第8章 72の顔のソロモン
「中原が如月の名前を使って時代に働いていたところの院長、この金田先生が、かなりのクセモノでな。何やら裏社会で
はそれなりに有名な、逃亡中の重犯罪者に整形をする医者だったそうです。つまり、いわゆる逃がし屋の一環として、機
能していました。中原がどのような理由であんなところで働くことになったまでは今のところ判明していませんが、とも
かく、彼女は少なくとも5年間、現代社会の正義の届かないところを見て来たのは事実です。最も、これもプロの情報屋
によるものだから、その人が法廷で証言するわけがないから、中原の失点にはまだなりません。そして私はこうも考えま
す。こんなところとはいえ、人間の頭脳の良さと信頼性がかなり求められます。つまり、中原が5年も居られたというこ
とは、金田先生にそれなりに信用されたということでしょう。そして、この金田先生の引退もまた突如で、今生や家族と
ともにスイスの方に移民して、静かな老後生活をしているそうです。ここで疑問になるのは、この足な洗い方があまりに
も潔く上手く行っているということです。金田医院がある層の人間に必要とされている以上、いきなり閉まったら困る人
間が居るわけです。その人たちがやすやすと金田先生を逃すとは思いません。だからたいていの場合はいつまでも継続し
て、讐敵を作って殺られるのが落ちです。金田先生が上手く行ったのには、必ず理由があります。ここで、5年間も金田
先生の下で働いた、信用されている中原のことを思い出してください。彼女がこの5年間で、看護師の仕事だけをしたと
は限りません。いいえ、そもそも人員不足のその世界では、そのような生易しい配置が許されません。つまり、彼女は少
なくても助手まで務まったと思われます。従って、金田先生にもともと足を洗うつもりがあったとしたら、技術を彼女に
伝授するのも考えられます。ですので、おそらく中原が主治医になり、金田医院の機能を継続させることができたから、
金田先生は安全に身を引くことができたと思われます。そして、中原は上京して、表では人形作家になったものの、裏で
は今までの仕事を継続させたと考えます。整形病院にしなかったのは、おそらく中原に医師の資格がなかったからではな
いでしょうか。それから、もともと医師出身の金田先生よりも、看護師出身で人形作家の中原の方が、なお人の目に付き
難く、都合が良いとも言えます。ここで、21歳の中原綾子は、金田先生から技術と専用の機材と、おそらく一部の活動
資金を受け継いで、東京で逃がし屋の整形病院を開業したとします。むろん、中原にも信用の置ける助手が要るわけです。
その人物が、野口守弘だと思われます。上野伽椰子はまこの時点では東京に来ていませんからね。そして、その三年後に
上野伽椰子が加わります。その時点では、中原の状況はもうかなり変化していました。好転したとも言えます。人形を作
る方にもそれなりに上手く行っているし、私が思うには、中原は仕事の報酬として、人形を買ってもらっているではない
かと想像します。そればかりか、事情の知らないコレクターまでが注目して来て、単にその人形を価値のある物と考えて、
買い始めたとします。そして、中原は万が一の時に備えて、一部の財産を野口守弘の名義に移動することにしました。つ
まり、あの芝居を演じて、野口守弘に渡した、廉価で買ったと称した「初期作品」を転売することです。従って、野口の
転売した人形の買い手は、おそらく純粋に人形に興味を持っているコレクターも居れば、中原の仕事の報酬として買って
いる人間もいるでしょう。そして、伽椰子の親が運営している、製薬会社がいきなり繁盛しはじめたことも、中原が裏で
動いたからではないかと。それから、安定した麻酔薬と栄養剤の提供先の必要だったから、一石二鳥というわけです。こ
うして、中原綾子の陣営はもう盤石になりました。自分と味方2人のアカウントには大金が入っています。人形作家とし
ての技術と知名度も上がって来たから、端的に言うと、逃がし屋を廃業して、表世界でも十分楽にやって行けるようにな
りました。これが東京に来て5年目、26歳の中原綾子の状況です。さて、ここで彼女が更に何を望むでしょう。容易に
想像できますが、それはつまり金田先生と同じく、足を洗うことです。しかしそれは容易いことではありません。しかし、
この年では、もう状況が5年前とは違います。金田先生と違って、彼女にはもう一つの選択肢が用意されている。それが
どこなのか想像できますか?つまり、荻原博子の研究所です。そこがこの白日の下で許されている無法地帯だということ
を、殆ど世界中の人間が知っていて、納得もしています。そこで、十分に有能な人材である自負を持っている中原綾子は、
おそらく荻原博子との接触を望みました。ただ、それももちろん容易いことではありません。多忙の荻原博子が、やすや
すとどこの馬の骨も知らない中原綾子を認めるわけがないのです。つまり、彼女は荻原博子の側近のために、もう一度大
仕事をする必要があったのです。まさにそんな時に、何が起こりましたか?和ノ宮サラと荻原博子が結婚されました」
「つまり貴方は、サラが中原綾子を雇ったと?」
「おそらく自分から接近したのは中原綾子の方でしょう、彼女には動機があるからです。そうしましたら、サラさんが彼
女に何を頼んだかは想像できませんか?単純明快に、妹のユラの安全を守り、面倒を見ることだったと思われます」
「なるほど、つまり、アメリカから帰国して来たサラは、7年間放ったらかしにした妹の事情を知り、にわかに心配にな
って来たということが。それは理解のできる解釈だ。続いて、で、何故、その守る対象であるはずのユラを、殺すことに
なったと言うの?」
「典子様、貴方は未だに、由良姫が本当に死んだと、思われますか?」
「なん、だ、って?」
「つまり、あの焼死体が本当に由良姫の物だったのか、ということです」
「何を今更、だってDNA検定はもう出ていたのではないか、サラの近い血縁者だということが、サラに他に兄弟は居ない
よ?」
「ここで、更に昔のことを思い出して欲しいのです。つまり、サラさんとユラさんの出身に関わるところの経緯です。英
司さんは、末期の病に掛かっている早由香さんが、奇跡的に元気な双子のお嬢様を出産して、世を去られましたと語りま
した。それが本当なら、まさに奇跡ではありませんか。率直に言いますと、普通に考えれば、死産になります。それはつ
まり...」
「サラとユラは、他所から連れて来た、早由香さんとはまったく関係のない子供だった、と?」
「物理的に、その可能性が断然に高いように思われると、私は指摘します」
「敬之さんが、なんのためにそんなことを?」
「敬之のことなら、おそらく今更本人から語られることはもうあるまいが、サラさんたちも知っていることでしょう。後
に確認ができます。さてここからは私の想像ですが、敬之さんはおそらく疲れていたのでしょう。早由香さん以外の女性
とはもう結婚するつもりがないから、それでよかったのです。しかし、後継ぎは必要です。そして、そのサラさんとユラ
さんですが、おそらく母親が早由香さんではないにせよ、本当に敬之さんの子供だったのかもしれません」
「なるほど、奥さんを亡くなった早由香さんにして、子供を自分の隠し子にしたということか」
「その通りです。この場合、サラさんたちの実の母親がまだ生きているかもしれませんし、もう1人の兄弟が居ることも
考えられます」
「して、その人が中原綾子に拉致されて、ユラになって死んだと?それこそ、なんのために?」
「この事件は最初から、殺人ではなく、拉致事件だと私はいま考えております。つまり、由良姫の自宅で「火の中の女」
に模倣して、焼き殺した女性は見せしめです。サラさんに対しての。条件を飲んでくれなければ、ユラさんをもこの様に
して殺すよ、というメッセージなんです。つまり、おそらく何かしらの事情で、中原綾子はこれ以上待つことができなく
なりました。焦った彼女はこのような強攻策に出て、由良姫を拉致してサラさんと交渉しました。直ぐにでも、我々を荻
原博子のところで庇護してもらいたいと。ところが、サラさんは未だにこの交渉に応じていないと、私は見ています」
典子は考える。敏光の仮説を信じるのなら、ユラはまだ生きているかもしれない。それは重大な事実だ。私はもう探偵
ごっこをしている場合ではない。何が何でもユラを救出しなければならない。しかし、慎重な綾子のことだ、ユラをアジ
トに隠しているとは思えない。刺激したら、それこそどうなるか分からない。だから、この男は先に伽椰子を孤立させて、
死に居たらせたのか。しかし、待ってよ?
「貴方の仮説に不備があるぞ。なるほど、中原綾子は分かった。筋妻が合っているように思える。しかし、野口守弘と上
野伽椰子の行動原理が説明できないよ?彼と彼女は何故、死んだ?なるほど、伽椰子の場合は貴方の説明では、焦った時
の自己判断だとしても、野口守弘はどうなんだ。彼の自殺は計画的そのものなんじゃないか?彼がそこまでして、中原綾
子へ忠誠を守る理由は思い付かない」
「ご指摘の通りです。典子様。この事件で最も難解なところは、やはりあの死んだ2人の心理なんです。そしてこの状況
では、それを無視して進むこともできません。つまり、私たちは、中原綾子に精神的に勝たなければなりません。彼女が
自分から負けを認めない限り、由良姫を解放してくれないと思います。そのためには、やはりあの死んだ2人の解読が必
要になって来ると思います。先日の一回目の対話では、ある程度の戦果を上げることができたと思います。しかし、まだ、
不十分なんです」
「なるほど、状況は分かった。もう一度確認させてくれ、貴方は、ユラがまだ生きているという推論に、どれほどの自信
を持っている?その根拠を聞かせてくれ」
「私がこの依頼で受け取る謝礼金の全てに掛けて、保証致します。和ノ宮サラさんの動かない事実が、裏付けになります。
それに、何故焼き殺したのですか?私は最初から、それが死体の正体を隠すためだと睨んでおりました」
「分かった。私にも考える時間をくれ。ユラが本当に生きているなら、何もかもの状況が変わるからな」
「かしこまりました」
敏光が退室したあと、典子は瞳を動かし、静まり返った、この見慣れている自分の部屋を、3度繰り返して見渡した。
そしてにわかに、声を出して爆笑した。
「アハハハハハァ」
可笑しすぎる。これが現実世界という物だろうか。もはや報いを望むしかないと言うたった一つの思いで突っ走って来
たこの私に、突如として、やり直すチャンスを、神から提示された。いや、いや、神というような都合の良い物では決し
てない。あれもこれも、あの男と自分の努力の結晶ではないか。身を怒りにまかせて、できることもして来なかったら、
決して道は開かれなかった。そうだ。私たちは、可能な限り善処した。だからチャンスを勝ち取ったのだ。伽椰子のこと
は残念だった。その点に於いて、私は決してあの男を認めない。しかし、ユラが生きていると考えると、あぁ、何もかも
に、重みが返って来る気がする。ここで、典子は加藤英司の話したことを思い出す。ユラが居なくなって、軽くはなって
いないか?と彼は聞いた。私はそれを認めるのが恐ろしかった。酒が今まで飲んだのより旨いなんて考えるのが、どうし
てもできなかった。しかし、今ならわかる。ユラがまだ生きている、この事実がどんなに嬉しいことであると同時に、ど
んなに重いことであるかが、分かる。しかし今度こそ、私はきっと自分の責任を果たす。ユラをもう一度しなせたりは、
決してしない。とはいえ、どうすれば良いのだろうか。中原綾子は、人類の敵だ。彼女を決して許してはならない。サラ
がそれをしなかったように、私もしない。それでいて、ユラを救い出す方法は?やはり、中原と話すしかあるまいか。し
かも、単に前回の繰り返しをしても無駄だ。材料が、必要なのだ。当面はそれを集めるための努力をしよう。あの男が言
ったように、死んだ2人のことが中原綾子の心理に深く関わっているはずだから、これが鍵になる。典子は改て考える。
どうして、あの2人が、そこまでして...
まずは野口守弘、彼が中原綾子の最初の仲間だった。彼がどうして、逃がし屋の整形医のために?いや、待ってよ?確認
したことが途端に思いついたため、典子は電話を掛けた。
「もしもし、捜査一課の山下ですが」
「もしもし、山下刑事ですか、水戸です」
「はい。承知しております。して、いかがなさいました?」
「早急に確認して欲しいことがありますが、お願いしてもいいですか?」
「もちろんです。至急に対応致します。どうぞ?」
「さいきん、自殺した野口守弘と上野伽椰子のことは分かりますね」
「はい。その2人の件の捜査はすべて我が課の元で行われました」
「よろしい。して、その、死体の状態はどうでしたか?つまり、発見した時点で、腐敗したら、破損したしていませんで
したか?」
「いいえ、野口守弘の方は睡眠薬の過剰摂取による自殺でして、直ぐに発見されましたので、腐敗が進行されておりませ
んでした。上野伽椰子の方は、東京湾に投身して、溺死されましたが、これも発見が早かったため、水没死ではよく見ら
れるような、死体の膨らみがそれほど発生していませんでした」
「なるほど、それはよろしい。では、このことについて確認してもらいたいのですが、あの2人に、顔の整形をされた痕
跡があるかどうか、ということです」
「かしこまりました。お調べいたしますので、少々お待ちください... もしもし、水戸様?」
「はい。聞いていますので、どうぞ話してください」
「お問い合わせの件なんですが、上野伽椰子の容貌は、18歳の時に撮られた、大学の学生証の写真とはだいぶ違いまし
た。その、かなり整った方向へ変わったと申しますか、整形の可能性は十分に考えられます。対して、野口守弘にそのよ
うな痕跡はありませんでした。アメリカに居た時代の市民票の写真とさほど変わりません。とのことですが、よろしいで
すか?」
「分かりました。ご協力ありがとうございました。お疲れ様です。では、失礼致します」
なるほど、となると、伽椰子の方は単純かもしれない。彼女の顔を作ったのも綾子だし、金銭を提供したのも綾子だと
したら、1人の若い女にとって、それが即ち全てであり、命そのものであろう。して、分からないのはやはり野口の方か。
彼が何故、綾子を必要としたのだろうか。いや、そもそも、綾子がなぜ彼にしたかも究明の必要がある。この点について
も、上野伽椰子の方は分かりやすいだ。もともと造形に資質があった製薬会社の娘、味方に引き入れたら綾子にとって十
分のメリットがある。しかし、野口の方は?彼に何ができたと言うのだ?綾子が居なければ、彼はなんでもない。いや、
そうではない。彼は非常に演技が上手かった。伽椰子よりはずっと、上手かったのかもしれない。非常に演技の上手い野
口守弘を利用して、7年前から、中原綾子は何をしたのだ?整形と演技でできること、といえば?にわかに、一つの途方
もなく世にも奇天烈な想像が典子の脳内に過った。まさか、そんなことが本当に可能だろうか?しかし、もし本当にそう
だとしたら、中原綾子があんなに容易く野口守弘を切る理由が説明できてしまう。上野伽椰子が確かに、上城の直感的な
行動に追い詰められて、死んだ。しかし、野口の方は... 可能かどうかは常識で判断すべきではない。調べれば、分かる
ことだ。考えがまとまってから、典子は敏光に電話を掛けた。
「上城、どうやら我々は、金田先生という人物を、徹底的に知る必要があるようだ」
スイスのジュネーブに向かう飛行機のファーストクラスの中に、典子と敏光は2人並んで座っている。その後ろの席に
斉藤が控えている。
「ほほー、つまり貴女は、金田先生が単なる逃がし屋のみならず、スパイマスターもやっていたと考えておられますね。
まぁ、確かに、整形の技術を空想上のレベルまで極端に極めてしまえば、そういうことをしだすのも納得できる話ではあ
ります。しかし...」
「いや、空想上とは限らんぞ?下調べがもう大分ついた。金田先生は大学の時代から、いつかは概念を覆すかもしれない
と期待されていた、周知の天才だった。その本人の性格も、端的に言えば、野心家だった。何一つやり遂げないままに、
足を洗うと思うのか?彼は、到達してしまったのよ。人智を超えた、神にも並ぶレベルに。そして、その不条理なほどに
極めたスキルが、もし中原綾子にも受け継がれていたとしたら、大変なことだ」
「して、それを確かめるために、金田先生に会いにスイスに行くというわけですか?いやいや、お嬢様、例えそれが事実
だったとしても、金田先生はなぜ、我々に話します?」
「こんなことも分からないのかい?上城。あなたの想像力はまだまだ常識にとらわれているようだな。金田先生がいま望
んでいることは何だ?安らかな老後生活だ。しかし、間違いなく彼は国際的な重犯罪者である。標的にされたら、何もか
もがオシマイだ。その彼の安全を守れるのは、中原綾子か?いや、中原にできはしまい。しかし、この私になら、できる。
だから、いくらかわいい愛弟子と言っても、金田は必ず彼女を裏切り、私につく」
「典子様、貴女は、金田先生を見逃すと言うのですか?」
「やむを得まい。ユラの命が掛かっているんだ。それに、金田先生はもう足を洗ったではないか。過ぎたことだ。現在進
行形の、人類の敵は、綾子の方だよ。彼女という悪魔をねじ伏せて、囚われた姫を救い出すためなら、私は、前代を許す
つもりだ」
ほとんど丸一日の飛行時間を経て、ジュネーブの空港に到着したのは現在地の午後2時だった。斉藤が用を足しに席を
外している間に、2人しか居ない空港の喫煙場で、敏光はある物を鞄から引張だして、典子に渡した。それに触れて、何
に使う物か即時に理解した典子は、抜け目のない相棒を内心で賞賛した。
「これが役に立つ時点ではもう大ピンチですが。まぁ、用心に越したことはありますまい」
「確かに、金田先生ほどの相手ともなれば、如何なる状況も予想して置くべきだった。我ながら大冒険をしたものだ。と
ころで、実はサンフランシスコにも行って、話して来るつもりだったが、事態が急変したものでね、その必要もなくなっ
た」
「そうですか?終わってからでも、話して見たら、案外楽しいと思いますよ?」
終わってからか、ゲームがもう終盤を迎えつつあることは明らかだが、にわかに実感が湧かない典子である。その理由
も分かっている。終わっていないんだ。人類の敵を片付けたとしても。まぁ、それからのことを考えるのはまだ早い。
更に4時間ほどの車移動を経て、イタリアとの国境近くにある田舎町に辿り着いた時はもう夕日が沈みかかっている。
金田先生の自宅はこの辺りには何処でも見当たる退職紳士の家らしく、二十世紀後半から定着して来た一般的なデザイン
をしていて、建物と庭の規模がそれほど大きくはなかった。主人の夫婦に子供2人、メイド2人が暮らすのに最適なサイ
ズだと思われる。ベルを押したら、見るからに悪巧みのなさそうな、白人系のメイドがすぐ対応に出た。服は黒ずくめで、
絹か何か柔からそうな素材でゆったりしていて、スカートは床まで届く長い。全体的にナチュラルでアピール性のない印
象、ベールを被って髪の毛を隠せば、シスターとしても通りそうな格好であった。2人はソファに座らせられて、コーヒ
ーまで出されたが、ここの主人の金田先生は一向に姿を表さない。やむを得ず、メイドに聞いてみたら
「旦那様きゅうな有事ができたみたいで、午後から一家を連れて出かけました。最も、ご心配はしないでください。今日
中にはお帰りになるようですから、お客様が来たら、寛ごせるようにと伺いました」
「なんと申しましょうか、その急に用事が入ったのは御主人の方ですよね?一家を連れて行く予定はもともとなかったの
ですか?家族たちは戸惑いましたよね」
「実を申しますと、そうなんですとも、奥様もお嬢様も午後には他の予定があるようで、たいへんお気持ちを損なわれま
した。私たちもいきなりお客様が来るなんて聞いていなかったし、それよりも、返って来る奥様のお説教が恐ろしいので
す」
あなたがその説教を受けることはもう2度とないだろうけどな。と、敏光は内心で考える。
「何時ぐらいに出かけました。いや、もし覚えていれば、その急な連絡という電話が入った時間まで聞きたいです。連絡
の電話は2時過ぎぐらいですかね?そのあと本当に急いでお支度をして、2時半ころにはもう出て行かれました。あぁ、
しかし、夜にはちゃんと帰って来ますから、特に」
どうも敏光に聞きたいことがあって、待ちくたびれた典子は、彼がソファに座った途端に聞き出した。
「ここのコーヒーって、飲んでいいと思う?毒の心配という意味で。それと、日本語はわからないよね?」
「お嬢様、何をのんきなことを... コーヒーには毒が入っていません、飲んで構いません。メイドはどうやら主人一家の
事情がまったく知らされていない様子で、日本語もわからないと思います。しかし、金田には逃げられましたよ?」
典子の表情が一気に険しくなり、せっかく珍しく10時間もを移動に使ったのだから、ここの出すコーヒーもじっくり
味わいたいという、場に相応しくない、異国に旅しに来た乙女のような気分が一瞬にして雲散霧消となった。
「逃げられたって?普通の外出の可能性は?」
「メイドの話では、急な連絡が入って来て、一家を連れて出かけらしい。家族はみな戸惑っていました。そしてメイドに
はわざわざ言いつけたのです。客が来たら、「金田先生は夜に帰ってくるから、もう暫くお持ちください」と言うように、
メイドに指示したようです。その客というのは、私たちしか考えられませんよね。これは何処からどう見ても、逃亡です
よ?」
典子は考える。そんなばかな... 何処から情報が漏れたと言うのだ?私は慎重に慎重を重ねて、最も信用の置ける情報
筋に頼んで調査をさせ、その後は使用人も一切使わずに、自分でチケットを取って、捕まえに来たというのに、逃げられ
た?誰が、裏切ったの?まさか、上城が?いや、もし上城が中原綾子の内通者なら、今の状況ではすべてが彼にとって不
利ではないか。いや、待ってよ。ここはスイスだよ。もし彼が...
「まさか、私を人質として捉えて、綾子に渡すつもりじゃあるまいね」
「まぁ、その疑い方も予想済みです。こうなったからには、そう思われて仕方がありますまい。しかし、当面は逃げない
でくださいよ。状況を更にややこしくしますから。車に帰りましょう。いくらメイドは日本語が分からないように見える
とはいえ、敵の本拠地で深い話をするのもなんです」
典子は敏光の提案に従って、空港で借りて来たレンタカーに乗り込んで、斉藤は運転席に座って待っているから、敏光
は相変らず助手席に乗った。私の逃亡を防ぐなら並んで後部座席に座るはずだ。と典子は一瞬考えたが、即座に下らいと
思えて来た。逃げられはしない。私は元々体力の無い方だから、無益な足掻きはしない。それに本当にそういうことなら、
とっくに殺られていただろうし
「で、金田には逃げられた、これからどうすると言うんだい?」
「とりあえず、お嬢様には私について日本まで帰って頂きますよ」
「あーその三文芝居はもういい。あなたが内通者だと疑わないことにする。もちろん100%信用できる他人なんて居な
いが、そういうのを前提にしないと、話が進まない状況がいくらでもある。例え、今がそうだ。もし、そもそも最初から
貴方が裏切っていたとした、私の思考の全てが振り出しに戻る。そんなじゃゲームにならないし、降参するよ」
「なるほど、典子様、ご理解に感謝致します。斉藤、道沿いで外に席を出している喫茶店を探して、車を止めてくれ」
珍しく、この男も喉が渇いたのだろうか?この車の車内より内密な話をするのに適した場所はないのに。典子は疑問に
思ったが、その提案には反対しなかった。なんと言っても、飲み損なった異国のドリンクが飲めるチャンスだし、今度は
毒が入っている心配もない。いや、彼が連れて行く店だから厳密にはそう言い切れないが、この思考方式はやめよう。そ
う、彼がもし私を殺りたければ、毒なんか使うまでもない。今まで待つこともない。そして、丸いテーブルを、典子、敏
光、斉藤の3人で三分割法するように、同じ間をとって座った。典子はにわかにこの配置に違和感を覚えてならない。だ
って、いつもは、斉藤は向こうの席で1人座って居たよ?こうれはどういう風の吹き回し?これから話すことを斉藤にも
聞かせるの?それは不謹慎だ。どういうこと?そして、店員が頼んだ飲み物と灰皿を並べたら、店内に戻った。そこで、
敏光がある物をジャケットの裏ポケットから持ちだして、それを見た途端に、典子はにわかに全てが分かって来た。それ
はピストルだった。そして、銃口の指している相手は、斉藤と名乗る男だった。典子は改てこの男を観察した、185セ
ンチの長身にして、細身である。そして顔はいつものように、無表情。典子には違和感がまったく分からなかった。
「典子様、どうやら私たちは金田よりも大物を捕まえたようですね。あなたは誰ですか?斉藤、ではありませんね」
「所長、何を...」
「ほほー 所長という呼び名まで把握したのか、しかし、諦めるが良い。貴方にはせいぜい、1週間しか斉藤を観察する
時間がなかった。そして、彼はめったに口を聞かない。真似しようと思っても、無駄だ。」
「何時から、分かりましたか?」
その声から斉藤という人物の持っていた男らしさがなくなり、中性的で、無機質な声である。
「ジュネーブ空港の時からだ。貴方は綾子に連絡するためにやむを得ず席を外したが、斉藤は体調管理をよくしているか
ら、用を足しに席を外したりしない。そして、金田の家のメイドの話によれば、知らせの電話が掛かって来たのが、ちょ
うど2時すぎて間もない時だった。典子様、内通者がこいつではない場合、金田はこんなに急いで逃げる必要はなかった
はずです」
空港で渡された防弾チョッキは、こいつを防ぐためだったのか。
「なるほど、そして、貴方は、野口守弘だね?」
「そればかりではない、上野伽椰子でもありますよ」
「何だっと!?」
伽椰子と野口守弘が同一人物だということはさすがに典子は考えたこともなかった。だって、伽椰子は本当に死んだこ
とが確認されたのではないか?いや?それをしたのが、だからか!
「私は指示の誤りで、斉藤を失いました。いまや後悔でなりません。伽椰子に尾行をさせた時に、伽椰子に襲い掛かる者
に注意しろと言った。斉藤はまさか、その本人から攻撃を受けるとは思わなかったから、こいつに負けたのです。しかし、
貴方はやはり焦ったのですよ?伽椰子さん。それとも奢りですかね。これだけの短時間の観察では、斉藤の真似は不可能
でした。綾子にちゃんと指示を伺っていたら、こんなことにはならなかったはずです」
「けっきょく私の不始末で、綾子に...」
彼はすべて諦めたとうで、悔しそうの顔をして目を伏せた。そして今度の声はやや女性的で、伽椰子に似ていなくもな
かった。典子は溢ればかりの激情を抑えるのが精一杯で、とりあえず質問をする役を敏光に任せた。
「そしてこんなことも辞めましょう。綾子のアジトは監視されていて、逃げられません。本人が上手くすきを見て抜け出
すことに成功したとしても、貴方を維持するための、あのモノたちを運び出すのは無理です。そして、綾子とその道具ら
がなければ、貴方も生きて行けません」
そう言って、敏光はピストルを引き込んだ。確かし、ここはスイスだから、通報でもされたら面倒なことになる。
「もう全て、お分かりのようですね?」
「いいえ、そうでもありません。貴方に聞きたいことは、たくさんあります。特に、典子様の方がですね。典子様、こい
つらがした事、おおよその想像通りです。お見事な名推理でした。ただ、野口守弘と上野伽椰子は最初から同一人物でし
た。伽椰子が登場した時点で、私はまだここまで分かったわけではありません。ただ、敵のような人間にしては、味方が
2人というのは多すぎる気がしました。1人なら理解できます。だから私は伽椰子の死に執着しました。さて、貴方達の
したことを、ざっくり整理して、説明させてもらいましょう。まぁ、補足があるなら、いつでもどうぞ気兼ねなくしてく
ださい。貴方は、金田先生の時代から、スパイをしていましたね?それも恐らく名前が歴史に残るぐらい、大仕事をたく
さんして来ました。裏の世界では、「72の顔を持つソロモン」という最もミステリアスにして、高価なスパイが居るこ
とは前から知っていました。その72の顔というのはナチュラルな意味とは、さすがに思いませんでした」
「72もありませんよ?せいぜい、20ぐらいでしょうか。それに、ソロモンは綾子です。私などはしょせん、魔法瓶か
ら出たモノノケに過ぎません」
「さては、貴方達は要するに、こういうことをしましたね?標的を拉致しては、殺さずに、麻酔薬で眠らせ、栄養剤でそ
の生命をいつまでも維持します。その間に、綾子が貴方を整形して、その人になって、帰らせます。そして、貴方が依頼
された目的を果たしたら、拉致した本人の方を、自殺、あるいは他殺されたように演じさせます。死亡時間が確かだから、
まさか最後の一日か一週間が別人だったとは、誰も想像できないし、できたとしても、本人はもう死んだのだから、確か
める方法がありません。違いますか?」
「だいたいは、その通りです」
「整形にだいたい何時間掛かるのですか?」
「顔は決まって7時間ぐらいでできますが、体格の差を埋める作業が難しいのです。いま使っているキャラとの差次第で
すが、だいたいは20から36時間が要ります」
「なるほど、その失われた何十時間を、どう誤魔化していますか?」
「私の嘘で、だいたいなんとかなります」
「さて、3年前から、貴方達は和ノ宮サラさんから、由良姫の庇護の依頼を受けてから、ずっとこちら仕事に専念するよ
うになりましたね」
「はい。1人で二役とはいえ、前よりずっと楽でした。綾子にも余裕ができて、人形の方に分けれるようになりました」
「それが、何故、こんなことに?」
「それは...」
「交渉がしたければ、分かるように、良く説明したまえ」
と、典子
「私の体は、もう長くないのです。綾子は医者ではありません。そして、私をなんとかしてくれる医者は、おそらく荻原
博子しか居ないのです。けれども、あの方は、サラ様はやはり認めてはくださいませんでした。綾子は全部、私のために
今までこんなことして来たのに!どうかお願いします。私だけを、裁いてください。人間は全部私が殺したのです。綾子
は、綾子は本当にただ私を活かしたいだけでした。彼女は本当の医者です。看護師です。金田先生から仕事を受け継いた
のだって、そうでもしなければ、金田先生は私を処分すると言ったからです。私は、生きても仕方がない、長く生きられ
もしない、ただのモノノケなんです。こんな私のはかない命を、綾子は懸命に守って来たのです。彼女を許してください。
典子様。彼女は本当に、悪党じゃないんです!」
「なるほど、貴方は本当に、野口守弘だったな?」
「はい。典子、さん。貴方と3年間お話ができて、私は本当によかったと、今でも思っています。綾子は、ご存知のよう
に、私を管理する立場ですから、彼女とは日常的な会話が殆どできませんでした。貴方は、はじめてだったのです。ユラ
さんもそうでした。最も、伽椰子の役を維持するのが難しくて、やはり本当に気兼ねなくお話できたのは、貴方だけでし
た」
斉藤の顔をしているその男は懐しそうな目で典子は見たが、典子がいきなり手を伸ばして、彼の顔に平手打ちをした。
「よくも、私を騙したな。許さない」
「はい。申し訳ございません。典子様。私は死に値します。ですからどうか綾子を」
典子は悔しい涙を飲み込んで、こう思った。愚か者が!サラと綾子でダメだったら、そうして、私に相談しなかった?
貴方が自分から、その選択肢を踏みにじったのだよ。しかし今更、こんな言葉はもう上城に聞かせることではない。もう
どうにもならないんだ。彼と彼女は...
「それは、できない。サラが認められなかったことを、私に聞いても同じだ。貴方達はもう、人類の敵だからね。残念に
思うよ。野口」
「それより、聞きたことは他にたくさんある。まずは、あの遺書が、どういうことだ?ユラは、殺してはいないのだろう?」
「あれを書いたのが、そもそも綾子でした。私たちは本当は、ユラさんを殺すつもりがなくて、でも!」
男の目つきがにわかに凶暴になった。視線で、綾子を許さないのならユラを殺す、ことを語った。
「足掻くな。みっともない。貴方達には、元々生き残る道なんてなかったのだ。でもね、でも。演技にせよ、何にせよ、
貴方達がしたのは悪事ばかりではないことを、この私が、認めてやる。野口守弘が私の知人だった。だから私は、やはり
彼に聞きたいことがたくさんあるんだ。最後の機会だ。ねぁ、貴方だって話したいのだろう。本当は何があったか。ユラ
のファンにして、知人だった、この私に、釈明することは、あるのだろう?それを、私が今ここで、聞いてあげるわよ」
「典子さん、本当に、私はもうなんと言えば、なんと謝れば良いのか、分かりません。ユラさんを守る計画の全ては綾子
がしました。彼女がサラ様とどうなん取引をして、私たちはいつまでやればいいかまでは、教えてくれませんでした。野
口守弘と上野伽椰子は、おそらくもうご存知のように、私の持っているたくさんの身分の中で、もっとも上手に演じるこ
とのできる2人でした。そしてたまたま、野口と伽椰子の口座には既に洗い終わった資金があるから、都合がよかったの
です。サラさんからの活動資金は、おそらく綾子が別ルートで受け取っていたのでしょう。最も、具体的な作戦会議まで
サラ様は参加されませんでしたよ。ただ、貴方は要注意人物だという情報をくださいました。ですから、野口守弘がずば
り、貴女の相手をするために、買い手の立場で入りました。そして、ユラさんについても、サラさんは、主に好きか嫌い
で判断するタイプだ、という非常に曖昧な印象しかくださいませんでした。伽椰子で当たって見て、成功しました」
「そうだな。もし上野伽椰子というのが、本当に中原綾子の作品だとするなら、彼女はまさに比類なき芸術家の頂点だと、
私は今でも思うよ。ユラに劣っていることはありません」
「ありがとうございます。綾子が聞いたら、どんなに喜ぶことだろうか」
「喜ぶ?そんなことはあるまい。あの女の凄さを知っている。そして私たち全員を見下した。ユラも含めて、ただの小娘
と思ったのだろう」
「そんなことはありませんよ?典子さん、だって、「枝垂れ桜」の絵が本当に好きだったのは、綾子の方ですもの。私に
は綺麗で違和感のない絵という曖昧なイメージしか感じませんが、綾子からいろいろうんちく話を聞いたから、貴方と話
すことができたと思います」
「なるほど、貴方はもともとただの理性的な人間で、感情面では、養ってくれている綾子が絶対で、彼女に従う、彼女に
依存することが貴方のすべてだったね」
「そう理解してもらって、結構です」
「だから、元から、貴方にはユラの絵を見て感動して、本気で欲しくなるような気持ちがそもそもなかった。しかしなが
ら、コレクターにしてパトロンの紳士の役は、見事に演じることができた。この私が、信用したくなったぐらいにね」
「そちらは、元々得意分野だったのでしょう。これでも、やんごとなき方の振りをして過ごした日々が割りと長いのです。
彼ら一人一人は全部人間でしたよ?台本ではありません。ですから、私はいつも野口守弘の役を使って、彼らとお話をす
るのです。狙う前にね。人間を理解してから、演技をするものです。私がこんなことを語る資格はもちろんありませんが、
それでもやはり、彼が一人一人が、私の中に生きて、性格を構成している印象はあります」
「つまり、私はたくさんの偉い人の集合体みたいなモノと話して来たから、当然、値するような知性と道徳観を貴方から
感じ、そして見事、騙されたわけね?」
「私が貴方を騙したことはもちろん沢山ありました。しかし普段のそれは、コミニュケーションを継続させるための物で
した。由良姫を守るという長期的な目標を差し置いたら、目的らしい目的もありません。それは、普通の人間たちもが日
常会話ですることではありませんか。ことを穏便に済ますための嘘が。だから、本当に貴方を裏切ったのは、やはりあの
最後の遺書だと思います。あれは綾子が書いた物とはいえ、やはり私も覚悟したのです。こんなことをしたのなら、もう
典子さんに合う顔がないということが。「アーシャ夫人」の絵で、綾子がユラさんにとても失望して、怒ったのも事実で
した。だから、彼女はだんだんとユラさんの芸術にも期待がなくなって、我々の置かれているこの現状もどうにかしたく
て、あんな計画まで練ったのではないかと」
「ユラの婚約とは関係がないんですか?」
「あります。ユラさんがもし結婚したら、この警護の仕事を、これからどうやって続いて行けばいいかということについ
て、サラさんと話した結果、結論が保留になったそうです。そこで、綾子は悲観的に考えました。もうこれが、最後、と
ね」
「では、ユラが英司さんと婚約を発表をしてから、「火の中の女」を描くまでのことに、貴方たちは殆ど絡んでいていな
いということかね?」
「そうなんです。ユラさんがどうしてあんなことをしたのかが、本当に分からないんです。私の体調が悪いとは言え、あ
んなことさえなければ、まだあのまま続いて、2年は持ったかもしれません。これは本当に伽椰子の気持ちですが、私は
本当にユラさんがなんの相談もしてくれなかったことに、絶望しました。絶望することの意味は、上城さんに話した時の
あれとは、本当はちょっと違います。これでは、もう綾子を止められないのが分かったからです。つまり、私、本当は、
反対だったのです。あと1年にせよ、2年にせよ、もっと貴方とユラさんと、話していたかったのです。しかし、そんな
思いも儚く、事態は急変しました」
「して、貴方達は具体的に、あの事件で何をしたのだ?」
「まずは、あるユラさんの体型に似ている女性を拉致して来ました。その女性の正体について、私から話したら、依頼人
の不利益になかと思われるので、伏せて頂いても、よろしんですか?」
「あぁ、構わない。それが私があとで調べることだ。あなたはともかく、あなた達のことを話す程度で良い」
「それから計画の実行日の二日前に、伽椰子としてユラさん家に上がり、ユラさんを混迷状態にさせました。いつもユラ
さんの家に行った時は、私がお茶を入れるので、あまり味のしない麻酔薬をお茶に溶かして飲ませる程度で、簡単に済み
ました。それから、ユラさんと綾子の人形をダンボールに入れて、綾子宛に送りました。それと入れ替わって、例の女性
の入った荷物を受け取りました」
「待って、荷物はユラ本人ではなく、貴方がサインして送り出しては、受け取ったのか?」
「そうです。ユラさんの名前を使って、荷物の受け取りをすることは今までもよくあったことだから、ドライバーさんは
特に違和感を覚えないと思います」
「して、そのあと貴方は、伽椰子のSNSで旅に出るとつぶやいて、綾子のところに戻って野口守弘の姿に変わったわけね?
伽椰子と野口の間で入れ替わるのに、どれくらいの時間が掛かるのか?」
「髪の毛と顔はもうできているし、身長も3センチしか違いません。本当は男女の差で20時間ほどかかりますが、あの
日の野口は誰にも合う予定がなく、監視カメラに撮られるだけだから、女性の体でもよかったのです。人間の相手をする
なら、ほんの僅かの違いでも気付かれてしまう場合があるから、綾子は決して仕事に手抜きをしませんが、私の体に負担
がかかるから、可能な限り変動しないようにはしています」
「ほほー、つまり、あなたは普段伽椰子としてあのマンションに暮らしているが、私に合うたびに野口守弘に変わり、寿
命を縮ませていたということか」
「平たく言えば、その通りです。ただ、貴女の行動パターンを綾子がだいたい掴んでいました。野口守弘として呼ばれた
ら都合の悪い日は、伽椰子としてユラさんをも誘って、貴女を呼んだら、野口の出番はなくなります。その、貴女は女性
の知り合いどうしの付き合いを優先しているように、思えたからです」
「なるほど、まぁ確かに、ユラは気分屋ですから、いつも彼女に合わせていました。野口はどちらかと言えば、私の都合
に合わせてもらっていた感じだったね。それなら、疑問に思うのは、なぜ野口守弘が必要だった?あなた達は別に私の面
倒を見る理由はないよね。伽椰子1人でも十分ではなかったのか?」
「結論的に言えばそうなりますが、最初から分かっていたわけではありません。サラさんはユラさんと付き合っている買
い手たちにも目を張って置きたかったのです。それに、両方同時に監視できるのは、私たちのアピールポイントでもあり
ました。そうでもなければ、別の人間でもよかったわけです」
「確かに、サラが安心してユラをあなた達に任せた理由が解せない」
「その...」
「また依頼人の不利益になるわけか。では私が替わりに言ってやろう。ズバリ、あなた達は昔から、サラのために他の仕
事をもやったことがあるのではないか?まぁ、心配は要らないよ。私はサラを問い詰めれる立場ではない。彼女がここ何
年間にどんなことをしたかぐらいは予想がつく。話をややこしくするな。イェスかノーか」
「その通りです。サラ様は昔からごひいきにして頂いております。ですから、私は、本当は、分からないのです。あなた
達のために綾子が... なのに、どうして」
「それを言うな。プロだろう?」
「すみません。では、典子さん、やはり...」
「そうだな。そろそろあなた達の処遇を決めて貰おう。先も言った通り、あなた達を許すことはできない。あなたも、綾
子もだ。だから、潔く、自決してくれ。そして、ユラはもちろん解放してもらう。その替わりに、後始末は私が責任を持
って善処する。中原綾子の名誉に傷を付けない。突如として歴史から消えた芸術家の1人になって貰おう。それから、伽
椰子と野口守弘と綾子のことは、私は忘れない。これからも知人として、記憶に留めさせてもらう。あなた達に、一日を
与えてやる。帰って、綾子とよく話すんだ。今までのことを。それから、綾子からも、私に釈明することはあるだろう。
今度は、遺書を丁寧に書くんだぞ?と綾子に伝えてくれ」
「わかり、ました。では、お元気で、典子さん」
斉藤は立ち上がり、振り返ることなく早足で歩き去った。
「よかったのですか?典子様。由良姫の交渉をしなく」
「大丈夫だ。彼女らがユラを殺せたりはしないよ。ユラは、最初から彼女らの一味だったからな。ユラを拘束したのも、
混迷させたのも嘘だろう」
「ほほー、そのように思える根拠は?」
「いや、だって、「火の中の女」、あれは、綾子のことだろう」
スイスで会談が行われた日の明後日、綾子の自宅に、調査隊と共に、典子と敏光が突入した。中原綾子とモノノケは約
束通りに、死体となって、並んで横たわっていた。死因は薬物中毒で、特別に書くことはなかった。そして机には、典子
宛の、綾子の遺書があった。分かっていたとは言え、遺書を手に取った典子は思わずおかしな気分になった。これは、遺
書から始まって、遺書で終わる茶番劇だった。と典子は思いつつ、綾子の遺書を読み始める。
典子様
こんなにも早く、こんな形で貴女にすべてを白状することになるとは思いませんでした。もう一度、現実にお会いして、
お話ししたかったものです。私、綾子からお話したいことは、そうですね。お見事です。貴女がお相手でなければ、私た
ちがこんなに清々しい気分で最後を迎えることもなかったのかもしれません。思い残すことはありません。あの子も、納
得していました。
さて、貴女が望まれる、真実を、私が責任を持ってご説明させて頂きます。
如月アヤ子について、特に書くことはないと思います。アヤ子は昔から、とにかく有能な人間に憧れていたと思います。
金田先生がその1人だったというだけのことです。願いが叶えば、荻原博子の元で一仕事がしたかったものです。どうし
て、サラ様は私のことをお認めにならなかったのでしょうね。自分の立場が危ういからなのではないか?と、綾子は傲慢
であると存じつつも、考えてしまいました。
ところで、あの子のことは、お話して置かなければなりません。彼本人からは、おそらくさほど有益な情報が聞けなか
ったのでしょう。それも致し方ありますまい。あの子は、覚えていないのですから。彼の記憶は昔から、私が管理してお
りました。彼は沢山の演技をしなければならないから、脳細胞の貯蔵できる限界を越えてしまったからか、自分のことも
含めて、必要ではないことは覚えないようにしているのです。人類の敵の中原綾子が申し上げるのもなんですが、彼のお
話は本当に世にも奇妙なことですから、もし信憑性に欠けると感じるのなら、私の作り話とお考えになって頂いて結構で
す。
彼の物語の始まりは、遡れば、2010年に日本に来た時からお話することになります。その前に、彼の出処について
も大まかに説明して置く必要があると思われます。最も、彼が私に話してくれたのもその程度です。
フランスで生まれた彼は、幼いころから日本の漫画、ゲームなどの文化に色濃く影響を受け、自らのこころの故郷は日
本であると強く認識していたそうです。彼の父は特許局に働いている研究員であると同時に、大学の名誉教授の肩書きな
ども持っていました。母は資産家の家の次女として産まれ、膨大ではない量の株を保持していたそうです。配当金で、2
人の人間を不自由なく養えるぐらいだったと彼は言っていました。そんな市民階級の家の次男として、彼は生まれました。
上に兄が1人、下に妹が1人居ました。彼には、大学を卒業するまでの費用と、家庭を持つために家を買うなどの資金が
保証されていたものの、多額な遺産は望めない立場だったそうです。母親の財産は、半分が彼の兄に継承されることにな
っているからです。従って、彼の両親は彼に十分な自由を与えたものの、決して期待はしませんでした。彼の独特な感受
性に共感することができず、出来の悪い子と考え、しょうらい犯罪者になることまで心配しました。
かくして、家族との仲が良くも悪くもなく、漠然とした日々を過ごした幼年の彼は、ただひたすらに、日本へ行って本当
の居場所を探すことに望みを抱いたそうです。
彼は中学校の頃から渡日に向かって日本語の勉強をしはじめたそうです。そのことに、家族は反対しませんでした。彼
という問題児の未来が自己解決したことをむしろ喜んでいたそうです。これは彼にとっても都合がよかったことでした。
今から考えれば、ひどく無責任な判断だと思われるでしょうが、彼が確実にキチガイとして精神科病院に送られるほどの
兆候を見せなかったから、致し方のないことと言えましょう。
であるからして、中学校を卒業したあと、彼は優秀な日本語の成績を持って、日本の高校への留学が決まりました。他
の科目はまるで良くなかったそうですが。ところが、日本に来たあとも、彼は相変わらず孤独な日々を過ごしました。そ
の原因は彼自身にあると私は思われます。彼は実家での生活が主な理由で、他人に助けを求めることにも、助けられるこ
とにも慣れておらず、自分から他人に接触することを、恥いったように思われます。
というように、何ひとつ変わらなかった孤独な生活に、遂に絶望を感じた彼は、嘗ては聞く耳を持とうとしなかった神
父の言葉を思い出したそうです。「人間は神に与えられた物に満足すべき。」であると。そこで、彼は自らの不遇を運命
であると考えて、求める姿勢そのものが上品ではないと、悟ることできたそうです。それはなんの問題もない、人間とし
て正しい道の一つだと私は思われました。ところが、そこで済んだらよかったものの、1年後にさらなる不運が彼に舞い
降りたのです。つまり、彼は恋愛を体験してしまったのです。どうか驚かないでお読みになってください。何たることが、
その相手が、まさかのユラさんだったのです。
それから一年後、2011年のことになります。ユラさんとの出会いが、彼にさらなる悪夢を招きました。本当に不可
思議な偶然だと思われるのでしょう。そうでしょうとも。私たちが、いいえ、彼が、ユラさんを知ったのは、最近のこと
ではなかったのです。ユラさんが保護者の加藤英司の目から離れて、自由行動をしたことがほんの僅かで、ユラさん本人
と加藤さんにしか把握されていなかったようです。彼が、1人で公園で写真を撮っていたユラさんに会ったのは、運命の
いたずらだったのでしょう。そこで、彼が得られた情報は、相手の少女の名前と、通っている女子校の名前しかありませ
んでした。お分かりになりますね?ユラさんは学校になど通って居ませんでした。ユラさんが彼に教えた名前は、姉のサ
ラの物でした。嘘をついて理由は、私が想像したところでは、こんな物ではないでしょうか。あの時点のユラさんは17
歳で、こう書くのはなんですが、いささか幻想癖を持って居た、エゴマニアックな少女だったのではないかと、私は考え
ております。人見知り、というわけではないと思います。とは言え、加藤英司さんが居ない状況で、見ず知らずの人間と
話すことがあまりなかったと思われます。新鮮で楽しい気持ちでしょうけれども、いざ名前を聞かれると、面食らいまし
た。と、私は思われます。従って、咄嗟の判断で、姉のサラの情報を残したのでしょう。たぶんですが、その嘘には深い
意味がなかったと、私は思うのです。機会があれば、貴女からもユラさんご本人に聞いて見ると良いのでしょう。私が聞
いたところでは、彼女は覚えていないようです。つまりはそうですね。彼の妄言だったという可能性もあります。しかし
それにしては、彼の立場では、決して手には入れないユラさんについての、正確な情報が含まれているのです。ですから、
私はユラさん本人を知ってから、この出会いのお話が本当にあったのではないかと、考えました。それまでは信じません
でしたが、興味深い話でしたから、記憶には留めて置きました。
であるからして、彼から見て、サラと名乗った少女はまさに全知全能で、とても何一つ所持していない彼が異性として
近づいて良い存在ではありませんでした。それはそうでしょうとも。事実その通りなのですから。ところが、哀れなこと
にも、彼は自らの人生残りの人生に、サラという奇跡の少女を観察することの他に意味はない、とあの時点で確信したそ
うです。ええ、分かりますとも。彼のような凡人に、他にどのような考え方があったでしょうか。ひたすらユラさんの魅
力に惹かれて行くことしかありますまい。
そこで、彼は誓いました。残りの人生はサラさんの為に使いますけれども、決してサラさんに劣情を抱きませんことを。
こういうことになったのも、元と言えば彼の性格に原因があると私は思われます。この歳の彼の思考の中には、意識しは
じめたばかりのセックスへの抵抗感があったと思うのです。人間はそうですね。セックスのことになると極端に両方向へ
別れる物でしょう。求めるか、嫌がるか、です。彼が後者だったのも決して珍しいことではありません。ところが、ここ
から先は、彼の独特な感性による発想であると、私は考えざるを得ません。彼が考えた計画は、即ち、性転換手術をして
女性になり、サラさんの通う学校に転校して、サラさんの取り巻きの少女の一人になることだったそうです。この心理を
深く解析見れば、おそらく、同性になれば性的変質者でなくなるから、ストーキング行為が許されると、彼が解釈したの
ではないかと、私は考えます。もともと彼は身長170センチ体重40キロで、やや長身の少女としても通る体格だった、
という理由もあると思います。つまり元々、ジェンダーについての自認が曖昧で、性同一性障害者にジャンル分けされる
人間だったのかもしれません。そして、性転換手術にかかる費用も、調べたところ、200万ぐらいで足りることで、誰
かの助けがなくても出せる金額でした。唯一の障害としては、16歳の彼がフランスの法律では既に成人として認められ
るのだが、日本ではまだ未成年にあたり、手術を受けるのには、家族の同意が必要でした。もちろん、彼がそれを得るの
は不可能でした。
ところが、諦めずに調べ尽くした彼は幸運か不幸か、九州にある金田先生の病院にたどり着きました。ええ、金田先生
の診療所は一応公向けにも開いていたのです。まさにこういう出会を待ち受けていたと申しましょうか。従って、院長の
金田先生は彼のメールに快諾し、具体的な見積もりまで出しました。金田先生は、そう言う意味での人材を見抜く目を持
っておられるのです。手術を引き受けた理由はもちろん、彼の可能性に期待したからです。その頃から、彼はもう先生の
袋の中の鼠、ということになります。手術を施したあと、先生は私を遣わして、彼の尾行をさせました。こうして私は九
州から上京することになり、女子校に転校した彼が、探していた少女サラに会うまで監視を続けました。ええ、私も面白
かったのですよ。自分よりも奇抜な人間が居てくれたことが。
それから、もうご推察なさったでしょうけれども、サラさんは妹のユラさんから、彼のことについて一言も聞いていな
かったのでした。従って、もちろん彼を知りませんでした。その事実に、彼は気付くことができませんでした。彼が自ら、
性転換手術までして着いて来たストーカーだと認めるわけがありませんから、一からやり直すしかなかったのでしょう。
こうして、行動力はあったものの、こと人間関係になると、途端に内気になる彼がもちろん、女子校でのコミニケーショ
ンも上手く行きませんでした。彼が目指
したサラの取り巻きになることが叶わないどころか、「男であった」という秘密にさらに悩まされます。四六時中に嘘を
つかないと行けないことになってしまいました。彼は次第に、自らのしたことに決して正当性はないことに気付きました。
彼が見下した、性的変質者よりも罪深いだという心境になったそうです。少なくとも、普通のストーリーは嘘をついて周
りの女の子たちを騙す必要がなかったからです。とうぜんですが、彼に味方が1人も居ませんでした。人類の敵となった
私が今更こんなことを申し上げるのもなんですが、あの頃はまだ人の性が残っていたのでしょうか、彼が不憫に思えたの
でした。しかし、密かに尾行していた私には、彼を助ける術がありませんでした。
ところで、ここから先は少しばかり私の事情を説明させて頂きます。ご心配なく、必要以上にはしませんよ。金田病院
で行われた狂気じみた日常に、私は慣れておりました。しかしながら、可笑しいとは思われるでしょうが、通常のモラル
が完全に失われたわけでもなかったのです。それが、金田先生の求めていたことだからです。即ち、金田先生は、自らを
冷やかす常識を持った少女の存在が欲しかったと思うのです。マゾヒスティックな考えた方ですが、先生のそばに居させ
てもらうために、私はそれに応えなければなりませんでした。ええ、先生のような超人なら、何でも許されると私は思い
ます。その考え方は今でも変わりませんよ。貴女たち人類が、荻原博子の行いを許しているようにですね。
さて、お話を戻しますが、ご存知の通りに、サラさんが高校を卒業したら渡米されました。そうしましたら、彼の現実
がさらに虚しくなりました。もはや彼には、サラさんについてアメリカに赴く気力が決して残っていなかったのです。可
能かどうかはともかくとして、そもそも、サラさんが彼/彼女の顔すらも覚えて居なかったのです。
そこで、さらなる衝撃が彼に訪れました。彼の母親の急死でした。
もちろんですが、性転換して女性になった彼は、とても家族と顔を合わせる自信がありませんでした。彼は、自分が失
踪したという法廷の判定に納得しまして、貰うはずの遺産をも放棄しました。従って、貯金がついたところ、彼は学校を
辞め、路頭に迷うしかありませんでした。
野たれ死になろうとしたところの彼を、私が拾い、九州の金田病院に連れて戻りました。ここまですべてが金田先生の
望む通りにことが運びました。彼が女子高で上手く行かない未来など、先生の目にはもちろん見えておられました。サラ
さんの卒業と母親の死は、この確約された未来が訪れることを、いささか早めるのに過ぎないと思います。
先生がその生まれつきの敏感な嗅覚を持って、性同一性障害にして、そもそも精神不安定でもある、そして体格も細長
く、頭蓋骨も理想的に小さい彼を見定め、確保することに成功しました。その後、もうご存知のように、彼を「72の顔
を持つソロモン」という通り名を持った、スパイに育つことに成功しました。この物語の聞き手にして語り手の私として
はもう、ことがなるべくしこうなりました、としかコメントのしようがありません。金田先生がいなければ、もちろん今
の私も彼も居ません。そしましたらどうなりましたかと申しますと、きっと他のところで、他の過ちをして、他の方たち
を困らせたのでしょう。先生は何と言っても私たちの救済者だったのです。恩義のために、とうぜん私たちは先生の望む
安らかの老後生活を守る義務があります。一昨日、モノノケから連絡をもらった時に、本当に何年ぶりに焦りました。し
かし、貴女はたしか「綾子の首を切るためなら、前代を見逃すつもりでいる」と仰りましたよね。彼はそう聞いたと申し
ておりました。もし本当なら、どうか是非そのお約束をお守りください。綾子の首はここにありますから、もう何も望ん
でおられない先生を煩わせることだけはどうかお辞めください。私は、みっともないです。先生に電話をして、至急逃げ
るようにとお伝えした時は悔しかったです。あのまま、あなた達を先生に合わせても良かったのかもしれません。無駄な
足掻きをしました。しかし、ことがもうこうして全て終わった以上、先生を巻き込も理由はもうありませんよね。この事
だけは、どうかお願い致します。最も、金田先生が逸材であることは保証致しますよ。荻原博子が彼を抜擢しに行くなら、
賛成します。それこそが、なるべくしてなる世の中なのですから。
さて、私たちの仕事の内容はもう彼からお聞きになったと思いますが、彼の口頭での説明では心が持たないから、一応
私からもさっくりと説明をさせて頂くことにしましょう。「72の顔」というのは、彼が男女に限らず複数の他人に成り
切ることを意味しています。ソロモンだから72と言う数字が出るのは分かりますが、この命名に関しては、特に私たち
は関与しておりません。ここで一つの概念を理解して頂きたいと思います。映画ではよくあることですが、スパイの人間
が一枚のマスクを被るだけで、自由自在に他人になりすまし、身近な人間にすら違和感を与えないことは、決して不可能
なことなのです。何故なら、骨相というのがあります。 ところが、「72の顔のソロモン」はその不可能な筈なことを、
可能にしてしまいました。理由は先ほど左に書いたように、彼の骨格が元々改造用に適格していたというのもありますが、
金田先生が彼自身の頭蓋骨を更に小さく削り、精密に制作された他人の顔のマスク被らせから、骨の造形という限界を超
えることができたのです。もちろん、その都度に顔や全身の筋肉の微調整も必要ですし、大概2、3日の作業期間が必要
になります。映画のように、一瞬で成り代わるわけではないのです。金田先生のところでは、私の仕事は主にカツラのカ
ットでした。最も、カットがしたら植え込むから、厳密に申すのならカツラではなく植毛になりますが。このためにも、
私は1年間美容師学校に通ったぐらいに、容易い作業ではありません。彼がのちに成り代わる目標は、ほとんどの場合は
拉致され、彼が目標を達するまでにアジトで眠らせます。その後はもうご存知のように、殺害し、死亡を公にすることで
彼の仕事をおわらせます。人間はスパイ映画を見る割に、実は、骨相の限界を深く信用しておりますよ?誰も、その人が
死ぬ直前まで行った行動のすべてが、他人がすり替わってやったことにはなかなか思い付きません。たとえ疑念を抱いた
としも、立証はできないから、そのうちの発想が狂気じみていると諦めるのです。そして、もうご推察済みかもしれませ
んが、私たちの受ける依頼というのは、殆どが遺言状の書き換えです。彼は練習すれば、90%の人間の声紋に非常に近
付けることができます。弁護士に見抜かれることはまずありません。そして遺言状の本文は弁護士が作るから、筆跡の練
習は要りません。サインの真似のみが必要でした。そして、彼が通常の任務を実行するのにも幾つかの身分を持っており、
本人たちの身体が長年ねむった状態で金田病院に囚われているから、全てが本当の実在する身分です。野口と伽椰子は私
の時代に入ってから入手した比較的に新しい身分です。従って、元々の少年としての彼は、この時点から、もう完全に現
実から消えたと言えましょう。身分もフランスの法廷では失踪とされ、顔も砕けたからです。複数の顔を持つ「ソロモン」
という名のモノノケのみが世の中に残されたわけです。
モノノケが国際的な名スパイになった暁に、金田先生が突如に引退しようとしました。先生はもうは全てを成し遂げて
しまいましたからね。その気持ちは分からなくもありませんし、左にも申したように、今でも彼の安寧を願っております。
しかし、ここでモノノケの彼は放棄されることになります。お分かりでしょうか。それは彼にとって死ぬことと同義です。
身分もなく、顔すらもないのですから。私はものすごく葛藤しました。残された僅かの理性が、絶えずに彼を死なせるの
は正しくないことだと訴えて来るのでした。もしそれをさせないとすれば、私が引き続き、医院の機能を継続させて行く
ことしかなかったのです。実際にモノノケの生命を維持する為には莫大な収入が必要で、仕事を止めて生かすことが不可
能でした。彼が被っているあのマスクたちは、全て人間の肌で作られていて、生きているのです。それを維持するために、
濃縮された、最高級の栄養剤が必要だったのです。栄養剤に多少知識があればご存知でしょうが、普通の人間が一日飲む
分でも、1万円ぐらいはかかります。生きている肌のマスクの場合は、その10倍になります。そして寿命もあります。
ほぼ一年ごとに作り直すことになります。そのための材料は、ご想像の通り、金銭のみならず、ルートも必要です。そし
て、仮に、彼にマスク被らせないまま外に出したらどうでしょう。社会問題になるよりも先に、細菌がすぐ頭蓋骨の隙間
から侵入し、中の器官を侵食してしまうのでしょう。ですので、全ての意味に於いて、他に選択肢はなかったのです。も
ちろん、それは彼の事情でした。どうして私が彼のためにそこまでしなければならないか、というのが私の悩みです。し
かし、あの時、私はこう思ったのです。これは、私にとっての潮時でもあるかもしれません。私にしても、いつまでも子
供のように憧れてばかりで居ることが許されません。現に、金田先生が引退したら、行く当てもなかったのです。なので、
私はやむを得ない気持ちで、舞台に上がることに決意しました。先生に、彼を放置することを反対し、私が受け継ぐと言
いました。金田先生はなんと申しましょうか、全てがあの方の計算通りとしか考えられません。ここでも快諾してくださ
いまして、私を育つために、引退を2年も送らせたのでした。かくして、全ての準備が整えたあと、私は本拠地を東京に
移りました。それが、2016年のことでした。
野口守弘と上野伽椰子はこの時期に確保した身分ですね。何、本人の協力なんて全くありませんよ?私が標的を定めて、
彼がゲットして来て、すり替わったのに過ぎません。2人を選んだ理由としては、野口はこちらでは家族も知人もなく、
偶に使う常備キャラとして最適でした。伽椰子は元々容姿的な素質がよく、少し手を加えれば、ご覧のようにとても上出
来になります。野口のような凡庸なキャラではできないことができます。何故男女両方をやらせたことについて、もし疑
問を持っておられたのでしたら、それは金田先生の時代から定まった方針だったのです。先生の持論によれば、男性のみ
を演じていれば、つい油断をして、自分自身の口癖がキャラに移ってしまう恐れがあるそうです。して、男女両方を入れ
替わることに慣れれば、常に緊張感を持ってキャラクターを意識して話すことになるということです。実際にこの考えが
正しかったようで、彼は一度も仕事に失敗しませんでした。しかしながら物事には支払う対価が求められると申しましょ
うか。それが彼が人間としての機能を完全に失う一因にもなっていると思います。ちなみに、元々の野口は確かに私が貶
したような小悪党でした。喫茶店の傘置き場に置いた、私の傘を入れ替えて持って帰ったのが生涯の大失算でした。うふ
ふ、あの傘のチャーミングなチェック柄が、彼を地獄に誘い込んだのでしょう。
それからのことはもう殆ど貴女が既にご存知の通りです。私とこのモノノケに関係についてだけ、簡単に説明して置き
ましょうか。金田先生が率いる時と同じく、基本的にどんな仕事を引き受け、どのように実行するかを決めるのがすべて
私です。モノノケの彼はただ従うのみです。それには立場的な理由もありますが、左に既にご説明した通りに、もう一つ
深い事情がありました。つまり、モノノケが複数の他人の記憶を正確に記憶する為に努力をし過ぎたと申しましょうか、
遂に自分自身の記憶を1年前ぐらいまでしか覚えられなくなったのです。なので、彼は仕事を遂行するだけの理性を持っ
ているけれども、人格がもはや完全に崩壊し、基本的に私が管理しなければ、何もできない状態になったのです。先日に
お会いした時に、依存について沢山お話したと思いますが、彼のこれはもはや依存ではありますまい。完全に私の脳に、
寄生しているように思います。考え方を変えて見れば、つまり、彼の記憶がもう私の物になったから、それは私の持って
いる、別の人格でもあります。
それから2020年に入り、サラさんが帰国しました。引退した父親に代わって本家の当主となり、財界人として活動
しはじめました。モノノケはもう覚えていないけれども、これは私にとって特別な意味がありました。その時まで、私も
ずっと彼があの公園で会った少女がサラさんだと勘違いしたのでした。そして、このサラさんと言うのは、いったいどん
な素晴らしい人物なのかと考えると、とても興味がありました。そこでとある機会を得、私はサラの依頼する仕事を引き
受けることになりました。荻原博子に媚びたいのが目的だと、彼は言いましたよね。彼にはそう説明したのですよ。それ
も事実ではありますが、それよりも、彼の嘗ての想い人に興味があったと言うのが本音です。さき、彼の記憶というのが
私の別人格だと申しましたし、つまり、何と申しましょう。私はもしかしたら、彼から恋心まで継承して、サラさんに、
恋をしていたこかもしれません。
従って、私とモノノケは積極的にサラさんのクエストをこなして、殆どサラさん専属スパイという立場まで勝ち取りま
した。彼女の政敵をいかほど潰して来たかは、もうここで自慢することでもありますま。こうして、主従関係になり、一
応、信頼して頂いていると思われましたが、サラさんとは、互いの過去について語ったことがありませんでした。
そしてある日、サラさんは私に、「自分には双子の妹が居て、名前はユラで、今は由良姫という芸名で画家として活動
いる」と言うことを告げました。そのユラさんの警護を、私に頼んだのです。そうしましたら、ユラさん本人に会った私
は、直ぐに全てが分かったのです。心の中に抱いた、モノノケの彼に語られた過去に対する疑問が、すべて凍てついた雪
が溶けるかのように、解明されました。即ち、あの公園で写真を撮っていた少女が、あのサラさんであるわけがなく、む
しろ目の前の、この芸術家のユラさんでなければならないと思えたのです。
そうですね。現実で会ったあの日に、貴女に語った内容の一部は虚言でした。私がさきに、ユラさんと知り合ったので
す。もちろん、人形技師の中原綾子として、彼女と話しました。ええ、彼女は私たちの正体をもちろん知りませんでした
よ。拉致される日までね。それからのことは、だいたいあの日話した通りです。伽椰子が後からユラさんに接近して、偶々
私のファンであると言い出した、ユラさんはすぐ彼女に興味を持つようになり、仲良くなるという目的を上手く果たすこ
とができました。
最後に、どうしてこうなったについて、もちろんきちんとした釈明をしなければなりませんね。彼は貴方に、モノノケ
の身体が限界に近付いて来ているからだと説明したのでしょう。もちろん、それも理由の一つではあります。そして、私
にも個人的な理由がありました。典子さん、私は、貴方に聞きたいのです。もちろん返答を聞く機会はもうありませんが。
それでも、お考えになって頂きたいのです。ユラさんと、貴女と、私たちを取り巻いてるこの現状は、本当に良かったの
でしょうか。私には、誰もが苦しんでいたと思えてならないのです。私たちはもちろんのこと、ユラさんも、貴女も、幸
せと言えたのでしょうか。ますます未来が見えない一方ですし、現状を維持するために、どんどん心労が溜まって行きま
す。そしてふっとおかしな気持ちになり、私はどうして、維持しなければならないのかが、分からなくなりました。生き
るためというのは、建前です。あの日も話したように、私たちは今まで散々なことをやって来ましたが、尊厳を失った瞬
間はありませんよ?それなのに、ユラさんと付き合ってから3年が経った時に、分からなくなったのです。生きることは、
なんのために、自分たちの尊厳は、なんなのかが。つまりは、失恋したのだと思います。ユラさんに。この方は何も望ん
でおられないだと、分かったのです。私たちが苦しみながらも、守って行かなければならない物は、もう、無いのです。
ユラさんはきっと、自分で生きて行けます。なので、自棄になって、少しばかり暴れさせて頂きました。申し訳ございま
せん。貴女にも、人類にも、です。
さて、私が語ることはもうこれが全てになります。典子さん。お世話になりました。願わくは、來世にもお遊びに付き
合って頂けることを。サラさんにもよろしくお伝え下さい。ユラさんとの挨拶はもう済まされました。では、お達者で
中原綾子
読み終わった典子は、手紙を隣の敏光に見せることもなく、ポケットに締め込んだ。
「なに、気にならないのか?」
「いいえ。だいたいの内容は想像できますので。それよりも、私は一つの心配をしておりまして...」
「言ってみろ」
だいたいの予想は付くがな、と典子は考えた
「目の前に並んでいるこの2つの死体を眺めていたら、私は、不安でなりません。これが、本当に綾子とモノノケだった
のだろうか、ってね。だって、モノノケの体なんて、誰の物を使っても作れます。大雑把にやれば、それ程時間が掛かる
とも思いません。そして、綾子にしても、確かにこの女性の死体は、私たちが現実で会った綾子と同じ顔をしている。整
形された痕跡もありません。DNAにしても、綾子が病院に残したデータと一致しています。しかし、あの綾子のことです
から、25歳の時に残したDNAデータ返って信用になりません。そして、私たちが見たあの綾子こそが、この女性のよう
に整形された顔ではありませんか?こんな物は、スペアとしか思えませんよ?」
その疑問はもちろん典子も理解している。そして、彼らに一日を与えたのも、そういうことができるならやって見ろ。
という意味があった。モノノケがすんなりと引き下がったのも怪しいと言えば怪しい。しかし...
「なぁ、上城。所詮私たちは、ちゃんと死体をそこに用意できる人間のことを、死んだと認めるのしかないよ?そうでも
しなければ、全ての歴史人物がまだ生きているかもしれないことになってしまう。それはもはや、正義でもなんでもなく、
ただの妄想だ。それに、綾子がたとえ逃走できたとしても、彼女の名義の口座が全て凍結されているし、設備と材料もこ
こに残っている。そしてモノノケの方は、どの道、近いうちに死ぬ。72の顔のネタもバレたし、再起は不可能です。な
ので、私たちが妄想のために、心配をする理由が何一つない。喜べ、人類の敵は首を落とされ、息の根を絶たれたのだ」
そして、私にとってはまだ終わりではない。典子は溜息をついて、ユラを探しに行った。ユラは案の定、なんの不自由
もなく、退屈そうにソファに寛いでいた。彼女はきっと綾子たちが本当に死んだかどうか知っているだろうが、聞いても
無駄だということを、典子には分かっている。
「典子さん。助けに来てくれたの?嬉しいです」
「助けたわけじゃないでしょう。ユラ、貴女に聞きたいことが、だくさんあるんだ」
「聞きたいことって、綾子たちのこと?死んだんでしょう?」
「それは、もういい。それよりも、貴女がなぜ、こんなことをしたのかを、聞かせて貰うよ」
「綾子の遺書は、読まなかったの?」
「もう読んだよ。でも、それは綾子の理由だろう?貴女の考えていることが、知りたいんだ」
「私も、同じ気持ちよ?もう嫌なんです、何もかもが。ちなみに、お願いが一つあるけれど、聞いてもらって、いい?」
「いいかどうかは聞いてからだ。言ってみ?」
「私も、死んだことにしてもらいたいの」
「それって、どういうこと?」
「つまり、ここで私を発見しなかったことにすれば、由良姫はあのまま、死んだことになる。それで、いいの。私はね、
もう疲れたの。サラの中に、帰りたい。これからは、もう一人のサラとして、気楽に人生を楽しんでいくつもりよ?」
「そんな無茶なことを、サラが認めると思うのか?」
「サラならきっと、分かってくれる」
「ダメだ。サラなら分かるのじゃ、私にはちんぷんかんぷんじゃないか?そいうのは、私だって、もう沢山だ。分かるよ
うに説明してくれ。全てを」
「困ったことだな... ねぇ、サラに聞いたらどうだ?だいたいのことは彼女も知っている。いいえ、私よりもたくさん知
っているし、説明が上手だと思うよ」
「わがままを言うな、ユラ。サラは忙しんだ」
「こうなったからには、一日ぐらいは分けてくれると思うよ?」
「分かった。サラにも分からなかったことを、また貴女に聞きに来るよ。その準備をしてくれ。逃げても無駄だ。今度ば
かり、はっきりさせて貰うよ」
「はいー それより、外で待っている男性は、だれ?」
「私の知人だ」
「こんなところまで着いて来るような知人?」
「探偵だ。綾子たちを捉えたのは、半分が彼の功績と言っても良い」
「なるほど、有能なんだ...」
ユラはにわかに、典子が嘗てこの顔で見たことのない、怪しげな笑い方で微笑んだ。
「どういう意味?」
「いやねー、私も綾子と同じ気持ちだと言ったでしょう?有能な人間が、いいんだ。綾子に勝つぐらいの男なら、婿候補
として入れてもいいのかなって」
「貴女にはもう英司さんが居たんでしょう?」
「英司さんでいいって、本当に貴女は思うの?」
「それは、しかし...」
「荻原博子がもうサラに取られてしまったし、あの男を譲るのを典子がどうしても嫌なら、金田先生も視野に入れようか
な?」
「ふざけるな。上城と結婚したければ、好きなだけすれば良い。私は知らない。金田先生の邪魔だけはするな。それが、
綾子との約束だ」
「なに怒っているのよ?綾子との約束を、私だって守るもの。ほんの、冗談ではないか?」
「ユラ、貴女は、変わったなぁ... 昔の貴女からは、冗談なんて聞いたことがないぞ?」
「変わるものさ、人間は。とくに、綾子たちのことを見ていれば、私だって、可笑しくは、なるよ?」
その気持ちは、分からなくもないと典子は思った。しかし、おかしくなった人間の数がこの中に多すぎだ。自分は、そ
の後始末をしなければならない。ふっと、一つの可能性に思いつて不安になった典子は、振り返ってこう言った。
「ところで、ユラ。服を脱いでもらえない?」
「あぁ、モノノケが私に化けているのが心配?それはない。私が保証する。どんな相手も裸を見ないと信用できないのな
ら、今後はやって行けないと思うわよ?」
「それもそっか」
終わったことは、ちゃんと終わったつもりで考えないと。典子は納得して、部屋から出た。