第3章 和ノ宮ユラについて
第3章 和ノ宮ユラについて
「さて、貴方がすでに知っての通り、私は幼い頃から和ノ宮サラとユラ姉妹を知っていた。とはいえ、幼なじみという表
現に抵抗があるため、古い知人と言って置こう。年に何回かパーティーで顔をあわせるだけの関係だから、それほど仲が
良いというわけではない。具体的に、何時から彼女らに面識があるか?そうだな、少なくとも5歳ぐらいの彼女らの姿は
未だに印象に残っている。そうだ。今に思い出した。私は最初はあの2人があまり好きではなかった。不気味な印象があ
ったからだ。とても愛らしくてお上品な子供だったのだよ?あの頃の私は彼女たちが苦手の理由が分からなかったのだが、
今なら分かる気がする。あまりにもよく似ているからだよ。双子というのはそういう物かもしれないが、何と言うか、我々
の脳の認識システムは、もともとそれに慣れていないのだ。同じ人間がいくら服と髪型を変えても、真正面から顔を見れ
ばその人だと分かるだろう?そうやって我々の本能は顔の特徴を察知して、人間を辨別しているのだ。ところが、あの2
人を分けるためには、本能のみならず理性も要求されるのだ。辨別できないわけではないよ?大人なら、表情を見れば、
だいたいサラかユラか分かる。しかしその作業が脳に余計な働きを強いるから、まだ慣れていない子供の私には、この頻
繁に起こる脳のエラーの理由が理解できず、ただ絶えずに違和感を感じた。もっとも、それも学校に上がるまでの話であ
る。由良姫の公開情報にも書いてあるから、貴方ならもう知っているだろうが、ユラは学校教育を受けずに、ずっと家庭
教師に教えられた。一方で、サラは学校に上がり、私とは同級生になった。こうしてサラとユラはペアではなくなった。
ユラが学校に来なかった理由か?それほど深いわけがあるようには思わない。ただ姉妹2人を別々の個性で育てたかった
だけではないだろうか?何せ、ユラの存在が隠されたわけではないよ。家で家庭教師の教育を受けていることは誰もが知
っていたし、パーティーなどにも普通に顔を出していた。それなのに、ユラに身体的や性格的な問題があるというような
噂は聞いたことがない。つまり、学校に来なかったのは、本当にそれで良いと思ったからだと思う。であるからして、学
校で毎にち顔を合わせ、話すようになったサラは、次第に私の知人から友人になり、ユラは、友人の妹になったわけであ
る。当然、そのころにはもはや彼女らが苦手の意識がほんの少しも残っていなかった。慣れて来れば、むしろミステリア
スで魅力的な存在である。ここのところの感性は歳を取ることによって変わることもあっただろうか。そしてサラと私の
間柄だが、12年間ずっと、サラが生徒会の会長で、私が副会長だった。サラがアメリカの大学に進学して、私が日本に
残ったまでの間、ずっとね。友人というよりも、もうとんだ腐れ縁と言わざるを得ない。最も、私たちが生徒会の幹事を
務めたのは特別に成績が良かったからではなかった。家柄のために、教師と生徒の間の固定認識というところだろうか。
実際は飾り職だからな。普通の生徒と違ったところは、生徒会室という名の休憩室が使えることに過ぎない。サラも私も
成績はそれほど悪くはなかったのだが、満点を取りに行くような性格では決してなかった。それを求められることもなか
った。私の場合は単純に次女だったという理由だろうが、サラには、学校の成績よりも、幅広い知識の量が期待されたよ
うに思える。その為か、彼女はずっと本の虫だった。私には手も足も出ない英語とドイツ語原文の本をもサクサクと読ん
でいた。こうして、サラがアメリカに行くまでに、ユラは私にとって、ずっとサラの妹に過ぎなかった。あのこがどうな
って居たか気になってはいたが、しかし実際に私とユラに接点があまりなかった。子供から少女に成長したユラだが、相
変らず口数が少なかった。他の人たちが話している間、彼女はいつも手帳やティッシュに落書きを描いていていた。そし
ていつもカメラを持ち歩いて、写真がとても好きだったという印象だった。試しに、「どんな写真を撮っているの?」と
彼女に声を掛けてみたら、ユラは「私の写真は絵の素材にすぎないから人に見せるほどの物ではない」と言って、私にカ
メラの中身を見せなかった。とても驚いた。それまでに、ユラが落書きを良く描くのを見たが、彼女が本格的な絵を描い
ていることは知らなかった。だって彼女は一度も人の前でイーゼルを広げて、絵の具で絵を描いたことがなかったのだ。
絵が好きなら、なぜ写生を描かないと彼女に聞いたら、彼女は、写真で集めた素材を自分の築く架空世界で広げることこ
そが自分にとっての絵であると答えたのだ。ユラが絵を描いているだけではなく、既に独自の流儀を持っていて、そして
何よりも、私の想像を遥かに越えて真剣に考えて生きていることが私を驚かせたのだ。それは確か、私たちが15歳の時
だったと思う。それからずっと、ユラという少女がどんな絵を描いていて、そして何を考えて生きているのかが気になる
ようになった。であるからして、ある日、私は遂に、サラと、ユラのことについて洗いざらい話して見ようと決めたのだ。
サラに、あなたの妹についてどう考えていると聞いたら、彼女はこう答えたのだ。「ユラは私なのだ。1人に許されてい
る時間が限られている。私にはできないことをユラがする。だから彼女は私と同じ道を歩まない」と。私には、これがサ
ラの傲慢だと思えた。サラはあくまでもユラのことを自分の付属品だと思っているようだ。サラとは何もかもが違うユラ
の人格をすら、サラは自分の一部だと思っている。私にはとうてい理解のできないことだったから、ただ単に、彼女がこ
んなにもユラのことを見ていないことに驚いたのだ。平たく言えば、長女としてしょうらい当主として期待されているサ
ラと、自由に生きることが許されているユラとでは立場が違うということだろう。それでも、あのすごい少女がこんなに
も関心されていない事実に、納得の行かない感情を抱いてならなかった。ところで、少女時代のユラについてなら、私よ
りも英司さんの方が詳しいかもしれない。ええ、彼女の婚約者、加藤英司のことだ。そして、彼がもともとサラの婚約者
だったことも知っているか?ほー、さすがにそこまではか。彼のことなら本人に聞いた方が早いだろうが、ざっくり話し
て見よう。加藤英司は私たちより4歳年上で、もともとはサラの許嫁だった。よく和ノ宮家に出入りした彼は、ユラに社
会見学をさせるという名目で、よくユラを連れてクラブやバーなど人の集まる場所に通っていた。もちろん、彼にとって、
ユラは義妹だった。そして断言してもいい、加藤英司は間違いなくサラを愛していたのだ。そう、彼は心底、自分の約束
された未来のお嫁さんに惚れ込んでいたのだ。ユラに気移りするなんてことはとても考えられない。それは今でも変わら
ないと思う。彼とユラが何を考えて婚約を発表したのかについて、私は未だに理解できない。ユラが加藤英司をどう思っ
ているかっか?それについては、加藤英司という人間その物を説明しなければならない。英司さんは、ここまで率直に言
うのは申し訳ないのだが、つまり、凡人なのだ。加藤家が和ノ宮家にとって相応しかったから2人が許嫁になっていたが、
ただのいい人の英司さんと、全知全能とすら思えるサラとでは、誰の目から見ても不釣合いであった。そしてサラの性格
から考えると、大人になった決してその婚約を履行しないことが誰にも分かっている。サラがアメリカに行っている間に、
そろそろ婚約のことを考え直さないかと周りが彼に勧めたが、サラを愛した彼は聞き入れなかった。して、どうだろう、
帰って来たサラ早速も30歳も年上の荻原光圀博士と結婚したではないか。さて、サラのことはこの際ともかくとして、
つまり私が言いたいのは、英司さんに懐いていたユラとはいえ、本気で彼に惚れることはあまり考えられないのだ。ユラ
が姉についてどう考えている?ユラは「女子生徒」という絵を描いたことがある。絵の中に佇む少女の凛々しい姿を、私
はどうしてもサラに見えてならなかった。なので、彼女は姉のことを慕っていると思う。私が本当の意味でユラを知った
のは、なんと言っても、彼女が「リアル・ワールド」を発表し、由良姫になった後のことだった。ところで、貴方は一度
ユラの絵の実物を見た方がいいと思う。ええ、ネットで閲覧できる画像とは何もかもが違う。そしたらきっとユラのこと
が分かると思う。なんと言っても、彼女は絵の中に生きて居たのだから」
敏光が典子の自宅に訪問するのは今回がはじめてだから、彼女のコレクタールームを目にすることも今までになかった。
典子はこれまでに敏光に仕事の依頼をしたことがなかった。なので、プライベートの付き合いとして、基本的に喫茶店な
どで会っていた。そこまでの間柄ではない、というわけではなく、単に自宅に招くように会話が流れたことがないのであ
る。そして、この家には典子と使用人たちだけが住んでいるが、もともとは水戸家が所有していた別荘を、典子が自宅と
して使えるように現代的な調度品を達しただけなので、別に典子が建てたわけでもなければ、自分のアイデンティティと
して他人し示すような物でもなかった。ところが、このコレクションルームだけは典子の物だった。周囲の壁にはサイズ
の揃わない絵画作品が並んで飾られており、中には額縁のない落書き的な作品をショーケースに収めている物もある。絵
画作品は数を数えたら50ぐらいがあり、中には14作品が由良姫による物だと典子が説明した。そして立体造形物の芸
術品もたくさんあったが、由良姫とは関わりがないとのことだったので、敏光はとりあえず自分の関心を持つべき物に注
目をした。正直に言って、由良姫の作品がここに飾ってある他の作家の作品と何が違うかを、敏光の審美センスでは分か
らなかった。しかし、「リアル・ワールド」という絵がすさまじいアピール性を持っていることが敏光にも伝わった。
まず、2メートルかける3メートルのサイズを誇るこの絵は、このようなやや天井の高い部屋でなければそもそも飾るこ
とすらできないだろう。そして、さすが由良姫が3年間を掛けて感性させた生涯の大作だけあって、絵の全域に渡ってデ
ィテールの妥協が一切なかった。このあまりにも多い情報をどこからどう観賞すべきか敏光には分からないが、コンセプ
トが重んじられる今どきの芸術界では珍しいと言えよう。宮廷芸術が盛んでいた時代のヨーロッパでは、36年を掛けて
完成された絵画作品もあった。だが、典子が説明したように、由良姫という作家は創作に最先端の技術を取り入れること
も厭わないため、3年間で成し遂げた仕事の結晶はとにかく凄まじさがとてつもなかった。絵を描いたことのない敏光に
は、これが1人の人間が100年を費やして描いたと言われても、疑問に思う要素がなかった。タイトルの通りに、マク
ロ・ワールドをミクロに縮小して、この2x3メートルに嵌め込んだようにすら感じる。絵の細部を隅々まで確認して、
納得した敏光は改めてうしろに下がって、絵の全体を確認した。
縦長の絵の下の部分には地球が描かれていて、その上に泥人形のようなモノが生えていて、手を伸ばしてもだえ苦しん
でいるようだ。地球に生えた泥人形の伸ばした手の先に、つまり絵の右側には、慈愛の女神が目を閉じて、祈るようにし
て泥人形を見守っている。そして左側に立っている残虐の女神は、鞭を振りかざして泥人形を打ちながら、高笑いしてい
る。それから、この絵の一番の注目すべきところはおそらく、この泥人形を身動き取れないようにして、伸ばした手が慈
愛の女神に届かない理由を為した、そのモノの存在である。泥人形の脳天を貫いた、下の地球の中核をも貫通している軸
があった。その軸を、真ん中に立っている摂理の女神が、よくある剣を杖代わりにして手前に直立させている天使や王様
の絵のようなポーズで、両手を合わせて持っている。摂理の女神は能面のような表情で、厳めしく両目を細めて、泥人形
を見下ろしている。表現したいコンセプトは単純明快に思える。残虐は届くのに、慈愛は届かず、そして摂理はあくまで
も人の上に平等にのしかかり、自由を許さないということではないだろうか。
「わかったであろう?これがユラだった。これを見た私にはどうして、彼女の中に全てが内包されていると思わずに居ら
れるだろうか」
しかしながら、敏光がいましなければならないことは典子の感慨に同調することではなく、この絵を描いた19歳から
22歳までの和ノ宮ユラという人間の内面を推し量ることである。最も、その作業はまだ先のことで、敏光はとりあえず
「リアル・ワールド」から受けた印象をたしかに記憶してから、由良姫の他の作品に見に歩き回った。そしてふっと思い
浮かんだ疑問ができ、典子の方に振り向いて質問した。
「ところで、由良姫の作業は全て彼女1人で行ったのでしょうか?助手は居なかったのですか?」
「ええ、私はそのように聞いている。そして、ユラがこのような大切なことで嘘をつくとも思わない」
「なるほど、確認はしなかったということですか?」
思いの外に、典子はこの問いに即答をしなかった。
「 ... ある。確認をしたことは、実を言うと、あるのだよ。いや、友人としてのユラには申し訳ないのだが、それより
も、私は彼女の芸術のファンだったからだよ。彼女が如何にしてこのような作品が作れたことに、とうぜん興味はあった。
東洲斎写楽が個人情報を一切公開しなかったように、芸術家にはある程度の秘密が許されるべきだとは思う。しかし現に、
その本人の意思に反して、秘密をなんとしても紐解こうとして研究した人間が居たことも事実である。ダ・ヴィンチ・コ
ードという有名な映画があるぐらいに、人々は自然に彼ら芸術家の表にも裏にも興味を持つわけだ。重ねて言うが、私の
立場としてそれをすべきではなかったことは理解している。が、このことでは、私は、正しい行いをしなかった。そうだ
な。彼女が「天上につながるスカーレス」を描くために、プロの写真家を連れてノルウェーに取材しに行った際に、私は、
尾行をしたのだ。それぐらいに、実はユラに黙って、彼女を観察したのだ。とんだストーカーと思うだろうが、いまさら
のことだ。その罪は認めるよ」
「ほほー、感心はしませんが、貴女を非難するつもりはありませんよ?人間の世界は時として、正しいか否かではなくて、
戦争です。そうです。たとえ犯罪者であったとしても、正義がある場合はもちろんあります。好奇心が貴女にとっての正
義であったとしたら、そこで和ノ宮ユラの正義と衝突しても致し方のないことだと思います。結局はどちらの正義がより
高潔か、どちらがより下劣かが他人によって判断され、負けた方の正義が邪悪とされ、犯罪になるわけですね。ところが、
犯罪は私の敵ではなく、観察対象です。なくなったりはしないから、この際、なくなったら困ると言っても良いでしょう。
正義心など関係ありません。行動が結果的に社会にとって有益であれば、大衆にとって、正義の味方です。さて、それは
ともかとして、とういうことは、貴女は由良姫の近年の私生活にもたんへんお詳しいのですね。それは大変きょうみ深い
事実ですな。どうぞ続いておっしゃってください」
「ユラはここ何年間は同じマンションに住んでいる上野伽椰子という女性との付き合いが深く、伽椰子だけが時々ユラの
自宅に上がることがあるようだが、それまでには、本当に、家政婦が週に一回掃除に入るぐらいだった。ええ。ユラがひ
とり暮らしをしはじめたあと、私は彼女の家に入ったことがない。それはもちろん、ユラが彼女の芸術に興味のある相手
に作業場を見せたがらないからだ。それは彼女がプロデビューしてからのことではない。昔からそうだった。はじめてユ
ラに興味を持つようになった頃は、彼女がまだ実家に住んでいて、私は他の用向きで彼女の家に訪れることがなんどもあ
った。それでも、ユラは興味津々の私にアトリエを見せようとしなかった。サラに聞いたら、ユラが見せたくないのは性
格の問題で、別段かくす必要がある秘密があるとは思わないそうだ。そして、なんなら、こっそり入って見ても構わない
とまで許可してくれた。このように、サラにとってユラの気持ちよりも評判の方が大切のようだが、私はユラの気持ちを
逆撫でる気にならなかった。それが今に至っても変わらない。さて、ユラの私生活についてだが、彼女が実家に暮らして
いた頃に、私はそれほど関心を持つこともなかった。私が心配するまでもないことだったからだ。唯一気になっていた彼
女のアトリエを、彼女が見せてくれないと言うのなら、それはそれでよかったのだ。ところが、ユラがひとり暮らしを始
めてからは、事情が変わった。ただでさえ彼女にあまり関心のないサラがアメリカへ行った。そして、加藤英司もまたユ
ラがもはや大人の女性に成長したという理由で、ユラと頻繁な繋がりを保つことに憚りを感じたようだ。であるからして、
ユラの周りから、家族というジャンルの味方が段々と居なくなったわけだ。その代わりに、ファンという新しい取り巻き
の群れが現れはじめた。お分かりであろう?私の立場が。彼女の古い付き合いにして、ファンでもある私は、ファンたち
を統率して、ユラに節度のあるような付き合いをするように監督をすることを、私は自ら決めたのだ。サラに頼まれたこ
とではない。サラは、ユラがどうでも良いと言ったことが決してないが、彼女はユラが1人でも大丈夫だと信じているよ
うだ。妹を信じることは、彼女の自信の一部でもあるように感じる。サラにとって、サラにできることは、ユラにも当然
それができて当たり前だった。ところが、私にはそう思えなかった時期があった。そう、つまり、長らくユラを心配した
挙句、結局サラは正しかったと分かって来たのだ。ユラは生き方こそがその姉と違うけれど、精神力の強さ、思考の綿密
さに関しては、まさにもう1人のサラに他ならなかった。私の心配は過保護に終わった。それはそれでよかった。が、こ
のようなことになってしまったではないか」
この不始末に典子はこのように責任を感じているが、今はまだ彼女が切腹して良い時期ではないから、こうして後始末
の調査を進めているわけだ。第一、白黒つけなければならないと典子は思う。自分が負うべき咎から逃れるつもりはない
が、この事件は決して典子が監督不届きの責任を果たせば済むような話ではない。敵が、未だに生き延びている悪意が存
在するかもしれない。全ての精算は、まずそいつを突き止めてからでないと、話にならない。と、典子は改めて強く思い、
拳を握り締めた。
「なるほど、お嬢様。重ねて申し上げますが、よろしいですか?貴女の由良姫のことについて、感じたことを私は聞きた
いのです。とはいえ、この私に対して、自らの正当性については弁明をする必要は何一つありませんよ?どのような理由
で貴女が和ノ宮ユラに対して、いわゆる過保護なことをなさったにせよ、それは過ぎたことです。そして今、我々が捉え
ようとしている、その何処に潜んでいるかまだ分からない何かが、殺人を犯した重犯罪者かもしれませんよ?貴女の罪の
意識は、些細なことです。お心苦しいのですか、どうかそれを無視して、事実の要点をお話ください。つまり、和ノ宮ユ
ラがひとり暮らしをはじめてから、貴女が過保護をしたことに後悔の念を抱いて、観察を辞めるまでの間に、彼女の私生
活の様子を、もっと具合的に話して欲しいのです。何の意味があるのかはもう申し上げるまでもないでしょう?極めて重
要なことでございます」
「ふん、煽るが得意だね貴方は。しかし仰るように、もうここまで来たからには、役に立つ情報は何もかも貴方に共用し
ようではないか。ところで、まさかとは思うが、ユラの事件が終わったら、貴方がこれをまとめて書籍化するつもりはな
いだろうな」
「ご冗談を。先を越されることがご心配で、今から著作権の主張をして置くのですか?私たちはそれぞれ、自分の本領の
仕事はするだけですよ」
典子は自嘲気味に口元を緩めた。彼の言った通りだった。典子は知人のユラを裏切るつもりがないため、決して発表す
るつもり描いたわけではないが、それでも作家の性分からだろうか、この事件を調査することに当っての経緯について、
詳しくメモを取っている。ここのところの自分の抜け目なさが嫌いだが、それでも辞めることができないのは、典子とい
うシステムの本能である。そして、観察をして記録を残す、それこそが人間というモノではないかと、典子は思っている。
ユラがどう望んでいるかは、関係ない。事実は明らかにする。人間であるために。
「さて、では、何から話そうか。貴方が関心を持っていることはつまり、ユラが1人で、どのようにして暮らしていたか
についてだね?ユラは人の前で絵を描かないことは話したな?他のことについてもそうであった。彼女はとにかく、必要
以上に人と関わらない性格だったと思う。つまり外出が少なく、自宅に立て篭もることが多かったということである。特
に1人暮らしをはじめてからのユラは、主に通販を頼りにして生活をしていたようだ。それこそ、荷物の受け取りが日に
3回するのもよくあることだった。最も、ユラが人の前に出ることそのことが苦手なほど、いわゆる「ひきこもり」とい
うわけでもないと思う。前に言ったように、必要とあれば、ユラは海外にも取材しに行くし、プロのカメラマンも利用す
るし、それほど彼女は行動力を持っていて、惜しみなく使ってもいる。ここのところは英司さんの功績と言えなくもない
と思う。実際に彼がユラに、必要な分、他人と関わりを持つスキルを教えたわけだからね。食事をどうしているかについ
てか?彼女はいわゆる栄養剤派だから、食べ物の写真を撮る以外に、外食もしなかった。頼んで写真を撮るだけ?いやそ
んなことはない。写真を撮ったらちゃんと食べていたと思う。言ったことはないかもしれないが、私も普段は栄養剤を服
用しているのよ?それでもレストランで合う際は普通に食べるのでしょう?栄養剤を作る機械は、今日の分を出す前に、
必要な栄養を測ってくれるから、まれに普通の食事をしてもさしあたりはない」
敏光は改めて栄養剤という物について考える。およそ10前にアメリカの学会で発表された、人間が健康に生きるため
に必要な全ての成分が含まれる栄養剤があった。これを服用することによって、普通の食事をするよりもはるかに体調管
理がしやすくなる。ただ、コストが非常に高かったために、一般普及させることには社会問題を引き起こす恐れがあった。
たとえば、普通の家庭の場合、健康なメンバーが1人でも服用していれば、倫理観念から、家族全員が使うことになって
しまう。そしたら、今の収入状況でかろうじて継続できたとしても、未来永久にそれが保証されるとは限らない。そして、
普通の食事を辞めることにより消化機能が低下するため、家族全員で、一生使って行けるだけの自信がなければ、なかな
か踏み出せない一歩である。とは言え、実際の効果が著しいため、財産を持っている高年齢者や、高収入を持っている若
い人、特に慎重な体調管理が要される芸能人やスポーツ選手たちの間では、使用率が増えて行く一方である。最も、デリ
ケートな倫理問題が未だにいろいろあるため、使用者は殆どその事実を公開しないのである。そう、まさに典子のように、
公の場では普通に食事をしている。それでは栄養剤のもたらす安定効果が落ちはしないだろうかという疑問をずっと持っ
ていたが、典子の説明で納得した。今では、必要な分を測る機械までがあるから、普通の食事が挟んでも支障はないとい
うことらしい。
「なるほど、由良姫は栄養剤ユーザーでありましたと。ふむふむ。どうぞ、お続けください」
「栄養剤服用者と言っても、今どきの女性の間ではけっこう流行っているのよ?伽椰子もそうだっけ?ところで、そろそ
ろ上野伽椰子の話でもしようか?それとも、彼女が現れるまでの間のことについて、まだ何か気になるところがあって?」
「そうですね。由良姫は外食と買い出しと人付き合いを殆どしなかったのですと。それでは、その取材目的の外出が、だ
いたいどのぐらいの頻度で行われていました?」
「どうなんだろう。私も四六時中に人を遣って監視させているわけではないのよ?週に2回ぐらいはあったと思う。ただ、
彼女はだいたい下調べをしてから、目的地に直行するタイプです。うろついて、スナップ写真を撮るという感じではなか
った」
「なるほど、それなりによく出かけてはいったけれども、特的の相手と待ち合わせをするような傾向がなかったと」
「そうだ。ユラと会う人間のリストは、だいたい把握している」
「非常に面白い状況ですね。由良姫の私生活が殆ど貴女には筒抜け状態だったのに、貴女の本当に気になっている、彼女
の創作現場だけは、一度も見たことがないのですと」
「その通りだ。ユラはプライベートのことを、それ程気にしていないからだと思う。つまり、私が、彼女にストーキング
していた事実を白状したとしても、私が軽蔑されるだけのことで済んで、ユラは別に困ったりはしないと思うのだ。なの
で、彼女が本当に私に許していないこと、彼女のアトリエだけは、やはり触れることが出来なかった」
「して、貴女は由良姫がひとり暮らしをはじめたあと、しばらく彼女のことを監視、いや観察という表現をしましょうか、
をなさったが、どこかのタイミングで、それを止められたのですね?それが具体的に、何時ですか?」
「そうだ。私は自分の心配性がまったく持って無意義なことだと分かったから、止めた。結局ユラが全ての意味に於いて
私より優れていたから、心配をされるような筋合いはなかった。ユラは全ての作家がそうであったように孤独な人間だっ
たのかもしれないが、あの先生の言っていたように、孤独の利用価値を知っていた。私などよりはずっとね。そう思えた
のは具体的に、何時だったのか?はっきりとそう実感できたのは、例のユラとノルウェーへ同行したカメラマンと話して
からだろうか。そのカメラマンは、ユラが由良姫だということを知らなかった。ユラの芸術についての見解をとても高く
評価したのにも関わらず、彼女の正体について一向に興味を示さなかった。そこで、私は理解できたのだよ。ユラには、
人を見る目があるということを。本当にユラの負担になるのは、この私の方なのではないかと、その時にそう感じた。 ...
いや、貴方に聞かれるまでに気付かなかったが、それがユラを監視することを止めた理由だったのは確かだ。しかし、タ
イミングを作ったのはそれではなかった。そう。伽椰子が現れたからだよ。伽椰子が居るから、私は本当の意味で、心配
をすることがなくなったのだ。えっと、伽椰子が何時ユラの住むマンションに引越して行ったのかまでは知らない。最も、
本人と連絡が取れるから、何時でも確認することはできる。確かに、ユラの後だったと思う。そして、ユラに伽椰子を紹
介されるのは、3年前の秋のことだった」
「なるほど、由良姫と深い繋がりを持った上野伽椰子氏ですか。して、その上野氏が、今回の事件にどのような反応を示
したか、ご存知ですか?」
「ええ、もちろん、そのあと伽椰子とは警察で顔を合わせたし、個人的に話しもした。伽椰子は私以上にショックを受け
ているようで、その後すぐマンションから引越し出したそうだ。今は知人の家に一時的に滞在しているようだ」
「なるほど、ところで、これは警察でも聞かれたことがある事項でしょうが、その上野氏が仰るように由良姫と頻繁に連
絡を取っているような間柄で、しかも由良姫の自宅にすぐ行ける距離に居たとしたら、どうして事件の第一発見者になら
なかったと思われますか?ご存知のように、由良姫は殺害されてから、6日間も発見が遅れたのですから」
「彼女はたまたま旅行に出ていた。いや、たまたまというわけではあるまい。彼女が旅行に出ていたことをSNSにつぶや
いたから、野口守弘がそれを確認することができたわけだ。もっと詳しい話が聞きたいのなら、そうだな、後で伽椰子本
人に合わせようか?」
「もちろん、そうさせて頂きますよ。加藤氏にも上野氏にも合わなければなりません。もっとも、それが今すぐでなくて
も結構です。そうですね。とりあえず、由良姫本人の過去についての話に戻りましょうか。上野氏の出現により、貴女の
由良姫に対する考え方というか、接し方が根本的に変わったことは分かりました。ところで、その本人の方は?いや、上
野氏が現れるタイミングでなくて良いのです。とにかく、ここ何年間に大きな変化が起きたことはありませんでしたか?
たとえば、作風に変化あるなど」
「こればかりに関しては断言しても良いのだが、ユラの作風は最後の「火の中の女」以外に、大きな波はなかった。強い
ていうなら、そうだな、伽椰子が現れてから、前にあったような張り詰めた感じが改善されたのだろうか。いや、これは、
私の気のせいだと思う。そのように評論を書いた人間は居ない。ところで、作風のことなら、貴方は自分の目で見て、感
じるべきだと思う。ほら、私が時系列に準じて説明してあげるから、ユラの絵を、よくご覧なさい」
ちなみに、由良姫についての一般的な評価は、もちろん敏光は事前に予備知識として読んで来た。いわば、由良姫の絵
には人間の女性の姿がよく現れるが、オーダーで指定される以外の場合、雄性をイメージさせるような物が出ない。それ
でいて、同性愛を主張するような傾向性もない。女性が使われることはあくまでも本人が女性であるから、デフォルトの
表現方法であり、彼女の芸術からは、セックスという物に関心がないように思われる。セックスという言葉に具体性が欠
けけるかもしれないので、更に言うと、絵の中の女性が、人間に恋をしているようにはいつも見えないのである。澄まし
ているのではなく、何かを求めているようには見えるが、その対象が漠然としている。このような芸術のジャンルが存在
していて、とりわけ珍しいというわけではないのだが、一応アダルト向けの芸術に於いて、少数派ではあるようだ。そし
てここが、典子が由良姫を尊敬する理由の一つであると敏光は思えた。ユラ本人がどうなのかは知らないが、典子がセッ
クスという物を軽蔑していることは知っている。もし由良姫の芸術にセックスをイメージさせるような物があったら、典
子は幻滅したのかもしれない。いや?そもそも、由良姫の影響で、今の典子になったのだろうか。そして、そんな処女の
女王がいきなりとある男性と婚姻を認めたら、不満に感じたのが果たし野口守弘だけだったのだろうか?敏光はとりあえ
ずこの疑問について考えることを止めた。もっとも、敏光にとって、典子も事件の関係者の1人に変わりはない。ただ、
典子を疑うにしても、今がまだ時ではないのは確かである。典子の情報を根拠にしなければ、仮説の広げようがないから
である。
典子に紹介されながら、敏光は由良姫の作品を一つずつ確認して行く。特に有名で、そしてオークションに最高値を残
したのは、最初の「リアル・ワールド」と、「天上につながるスカーレス」と、「蒼きしだれ桜」と、最後の「火の中の
女」だったという。「リアル・ワールド」はユラのデビュー作として典子が買った他に、「蒼きしだれ桜」と「火の中の
女」は野口守弘が落札した絵だったが、今こうした経緯でこの部屋に飾ってある。そして、評論家次第だが、由良姫の真
骨頂とよく言われている「天上につながるスカーレス」は典子の手元にないから、ここで実物を確認することができなか
った。敏光は「蒼きしだれ桜」の前に立ち止まった。野口守弘がはじめて手を出して、そして落札したのはこの絵である。
荒れ狂う花吹雪の中に佇んでいる着物の女性が、夜空に染みるほど遠く彼方にある、高い高いしだれ桜の樹冠を見上げて
いるシーンである。そして、桜の花びらが青色であった。タイトルなしの作品だったが、「蒼きしだれ桜」という名が流
通されている。直感的に、女性のことが少女だと思われるが、後ろ姿なので、そう断言する根拠はない。これが、由良姫
の作品の中で、唯一の和のイメージだそうである。由良姫という芸名の割に、和をあまり描かなかった。もっとも、女性
の顔が西洋風と言うよりはアジア風のイメージに近いように感じるが、着ている服がいつも洋服だったということである。
ここのところからは、由良姫という作家はあくまでも自分自身に適している表現をし、無理をしないという性格が伺える
と敏光は思われた。そして、こここそが大切なところだが、典子と評論家たちの受けた印象に同一したポイントがある。
即ち、由良姫の作風は一貫性が評価されていて、変化もしなければ、成長もまたしないということである。それでは、い
くら素晴らしくても、限界はないのだろうか?と敏光は一瞬、思い浮かんだ。典子は作家である。この質問を彼女に聞い
たら、きっと「芸術は作家の自己表現だから、そうなることはない」と返って来るだろう。しかし、そういうことも理解
のし難い事件の要因を成す可能性の一つとして、十分あり得るから、敏光はとりあえずこの疑問を心に留めた。
「なるほど、この絵と共に野口守弘が現れたわけですね。それが何時のことでしたか?」
「今から数えてちょうど3年前の夏だった。この絵が構想されたのは桜の咲く時期だったのだが、完成されたら夏になっ
たというわけだ。ユラがはじめて描いた和のイメージだったから私も当然きょうみを持っていたが、タイミングの理由で
見送った」
「タイミングというのは?」
「我々いわゆる常連の人たちは、毎回由良姫が新作を発表するときに必ずオークションに参加するが、本当に勝ちに行く
場合と、負けるつもりで参加する場合がある。それを裏の世界では挨拶参加と言うんだ。つまり、競い合うような形式に
はしているものの、事実上は譲り合いで、八百長なんだ。それも致し方のないこと。金銭でどうにかなることだから、誰
かが本気で独占したければ、できるのだよ。誰も大人げない相手とやり合いたくないからだ。ところで一方で、それがし
てはならなかったことであった。ユラは誰かの専属になるつもりがないからオークション形式で絵を発表しているのであ
って、我々ファンとしてその意思に従わなければならなかった。これが暗黙の了解というわけだ」
「なるほど、して、野口守弘はこのようなルールを知らずに入って来たわけですか?」
「それは違う。こういった話は別にユラの作品に限ったわけではない。それまでもコレクターをしていた彼はとうぜん了
承していて、由良姫という名のワンダーランドの入場チケットを買うつもりで、その絵を落札したのである。そしたら、
我々と同じ価値観を共用している彼のことが認められるわけだ。他のコレクターたちもそうであるように、私が他のユラ
の買い手との付き合いがいつもこのような形で始まるわけだが、結果的に野口守弘と一番よく話すようになったのには理
由があった。それは、彼が私のはじめて知った、わたし以外の、本当の意味での、ユラのファンだったからだよ。ユラの
絵の買い手といえど、誰しもがユラの絵が一番だと思っているわけではないのだよ。金銭的な余裕さえあれば、誰にも買
えたわけだから。そして、こういうのはなんだが、数千万円程度だ。適当なきもちで買える人間は世の中に山ほど居るし、
実際に殆どの買い手がそうであった。そして、ユラの芸術に本当に心を奪われた買い手が何人か居たが、立場と性格など
の理由であまりコミュニケーションをしなかった人間を除いたら、私と彼だけが残ったということだ。そうだな。時間が
取れるのなら、「天上につながるスカーレス」の買い手にも一度会ってもらいたいと思う。今川信介様という方で、いま
は近畿地方の教区司教を務めおられる。昔は関東におられて、バリアン女子校の代表取締役であった。つまり、実際に教
鞭を執られたことがなかったものの、私とサラの恩師でもある方だ。そんな彼がユラの芸術に理解を示したことを、自分
のことではないのにも関わらず誇らしく思ったのだよ」
その話のついでに、典子は「天上につながるスカーレス」についても敏光に説明した。画素数5億を誇るプロジェクタ
ーによって映し出されたその画像が人間の肉眼の限界を越えており、発色の方式による色の僅かな違いを別にすれば、デ
ィテールに関しては実物を観るのと違いがなかった。画像のデータは持ちの主の許可を得て、このように典子に提供され
ている物である。典子の説明によれば、「スカーレス」という言葉はどこかの言語で階段を意味していると思われている
が、由良姫から公式的に説明されたわけではないそうである。しかし実際に、その絵の全体を占めているのがまさに上空
に繋がって行く回転式の階段であるため、名前の解釈に疑いようがないように思われた。そして、少女が階段を登ってい
く構図に関しては先みた「蒼きしだれ桜」とだいたい似ているようだが、この絵の特徴的なところは素人でも分かるよう
に、上から差しこんでくるオーロラの描写で他ならないのである。さすがノルウェーにまで取材しに行っただけのことが
あると敏光は思われた。そして典子の説明によれば、スキャナーとプロジェクターが持つダイナミックレンジに限界があ
り、これがまだ完全な再現ではないようだが、敏光はさすがにそこの違いが自分に分かるとは思えなかった。最小単位が
限られているデジタルでは、アナログ世界のミクロまでが描写されることはない。つまり、普通のサイズで撮った写真に、
被写体を構成している陽子と電子の正確な位置までが記録されているわけがないのである。技術があと一千年分進歩した
としても、おそらくそうなることはない。しかし、網膜細胞と脳細胞が認知できる限界を超えたから、人間は違和感に気
付かない。それでも、その誤魔化されている事実が未だに気に食わない、絶対アナログ主義の人間が少なからず居るわけ
で、典子にも多少なりその傾向があるかもしれないと敏光は思われた。
由良姫の他の作品をもするりと見て回った敏光が感じたおおよその印象は、由良姫の作品はそれなりに内容が豊かとい
うことだ。クオリティー作家だから四六時中にアトリエに籠って作業をする印象がどうしても避けられないが、そしにし
ては由良姫はちゃんと現実世界に生きて、人並みに、あるいはそれ以上に、知識を取得し、物事を感じていた。関心のな
い一般人にとって、レオナルド・ダ・ヴィンチがそのような超自然的な存在であって当たり前だが、それが自分の知人の
場合リアリティが違う。典子のように気になってしまう気持ちも理解できなくはない。まぁ、作家や音楽家は分野が違う
からまだしも、少なくともジェームズ・クラーク・マクスウェルのような偉人を知人に持ちたくはないと敏光は思う。彼
が居なかったら電気すらない、そんなことを常々に思っていたら、何もかもが拍子抜けに感じるのに違いない。超人が身
近に居るとうことは、それだけ大変なことである。
そしてやっと、「火の中の女」の前まで歩いて来た。絵のクオリティは相変らず非の打ち所がないのだが、サイズは4
0x60センチぐらいで、どちらかというと小さい方である。そして確かに、鮮やかな赤色がこの部屋で異質な存在感を
放っている。野口守弘の遺書は暗記しているから、「火の中の女」についての表記をここで思い浮かべてみた。確かに、
この絵だけ見ているなら、どうしても女性が縛られている十字架の存在が気になり、キリスト教系の宗教画の印象が拭え
ない。そして野口の言ったように、由良姫の作品は全体として、宗教画の慎み深さを感じない。人物が上に仰ぐ傾向があ
るから、類似点もあるが、造物主の息吹を感じるよう神々しさがないとでも言うべきだろうか。全体的にセンチメンタル
にして、ドライである。それにしても、「火の中の女」だけが違うのは確かだ。火に焼かれている女は上ではなく、まっ
すぐにこちらを凝視している。その瞳から読み取れる感情は、憎しみ、殺意、そしてくじけない誇りではないだろうか。
「リアル・ワールド」の泥人形と違って、この女性は少なくとも、抵抗の意思を持っているように感じる。そして、彼女
を縛っているうしろの十字架も、一切の抗いを決して許さぬ、摂理の女神ほど強大ではなかった。つまり、敏光はこう感
じたのだ。「リアル・ワールド」は神々の世界だったのだが、「火の中の女」はこの女性のフィールドである。彼女はな
んと恐ろしいだろうか。今にも縛っている鎖を千切って、全てに復讐の業火で燃やし尽かそうとしているのではないか。
由良姫の作品では、人間がこれほど強い主張をする例は他にない。彼女は「リアル・ワールド」から始まり、何よりも、
彼女の青色が示しているような、純然たる摂理を中枢にしているように思える。ところが、「火の中の女」からは青がな
くなった。そして、摂理もなくなった。
「なるほど... ところで、「アーシャ夫人」というのはどれですか?」
「「アーシャ夫人」はここにないのだ。見つかった野口守弘の全ての私物に、それがなかった。あまり考えたくはないが、
いつかのタイミングで処分したか、当分のあいだ見つかりそうにないところにでも隠したのだろう。アイツが、「蒼き枝
垂れ桜」と「火の中の女」の残してくれたことだけでも、ありがたく思うべきかもしれない。いや、彼にあげる感謝の気
持ちはない。こうなることも、考えてみれば、しごく自然なことかもしれない。ユラの名誉を配慮すれば、「アーシャ夫
人」は人の目に触れて良い代物ではなかった。だから彼がそれを破り捨てたとしても、私はなんとも思わないわけだ。し
かし、本当のユラの作品を、彼がたとえ死んでも、それらを道連れにするような度胸があるとは思わない。だから、こう
してここにある。分かるか?私の気に入らないところが。彼、野口守弘は、あくまでも、あらゆる意味に於いて、私の知
っているあの小心者であった。消していい物を消して、残さなければならない物を残した。そう、こんなことは、彼のす
ることだ。ユラを殺すこと以外の全ては」
典子は未だに彼女が最初持っていた2つの疑問に執着していて、野口守弘という存在のすべてが無茶苦茶という事実を
飲み込めていないように敏光は思えた。彼女がこうなるのも致し方がない。常軌を逸した狂人の考え方にあまりにも長い
間で親しんで、それを基準にしているのである。全てが、もっと単純な、常人にも理解であるような心理学で解釈できな
ければならないと敏光は思う。そう考えれば、この事件の関係者たちが取った行動に、筋妻の合わない怪しいところがい
くらでもある。かと言って、それら全ていっぺんに捨てて、最短ルートで行こうと思えば、答えが既にそこにある。つま
り、狡猾な敵は自分たちに2つの逃げ道を用意したのだ。野口守弘の遺書を信じて、彼が詰まらない理由で全てを為した
ことに納得するか。あるいは、野口守弘が典子に残した印象を信じて、全てが思い切り矛盾していて、何もかもが普通の
考え方では整理できないと諦めて、用意された、奇想天外なワンダーランドに入るか。そのどちらの道を選んでも、おそ
らくは敵の書いた筋書き通りに進むことになってしまう。だからこそ、この敵は警察にも典子にも退治されなかった。自
分はその両者の考え方の間にある、極めてぼんやりとしていて、前途多難な道を突き進まなければならないのだと、敏光
は改めて認識した。存在しないということはない。今に見えているから。
「して、貴方はどう感じたのか?由良姫を見て」
「そうですね。私は事件の調査のために見ていたのですから、人間性のことについてしかコメントしませんよ?まず、「リ
アル・ワールド」の三人の女神から感じられる感情は大雑把に言えば、それぞれ、残虐への忍耐、摂理への諦観、慈愛へ
の憧れ、というところではないだろうかね。そして、「天上につながるスカーレス」や「蒼き枝垂れ桜」になって行けば、
相変らず絵の中の少女は至高の何かに憧れていて、求めているのですが、あまりの高さに諦観を忘れることもなかったよ
うに思えます。で、何を意味しているかは分かりませんが、由良姫はいちど、残虐から解放されたようです。途中の作品
からは、そう言った感情はないように思われます。ところが、この「火の中の女」はどうなんでしょう。比類なき残虐が
燃え盛る炎という形で舞い戻って来て、憧れの高みと思われる物は完全になくなっていて、摂理はかろうじて、十字架と
鎖という形で残っている。火に焼かれている女性はリアル・ワールドの泥人形と違って、救いを求めていない、摂理にも
諦観していない、残虐には折れない強い意思を持って抵抗している。もしこの女性も泥人形も由良姫だと言うのなら、私
はこの何年間で彼女の考え方が大きく変わったと言わざるを得ません。そして、「火の中の女」でいきなり変わったとい
うこともないでしょう。考えても見てください。求めても求めても届かない何かを、諦めても不思議はないでしょう。そ
して、いちど消えては戻って来た理不尽に対して、今度はもう黙って従いません。私には、もし十分な外部要因が揃って
居れば、人間がこのように変わっても決して不思議はないと思いますよ」
「ユラ憧れていた夢、ユラが諦めていた縛り、とユラが受けていた理不尽か」
「そうですね。それぞれの実態をとられることによって、だいぶ由良姫の精神に近づくことができるのでしょう」
このような場面に備えるために、ショールームの邪魔にならないところにテーブルと椅子が置いてあった。典子は敏光
をそこに案内し、椅子に腰を掛けてしばらく考え込んだ。ユラを縛っている物、それにユラが諦観を抱いている物、それ
は生まれの環境であろう。ユラが自分から言葉で、それらについて不満を垂らしたことは聞いたことがない。いや、そも
そもユラにとって言葉というのはコミュニケーションをするために必要最低限なツールであり、それで感情表現をしたこ
とは一度もないかもしれない。だから彼女は落書きを描いたし、絵を描いた。しかしそれにしても、腑に落ちないところ
がある。ユラは傍から見れば状況に恵まれていたし、不満なことがあれば変える力もあるし、その行動力と精神的な強さ
もあった。彼女が諦観するほどのことはなんなんだろう。
「いや、少し待って。摂理の女神に、ユラが絶望を感じているとは限らないだろう?摂理、ルール、それが我々を制限す
る物であると同時に、利用する物でもある。そのために哲学があり、科学があった。私たちがそれを正しく使うためには、
まずはそれの絶大さ、揺るぎのなさを認識しなければならない。ユラが提唱しているのはあくまでもこの事実だ。そこか
らプラスもマイナスも感じない。絶対のゼロ。それがユラの摂理の女神だと私は思う」
「こうは考えられないでしょうか。確かに自然摂理は我々の味方です。しかしそれは、現実的な夢を持っている人間にと
ってです。つまり、核分裂発電所や人工衛星を作る研究チームにとって、アインシュタインの相対性理論ほど頼もしい友
はなかった。しかし、星間飛行を夢見ている妄想家たちにとってはどうでしょう。百年間に渡って、誰もアインシュタイ
ンの出したノーに抗えませんでした。これは絶望ではないでしょうか」
「ユラは、妄想家であると?」
「では、逆に、貴方は現実主義者であると思われますか?」
「先も言ったように、彼女はそれなりに身の回りの環境を効率よく整えて来た」
「それはシェイクスピアにも、ダ・ヴィンチにも出来ました。もちろん、芸術家の中には、ゴッホのような、現実の生活
に興味もなければ、改善しようともしない人間も居ます。そのために、周りの人間が手を焼かなければならないほど、彼
らは生活に苦しんで居ました。それはそれでお話としてチャーミングですが、実際は少数派ではないでしょうか。私はこ
う思いますよ。成功した芸術家は必ずと言っていい程、頭の回転の素早い人間でなければなりません。彼らはほとんどの
場合、やむを得ずにして脳の一部を現実の生活に割り当てています。しかしそれでも、やりくりして行くには十分です。
だからと言って、彼らが根からの理想主義者に変わりはないでしょう。貴方はたぶん、その巨人の像の近すぎたところに
立っておられたから、その像が全てだと錯覚してしまったのでしょう。しかし離れている私には、歴史上に似た像がいく
らでも建てられたことが分かっているのです。そしてその像たちは男のあれば、女のもあります。性格もちゃんとありま
す」
「貴方の言うとおりだ。して、彼にユラが、空想家だとしたら?」
「目指す高みへの阻害が、絶望しなります。しかしその阻害している物よりも先に、目指している物を考えた方が正しい
順序でしょう。由良姫は、夢について語ったことはありませんか?」
「ユラの夢か。私は聞いたこともなかったし、そのような物があるとは考えたこともなかったな。彼女は、全てを既に持
っているように思えるからだよ。ユラは、私の夢だった」
「お嬢様、私には一つ、解せないところがあります。即ち、傍から見て、貴方の置かれている状況は由良姫とそれほど変
わらないように思われます。それなのに、どうして貴方はそれほどまでに、由良姫に敗北感にも似たような感情を抱いて
おられますか?」
「ユラは、少なくとも、一度も私の小説を読んだことがなかった」
そこまで語ったら、典子はいきなり操る糸の切れたマリオネットのように機能停止し、椅子に座ったまま体勢を崩した。
彼女はもっとも考えてはならないことを、またもや思い出したからである。つまりユラはもう居ないということを。典子
の小説を読むことは、もう不可能だということを。もはや話をする場合ではないと悟った敏光はやむを得ずメイドを呼ん
で来て、典子の介護をさせ、典子の家をあとにした。
敏光は考える。世の中には典子の小説を読んでいて、由良姫の名すら知らない人間も居る。その由良姫本人が典子の小
説に興味を持っているかどうかで優劣が判別される物ではない。例えば自分の場合、典子の小説も読んだことがなければ、
由良姫の絵も買いたいとは思わない。だから同じように見える。しかし本人たちにとっては、そう割れきれる物ではない
かもしれない。それはそうとして、今の話で分かった事実は、典子に自覚がないかもしれないが、由良姫のことをライバ
ルにしているということだ。だからいっそう、彼女の印象が信用にならないということである。彼女は由良姫に自分自身
の理想を押し付けている。自らの向上心を保つために。典子は野口守弘と語り合えると言ったが、この点に於いては同じ
とは思わない。野口守弘は彼女を知っていて、話を合わせたのだ。彼の目的、そして本当の由良姫を知るため、敏光は早
急に他の人間と話をしなければならない。そしてある謀略家が語ったことだが、どんな人間でも、その人の望んでいるこ
とが分かれば、駒として動かすことができる。お嬢様、申し訳ないのだが、チェスはどうやら私がしなければならないよ
うだ。と敏光は内心でつぶやく。
その時、寝室に運ばれた典子はレース張りの天蓋を見つめながら別のことについて考えた。敏光に見苦しいところを見
せたのは不本意だったが、彼女は一つの、自分1人で検討しなければならない可能性に気付いたから、どうしても時間が
必要だった。
いちど消えては、また戻ってきた、残虐か... まさかね...
翌日、敏光は今川信介に会いに京都に行った。昨日、連絡をして見たら、用向きを聞いた今川が意外なことに、すぐに
会っても良いと了承したからだ。
「こんな悪徳非道が白日の下で堂々と行われて良いはずがありません。私は今年62で、残念ながら、この目で数多くの
悪行を見てきました。それでも私は未だに、半信半疑な気分でなりません。あの絵を見た私が、覚めない悪夢を見ている
のではないかと。そして貴方の電話がこの老いぼれの頭を覚ましてくださいました。して、本当でしたね?由良姫が...」
「はい。残念ながら、事実は既にご存知の通りです。その事件の続きを調査するために、ご協力を伺いに参りました。電
話でお話した通りに、私と、典子様はご存知でしょうか?水戸家の典子様と調査を致したところで、この事件にはまだ沢
山の不審なところがあるのです。非常に申し訳ないのですが、今のところ、断言するのにはまだ根拠が足りません。ただ、
仰るように、決して見逃してはならない悪行なのです。その源が、もしかしたらまだ生き延びているかもしれません」
今川信介はにわかに目を凝らしたが、返答する言葉にやや吟味する時間が要った。
「黒幕が、あるかもしれないと? それも、典子くんが調査を行ってのですか?」
「ほー、典子様のことはやはりご存知でいらっしゃいましたか」
「はい、もちろんです。サラくんと典子くんはちょうど、私が学校を管理していた頃に生徒会の幹事をして居ましたね。
それで記憶にあるのですよ。そして、貴方のお聞きになりたい由良姫、つまり、和ノ宮ユラさんことについてなら、実を
申しますと、私はそれほど詳しくは存じないのです。サラくんの妹さんが絵を描かれていると聞きまして、出張のついで
にオークションを拝見しに行ったら、老いぼれの身でありながらお恥ずかしいのですが、感動してしまいまして、それで、
応援して見ようと考えた次第ですよ。それまでも、その後も、特別に芸術品という物に、そしてアーティストの由良姫に
興味があるわけではないのですよ。そしましたら、そのあとのところに、典子くんが連絡して来ました。彼女があれほど
由良姫のことに執心していたことには驚きましたよ。ええ、正直、面食らいました。私は気まぐれでたまたま絵を買った
とはいえ、それについて語れることはあまりありませんでした。そして、あの私が優秀な若者だと思って、感心した由良
姫が、あのとんでもない絵を描いたことも耳に届きました。あぁ、「火の中の女」と言いましたか。私は、失望しました。
私にはとても理解できませんね。どうして、いったい何が、絵の中の彼女をあそこまで怒らせたのかが、分かりません。
何れにしても、憤怒はもちろん良い存在ではありません。最もよくある、罪の源の一つです。あのように、何かを恨むべ
きではありません。そしてあろうことか、それを素晴らしい芸術品にして、さらに観る人をも惑わしてしまうことはもっ
ての外です。ええ、我々は誰しも、怒る瞬間はありましょう。それは避けられません。しかし大衆を感動させるように、
憤怒の感情を表現するのは別の次元です。これは、問題ですよ?彼女は、すべきではなかったことをしました。しかし、
そうです。だからと言って、あのような形で裁かれるべきではありません。あれが神の下した裁きではないのでしょう。
しかし、私はこうも考えましたよ?人間の、精神の隙が悪魔を呼び寄せてしまいます。こんな荒唐無稽なことはまさに悪
魔の所業でほかなりません。しかし、そうです。由良姫が自らその絵を描いて、本当の悪魔を降臨させたではありません
か。なんとも恐ろしいことやら。いえいえ、老いぼれの戯れはどうか聞き流してください。存じておりますとも、貴方は
オカルト解釈を求められていないことは。しかし、わたくしめは、こんなところで思考停止してしまうのですよ。申し訳
ございません」
「なるほど、いいえ、貴方の考え方はある意味きょうみ深いのですよ。事件の直接な起因が由良姫の絵でほぼ間違いあり
ません。このような結果はもちろん全ての人間を驚愕させたのですが、彼女がその絵を描いたら、ただで済むと考えて居
なかったのでしょう。何かしらの理由、いえ、はっきりに言うと、目的があったのでしょう。ところが、そうはなりませ
んでした。あるいは、そこではとどまらなかったということでしょうか。仰るように、何かしらのモノに、悪魔に、チャ
ンスを与えたのです。しかし、由良姫がこの絵を描いて、本当にしたかったことを突き止めるのも事件を紐解くための大
切なポイントであるのに違いません」
「して、サラくんは、どう考えて居るのです?」
「あぁ、申し遅れましたのなら謝罪しますが、私はまだ一度も和ノ宮サラ様にお会いしたことがなかったのです。この事
件はあくまでも典子様が個人的な形で調査を行っておられまして、私が彼女に協力を致しております」
「なるほど、しかしそれはいかがなことでしょうか。その、お姉さんのサラくんを差し置いて」
「仰る通りです。もちろん、何れはサラ様のところにお伺いしなければなりません。しかしながら、典子様の配慮も理解
できます。つまり、典子様はあくまでも知人という立場で、直接関係者ではありませんから、本当はここまで深く関わる
べきではないのでしょう。であるからこそ、私たちが正当な立場を持っているサラ様のご協力を仰ぐには、より確かな手
掛かりを示しておく必要があるのです。今は、それをお探ししている段階ですね」
「なるほど、典子くんの立場ならそれも致し方ありますまいな。あまり有力な情報をご提供することができなかったのは
残念ですが。これからも何か私に何かできることがあれば、何時でもご連絡をください。典子くんにもそのように、よろ
しくお伝えください」
帰りの新幹線に乗っている敏光はこのように考えた。今川信介関わろうとしなかった。それも当然な反応かもしれない。
斉藤が指摘したように、このゲームは相手次第で、典子嬢が勝つとはまだ限らないからな。そして電車の到着時刻のアナ
ウンスを聞いて、敏光は頷いた。彼はこれからもう一人の人間に合わなければならないからだ。今川のところであまり時
間が掛からなかったのは彼の想定通りである。
瀧本修、29歳、フリーター。季節外れで真っ黒な無地のコートを羽織っているところから、パンク系の趣味が伺える。
そして、見るからに低体重だということが分かる体格はやや斉藤に似ていなくもないが、不健康そうな瓜実顔がどうして
もあのピエルの絵を思い出させてしまう。敏光は不謹慎と承知しつつも、内心で由良姫のセンスを賞賛した。この人物こ
そが典子の言っていた、由良姫に自画像をオーダーした「不埒な者」本人である。
「それで?今更、俺に何を言わせるんだい?」
「由良姫の身に起こった事件や、についての意見を。私は全て聞きたいわけです。どうぞ」
「ざまーみろ!だ。クレオパトラを気取っていたかもしれないが、このように無ざまな最後は他にない。加藤英司はなん
だ、彼女の姉の後釜じゃないか。それに座ったら今度は何?熱狂的なファンの機嫌を損ね、逆上されて殺されたのだと?
とんだ笑い草じゃないか」
瀧本は貶むつもりで言っただろうが、敏光はどうもその言葉からもう1種類の感情を読み取ることができた。こうして
敏光が以前から抱いた予想が、とうとう確信につながった。
「それだけでしょうか。瀧本さん。私には、どうしても、典子様と同じほど由良姫のことに関心を持っておられる人間は、
この世には、貴方しか居ないと思えてならないのですよ。であるからこそ、こうして貴方の意見を伺い来たのではありま
せんか」
敏光の読み通りに、瀧本の表情に、にわかに変化が訪れた。自らと他人を等しく嘲笑っているような不敵さがなくなり、
一度は落ち着きを取り戻し、やがては落ち込みに変わって行った。そう思わったら、またいきなり何かに思いついたかの
ように、警戒めいた目で敏光を睨み、慎重に口を開いた。
「なぜ、そう思うのかね?」
「貴方のことはひと通り典子様から伺いましたよ。そしておそらく、彼女の印象には一方的な思い込みが含まれておられ
る、と思えたから、独自に調査もさせて頂きました。貴方は、由良姫から手ひどい仕打ちを受けたあとも、引き続き彼女
のことを公の場で批評し続けたのではありませんか。そのようなことをすればするほど、世の中がどんどん彼女の肩を持
ち、貴方自身のご立場を不利にすることをご存知でいらっしゃるにも関わらず。そして、「火の中の女」の騒動で、やっ
と貴方に形勢逆転を図るチャンスが訪れたのに、貴方はそれを利用せずに、興味を失ったかのように、突如と姿を消した
のではありませんか。すると、私にはこう思われたのです。確かに、貴方は由良姫に、個人的な深い恨みを持っているこ
とは間違いないでしょう。しかし、その感情が非常に純粋で、由良姫本人そのものに向かっていて、貴方自信のことを全
く顧みていないところに、私は興味を感じました。むしろ、珍しいと言うことですよ。分かりますか?由良姫の買い手た
ちは、誰も彼もが、何かしらの個人的な目的を持っているのです。彼らと違って、貴方だけが、純粋に由良姫を恨んでい
るのです。典子様だけが、彼女の味方をしていらっしゃることのように、です」
「なるほど、お宅はおもしろい人間だな。察しに通り、俺はすっかり向こうに敵視されているが、俺と水戸嬢はある意味、
似たような人間同士だ。由良姫が気に入らないというのが、殆ど俺の全てだった。彼女は逆だろうが。どちらも言ってし
まえば、由良姫の被害者ではないか。しかも情けない話だが、俺が由良姫を恨むのは、はじめは彼女のことを異性として
意識したからだった。しかし、お宅の言ったように、俺が由良姫のことを、ずっと責め続けたのは、別に最初のことで根
に持っているからではないんだ。俺のプライドなどどうでも良い。そんなものはない。俺はなぁ、由良姫が愚かだから気
に入らないんだよ。お宅は由良姫のことがどれほど知っている?殆どは水戸嬢の情報か。じゃ、俺の話も聞いておくと損
はない。由良姫はさぁ、こうなるぐらいなら、俺みたいなヤツと一緒になって、小さな幸せを儲けた方がよかったと思わ
ないのかい?こうなることを誰が予測できたって?あいにくだが、俺には、できたのだよ。まぁ、俺の話を聞いて行けば
そのうち分かる。確かに、彼女の姉のような人間は。俺が一生もがいても覚えてもらうことすら叶わない人間だ。でもな
ぁ、彼女は、違ったんだよ。彼女はなぜ実家で暮らさないと思うんだい?世界最高のマンションの最高階だって?そんな
ところは、左遷された辺境の地と変わらない。彼女が居て、都合が悪い人間たちが居たんだ。理由は単純だ。彼女たちは、
あまりにも似すぎているからだ。そうだ、由良姫と姉のサラとだ。サラが表舞台に出るのに当って、同一人物と見間違え
る程に似ている妹のそんざいが邪魔だった。サラにとってではない、周りの人間にとってだ。しかも彼女は姉と同じぐら
い有能で、枠組みに囚われない性格だった。ほうて置けば、輝き出す。既に十分機能している照明の邪魔になるほど、輝
くだろう。たとえ彼女本人にその意思がなくても、不埒な者らに利用されるのだろう。いつかきっと、彼女の姉が手を焼
くことになる。だから彼女は蓋を欠けられ、遠いところに置かれたのだ。俺がなぜそんなことを知っているのだって?い
いところに気がついたね。俺は、加藤英司の知人だったからだよ。あぁ、だから言ったのだろう?俺は、水戸嬢と似てい
るのだ。英字がどういう人物だって?彼は流されるだけの愚か者だ。今回のことだって聞くまでもない。由良姫の企みに
違いない。英司は決してそんなこと言い出したりしない。そして言われたら、断ったりもしないことを彼女は知っている。
どこまでも俺たちをバカにして、いい気になっているんだ。由良姫がなぜそんなことをしたって?姉に嫉妬していたから
だよ。姉の持っていた英司を、彼女は欲しかったのだろうよ。あの「火の中の女」の絵をみてご覧よ。あの女の目は何を
訴えていると思うんだい?英司を見方に引き入れたことで、ますます炎上した姉への不満が遂に明るみに出たのだと、俺
は見える。女子生徒の絵がサラを描いたと水戸嬢が言ってた?それは彼女の好き勝手な解釈だろう。あの女はなぁ、自分
自身しか描いたことがないんだよ。そして野口守弘か、あれが何だったのか、残念ながらけっきょく俺には分からなかっ
たのだよ。ただ、いけ好かないヤツだとは思っていたのよ。いいかい?由良姫の周りにうろつくのは、俺や水戸嬢のよう
な人間のはずだった。アイツのような人間が絵を買っても不思議はないが、今川信介のように去り行くはずだった。なの
に、アイツは居続けた。それが不自然だよ。俺には、そう思えた。そうだな、俺の想像を言わせれば、ズバリ、玉の輿が
狙いだろうよ。それも綿密な計画を練って、借金か何かで偽物の紳士になった。ところが気の毒なことに、彼は何一つ失
敗していないのに、由良姫の気まぐれで、詰まった。だから由良姫を道連れにしただろうよ。だから、由良姫は自業自得
だよ。火遊びをしすぎた。いまの世の中じゃ、成り上がるために、それなりに頑張る人間が居てもおかしくはないだろう?」
瀧本と別れたあと、敏光はメモにこのように書いた。
今川信介はサラを知っていて、ユラを知らないと言った。瀧本修はユラを知っているつもり、野口守弘が分からないと
言った。そして、水戸典子はユラが見えておらず、野口守弘が分かっているつもりだった。
これがなんという面白い構図だろうと敏光は思った。そして、加藤英司が誰の駒で、どういう役割を持って居たかが楽
しみでならない。あいかわらず相手の姿が見えないが、ゲームにはだんだんなって来ている。