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乱声・四拍──希望(上)

 敏平は讃岐の子として、以前と変わらぬ日々を過ごしていた。あくまでも六条左大臣家の家司なのだ。


 一つ変わったことといえば、敏平が琵琶をやめてしまったこと。音仏のもとで、風香調掻合まで伝授されていたが、輪台尼のことがあってからは、何故か琵琶を弾く気になれなかった。


 思えば、実父であるという人は、琵琶の名手でもあった。そのことへの拘りなのか。彼自身よくわからないのだが。


 ともかく、そういうわけで、敏平は今は琴一筋となっている。


 その琴のことで、新しい変化があった。


 右大将殿の異母弟・師道朝臣の北ノ方は、八十御前(やそごぜ)とて、極めて典雅、繊細なる佳人だった。師道朝臣の叔父・中納言家名(いえな)卿の姫君である。楽才あり、手跡も美しく、和歌を愛する優しい女性なので、温雅な師道には似合いの北ノ方である。十八歳でなお初々しく、時折少女の恥じらいを見せるその容は、撫子の花のように愛らしい。


 この八十御前の弟で、十二歳になる、しも八という若君がいた。右大将殿の姫君とは許嫁である。


 幼くして母に死なれたので、姉の八十御前を慕って育った。他にも兄弟は沢山いたが、しも八は優しい八十御前が大好きだったのだ。今でもしょっちゅう、師道の邸に姉を訪ねてくる。我が家とほぼ同じ頻度で出入りしているので、


「どちらが自分の家なのだか」


と、師道によくからかわれた。


 しも八の亡き母は、院の女房だった。その腹には十人もの子があった。一人で十人も産み、しも八はその末子であった。


 長子と次子は何れも男子であるが、彼等としも八とは父が違う。この異父兄達は他家の者として、今はどちらも内殿上人である。


 第三子は男子。これ以下が皆、家名卿の子達である。つまり、しも八は母の第十子だが、家名卿の子としては、第八番目となる。


 第四、第五子は何れも女子で、次は僅か四歳で夭逝した。その次が、師道室の八十御前である。その後の二人も女子、そして、最後に生まれたのがしも八であった。


 しも八は姉の八十御前のもとに出入りするうち、よくここを訪ねてくる敏平と、顔を合わせるようになった。


 師道朝臣は琵琶を愛する人。敏平は琴の名手。師道がしばしば敏平を呼んで琴を弾かせたのは、彼の性情として、当然のことである。まして、彼は敏平の秘密を知っている。その秘密を知ってからは、敏平の落ち込む姿を見ると放っておけず、必ず邸に呼んでは励ましていたのだった。


 その敏平と会ううちに、しも八は敏平に非常に興味を持つようになった。特に琴。素晴らしいと憧れたのだ。


 で、師道朝臣。ある時、二人をきちんと引き合わせた。


「妻の弟です。猫のように可愛い奴です。敏平に憧れて、いつか自分もあのように琴を弾きたいと、夢見るようになったのだとか。もし宜しければ、弟子にしてやって頂けないだろうか」


 しも八は、くるくるとよく動く眼を一層円くして、期待を込めたような笑顔を向けた。


 本当に、心も体も健やかな若君なのだ。その期待に胸弾ませる様子が、こちらにも伝わってくるのを、敏平は目を細めて眺めた。猫のような、狗ころのような。人なつこいこの公達の可愛らしさが眩しい。


「ええ、勿論です。私で宜しければ、喜んでお教え致しましょう」


 やさしく笑いかけて、そう返事した。若君、ぱっと顔を輝かせ、満面の笑顔で問い返す。


「本当に。本当によいのですか?」


「はい。喜んで。実を申しますと、近頃琴をやって下さる方がとても少なくて。残念なことに。琴をやりたいと仰有って下さる方が一人でもいると、とても心強い。嬉しいです」


 敏平はそう言った。


 その言葉に、琵琶一面を前にして座っていた師道朝臣は、ちょっと具合の悪そうな顔をして、照れたように苦笑した。以前から、何度か敏平に琴をやらないかと誘われていたから。それなのに、未だ始めていなかったからである。師道にとって、いや、世間一般にとって。琴をやるということは、並々ならぬ勇気を要することなのだ。


 かくして、敏平にはしも八という新しい弟子が増えた。


 そして、変化は敏平の身そのものにも訪れようとしていた。


 きっかけは、またしても弟子二人。東の御方と明星の君である。


 仙洞の院が、和琴の名手の東の御方を召し出したのが始まりである。


和御許(わおもと)は和琴の血脉に入れられている人だが、近頃は琴琴(きんのこと)にも励んでいるとか。ちと弾いて聴かせてみぬか」


「そ、それは……」


 東の御方は口ごもった。


 この人の音楽の才は相当なものだが、楽器には向き不向きというものがある。


 例えば、当世比類なき琴の名手たる敏平は、あれだけ琴に巧みでありながら、篳篥は全く向いていない。どうも吹き物が苦手で、殊に篳篥は不向きだった。音楽の才能に恵まれている人が、ありとあらゆる楽器を学んでも、全ての楽器の名手になれるとは限らない。ある楽器では名手となっても、もう一方の楽器では、嗜みの域を出ないということはよくある。


 東の御方も、音楽そのものの才能はかなりのものだった。だが、彼女の体と指には、和琴がぴったり合うのに、琴の琴はあまり相性がよくなかった。気持ち、心は合っているのだが、身体的なことが──。


「畏れながら、わらわは琴は未熟にて。大宮の明星の君の方が、遥かに達者でございます」


 院はふふと笑った。


「成る程、わかった。では和琴を聴かせよ」


 翌日、院は東の御方を伴って太皇太后宮を訪ねた。太皇太后宮は明星を召し出しており、しばし四人で琴の話題に興じていた。


「わらわと違い、明星の君はまことに優れた琴人です。師は、いつかは灌頂を授けるべき人だと思っているようです。後継者に相応しい天賦の才です」


 東の御方はそう言った。


「ほう。未来の灌頂者の琴を聴きたいものよ。灌頂の儀が絶えず、どうにか次の世にまで続いてくれそうで、ほっとした」


 言いつつも、院は明星の姿に見とれている。そして、思うは清花の姫君である。かの人も絶世の美女との誉高き人であった。帝ばかりか院も、后にと望んだほどの人。


 二度と出るまいと言われた琴の天才の美貌を思うと、目の前の明星に、つい希望を抱いてしまう。


 明星は夕星の対。


 夕星の君とも呼ばれた清花の姫君と対をなす名で呼ばれるこの女人の美しさは。未来の清花の姫君となることの証ではないのか。


 明星は楚々と琴を弾き始める。


 院はそれに耳を傾けた。期待と不安を胸に秘めつつ。


 明星が弾くのは『胡笳十八拍』。


 異国へ拉致された漢人女性の嘆き、悲しみ。匈奴の地で子を産み……。やがて、漢人の地に帰ることが叶うが、それは我が子との決別を意味していた。愛別離苦。我が子との別れは、匈奴に連れて来られた時よりも悲しい。


 蔡文姫の悲哀の曲である。


 明星は、実に見事に表現していた。不吉に感じてしまうほどに。院は途中で堪えられなくなり、思わず「やめよ」と言いそうになった。そういう瞬間が三度あった。


 この明星。彼女は間違いない。琴の未来を背負って立つ人である。


 しかし、弾き終えると、彼女は決まり悪そうにしていた。彼女の中では、緊張もあってあまりよい出来ではなかったらしい。


 しかし、院も太皇太后宮も涙を浮かべていた。殊にも太皇太后宮は、


「いつの間に、こんなに達者になったものか」


と、喜んでいる。


 東の御方は、明星の上達は師の敏平の力量あってこそだと思い、その旨を啓す。


「畏れながら、明星の君の力を引き出したは、師の敏平の努力。明星の君ご自身の努力と才能は言うまでもありませんが、師の導きあったればこそと存じます」


「うむ、いかにも、さなり。以前、我が七十賀の折、召して琴を弾かせたが、天才とはあのような人物を申すのであろう。辻風が起き、その後、御所を移したり、もとの御所を修繕したり……ごたごたしているうちに、ついころっと忘れておったが、そうよ、かの者に褒美を与えねばなるまいぞ」


 院は大きく頷いて、そう言った。


「何を施物したものかの?」


 太皇太后宮に相談する。


 太皇太后宮は、


「かの者、任官はしておりましたか?」


と、まだ潤みを含んだ瞳を東の御方に向ける。


「六位を賜って、御所へ参りましたが、未だ任官はしておりませぬ。品物をご下賜になるより、職を下さる方が、かの人には名誉なことでございましょう」


 東の御方は近頃の師の敏平を案じていた。以前とは違い、琴によく励んでいるが、時々とても暗い。虚ろでもある。


 そんな彼には、少し刺激があった方がよいのではないか。任官して忙しくなり、多くの人と交われば、余計なことは考えなくなるのではないか。少しは気が紛れるかもしれない。


「特別に院庁の蔵人(くろうど)にでもするか……?」


 院は思案の末、そう言った。


「かたじけのうございます」


 東の御方と明星は、師に代わって御礼を述べた。二人とも我が事のように嬉しい。


 こうして敏平は正体を隠し、偽ったまま、院庁の六位の蔵人となったのであった。


 仙洞へ度々参らなくてはならない。随分忙しくなった。


 琴の演奏によって、破格の扱いを受けることになった敏平に対して、陰口を叩く者は多かった。本当は院の蔵人なんぞに甘んじている身ではないのだとは、敏平は思わなかった。


 陰口きく人々の間を、肩身の狭い思いで仙洞に通った。


 さて。もう一つ問題があった。


 敏平は院の蔵人であるから、六位とはいえ、当然院の昇殿は許されていたのである。よく院に召されて、琴を弾かなければならないのだが、弾く場所も当然院の御前(おまえ)である。


 ここに、古参女房の中将(ちゅうじょう)の君がいた。敏平はどうしたって、この人と顔を合わせなくてはならない。


 彼はこの人に会うのがとても苦痛だった。だが、中将の君は気さくに話しかけてくる。


 自分の姉の孫とも知らずに。その琴の技に、感慨深そうな様子で。


 敏平はとても忙しく、輪台尼のことをあまり考える暇がなくなったのだが、その代わり、実の祖母であるという人の妹なる人と、常に顔を合わせなくてはならなくなった。彼はこの中将の君の存在が恐ろしい。


 さて。敏平が院蔵人となって間もなくのことである。敏平にとっても琴界にとっても、最大の痛手となる事件が起きたのは。


 それは、敏平を院蔵人にしてくれた明星の身に起きたことだった。


 絶世の美人なるが故に。このような絶望的事件となったのであろう。


 明星は太皇太后宮の半物だが、院の覚えめでたく、仙洞に参ることも度々あった。


 仙洞には侍がいる。


 明星の美貌は、侍どもからも注目されていた。


 思えば物騒な今の世に、女の身で嵯峨の山奥に琴を習いに行ったのが悪かったのだ。認識が甘かった。明星も敏平も。


 その日、敏平は嵯峨でずっと明星の来訪を待っていた。だが、約束の稽古の時間を過ぎても、彼女は現れなかった。


「遅れてくるのだろう」


 敏平は大して気にもしていなかったのだが、夜になってもとうとう来なかったのだ。流石にただ事でないと思い、太皇太后宮の御所へ使いを出したが、太皇太后宮もいつまで経っても明星が帰らないので、案じているという。


 敏平の所へさえ行っていないと知り、太皇太后宮はいよいよ不安になった。


 すぐに検非違使(けびいし)が動き始めた。


 だが、いくら捜索しても明星は見つからなかった。


 後でわかったことだが、この日、明星は嵯峨へ向かう途中、東国の荒夷に連れ去られたのであった。


 この東夷は院庁の侍であった。院中で美しい明星をたまたま見かけた。一目見たその瞬間に、激しい恋慕に身を焼かれた。


 耐えられず、この夷は隙を見つけて彼女を盗み出そうと、機会を狙っていた。そしてとうとう、少ない人数で嵯峨に赴く彼女を強奪することに成功した。


 夷はそのまま逃亡した。生国まで明星を連れて帰り、嫌がる彼女を無理矢理妻にしてしまった。


 明星は己の白い柔肌に爪を立てて引っ掻き回し、


「私は匈奴に連れ去られた蔡文姫とは違う。私は琴呉楚派の後継者であるのに。我が国の風流(すき)事どもの重要性をわかっている人ならば、私を師から引き剥がしたりはしないのに。こんな田舎に連れて来るわけがないのに。私への思いが強くて、思い余って攫ってしまったと、あのすすどき東男は言うけれど、私のことを何もわかっていない。わかろうともしない。私の心も希望も、成すべき宿命も、何もわかっていない。こんな辱めを受けて、京にも帰れず、灌頂を授かることも叶わなくなって、何で生きていられようか。蔡文姫とは違うわ!」


と、その怨みの涙に眼を赤く濁らせた。


 鬼女の如く。


 憎き男の隙をついて、明星は厨の下女から包丁を奪い、その珠のような全身の肌を散々に切り刻んで痛めつけた末、首切って死んでしまった。傷口は三十余ヶ所にも及んでいたという。


 後になってそのことが都に伝えられて、敏平は大事な後継者を失ったという事実を、しばし受け入れられなかった。この国の琴に未来はもうない。希望は完全に絶たれた。


「明星の君を失って、この先どうすればいい?琴は私の代で終わってしまうのか!」


 天を仰ぎ、敏平は明星以外に才人はもはや存在しないに違いないのにと、慟哭した。


 上野の信時朝臣、この明星を攫って逃げた夷を捕らえようと、兵を差し向けることにした。


 だが、その前に夷は自ら出頭して、信時によって捕らえられ、京へ護送された。検非違使に引き継がれ、夷は院の強い意見により、処刑された。


 刑場に放置された夷の胴を、敏平はわざわざ見に行った。そして、これに唾を吐きかけたのだった。


 琴の未来の希望が失われた。

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