乱声・五拍──恋の重荷(弐)
敏平本人の琴の演奏は絶好調である。さすが、弟子の胃の腑を万年病ませているだけのことはある。自分の実力が数段上がったから、弟子の拙いのが聴くに堪えないのかもしれない。
度々院庁へ参って、六位の院蔵人としての職務を果たす傍ら、御前で琴を弾き奉っていた。その演奏の素晴らしさ。彼はすっかり有名になった。
院庁が発信源の評判である。信憑性が高い。そして、たちまち宮中にまで彼の噂は伝わった。
今上は評判の敏平が、六条左大臣家の者であると知って、女御の棟子へ問い合わせた。女御は左大臣殿の息女である。敏平のこともよく知っていた。
その女御から様々な話を聞いて、敏平がかの清花の姫君の正統な後継者であることを知った。
清花の姫君に対して、会ったこともないのに、汚れなき美しき恋心を抱いていた今上である。その後継者というなら、どうしても会ってみたい。演奏を聴きたいと思った。
で、日時を決めて、敏平が清涼殿の庭に召し出されることになった。
帝直々の仰せ。この世に二つとない名誉、幸せである。
だか、敏平は素直に喜べない。帝と相対することには抵抗がある。迷いがある。
心配だ。
帝の御前に参った時、果たして冷静でいられるのか。
何しろ帝は。
敏平の実父を、一族を殺した。
まだ眠っている怨み、復讐心が、帝を前にした時、突然爆発しないとも限らない。もし、そうなれば、自分でも暴走を止められないだろう。
更にもし、帝に気に入られてしまったら……度々召し出されるようになってしまったら、どうすればいい?
帝との対面は一度だけでよい。二度もやりたくない。いや、本当は一度でも会いたくはないのだ。
帝に気に入られないよう、本気で弾くのはやめよう。余り練習しないで適当な演奏をすれば、大したことはないと、二度と召し出されないだろう。
だが、弟子を上手く育てることができなかったとて、亡き師の姫君の不名誉となってしまわないだろうか。それだけが気がかりだ。
その夜、敏平は夢を見た。
出てきて欲しい人は影も形も気配すらなくて、見たくもない人が出てきた。
復讐のためだけに生きている聶政だ。顔も知らぬ父のために、怒り狂う。ひたすら怒り、怨念を宿敵のもとに放つ。眼光はもはや人間のものではない。鬼だ。変化は人間だった時は聶政の姿をしていたが、完全に別の生き物になっている。
変化の怨念は宿敵・韓王を病み悩ませ、衰弱させる。変化は一張の琴を抱えて、烏天狗のように王の前まで飛んでいく。そこで、人の姿に化ける。
「我が琴の音で、君のみ心をお慰め奉らむ」
悪魔は美声で甘く囁き、呪いの一曲を奏で始める。
取り憑かれる。王は呪われ、その甘美な響きにとろける。身もとろけ、顔も形を留めなくなった。そして、それは今上の龍顔へと変わった。
変化、太刀を抜き、今上の玉体を切り裂き、小さくなるまで数百にまで刻み。返り血の味ににたりと笑って、こちらへ振り返る。その顔は敏平のもの。
魘されて、目覚めた。
夢だということが瞬時にわかった。
だが、後味の悪い夢。
その感じはいつまでも残っていた。日が高く昇っても、西に没する頃になっても。気分の悪さを一日ずっと引き摺っていた。
敏平が聶政で、今上が韓王……
敏平は益々練習の手を抜くことにした。民部卿局を散々傷つけているくせに、彼女よろしく粗雑に弾く。耳は飾りか、全く使わず、身につかない惰性の練習ばかり。
そして、すぐに参内する日がやってきた。
敏平は緑の衣を着て、清涼殿の庭に参る。琴卓と椅子があった。
内殿上人か蔵人かは知らねども、一張の琴を朱の袖に捧げ持った人が、殿上の間より下に降りてきた。そして、琴卓の上にその御琴を置く。
「威神の御琴にて候」
一言告げると、再び上へ戻る。
昇殿を許されている人達が、次々に集まってきていた。雲上の人々は皆、敏平の琴を心待ちにしている様子。
暫く後に、出御の気配。
あの御簾の向こうの奥に、最大の敵がいる。だが、今の敏平にはそんな考えはほんの一瞬のこと。
演奏の時間が差し迫っている。
左大臣殿、帝へかの者が敏平なりと奏上しているらしい様子である。
帝は一つ大きく頷いて、何か言った。
近くにいた先程の朱の衣の人、承って、
「さっそく一曲お弾き申せ」
と命ずる。
敏平は庭に平伏していた身を起こし、椅子に腰掛けた。
一つ大きな長い息を吐き出し、重心を下げ、腰に重みを乗せる。
この世には──。
緊張に勝る強者は存在しない。
緊張の前では、怨念も尻尾をまいて退散する。この世で最強なものは、緊張である。
敏平はすっかり揚がってしまった。
適当に、いい加減にしか練習していないのだから、上手く弾けるわけがない。とても人前で演奏できるような仕上がり具合でない。だから、上手く弾けないのに決まっている。それなのに、この期に及んで、見栄なぞというものが首を擡げてしまったらしい。
管絃者や楽家の悲しい性だ。やはり人に聴かせる時は、上手く弾けないと気が済まない。
馬鹿だなと自分を笑う。こうなるならば、もっとしっかり練習しておくのだったと、今頃後悔している。
もういい。捨てた。よい演奏をして、帝に気に入られても困るし。練習していないのだから、上手く弾けるわけがないのだ。下手で当然。適当に弾けばよいではないか。気楽に弾かないと。緊張して不安になると、余計下手になる。それでなくとも曲が仕上がっていないのに、これ以上下手な演奏なぞできるか。適当に楽しんで弾いてしまえ。自分は本番には滅法強い男。練習しなかったのだから、仕様がないだろう。上手くは弾けない。だが、本番には強いから、失敗はしないで弾けてしまえるだろう。やってしまえ。
心の葛藤は果てなく続くが、思い切り好きに弾いてしまった。緊張はしているが、破天荒に楽しく弾いた。
それが、素人には魅惑的に感じるらしい。荒っぽく雑だか、聴く者の心をとらえ、感動させる。
楽しめる演奏になってしまった。
帝は大喜びだが、敏平は不満。
馬鹿丁寧な練習が必要だ。本番は普段が出る。丁寧に丁寧にさらい込んだものは、本番どんなにあがっても崩れない。洗練された演奏ができる。緊張したために、普段通りとまではいかなくても、許容範囲内の演奏はできる。本番でこれくらいできれば、まあよいかという程度の。
だが、粗雑な練習しかせず、耳を研ぎ澄まさず、適当に感情のおもむくまま好きに弾いていると、本番の緊張で崩れて、無惨な演奏になるのは必至。
どんな時でも、練習の手を抜いてはならない。
どん底だと思った。終わったと。この脱力感。無気力感。
どうして、下手な演奏でいいと思ったりしたのだろう。どうして丁寧な練習を怠ったのだろう。深刻に反省する敏平は、やはり職人魂と根性とを持った音楽家なのだ。琴を弾くことが職。
だが、帝は大いに評価した。敏平の心なぞ、素人にはわからない。
帝、機嫌よく、
「もう一曲」
と所望した。
先程の朱衣の人が、その旨敏平に伝える。
敏平は仰せに従い、嵆康四弄の『長清』と『短清』を弾いた。名曲である。
殿上の人々、ほうっと嘆息をもらした。
帝も勿論感じ入って、褒めた。
「琴というものが、これほど素晴らしい楽だったとは知らなんだ。左府(六条左大臣殿)の娘はいつもこのような楽の中にいたのか。その左府の娘の後継者か。これほどの立派な後継を作り、遺して逝ったとは。とにかく素晴らしかった。見事であったぞ」
帝は直々にそう言ったのであった。
敏平はこの演奏により、従五位下を賜った。琴の演奏で叙爵するなど、まずないこと。破格の恩賞である。




