第6章 上野伽椰子について
第6章 上野伽椰子について
典子と別れたあと、上野伽椰子は約束通りに敏光について、新宿の事務所に行った。タクシーに乗るときに、やはり敏
光は助手席に座り、話をしないという合図だった。伽椰子がそれを理解しているかどうか敏光には分からないが、少なく
とも向こうから話しかけてくることはなかった。ぼろくもなく、かと言ってモダンで清潔感に溢れるほどでもない、新宿
ではありきたりなビルの3階に、敏光の事務所があった。
「どうぞおかけください。飲み物は、コーヒーと紅茶なら用意できますが」
「アイスティーにはできますか?」
「ホットのみです」
「なら結構です。猫舌なので」
「分かりました」
「さて、聞きたいことが幾つかありますが、よろしいですか?」
「あら、典子さんには聞かれたくない質問ですか?」
「そう理解して構いません。何、予測のできることではありませんか?あの気難しいお嬢様には、聞いて欲しくない質問
の一つや2つは」
「私は、典子さんの前では答えられない質問はないと思いますが?」
「答えられない質問はどこでも同じということですか?」
「そうとは言っていませんが。とりあえず、質問してみません?それとも、必ず正直に答えますと保証してからですか?」
「いいえ、嘘も承ります。しかし予めから教えて置くが、私は、貴女の知識について興味があります。由良姫はれっきと
した現実主義者ですから、おそらく物々交換の概念しかないでしょう。なので、主に、私は、彼女が貴女の何に惹かれた
かということに、非常に興味があります」
「了解しました」
「では、貴方が由良姫と知り合った経緯を、話して頂けますか?嘘は構いませんが、忘れるのは感心しません」
「自己診断テストでよく見る聞き方ですね。YESかNOか、なるべくどちらでもないを選ばないでくださいみたいな」
「違いますが、いい例えでもあります。どちらでもないを貴女が選んだら次の、質問が変わるだけです。私は、貴女の知
っていそうで、私も知りたいことを知るまで諦めません。ただ、これを誘導尋問だと思わないでください。本当の正しい
事実をしか、私は望みません。」
「分かりました。では、貴方は何処から聞きたいのですか?私という人間の由来から?それとも、ユラさんに直接関係の
ある部分から?」
「時間はありますから、貴方の、分かりやすいと思う物語のしかたで結構です」
「私は今年25歳で、ユラさんの2歳年下ということになりますね。でも、そうですね。ユラさんは全然タイプの違う人
ですか、心配してたくなるような面のあって、お姉さんという感じではありません。出身は九州の博多で、上に姉が1人
居ます。父はずっとこちら単身赴任されていました。私も高校卒業したら、こちらのデザイン系の専門学校に入りました。
あの頃は本当に仕送りが少なくて、バイトもしました。芸術系の大学も高額の学費のため考えられませんでした。そして
卒業したあと、3人ぐらいのデザイン会社に入って、助手のような仕事をしました。それから一年が経ったときに、今度
は昼間に言ったように、父の会社の方の業績が良くなりました。父は私たち家族には基本的にやさしい人間で、すぐに私
に東京でマンションを買う資金を出してくれて、月々の仕送りもそれなりに余裕があるようになりました。仕事の量がと
にかく多く、睡眠時間がほとんど毎日4時間しかない日々でした。そこで、私は段々おかしい気持ちになったのです。経
済的な余裕がもうあるのに、このままこの仕事を続けて意味があるでしょうかって。そんな時に、ユラさんに会いました。
その時の私はもうとにかくユラさんの高い気品に惚れこんで、どうしたらユラさんのような、余裕のある素敵な大人の女
性になることができるのだろうと考えました。結論はすぐに分かりましたよ。私のような成金には無理なんです。でも、
そこだけではないんです。私には、十分な時間がなかったのです。物事を考える時間や、自分自身をきれいにする時間が
足りません。それは金銭では解決できない問題なんです。だから、私は仕事を辞めて、ユラさんのような、時間の余裕を
持っているプロになろうと決めたのです。そしてら、意外とそれなりに上手く行きましたよ?一時期に、結構の仕事も来
ました。やはりユラさんと付き合ったお陰で、センスも大分養ったと思うのです。彼女は系統的な勉強こそしたことがな
かったようですが、物凄く博識なんです」
「なるほど、貴方の父の会社は、どんな業務をされていますか」
「小規模の製薬会社です。もともとはダイエットや健康食品などの市販薬を作っていましたが、何年か前から他の企業の
下請けをするようになったから、それで純利益がだいぶ上がったみたいです」
「その貴方の父の会社と取引している企業の名前は分かりますか?」
「えっと」
「あなたの知っていなくても良いことです。なので、答える必要はありません。しかし、私は知らなければならないから、
調べます。調べたら、分かります。なので、もし、私が調べなくても良いと納得できるような答えが、考えられるなら、
言った方がいいです。それこそ、嘘でもなんでも」
「ええ?やっぱり尋問じゃないですか!?」
「違います。貴方が本当に知らなかったらのなら、ただ知らないと言えばいいですし、私は疑いませんよ。誘導もしてい
ません」
「取引先は黒田商社と名乗っているようですが、発注している薬の種類は一般的な麻酔薬や栄養剤などです。医療機関以
外のところで悪用できる物でもないし、なのに正体を隠してともなれば、国内で最も合っていそう場所と言えば、もう...」
「荻原博子の実験場と言いたいわけですね」
「もちろん、これは父が娘に話すような話題じゃありませんし、あくまでも私の推測です。まさか父が犯罪者で、犯罪組
織と繋がっているなんとことを、私が考えるのは不謹慎じゃないですか。なので、あそこなら、まだ仕方のないことだと
納得できます」
「はい。貴方の答えはとても理に適っていて、たいへん結構です。では次に、由良姫と知り合った時の経緯を話して頂け
ますか?あの夜に、何がありました?忘れたりは、しませんよね」
「はい。もちろん。私の生涯の宝物になる思い出ですもの。彼女はマンションの50階にある、私の良く通うバーで、写
真を撮っていました。林檎とカップなどの組み合わせの写真でした。後に、その夜の写真がちゃんと「黄金の林檎」とい
う絵の素材になったと聞かされた時に、とても嬉しかったです。私もデザインの仕事をした時によく写真を見ていました
ので、彼女が何を撮っているかに興味が湧いて、話しかけたのです。そしましたら、最初のうち彼女は「邪魔をしないで」
という雰囲気で、怒っているようにしていたが、私がしつこく質問して行くうちに、いろいろ話くれました」
「たとえば、どんな?」
「」
「えっと、そうですね。カメラとスタンドに被っている布が何やら特殊の素材で、透明にはならないんですが、レンズフ
ィルターの光学性能と合わせて、これを被った物がカップの中に映らないそうです。でもこれが本当に透明になるわけで
はないから、言わば人間の目の盲点みたいな補正?ですが、デジタルの演算よりはよく効くとか...」
「なるほど、ここまでで結構です。して、そのユラさんの説明を、貴女はよく理解できたのですか?」
「いいえ、全然。私は写真を見るのが好きですが、実際は撮りませんから、構図が良いなどしか分かりません」
「それで、貴女と彼女で、一番盛り上がった話題はなんでしたか?」
「ビジュアル的なこと全般、かな?あの人はお洋服の話も好きですし」
「貴女のデザインしたのが、衣服ではなかったですよね」
「はい。ページデザインでした。衣服については、趣味程度と言いますか、人並み程度です」
「では、特に話が盛り上がった話は、あまりなかったということですか?」
「そうですね。私たちは、話し合うというよりは、必ず一方が聞き手でした。今までの価値観、物事の見る角度、知識の
分野、何もかもが違いました。正直に言って、ユラさんのような上品なお友達ができることは、私も意外だったのです。
彼女はたぶん、貴方の想像しているように、今まではずっと影に居る誰かに厳重に守られて来たから、自分で警戒心を持
つ必要がなかったと思います。そしてどのような理由かは分かりませんが、その警備が一瞬切れたタイミングがあって、
そこにたまたま私が入って、運良く、ユラさんの好き嫌いに選ばれたとでも言いましょうか」
敏光は考える。なるほど、時間的に思えば、筋妻は合っている。ちょうど典子が自らの過保護っぷりに反省した時期に、
上野伽椰子が来たというわけか。しかし、それでは不足だ。
「由良姫が貴女のどこを、好きになったかは、見当がつきませんか?貴女の一番自慢になれることでしょうから、分から
ないとは思えません」
「私は本当に、ご覧のように平凡な人間ですよ?心が高潔でもありませんし、それが傍から見ても分かります。まったく
打算的な考えがなくユラさんと付き合ったと言えば、それは嘘になります。ユラさんのような本当にお上品の方に知り合
ったのは運に恵まれていると思いました。
本当に運じゃないでしょうか。たまたまに居た、都合の良いよくも悪くもない人間が、たぶん私のことでした。けれども、
これを機会に、ユラさんに相応しい人間になり、ユラさんのコミュニティに入るという意気込みが確かにありました。自
分を、変えようとしたのです。1人の人間を知っただけで、その人が所属している団体全体のイメージを決めるのは良く
ないと思いますが、最初のうちはどうしてもそう考えがちなのが人間の悪い癖でしょうか。なので、今までお上品なお友
達が1人も居なかった私は、ユラさんの周りの皆もきっと、ユラさんのような、個性的な方ばかりだと思う時期がありま
した。ユラさんだけと遊んでいた時期はね。うーん、具体的に、何をしたのでしょうか。ユラさんの取材や買い物に付き
合ったり、私の気になる映画を一緒に観に行ったりしました。彼女が自分から何かをする時は、目的のあることしかあり
ません。つまり、一緒に遊びに行きましょうかなんて提案をユラさんは一度もしませんでした。でも、根気強く私から誘
って行く内に、なんとなく、彼女は迷惑にしていないのが伝わったのです。彼女はね、言えるのです。映画のどこが面白
かったとか、あの服の何が素晴らしいとか。心から楽しんでいない人間は、そんなことが言えないですよね?なので、ユ
ラさんなりに、ちゃんと私の思いに反応してくれるから、私も段々勇気が着いて来ました。彼女を誘ってどこかに行く、
何かをすることが、彼女にとって有益なことだと思えたのです。貴方もお分かりの通り、彼女は芸術家の割に、インテリ
な人間です。だからこそ、自分から出会いのチャンスを減らすことがあるのでしょう。でも同時に、凄く頭が良く、感じ
やすい人間でもあるから、周りがちゃんと意義のある出会いを作ってあげれば、彼女はそれを物にして、何かを生み出し
ます。そして、たまたま彼女の一番近いところに、私がおりました。そんな私がきっと、神に配役された、彼女をサポー
トして行く人間だと思えました。もちろん、その間に私自身のセンスも高めて行くから、献身的だったとは思いません。
そんな感じで、一年が過ぎたのでしょうか?そして、典子さんが紹介されました。そこで私ははじめて、プレッシャーと
いうか、緊張感を感じました。だって、そうでしょう?典子さんはユラさんとは全く違う意味で、強くて、格好良くて、
美しい人間でした。私には決して及ばない、何かをユラさんと典子さんが持っておりました。貴方のいう、一貫性かもし
れませんね。彼女たちは、人間らしくないから、私にはどうしようもなくチャーミングに思えました。改めて、この人間
こそがユラさんに相応しい人間だと気が付いて、凹みました。でもそれも一時期でした。段々分かって来るのです、人間
には役割が違うということが。典子さんは典子さんに相応しいことしかしません。ですから、その典子さんに相応しくな
いけれども、ユラさんには必要なことが、私の役割なのです。それから暫くしたら、加藤さんにも会いました。はじめて
の、ユラさんの世界の男性でした。加藤さんは、ほんの少しも私のことを見ていませんでした。そのことでもだいぶ落ち
込みました。そのことで、典子さんに相談したこともありました。私に、何か加藤さんに気に入られない点でもあるので
しょうかと。はい、ユラさんにはきっと分からないことですから、典子さんに聞いたのです。そうしましたら、典子さん
は、「英司さんは過去に生きているから、貴女がどうしようと彼の視野には入りません」と、淡々と説明してくれました。
そうしましたらね、分かって来たのです。私がずっと心配していた、自分と彼女らの違いが、分かって来ました。彼、彼
女らはそれぞれ、一つの物語の主役だったのです。けれども、私は違いました。私はユラさんの物語の脇役にすぎません。
それで、よかったのです。今度は凹みませんでしたよ?むしろ、とても安心しました。自分がこれからも、こうして行け
ば良いということが分かったからです。それなのに、それなのに... 私にも分かりません、ユラさんがどうしていきなり
加藤さんとあのことを決めたのが。はい、彼女は私に相談もしなかったし、気にしている様子もありませんでした。つま
り、私には、その婚約が本気に見えなかったのです。だって、ユラさんはその後も、いまの生活を終わらせるという素振
りを見せませんでした。まるで何も起こらなかったのように。ユラさんがいきなり私の知らない人間になったような気分
でした。でもしょせん脇役の私には、ユラさんの意思を慎重に観察して、従うことしかできませんでした。なのに、私に
何をして欲しいか、それが見えなくて。そんな自分を見失った三ヶ月間が続きました。とうとう精神が耐え切れなくなり、
ユラさんを誘わずに、1人で旅に出ることにしました。頭を冷やしたら、どうにかなるかもしれないと思いました。けれ
ども、現実は決してそんな私の甘えに応えてくれませんでした。時の針は止まりません。正しい時に、正しい判断のでき
なかった私は、ユラさんを失いました。挽回のしようはありません。ですよね?だから、私の意思も、典子さんと同じで
す。裁きを望みます。報復を望みます。それに私の全てを掛けます」
「なるほど。ところで、貴女は、報復の相手をちゃんと知っているのですか?」
「分からないけれど、典子さんと貴方が仰るには...」
「ほほー、無論、我々には我々の考えがありまして、そうせざるを得ない根拠がいろいろあります。ところが、別にそれ
を知らない貴女は、もっと明確な説明の仕方があるのではありませんか?例えば、野口守弘が由良姫を殺した。貴女はそ
うやって、警察の結論を信じて、彼を恨めばよかったです。私たちの途方もないゲームに絡む必要はありませんよ?」
「野口守弘は、死んだのではありませんか?」
「その通りです。ですから、終わったことなのです」
「けれど、彼には共犯者が居たんでしょう?」
「それを誰から聞きました?」
「貴方と典子が話している内容を聞いて、そう思えました」
「可能性の話です。居ないかもしれませんよ?野口守弘以外の敵は。その透明の敵をやっつけるために、貴方はこれだけ
の報酬を私に払うつもりですか?」
敏光は見積もりの書いた紙を上野伽椰子に見せた。きっちりと1千万円と書いてあり、下にサインの欄が空いてある。
ところが、上野伽椰子はほんの僅かも動揺しなかった。
「典子様は払うのでしょう?でしたら、私も同じ気持ちです」
「立場が違います。そちらにはもっと請求しますが、彼女にとっては端金です」
上野伽椰子は答えるよりも先に、ペンを動かしてサインを書いた。
「気持ちは同じです。彼女もきっと、憎むべき悪魔を討ってくれるなら、全てを払うつもりでしょう。ですから、どうか
お願い致します。その透明の敵を、本当に、なきものにしてください」
「承りました」
「では、代金はさっそく明日にでも振り込みましょう」
「いや、それはまだ大丈夫ですよ。これぐらいで済むとは限りませんからね。つまり、私が貴方に分かってもらいたかっ
たのは、敵の首の価値です。この敵は、典子と貴方に憎まれているから、というだけの理由で討たれるのではありません。
フフ、人類の敵は、高く付きますよ?」
しばらくの間、室内が静まり返った。そして上野伽椰子は笑った。敏光がはじめて見たときの、あの鮮やかな笑顔で。
「あまりにも高かったら、本当に体で支払うことになってしまいますよ?」
「その時は、また相談しましょう。斉藤、お嬢さんを家まで送り届けてください。お知り合いのところで留まることにな
っておられると伺いましたが、場所をこの者に教えてください」
「いいえ、そこまでは」
「そういうわけには参りませんよ?」
立ち上がり、既に事務所の入り口でドアを開いて待機している斉藤の方へ向かって歩いた上野伽椰子は、にわかに振り
向いて、敏光の目を見て話した。
「では、頼みましたよ」
伽椰子はさきと変わらずに、微笑んでいた。そのうしろ姿がドアの向こうに消えてから、敏光は、こう考えた。それは
戦場に行く兵士を送る時の表情ではないよ?そして虚無に向かって、聞き返した。
「お嬢さん、貴女が頼んだのは、本当に敵の首かい?それとも、典子のことかい?」
そして、メモ帳にこう書いた。
上野伽椰子は野口守弘について一切語らず
それから、斉藤の携帯に電話を掛けた。
「もしもし、斉藤と申しますが」
いつもの電話の出方である。
「いま、彼女が後ろ席に座っているか?」
「はい」
「いいか?よく聞いて、そして指示に従え。このお嬢さんを指定の住所に送り届けた後は、監視を続けろ。彼女がもし、
自殺を図ったら、止めても無駄だ。その場合は死体の近くに待機して、第一発見者が来るのを待て。そして警察が来るま
で待つ。もし30分が経っても第一発見者が現れなかった場合、やむを得ず貴方が通報して、死体のそばに居て、警察が
来るまで死体を守れ。もし生きているお嬢さんに襲い掛かる人間、若しくはお嬢さんの死体に不審な動きをしようとする
者が居たら、必ずソイツを捉えろ。人目に付かないところでなら、発砲も許可する。典子様がもみ消してくれる。いいな?
分かったか?」
「わかりました」
電話の受話器を戻したら、敏光は目を細めて考える。斉藤はそれなりに強い、自分の指示に誤りがなければ、並みの相
手には負けないはずだ。後はことの成り行きを見守るのみである。伽椰子は死ぬ。しかしこちらは彼女の死を無駄にしな
い。ここが勝負の決まるところである。
そして翌日の午前2時に、無事に帰って来た斉藤が敏光に報告する。
「彼女は確かに自殺しました。自ら遺書を書いて」