第1章 2つの疑問
プロローグ
ソファに敷いてあるぽかぽかとしたムートンラグに横たわり、水戸典子の両眼は病的なほど勢い良く見開いている。よ
く磨かれた曇り一つ無いガラス製のローテーブルに並んである2台のモニター端末をも、「ゴシック」という言葉をつい
連想させられるような模様が施されている絹のカーテンをも越えて、地平線の向こう側を、彼女はじっと見つめている。
いや、見ているつもりでいる。と言いう表現の方がおそらく正しい。何せ、夜型生物と自覚している典子は日光を毛嫌
いしているから、自宅のすべての窓にシャッターを付け、自分の在宅中は常に締めるようにと、使用人たちに指示してあ
るのである。そもそも壁に窓を作らないという選択肢もあった。しかしながら、典子は必要がないからと言って、様式す
らも徹底的に変えるほどの急進的な性格ではない。イギリスのアン女王時代を再現したこの建物から、木枠の窓がなくな
ったとしたら、さぞかしユニークな外観になったのだろう。それに、室内のデザインからしても、窓とカーテンの存在は
必要だった。話は脱線したが、つまり、千里眼や透視と言った便利な超能力を持ち合わせていない典子には、閉まってい
るシャッターの向こう側が見えるはずがないのである。網膜に映っているのは、せいぜい焦点の合っていないところにあ
るモニターとカーテンのぼんやりとした画像ぐらいであろう。傍から見て、放心状態と言ったところである。
思考が頻りに途切れることに典子は気付いている。その理由も把握している。多めに飲んだ3錠の抗鬱剤の効果に他な
るまい。いやはや、非公式的ルートで入手した海外製の安価な薬にしてはよく効いてくれて助かる。と典子はしみじみに
思う。今でも兄上が手配してくださったあの専属ヤブ医者の間抜けな顔を思い出すと、嘲笑いを禁じられない。何が
「お嬢様はとても落ち着いておられるように見えます。落ち込んでいらっしゃるようには思えません」
なんという傲慢さだ。他人の精神が「見える」と思い込んでいる様子ではないか。もっとも、彼は世界最上位学府の医
学部を卒業したのち、数多くの論文を発表したという実績があり、その後も十分の臨床的経験を積んで来たのに違いない。
だからこそあの場所に座って居られるのであろう。兄上が信用の置けない人間を敢えて私に押し付けることはあるまいと
思いたいところだが、アレを信用しろと言われても、なぁ...
私は落ち込んでいる。この事実を私は知っている(・・・・・)のだ。それなのに、彼がどのようにして医学的観点の御託を並べ、私
が落ち込んでいないという仮設を証明しようとしたところで、なんの意味があろうか。方程式の解がそもそも間違ってい
るのだから、そこに至る正しい過程などあるわけがない。
というように、典子はその専属医師と会話を交わしてから、にわかにこの結論に至った。そのあと彼が話したことをま
ったく耳に入れようとしなかった。そして、無理を言って薬を求めたら、もしかしたら貰えたかもしれないが、兄に告げ
口でもされたら話がややこしくなると警戒したから、彼女は他の方法で入手する道を選んだ。
健康的によろしくないことはもちろん理解している。しかしどうも、あの医師や兄上には私を健康にさせて置く義務が
あるようだが、私本人にそれがない。この体は自由に扱って良い。私の物だから。
典子は自虐的な嘆きを零したら、無限遠に向けた視線を目の前の2つのモニターに戻した。声の出ないあくびをしてか
らやや身を起こし、タバコをホルダーに入れた。ひと口燻らしたら、ふっと思った。
そういえば、昔の人間はタバコが嫌な臭いが出るにも関わらずよく吸っていたなぁ... なんとも不清潔な時代だったの
だろう。今やタバコは吸えばニコチンが肺に入るだけで、煙も臭いも出ない。そう、何もかもが変わったのだ。たとえば
目の前のこのモニターだって、昔なら林檎のマークが下に着いていただろうに。それが何時の時代から、なくなった。生
産者やデザインが変わったという理由からではない。マークがなくても、これを生産している会社がもはや
あそこしかない(・・・・・・)ということを、誰もが知っているから、つけなくなった、のにすぎない。その決して揺るぐことのない統
治力を持っていながらも、なおマークという形式で誇示してしまったら、返って小物感になり変わってしまう。ゆえに、
アート的な模様はともかくとして、ブランドのアンデンティティを主張するようなマークは古い時代の象徴として淘汰さ
れ、今や付ける会社がもう存在しない。
思い返したらセンチメンタルな気分になった典子である。
あの時代の我々は痛々しかった。しかしながら、生き生きとしていたようにも思える。男は仕事で疲れきった顔をし、
女は生活のやりくりで感じる苦しみを堪えつつも世間体に対して笑顔を作った。苦難に満ちていた日常生活を送りながら、
守ろうとしたのが誇りであった。その業者としてのプライドが、まさに一つ一つの製品に付けられたブランドマークに凝
集されていたように思えてならない。ところが、我々は最終的に、それがくだらない(・・・・・)のだと判断したのである。
過ぎたる豊穣は人間の生きる意味を奪う。故に我々は今のままが一番良い。苦しみのない世界に幸福もまたないからで
ある。というように主張し、変化を拒んだ思想家や文人もあの時代には少なくなかった。ところが実際に変わって見れば、
より余裕が手に入ったのは確かだが、苦しみ、というよりも悩みが消えることはなかったし、比較的に幸せのと不幸の人
間が居ることに変わりはなかった。故にいまなら言い切ることができるのだが、豊穣に過ぎるということはおそらくない。
生物としての、低レベルのくだらない(・・・・・)悩みを無くすのに過ぎない。人間としての悲しみや切なさのあり方は、むろん物理
的条件によって形式が変わるものの、根本的に無くなることはない。そして量を測る術がないため、増減という概念も存
在しない。
もっとも、今の時代だって満ち足りているとは言えない。まず人間の寿命に限りがあることに変わりがないし、医療分
野で進んだことと言えば...
典子がこの何度も繰り返された、時間を潰すこと以外の結果を決してもたらさない、くだらない思考をまたをも繰り返
してしまいそうな時に、ノックの音がした。耳障りすることもなければ、聞き落とすこともない、という程よいボリュー
ムで鳴らされたノックの音から、作法の洗練されたことが伺える。執事長の藤堂に違いあるまい。と典子はノックの音で
分かった。メイドたちのするノックはいつももっと控えめで、聞き取れにくかったのである。
「入りたまえ」
藤堂という人間は有能だが、私ではなく兄上に対して忠誠心を持っているからか、それとも仕事をただの義務だと割り
切っているからか、私の与える指示通りに働いてはくれるものの、私の抱えている問題に対して自発的に理解しようとも、
解決しようともしてくれない姿勢を示している。彼の事情について調べたことがないから分からないが、私の見方ではな
いという事実だけは明白かである。その点に於いては、メイドたちは決して賢くないが、この家の一員である自覚を持っ
ているから、扱う時に余計な気配りをせずに済む。
「お嬢様。上城様がお見えになりました。」
藤堂の顔を改めて確認しようとしたが、典子の目に映っているのはぼんやりとしたタキシードを着た長身の男の映像だ
けである。それだけ抗鬱剤が効果を発揮していることのである。
「通すがよい」
「かしこまりました。お連れ致して参ります」
振り返って去ろうとした藤堂を、にわかに典子が呼び止めた
「待ちたまえ」
「はい。いかがなさいましたのでしょうか」
「ところで、今は、何時?」
予想外の質問をされ、藤堂は刹那に戸惑いを見せた。何せ、典子の座っている位置から見れば、藤堂のいま立っている
場所を越した壁に、時計がちゃんと掛けてあるからだ。藤堂はまず自分の腕時計を見てから、壁かけ時計に目を向けた。
時間が一分とも狂っていないから、自らの落ち度にならずに済んで一安心したものの、やはり訝しげに思わずに居られな
かった。彼は、典子がいまその時計の針がはっきり見えない状態に居ることを察することができなかった。
「17時15分でございます。お嬢様」
「左様か。よろしい。下がってよい」
ドア再び閉じてから、藤堂が上城を連れて戻って来るまでの間に、典子は上城敏光という人間の性質についても改めて
考えてみた。
ミステリー作家としての自分が、長らく創作の取材相手として付き合って来た私立探偵。彼の性格からして、決して勘
で物事を判断することはあるまい。そう、何一つ、そのようなことをしないはずだ。私は予定に縛られることが嫌いな性
格だから、決まった時間で何かをするような約束を決して他人としない。そのため、今回も彼に伝えた時間は午後からと
いう曖昧な物だった。にも関わらず、私にとって、都合のよい時間帯を選んだ彼のセンスは評価せざるを得ない。いや、
それはセンスではないけれどね。そう、彼には私の心情を当てる根拠が見つかったはずだ。まぁ、些細なことだから、そ
れについて追求しないことにしよう。
典子は改めて自分の服装を確認した。下着とほとんど変わらない触感の優しい生地で仕立てられているブラウスとパン
ツだが、一応デザイン的に上着として通る。さして問題はあるまい。最も、着ている服がどんな物にせよ、上城の訪問と
いうだけの理由で典子は着替えをしなかったのだろう。他人に見られている結果に気を使いすぎたせいで人類が誤った道
を歩んだと彼女は考えている。見られていない時の過程、自分自身しか知らないことを行う姿勢こそが重要であると。つ
まり、上城にどう思われるよりも、彼の立場に対して自らが正しい行動を取ったという事実こそが重要だということだ。
そう、人間の気持ちは変わる。気持ちは何れ新しい気持ちによって完全に覆い尽くされ、書き換えられる。ところが、事
実は消えない。どんなに微かな事実でも、誰かがいつか時間を遡れば、それを掘り出して証明することができるのだ。だ
から、未来という結果しか見ない人間は愚かなのだ。過去として残される過程が、事実となり、決して消えないというの
に。
藤堂が連れてきたのが探偵の上城ひとりだった。上城が自ら車の運転をすることはないから、助手の斉藤もきっと同行
して来たのだろう。彼を何処に待機させたのだろうかと典子はとっさに考えたが、忽ちそれが思慮に値しない瑣事である
と納得した。
案内人の藤堂が去っていくのを見届け、先に口を開いたのが典子の方だった。
「いいタイミングだったね。さて、要件はもう心得ているのか?」
「だいたいは。しかし、その程度の要領で、この情報量の多さを極めた事件についての論議を進めて行くことに賛成をし
かねますね。まず私は、貴女が持っておられる、この事件についての、確かな事実についての情報と、貴女の受けた印象
を、一度お聞きしなければなりません。そうして初めて、私があなたと同じ踊り場に立つことができるのですから」
ここで上城が"段階"ではなく"踊り場"という表現を使ったことに、典子はふっと笑い出しそうな気分にさせられた。
この男は間違いなく文才を持ち合わせていないが、私なら(・・・)彼の意図を察すると確信しているのだ。これで良いのだ。話が
早くて心地がよい。
「それは良い提案だ。理屈に適っている。しかしやはり、あなたが既に把握している情報を私がもう一度説明することの
に抵抗を感じるから、まずはあなたが何処まで知っているについて話してみよう。それを私が聞いた上で、不足している
情報と、私の受けたのと著しく食い違っている印象について、補足をしよう。」
「なるほど、合理的な判断ですね。では、私が初めてアーティスト由良姫殺害事件について知ったのは、4月14日の赤
月新聞の朝刊からでした。丁度、藤堂さんから依頼の電話を受けるより一週間前のことでした。」
第1章2つの疑問
「さて、再確認するまでもなく、貴女が私に相談したい、いや、共に考えて行かれたい件は、率直に言って、アウトロ
ーアーティスト由良姫が、殺害された事件ですね?」
「ええ、ユラはわたしの友人でもあったからね」
「はい。貴女と件の由良姫と個人的な繋がりを有していることは存じております。おおよそ二年前に、食卓の雑談として
貴女から一度きかされたことがあります」
「ええ、覚えているわ。けれど、それほど詳しく話さなかったのよね。確か」
「左様です。貴方は、ご自身と和ノ宮ユラ氏は昔からの知人だと話されましたが、別だん私にこの話について深く関わっ
てもらいたいという意欲を見せませんでした。あくまでも、知ってもらった方が、いずれ何かがあった時に話がし易い、
というご意図に思えました。たとえば、この度のような...」
「とんでもないことを話すんじゃない。ユラの身に、貴方が関わらなければならないようなことに起きて欲しいわけがな
い。いや、そこは要点ではない。つまり、起こる可能性があるとも到底思わなかった。あの時は話のついでだったし、深
読みしすぎだ」
「おっと、失礼いたしました。従って、私は自らと関わりのないことと察したため、和ノ宮ユラ氏について詳しく調べま
せんでした。つまり、あの時点から、事件が報道されるまでの間、私は彼女についての予備知識を持っておりませんでし
た。一般人たちのように、由良姫についての世間的なイメージしか存じませんでした。ところが、新聞から報道を読んだ
ら、もちろん事情が変わります。私が望もうと望むまいと、関わることになる可能性が十分にあると、考えました」
「ほほー、大した自信ね。私が必ず貴方の手を貸すことを予見したのだと?」
「いいえ。いいえ。一度は、そう考えたこともありました。と申した方が正確でしょう。ところが...」
上城が先よりも慎重な姿勢を取り、丹念に言葉を選んでいることに典子は気付いた。はてー、なかなか興味深い表現を
する。一度は?ところが?
「ところが、一週間の間にこの事件についての報道を集めて、その手の筋からも情報を仕入れ、総合して結論を出したと
ころ、今回の事件にはですね、探偵が手を加えるほどの隙はないと思えました。つまり、貴方が被害者の知人であるにせ
よ、きっと警察の出した結論に納得なさるのではないかと。従って、実を申しますと、藤堂さんから呼び出されたときに、
実に意表を付かれました。はて、貴方は一体全体、この事件について、私に何をお求めになるのでしょうか、全く推測し
兼ねているところです」
「なるほど、貴方のような人間を驚かせるとは、実に愉快なことではあるまいか。ふむふむ、私の納得していない理由か。
それについて説明するのはまだ早い気がする。しかし、これだけは言える。我々は今、非常に厄介な局面に置かれている。
お互いの持っているすべての情報を統合し、慎重に整理を行わなければならない。だので、最初はやはり順序を辿って、
貴方がその一週間の間に集めた事件についての情報を話して見よう。」
「では、各新聞の記事とその手の知り合いから訪ねって来た情報を総じてみると、だいたいはこんなところです。
アーティストの由良姫の自宅の一画として所有されている、高層マンションの屋上階で、体を十字架に縛られた状態で、
全身を焼かれた死体が見つかりました。
つまり、この由良姫が実際に住んでいるのがマンションの最上階で、屋上階は庭として利用されていて、プールや露天風
呂などが設置されてあります。
そしてまずは、死体が見つかった家の浴室の排水口あたりから、人間の髪の毛が発見されていました。その髪の毛から
もDNAデータが取り出され、死体のから採取されたDNAデータとの照合が行われました。そこ結果、死体と同一である
ことが判明されました。
従って、これでもう死体が部屋の持ち主ー和宮ユラ本人であることが推測されます。なぜなら、排水口から取り出した
髪の毛が他の人間の者だとうのは考えたにくいからです。
無論ご存知でしょうけれども、このDNAデータを使った身元確認にはもうひとつ、もっと単純かつ確実な方法があり
ます。つまり被害者と想定されている和ノ宮ユラ氏が今まで医療機関にDNAデータを残した履歴があれば、それと比較
したらすぐに死体が彼女であるかどうか判別が付くわけです。しかし、残したことのない人間も世の中にはたくさんおり
ます。今回の場合はそのケースに当たります。
そこで警察はもう一つの手段を取りました。和ノ宮ユラの姉、和ノ宮サラから、DNAデータを提供してもらいました。
これを死体のデータと照合した結果、死者は確かに和ノ宮サラの血縁姉妹であることが証明されました。そしてこのサラ
氏にはユラ氏の他に姉妹が居ません。従って、この事実は医療機関に残っているデータと一致するほど強力な証拠ではな
いにせよ、大切な意味を持つことに変わりがありません。以上が、DNAでわかったことの全てです。
ここまで来て、検死尋問ではもう、死体の身元が部屋の持ち主ー和宮ユラであることに、意見がまとまりました。
というところでしょうか?」
「なるほど、つまり、大衆向けの報道機関らは揃いも揃って、あの遺書の存在について言い及んでいないわけね?」
「その通りです」
「ほほー?ということは、新聞にはそれが書いていないのだが、貴方は知っているのだと?」
「無論。さきほど、新聞とその手の情報筋と申し上げました。つまり、警察が恥をかくまいために公開されていない部分
の事実も、私はある程度把握しております。しかし何せ、その手の筋というのは新聞社と違い情報の正確さに責任を取ら
ないから、情報に尾ひれが付くことも十分考えられます。ので、貴方が既にお持ちでいらっしゃる確かな情報と食い違っ
ているところがあれば、お手数ですが、そのたびにご訂正を」
「そこは意見の相違するところだな。情報屋は客に対して正確な情報を提供することによって信用を得るのに対して、新
聞はスポンサーのメリットになるような嘘を付くほど立場が保証される。むしろ前者の方が信用に値するのではあるまい
か?脱線した話は今日のところともかくとして、話したまへ、貴方の知っている、全てを」
「承知しました。では、とあるルートから、この事件が最終的に不起訴になったのにはもう一つの、公開されていない理
由があったと伺っております。それはずばり、貴女の仰った「遺書」とやらに関わる事柄で他なりません。
話によりますと、和ノ宮ユラが一週間前に帰宅してから、死体が見つかるまでのあいだ、家を出入りしていません。こ
の事実はビルの監視カメラによって保証されています。もし彼女が死体になってその十字架に縛られていなければ、何処
に消えたのでしょうか?そんな方法も理由もないはずです。
そしてこの一週間の間に彼女の自宅に訪れた男性が1人居ましたが、そのあと自殺をし、遺書で和ノ宮ユラを殺害した
ことを認めました。
ここに、この事実に関わる全ての情報が封鎖された理由があるわけです。要するに、和ノ宮ユラ氏の自宅で見つかった
女性の死体よりも先に、見つかったのが、この犯人と思われる男性の死体でした。男性の死体と共に見つかった遺書に、
和ノ宮ユラ氏を6日前に、彼女の自宅にて殺害したことについての陳述がありました。それを読んだ警察さっそくユラの
自宅に突入し、例の焼死体を見つけたという順序になります。しかも、それは焼死体が焼かれてから、少なくなくとも6
日間が経った時のことでした。そして、この男性の遺書がなければ、焼死体の発見がもっと遅れたかもしれません。ある
いは、白骨化するまでに見つからなかったかもしれません。この事実をもし一般人に知られたら警察の威信に関わると見
られ、表向きでは、繋がりのない2つの事件として報道されました。
それから、遺書には犯罪の過程の詳細についても書かれてありました。警察が現時点で確保しているあらゆる証拠と照
らしあわせたところ、すべて合致していて、疑う理由がとくに考えられませんでした。従って、由良姫の殺人事件は唯一
の容疑者の死亡により、不起訴で処理されたわけです。
という風に私は伺っておりますが、いかがでしょうか?」
典子はタバコを1口吸っては吐き出したら、しばらく黙り込んだ。過ぎた量で飲んだ精神安定剤が効いているにも関わ
らず、感情が動き出そうとしたからだ。人間として当然あるとされている機能が、どれか欠けているマイノリティがたく
さん存在していることを典子は知っている。たとえば、彼女自身の場合、泣くという機能がついているようには思えない。
感情が激しく動くと、めまいや頭痛がするのである。それらを堪えてから、典子は語りだす。
「その容疑者とされている男性、野口守弘も、私の知人であった。ユラ繋がりで知り合った人間の1人だった」
これから話さす番が典子のなるわけだが、話をまとめるのに時間がかかると見え、敏光はしばし思考に耽る彼女を見守
った。すると、5分間ほどしたら、典子はトラックパッドに指を当て、スリープモードに入っているモニターを灯らせ、
操作し始めた。プライベートに気を配ったためか、典子が要望するまでに敏光はモニターから目を逸らした。しばらくし
たら、2組のファイルを手に持ったメイドがノックをして入って来た。典子はその中から1組を取り、敏光に渡した。
「まずはそうだなー これを直接よんでもらった方が早い気がする。他でもない。野口守弘の遺書そのものだ」
典子の世間体を持ってすれば、これを手に入れても不思議はないと理解している敏光はさしあたりコメントを控え、読
み始めた。
これが何通目の遺書になるのだろうか。数える趣味はないが、おそらく二桁は軽く越えている。遺書を万全かつ正確に
書く義務を我々は持っていると自覚している。事情の知らない人物から浅はかな謗りを避けるためという自己防衛的な理
由もあるが、それよりも、物事は真実のままに、正しく評価されるべきであると考えているからである。
私がどういう人物で、どう言った経緯を辿ってここまで至ったのかについては、この文書を読む貴方たちにとってはお
そらく瑣事であるため、必要以上に言い及ぼさない。そう、貴方たちが関心を持っているのは、他でもなく、由良姫先生
に関わることで他なるまい。であるからして、彼女に関わる事柄について正確に記録して置くことこそが、私が現時点で
行わなければならない、そして最後に遂げなければならない義務であると認識している。
とは言ったものの、私の人生に於いて、先生に関わること以外に、赤の他人に語るほどの物語がないのもまた事実であ
る。M氏、貴方はまた私の行動と思考が度の過ぎたるストーキング行為にすぎないと非難するのだろう。貴方はとても考
えの明晰な人間であると私は評価し、信頼して来た。ところが、こと先生のことに関わる事柄だけは、貴方の意見に承服
しかねる。貴方はいつも、私は自らの考えを一方的に推し進めると言う。しかしそれは、先生相手だからこそではあるま
いか。私は貴方に対しては、貴方が明白な形で求めること以外は決してしなかったのではないか。しかし、先生が相手な
ら、そういうわけにも行かない。分かるであろう?先生は言葉では語らぬ。彼女の真実の言葉は、絵にしか込められてい
ないのだから。だからこそ、先生の求めることを、我々は聞くのではなく、感じねばなれなかったのである。感じて、考
えて、確信して、行わなければならなかったのである。それを、「自らの考え」であると表現している貴方の言葉は確か
に正しい、しかし、他に致し方があったのだろうか?
さて、M氏相手ならすでには不要なことではあるが、この遺書の読み手は彼女のみではあるまい。なので、必要最低限
な説明はさせてもらう。とは言え、順序を辿って丁寧にそれをすることがもはや叶わない。全ての事象にはそれが起こる
原因が存在する。その全てを辿って行けば、それこそバタフライ・エフェクトにかなるまい。なので、私の話を聞く気が
あれば、少なくても、私の最初に提示する幾つかの前提を、無条件に信用して貰わなければならない。私は途中から説明
し始めるしか方法がなかった。某作家のように十年の研磨を行った上でドグラ・マグラを発表するほどの物理的な条件も、
精神的な余裕も、私にはないのだから。では、お読みになってもらうとしようか。
由良姫先生は私の救いだった。精神が死にかけている己に、生への僅かな興味をお与えになったからだ。こう考えたこ
ともある。所詮私とは3年前に既に世を去った亡霊で、成仏するのをユラ先生の魔力によって留められたのである。
先生の「天上につながるスカーレス」を目にした瞬間に、私は蘇り、生命、いや、不死者の息吹を吹き込まれたのである。
従って、この私のことはまさにウツツに生きるモノノケそのものであり、たった一人、マイ・クイーンだけがために、生
きながらえているのである。
つきまして、救いだったユラ先生がそのまま、私の生きる希望へと変わった。エリザベス一世に仕えるフランシス・ウ
ォルシンガムになったつもりで、密かに誇りを感じる時期すらあった。M氏、私達が分かり合えたとは結局とうてい言え
なかったのだが、貴方との出会いも先生のお陰で、私の暗澹たる人生に与えられた、仄かの酬いで他ならなかった。私は
感謝せねばならない。貴方へも、先生へも、運命を司る神へも。ところで、M氏、先生の「リアル・ワールド」を知って
いる我々は、運命を司る神もまたユラ先生その人であって他ならないことを、とうの昔から認めたのではないか。ねぇ、
分かるだろう?私の表現したいことを。そう、つまり、先生こそが運命の女神でもあり、すべて(・・・)なのである。
さて、先生に生きる希望を与えられたこの私だが、いままでは恩義に応えるという義務感に準じてきた。この生き方に
なんの疑問も抱かなかった。そして私の働きにすぎるぐらいの報酬を、先生の芸術から頂いたつもりだ。この前の、「ア
ーシャ夫人」の件まで、はね。
M氏、私があれだけ悩み果て、貴方にも散々相談したアーシャ夫人の件に、突如として解決したことについて、貴方は
さぞかし不可思議に思ったのであろう。それも致し方あるまい。貴方にさえも、いや、貴方だからこそ、理解してもらえ
ないと思えたから、敢えて説明しなかったのだ。しかし、この場で申開きをして置かなければならない。次はもうないか
らだ。
私のアーシャ夫人が、なぜあんな無残な姿になったか。この問いについて、遂に私も、貴方も、答えを見出すことがで
きなかった。私が何かの間違いをしでかしたのだろうか。それとも、先生が何かしらの理由でこのような事をなさったの
だろうか。推し量りようもなかった。言えることはただ、今までの先生ならこのような絵を描くはずがなかった。理由こ
そ分からなかったが、少なくtも、これが先生の私に対するメッセージであるのに違いはなかった。このメッセージには
一つの解釈の致しようしかなかった。つまり、私に役を辞めて欲しいのだと。この点について、M氏、あの日、貴方も異
論をしなかった。従って、私はとても不可思議で、理不尽な気持ちで日々を過ごしていた。そしてまもなくしたら、あの
発表によって、私の全ての疑問が解かれた。
M氏、貴方にも分かっているはずだ。私が言いたいのは、先生と加藤英司氏の婚約発表のことに他ならない。恋愛感情
という物をあまり上品ではないと考えている貴方に、貴方だからこそ、私はこの解釈を話すことができなかったのだ。即
ち、私はこう考えたのだ。先生は盲目の恋に落ちたのであると。そのために、仕事が疎かになったのであると。そのため
に、私のアーシャ夫人が死んだのであると。そしてそれだけではあるまい。私の存在が将来的に、自らの恋路の邪魔にな
るかもしれないから、取り除きたかったのかもしれないと。
ここまで答えを導き出したら、もはや私にできることは一つしかあるまい。即ち、身を引けば済む話である。サンフラ
ンシスコの実家に戻るつもりだった。荷物をも整え始めた。
貴方にも何れ分かって来る日がくるかもしれないが、生きる意味と言うモノはね、いざ失ってしまえば、なんともない
ことだと分かって来るのだよ。相変らず、日々に感じる楽しみはあるし、良い作品を読めばさわやかな気持ちになること
ができる。むしろ背負っている荷物を降ろしたからこそ、感じることのできる楽しみだってある。私は以前通りに、いつ
旅立っても良いような、彷徨える亡霊に戻った。しかし私はこの事実にいささかな不満も感じなかった。いや、段々と、
感じなくなったのだよ。この物語は、私の絵描く物語は、ここで終わればよかったのである。
ところが、ところが、なぜあんな形で、あんなに突如に、あんなに早く、あんなに急激な変化が訪れたかは、今でもな
お私には理解できない。分からないが、それが、確実に、容赦もなく、訪れたのである。
「火の中の女」
あの絵が、発表されたのである。
火の中の女、ユラ先生が初めて絵で使う赤色。私がはじめて買った先生のあの絵、先生の魔法に掛かったきっかけとな
る、あの枝垂れ桜をも、ユラ先生は青色で描かれたのではあるまい。あぁ、いまでも思い出すよ、蒼くまばゆく花吹雪に
包まれるあの時の気持を。それはともかくとして、由良姫先生が一度も作品で本当の赤色を使ったことがなかったのは周
知の事実である。赤系があるとしても、落ち着いた深紅色にすぎなかった。それこそが由良姫先生のアイデンティティで
あり、「天上につながるスカーレス」にて、頂点に登られた、蒼き幻の世界のクイーンではあるまいか。実際にその「天
上につながるスカーレス」を自宅に飾っているM氏、貴方になら多くの説明も要るまい。ところが、その蒼き氷のクイー
ンが、何たることか、地獄から溢れ出た、燃え盛る赤き業火に包まれたのではないか。
評論家たちは皆こう語る。由良姫先生は婚約者の加藤英司との熱烈な情愛を描いているのであると。その解釈に、私も
一度は納得した。いや、今でもなお、赤き炎に他の説明はあるまいと考えている。ところが、彼らが、つまり評論家たち
が、見落とした一つのポイントに、私は気付いたのである。
即ち、火に包まれている女性が縛られている、十字架の存在である。すべての人の背負う原罪を、その身で引受、受刑
されたイエス・キリストのようではないか。この十字架の意義を、我々はどのように解釈すべきだろうか。間抜けにも、
評論家たちは見落としたのではないか。
M氏、先生の宗教信仰については、私などより、幼少の頃より共に育った貴方の方が余程知っているであろう。先生は
その姉君と貴方と共に、カトリック系の女子学院を卒業したものの、決してキリスト教の敬虔な信者であらせられるとは
思えなかった。現に、「リアル・ワールド」では、3人の女神を描かれたのではあるまいか。それらを、唯一なる神の三
位一体であると解釈することもできなくはないが、こじつけとしか思えない。従って、「火の中の女」に現れた十字架が
キリスト教に関連する何かを暗示しているように思わない。私は、それを見た通りに、即ち十字架ではなく、繋がれた2
本の木の柱というように仮説した。従って、それに縛られている女性、即ち先生ご本人を象徴しているその人が、背負っ
ている、受けている、感じているのは、原罪ではなく、ただの縛り、でしかない。さて、ここで、先生の感じる「縛り」
とは如何なる物だろうか、その実態を、M氏、貴方に推測ができないだろうか。いや、できないはずもあるまい。想像せ
ずに居られるとも思うまい。貴方の性格だから、それを認めることはまずないだろうが、心配はご無用だ。その必要が、
もはやなくなったのである。
よろしいかい?私が言い切って見せようではないか。2本の繋がれた木の柱というのは、即ち私たち2人のことで他な
らず、「縛り」とは、我々の、先生の芸術に対する追求であるとしか考えられない。
確かに、女は婚約者からの燃え盛る愛の火を求めている。しかし、2本の柱が存在するかぎり、女は縛られたままで、
火に溶け込もことはできない。そしてもしこの私の仮説を前提にして更に考えて行くなら、もう一つの疑問点に至ること
ができる。即ち、先生が求めていることは、本当に、縛りから開放であり、自由その物であろうか?何故なら、先生ご本
人が望むのなら、何時だって、誰からも、自由になることができたはずだ。そうであろう?去り行く先生、私も貴方も他
も支持者たちも、引き止めることができないはずだ。いや、引き止めようとする度胸のある人物すら存在しないと断言し
ようではないか。それなのに、先生は縛りの存在を示されたにも関わらず、それから逃れようとなさらなかった。
それは一体全体、どういうことであろうか?私が考えたところ、即ちそれは、愛の烈火も、縛りの柱も、必要である、
という解釈で、考えられまいか。従ってそれは、現状維持を望まれる、という意味ではないか、というところには、むろ
ん私は一度かんがえ至った。ところが、そういうわけには参らない。
私の「アーシャ夫人」があんな無残な姿を晒して、良いはずがなかった。そして、今回の「火の中の女」も、蒼きクイ
ーン・ユラ様の魔力によって凍てつかれてきた人間たちの心を、どれほどの数くだいたのだろうか。M氏、貴方にも
気付いたのであろう?我々のエリザベス様がもはやあらせられないということを。あの方による、我々のゴールデンエイ
ジには、もう戻れないということを。それでも、なおクイーンは自らをも、我々をも解放なさらないと宣言されたではな
いか。であるからして、残る道はもはや一つしかあるまい。わかるであろう?つまりー
我が王朝の崩壊の道連れに、共々、誰一人残らず、地獄の業火に焼きつかれ、塵に帰ることである。
これこそが「火の中の女」の本当の意味であると、私だからこそ、このように解釈したし、そしてM氏、貴方にも想像
が付かないわけがあるまい。貴方はきっと「待ち給え。正気の沙汰ではない。それだと説明がつかんぞ?ユラがなぜその
ようなことを望むわけ?加藤との婚約を発表したばかりではないか?これから華やかな婚姻生活が待っているのだぞ?」
と一般論で反論して来るのだろう。しかし、それで本当に良いのだろうか。先生に、一般論なんていう物が当てはまるの
だろうか?ニュートンの力学は確かに、天に飛ぶ鳥をも、海の底に蠢く深海生物をも、そのたった一つの制約にて支配し、
四世紀に渡って、人類の想像力にすらも限界を強いた。ところが、20世紀に入って見ればどうだろう。マクロとミクロ
の世界になると、それが全て通用するわけではないことが、分かって来たのではないか。言っておくが、貴方のその陳腐
極まりない一般論は、大ニュートンの力学の足元にも及ぶまい。マクロの世界をすらも内包されていらっしゃる、あのユ
ラ先生に、適うとでも思うのかね?
そんなはずはないことぐらい、M氏、貴方は知っている。私なんかよりは、余程、である。ところが、私もまた人の子
である。世間体を持っている貴方に、塵に帰ることを強いらない。
だからこそ、この覚悟以外に何も所有していない私が、そう聞いて、そう行った、のである。貴方にも、他のモノノケ
どもにも背負われるはずの原罪を引き受けて、参ったのである。
ところが、なんとも情けないことに、私には覚悟があったようだが、どうも鋼の意思の持ち主ではなかったようだ。ア
ハハハハハ、面目ない。燃え盛る地獄の業火を、本当の火を、目の前にしたら、私はなんたることか、飛び込むことがで
きず、尻込みをし、逃げたのではないか。ユラ先生を残して、私は、塵に帰ることがついできなかったのだ。モノノケだ
なんて大それたことを語っても、所詮この肉体は他の人間と変わらず、ただのやわな、有機物の集合体にすぎなかったよ
うである。その中に包まれている心も、クリスタルなどではなく、ただの腐り切った、屍肉であった。
さて、もうここまで語ったら皆様もお分かりであろう。この私こそが、6日前、4月14日の午後22時45分ころに、デ
ィラック・スカーレスの屋上階-由良姫先生の自宅のガーデンにて、先生を混迷状態にさせたあと、放火をし、先生を殺
害した張本人で他ならない。ところで、あれから六日間も経ったのにもかかわらず、ニュースがまだ報道されていないの
ではないか。
間抜けな警察ども、無関心な東京人ども、貴方達が穏やかな日常生活を営んでいる、この都市のはるか300メートル上
空に、地獄の炎が、何日間も燃え続けていたのではないか。聞こえぬかい?サタンの嘲笑い声が。アハハハハハ
さて、私はこれにて参らねばならないようである。壮烈な最後をついに果たすことができなかったものの、小心者の私
は自分らしく、密やかに逝くとしよう。この、許されざる罪を一身に纏い、その上、人間として最上級のみっともなさを
極めた、インプも嗤わずに居られない、私に、このさき、何が待ち受けているのか、楽しみではないか。残念ながら、貴
方達にはもうそれを観察する術がない。もしその地獄の情景を、この人間の生きる世界で、再現することのできる人物が
現れたとしたら、その人はきっと、ユラ先生の生まれ変わりでなければならない。祈っている。貴方達に、次なるゴール
デンエイジが訪れることを。
では
ウツツニイキルモノノケヨリ
典子に渡された遺書を読み上げた敏光はしばし考え込んだ。と言っても、一分ぐらいの間が過ぎたら、敏光はファイル
を畳め、典子に尋ねた。
「なるほど。状況の半分ぐらいは想像できたというところでしょうか。確認しなければならないポイントが多すぎるので
すが、まずは一つ。このM氏と書かれた人物は、もしかしたら...」
「その通りだ。Mは水戸の頭文字で、即ちこの私、水戸典子の略称で他ならない。この遺書は、半分の内容がまるで私相
手に描いた手紙のようだ。とんだ嫌がらせだ。分かるであろう?私はこれを破り捨てるほど、社会的責任感に欠けている
わけではない。いわば、巻き込まれたような立場だ。しかし、孤独に生きた彼のことだから、こうなったことも、予想こ
そしなかったものの、なってしまえば、納得はできる。私以外に語る相手が居なかったのであろう。そういえば、彼が私
に長文のメールを送る時には、いつもこのように、M氏と称していたな。あたかも、そう、私以外の人物に読まれる状況
を予想したかのように、だ。ナルシストだろうな。自分が主人公の悲劇に酔っていたと思う」
「なるほど、なるほど。それはたいへん興味深い事実ですな。その、貴方と第三者に対して、同時に語るところが。そう
ですね。今の時点でも、著しく興味を惹かれる印象を幾つか受けたのですが、それを申し上げるよりもさきに、やはり幾
つかの事項について、貴方から直接確認させて頂きたいのです。先ほどの遺書には、「」が付けられた、由良姫の作品の
名前、と思われるワードが幾つかありました。例えば、「リアル・ワールド」とか、「火の中の女」とか、「天上につな
がるスカーレス」とか。この「アーシャ夫人」とやらも、その中の一つと理解してよろしいですか?」
「なるほど、いかにも貴方らしい順序の辿った質問の仕方である。よろしい。では、逆に聞かせてもらうとしよう。貴方
は、由良姫について、どれほど把握している?つまり、彼女の世間的な評価から、絵の発売方式まで、それから買い手た
ちとの付き合い方をも、知っているのかい?」
「そうですなー、私がこのところ集めた由良姫についての情報は、ざっと要約したらこんなところでしょうか。
芸名ー由良姫の画家、つまり和ノ宮ユラ氏が、2015年にプロデビューをし、事件が起こるまでの7年間に渡ってアー
ティストとして活動をして来ました。およそ季節ごとに1作品、1年間に4作品、というペースで絵を発表しました。そ
して、自分の描きたい絵を1枚描いたら、オーダーの絵を1枚描きます。基本的にオークション形式での発売が行われて
いました。オーダーの場合はオーダー権が競い合わされ、落札者が描いてもらいたい内容を注文してから、由良姫が描く、
という形になりますな。それから、オーダー作品については、落札者が絵の出来上がりに不満があったとしても、由良姫
は一切し書き直しをしなかったという噂があります。オーダー主に不満があった場合は、オーダーはキャンセルとなり、
ユラ氏の描いた絵が再び一般作品として、オークションに再出品されることになります。
由良姫が活動した7年間の間に、オーダーキャンセルは1度しか起こりませんでした。落札者は、絵のクオリティーに
不満があるのはなく、「絵から揶揄の気持ちを感じる」と主張しました。それからも、ユラの人格についてひどく批評し
続けました。実際に、件の絵には道化師らしき人物が描かれていたようですね。もっとも、私は画像を確認したわけでは
ありませんが。もし、落札者の言い分通りに、自画像の依頼であった、というのが事実だとしたら、たしかに敵意を感じ
ますね。ところが、もともと由良姫の売りが、高潔なる人間性ではありませんでした。そう、むしろ、問題あってこその
由良姫です。それに、批評をしている落札者本人の世間的評判も決して芳しくはありませんでした。従って、このキャン
セルトラブルにより由良姫の評判が落ちることもなかったわけですな。むしろ道化師の絵が再出品された際に、由良姫の
支持者が意図的に操作したことか、元の落札者への挑発のためか、相変らず高額で取引されることになりました。」
この、敏光の、典子に気を払って、控えめな表現を選びつつも、要点に容赦なく突いて来る陳述を聞いて、典子は笑わ
ずに居られなかった。
「よせ。過ぎたことだ。確かにアレがならず者だったから、再出品された時に私と野口が遊んでやったのであったな」
「なるほど、なら、「アーシャ夫人」というのは、オーダー作品のことで間違いないですな?」
「えー、彼が発注したオーダーだった。それも、2年前にね。ユラがなぜ、彼のオーダーをずっと描かなかったのかにつ
いては、私も見当がつかなかった。オーダーを受けてから半年後に渡すのが条例だった。考えられるところは、「アーシ
ャ夫人」というオーダーの形式が特殊だったから、ぐらいだな。つまり、オーダーの仕方は人それぞれだが、その中でも
この「アーシャ夫人」というのがとびっきり奇想天外な物であった。なんでも、彼の好きな小説の登場人物ではないか。
その小説をわざわざユラに読んでもらって、ユラが脳内に起こしたアーシャ夫人のイメージを描いてもらった。というオ
ーダーだったようである。ところが、その出来は確かにユラらしくないと言わざるを得ない。なんと言えばいいだろうか?
そもそも、絵のクオリティーから、いつもの、由良姫の芸術に対する執着が感じられないのである。詰まるところ、上手
い人なら誰でもかけるような、なんの変哲もない、インパクトも美しさも感じない、人物の肖像画だった。全く予想もで
きず、そして理由も思い付かないこの事実に、むろん、野口は落胆したわけである。それから、彼が「アーシャ夫人」を
受け取った直後に、私を彼の自宅に招いた時のことも話して置こう。あなたなら興味を感じるかもしれないのでな。つま
り、彼は、「アーシャ夫人」の出来栄えに深く失望したものの、それはもしかしたら、彼にこの作品の素晴らしさを理解
できるだけのセンスが備わっていなかったかもしれないから、迂闊にユラの人格を非難することができなかったのである。
彼はどうしても、私という他人、それもユラの芸術にそれなりの理解を持っている第三者から、「アーシャ夫人」につい
ての客観的な評価が聞きたかったわけである。ここまでの経緯はまだ納得の行くところだが、違和感を覚えたのは、彼の
常軌を逸した慎重さだった。彼は、私を呼び出した時に、本当の目的を言わなかった。そしてわざわざ、午後に私を呼び
出しては、喫茶店で他愛もない会話をした。そして、夜中になったら、成り行き上かのように、私を彼の自宅に招いたわ
けだ。そのすべては、私が実際に「アーシャ夫人」を目にする瞬間までに、いっぺんの先入観も与えないためであった。
実際に彼の目論見は成功した。確かに私は、あの日の彼から全く落ち込んでいる印象を受けなかったし、彼が「アーシャ
夫人」の絵を気に入っていないという事実を、実際に絵を見るまで知らずに居た。従って、私は彼の望んだ通りに、私自
身の感性で、先ほど貴方に言ったように、「アーシャ夫人」の出来栄えはユラらしくもないと批評したのである。分かる
か?つまり、彼はそれだけ、恐れていたのだよ。ユラを否定することを。私という第三者が、それも彼から吹き込まれた
先入観を抱かずに、批評をしなければ、彼は自らユラを咎めることができなかったのである。それは芸術品を扱うコレク
ターとして可笑しいではあるまいか?自らの感性よりも、結局彼は、ユラの正当性を優先したのである。だいたいは、こ
んなところだろうか?」
典子は一旦話を切った。そろそろもったいぶらずに貴方の受けた印象を話してくれないか?と言わんばかりに、もどか
しげな顔をして、敏光と目を合わせた。
「なるほど。把握しました。では、率直に申し上げますが、私は、貴方の疑問を感じるところが聞きたいです。今までの
情報をまとめて、ざっと結論を出してみた限り、こんなところでしょうか。野口守弘という名の、絵のコレクターは、自
分の長年支持て来た芸術家ー由良姫、の作風が急変したことに納得が行かず、殺害した後に、自殺したのであると。ある
いは、野口守弘という男性は、長年慕ってきた女性ー和ノ宮ユラが婚約発表したことに、逆恨みをし、無理心中を図って
は失敗し、和ノ宮ユラ1人だけ死なせました。それから彼は和ノ宮氏の後を追い、自殺したのであると。どちらにしても、
筋妻は合います。警察の出した結論と矛盾している点があるとは思いません。即ち、和ノ宮ユラ氏が殺害された事件は、
唯一の容疑者と思われる人物ー野口守弘が、罪を認めた上で死亡したため、これ以上の調査を行う意義が存在しませんと。
さて、無論、貴方はこの結果に納得していないから、私をお呼びになったわけですね?では、逆に聞かせて頂きましょう
か?その疑問を感じるところは、一体全体、何処でございますか?」
「いや、だって、あのユラが、彼に殺されるような間抜けな人間じゃないよ?」
暫しの間、室内は静まり返った。典子自身も、自らの表現が合理性に欠けていることを理解している。しかしこうなっ
たのは、相手が結論を先に求めたからである。ここに至るまでの経緯を、未だに十分に説明していないから、結論を先に
言ってしまうと、突拍子もなく聞こえるのが至極当然のことである。であるものの、論議に於いては、ときとして、この
ような順序辿る必要があることをも、典子は理解している。構わない、今のところは、私のことを笑っているが良い。こ
の奇想天外を極めた事象の群れを、全て、観察し切るまでにね。と典子は考えた。
「ほほー、つまり
貴方は2つの疑問点を感じておられます。
まず、和ノ宮ユラが、本当に殺されたのでしょうか。死体がユラであることは本当に確実でしょうか。
次に、和ノ宮ユラが本当に殺されたとしても、それを行ったのは、容疑者の野口守弘でしょうか?彼にそんなことが、で
きたのでしょうか。
というところ、ですかね?」