが、眼の隅に見えた。かなりの速さでどんどん進んで行く。


 何だろう。それは彼自身から進発して行っているようだ。


 血か……?


 血だ。


 信時は自分の血だと知った。どくどくと随分沢山出て行くものだなと思った。


 そして、別なことを考え始める。


 何だったのだろう。長行はいったいどうしたのだ。何故裏切ったのだろうか。どうするつもりなのか。この戦の行方はどうなるのか。


 そうだ。こうしてはいられない。戦を指揮するのは自分だ。


 そう思って、起き上がろうとした。だが、ひどく重くて、動かない。岩を持ち上げるようだ。腕が全く利かない。力が入らない。


 寒いなと思った。力が入らないし、寒い。痛いのか苦しいのかもわからない。


 もう駄目かなと思った。


 自分は今、自分の血溜まりの中に横たわっている。


 そう、信時は自分の血溜まりを、自分の眼で見ていた。


 だるく重いと、感性も鈍るのか。なんだか頭の中もひどく静かだ。


 きっと、他人が見たら、自分の顔は諦めきった表情に見えていることだろう。


 そういえば。昔斬った韶徳三位殿も、諦めきった静かな表情をしていた。彼も血溜まりの中で。


 人の最期とはこんなにも静かなものなのかと、あの時そう思ったものだ。


 最期か。そうか。自分も最期なのか。


 そう感じた。信時は視線を動かした。西に傾く望月が見えた。


 あちらは都か。


 父には結局会えなかった……。あの時会ったのが、今生の別れとなったのか。何年前だろう。二十年にはならないが、十五年は過ぎている。


 母は元気そうだ。自分が死んだら、どんなに悲しむだろう。


 兄には迷惑をかける。もう支えてあげられない……


 子供達は……嗚呼、子供達にはもう会えないのか?


 あの子達は、しっかり育ってくれるのだろうか?どんな大人になるのだろう?


 いや、大丈夫だ。あの子達ならば。親なぞいなくとも、あの子達なら……


 そうだな?


 その時、風にのって、


「母君!」


と呼ぶ幼子の声が聞こえた気がした。


 子供達か?あの子達が母を呼んでいる……?


……いや、違う。あれは貴姫君の声だ。幼い貴姫君が、母君を恋しがって泣いている。


「貴姫君……っ!」


 彼は虚空に手を伸ばした。体を起こす。だが、すぐに崩れ落ちる。


 ころころと、彼の懐から転がるものがあった。


 ああ、貴姫君!


 巻物だ。彼女にもらった。


 懐の奥深くにしまっておいたのに、乱戦のうちに、出てきてしまったのか。


 信時の手は必死にその巻物を追いかけた。


 伸ばした。手を。もう少し!もう少しで届くのに……


「姫……君」


 かわいそうな人だった。彼女の父にも母にもなってあげたかった。


 とても愛している。


 人は、どんな偉人でも貴人でも英雄でも、最期は一個の人に戻るのか。


 信時もまた然り。


 総大将信時朝臣ではない。ただ一人の男・信時だ。


 思うは、戦の行方でも勝敗でもない。彼の大切な者達。


 誰でもそうなのか、信時だけがそうなのか。


「貴、姫君……」


 手を伸ばす。巻物へ。


 愛する人がくれた、彼女の心。


 やっと、届いた!


「ああ、姫……」


 掴む。握る。大事な巻物。


 彼女の心。


 美しい心。


 気品溢れる姿。甘やかな声。しなやかな四肢。艶やかな髪。柔らかな肌。優しい吐息。あの花のような容。


 もう一度、もう一度抱きしめたい。


 せめて、あの巻物を胸に。


 願えども、それはびくともしない。


 怪しや、軽い巻物がびくとも動かぬ、どうしたことぞ。


 信時は渾身の力を振り絞り、それを持ち上げ、胸に抱かんとした。重い重い巻物を。


 それが、追討使・信時朝臣の最期だった。





 間もなく若狭介の軍も駆けつけてきた。


 しかし、これこそが逆賊時憲の策略であった。


 若狭介が長行を攻撃している隙に、件の侍大将は大軍を動かして、時憲のもとに走った。


 一方、万の兵に囲まれた長行は、


「今こそ退却する時!」


と、味方に号令して、一目散に逃げ出した。行く先はやはり時憲のもと。


 彼は疾風の如く戦場を駆け抜けた。


「姉上!遂にやりましたぞ!姉上の仰せに従い、従順を貫き通しました。誠に、従順を装わねば、本懐は遂げられませぬ。長く辛い日々、屈辱の日々でしたが、遂にやりました!」


 長行はあの世の姉・三亥御前に報告した。


 関東に留め置かれれば、常陸権介時実を殺すつもりだった。追討軍に加えられたならば、頃合を見計らって、裏切るつもりだった。最初から。


 時有と信時は姉を殺した敵だ。だから。


 そして、任女は妹だから。


 時憲が若狭介に策を仕掛けてきた時から、今夜の決行は決まっていた。


 長行が信時を襲い、若狭介が救援に向かっている間に、侍大将は兵を無傷のまま大量に時憲のもとに送る。頃合いを見て、長行も時憲のもとへ行く。


 万事うまく行った。


 時憲はこの夜、追討軍から六千の兵を手に入れ、さらに長行という心強い味方まで得た。


 追討軍は連日の戦に加え、六千もの兵を失い、三万四千だった兵は二万二千以下になってしまったのであった。その内の三千は信時の軍勢である。


 一方の時憲軍は一万七千にまで増えた。


 信時朝臣討ち死に。並びに、副将時光も深手を負って、十日後亡くなった。


 追討軍の総大将は三河介となった。賊軍との死闘はなお続く。


 信時朝臣の遺体は丁重に都に運ばれ、しめやかに葬儀は執り行われた。百官が出席する荘厳な葬列であった。


「唯一のよかったことは、敵に首を奪われなかったことだ。ただそれだけだ!それだけではないか!」


 兄・上野殿は火よりも烈しい怒りに震え、弟の亡骸に慟哭した。

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