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ハイライト  作者: にしおかナオ
13/18

10.Special Break!

それは、メンバー登録締め切り前日のこと。


「何でだ!俺は聞いてないぞ」


「あんたが聞いてるかどうかなんてお呼びじゃないのよイワシ頭。さっさと戻りなさい」


「野球部だけがグラウンドを独占していいはずがない!そんなこたぁ許されねぇぞ」


「大会が近い時は、お互いにグラウンド使用の権利を融通し合う、それがウチとサッカー部の長年続く盟約なの。あんたはもちろん、あたしにだってこれを破る権利はないもの」


秋季大会を1週間前に控えた日の練習前、野球部の部室に突如現れた香川翼は、大会前の強化練習のために野球部がグラウンドを独占することに対して文句をつけに来た。


一人たちがせっせとスパイクやグラブの準備をする横で、みちるはそんなクレーマーの対応に頭を悩ませていた。


「ウチのサッカー部と野球部の実績を比べてみやがれ!毎年県大会でベスト8以上の成績出してるウチと、万年予選止まりの弱小野球部とだったら、どっちを優先しなきゃいけないかはすぐわかるだろうがっ!」


「あんたには日本語が通じないみたいね、いい?成績が全てじゃないの。それに、あんたは難癖つけてただ野球を否定したいだけじゃないの」


「難癖じゃない!サッカーこそ――」


「もう聞き飽きたっつってんの!」


部室の長机をみちるがバンと叩くと、翼より周りの部員たちがびくりと跳ねた。






「あぁ!翼!やっぱりここにいた!」


この騒がしさを聞きつけてか、弘美が部室の入り口からひょいと顔を出し、慌てて翼を引きずり出そうとする。


「ダメだって、グラウンドのことは先月の運動部会でとっくに決まってることなの。1年生が話をややこしくしない。みなさんほんとに、ほんとにごめんなさい!」


弘美は半ば羽交い締めのような格好で翼を抑える。小柄な翼の背丈は、弘美と同じくらいだった。


「離せ弘美、グラウンドのことだけじゃないぞ、この前の絵里ちゃん強奪の件だって、俺はまだ納得しちゃいないんだっ!」


強奪とはこれまたぶっとんだ言い草だ。誰も強制した覚えはない。


「翼!あんたいい加減にしなさい、ガキじゃないんだからっ!」


弘美の愛嬌あるたれ目が、今にもつり上がりそうになる剣幕を目の当たりに、翼は小さくちくしょうとつぶやいてようやく静まった。


しかし、この後のみちるの一言がいけない。


「ふん、なによ文句だけはいっちょ前に。逃げてばっかりのクセに」


「おい、今なんて言った」


消えかけた火に、再び油をぶちまけた。


「何度でも言うわよ。サメから逃げてばっかりのマイワシくん」


「俺は逃げてねぇ!」


縄張りを侵された猫が全身の毛を逆立てて相手を威嚇するかのごとく、翼の周りの空気が殺気立つのがわかった。


そして何故か慌てる真人。


「ばかっ、みちる!その話はもう――」


「逃げてんでしょうが、あんたは。何年も何年も目をそむけてあたしたちから。ううん、野球から!」


野球から逃げる?なんの話なのか、一人には思い当る節がなかった。


「そのクセ文句ばっかり、当てつけ以外の何物でもない。相手をおとしめることでしか、自分の存在を誇示できないおくびょう者よ!」


「みちる!」


真人の静止に、優も同調する。どうやらよほど翼の神経を逆なでしているらしい。


翼は握りしめた拳をぶるぶると震わせながら、体の穴という穴で必死に呼吸を整えているようだった。


「つ、翼……?」


そのあまりの剣幕に、弘美も固めた腕を思わず離した。


「やってやるよ……」


翼はぼそりとつぶやく。


「俺は逃げてなんかいねぇ!あぁっ、やってやるとも!」


震える手で真人を指さし、震える声で言う。


「真人、勝負だ!お前のへなちょこな球なんぞ、今度こそぶっ飛ばしてやる!」


今度こそとはどういうことだ。


「待った」




「そんな勝負、どうせ結果見えてるわよ」


「なんだと!」


これ以上翼の神経を逆なでしてくれるな。周りの総意だったのだが。


「だから、あんたの土俵で勝負しましょ?」


この一言に、自分は関係ないと無視を決め込んでいた部員たちまでギョッとしてみちるを見る。


「サッカーよ、サッカー。好きでしょ?」


「で、勝負することになっちゃったの?」


「そう。こっちは止めに来ただけだっていうのに、とばっちりもいいところね」


「やっぱり、あたしが野球部に行きたいって言ったから――」


「違う違う!絵里は何も悪くないんだから。悪いのは全部あのバカ。ほんとに周りが何にも見えなくなっちゃうんだから」


野球のユニフォームを着た一団が、グラウンドでせっせとサッカーボールを転がし、付け焼刃の練習をしているというのは何とも滑稽な絵面だ。


少し離れたベンチに腰掛けて、図書委員の仕事を終えてきた絵里、弘美、そしてみちるはその様子を眺めている。


「……みちるさん」


絵里はおそるおそる腕組みをして涼しい顔をしたみちるに声をかける。


「ん、なに絵里ちゃん」


「今回はちょっとやりすぎだったんじゃ」


「うん、今さらだけどそう思う」


意外にも素直な回答をしたみちるに、仲良し2人は目を丸くした。


「あたしもまだまだ子どもねぇ、翼なんか同じ目線で話したってムダだってこと分かってるのに」


「案外似たもの同士なんじゃ――」


「だいっっっっっきらい!あんなやつと仲良く野球してた時期があるってことを思い出すだけでぞっとするわ」


弘美がたしなめるのを遮って、顔をくしゃくしゃにするみちるには不思議な愛嬌がある。


絵里と弘美はそんな彼女を前に、顔を見合わせてくすくすと笑った。


転がってきたサッカーボールに右足を乗せ、期待の超新星は言い放つ。


「いいか、勝負は3回だ。俺がお前たちを抜いて抜いて抜きまくって、3回連続でゴールを奪えば俺の勝ち。グラウンドの独占権はサッカー部が頂く!しかし一回でも俺をお前らが止めるか、ゴールが決まらなければお前らの勝ちだ。煮るなり焼くなり好きにしろ!」


つまりこういうことだ。翼ひとりのオフェンスに対し、野球部員17人のディフェンスが立ちふさがり、ゴールを守る。この連続を3回行う。


ただし、みちるとの契約の条件にないということで、丈二は早々にこの勝負から抜けた。従って野球部は16人。


一見、翼が圧倒的不利に思われるような条件に、部員たちは軽々しくこの勝負に乗った。


勝ったところで何のメリットもないとはいえ、翼は一方的に野球部を馬鹿にしてきた敵だ。一泡吹かしてやりたいという思いは誰しもあった。この有利な条件がそんな思いに拍車をかけた。


しかし、現実はそう甘いものではなかった。






「ゴォォォォォォォーーーーーール!!」


第一ラウンドはあっさりと翼の勝ち。


キャッチャーなんだから、これも出来るだろと勢いでキーパーを任された一人も全くもって反応できない絶妙なコントロールで、ボールはゴールの右上すみにすっぽりと吸い込まれた。


参ったな、全く動けなかった。一人は苦笑する。


「見たかぁ、野球部の俗物どもぉ!これがサッカーの力だ!」


サッカーやってるんだからサッカーの力なのは当然だろうと、野球部一同心の中で突っ込む。


しかし、翼の巧みなボールさばきで左右に翻弄された16人は、まだ最初だというのに半分以上が両のひざに手を置いてうなだれていて、声を出す元気もない。


優なんかはもうその場にへたり込んでしまいそうなほどぶるぶるに汗をかいていた。


「フィジカルに、差がありすぎるな」


一瞬の機敏な判断が求められるサッカーの免疫が、自分たちにはないことを一人は痛感させられる。


そして何より周辺視野の狭さが致命的だ。


体育の授業レベルの相手ならいい。しかし相手は高校級のなかでもトップクラスのスピードと技術だ。


おそらく、サッカー部にいきなりバットを持たせて真人の球を打ってみろと言うのと感覚は同じだろうと理解した。


間髪いれずに、第二ラウンド。






ラウンドが変わって、野球部は対策を練るどころかさらに内容が悪化している。


何人も重なるようにボールを目指す守備には規則性がなく、浮足立ったにわとりの群れのようで、右往左往を繰り返す。


その間を、さくさくと縫ってあっという間にゴール前に辿り着く翼。


ボールが足に張り付いているように見えるのは、彼の技術が本物である証拠だろう。


ここは、自分が何とかするしかないか。


慣れない状況ながら、一人は活路を見出すべく頭を働かせる。


下らない勝負ではあるが、勝たなければグラウンドが使えなくなるかもしれないのだ。それは何としても避けたい。


「真人!正面で張り付け!考先輩、優!後ろで左右をカバー!」


即席でフォーメーションを組んで相対するものの――


「ムダムダァァ!」


絶叫しながら翼はボールを足の甲に乗せ、ひょいと浮かせて三人を瞬時に抜きさると、ループしたボールは翼のもとへ引き寄せられたようにやって来る。


好かれてるな、ボールに。


有名なサッカー漫画の主人公のセリフが一人の脳裏をよぎったときには、二発目のゴールがネットを揺らしていた。


「てんで相手にならねぇぞ野球部!そんなんで甲子園なんか行けるわけねぇだろうがぁ!」


そりゃサッカーが上手くても甲子園には行けない。また突っ込みたくなるところだ。


超新星はもう勝った気でいるらしい。華麗にリフティングを繰り返しながら白い歯をのぞかせた。


「作戦、作戦変更だ!」


一人は部員たちを集めて体制を立て直す。もともと考えなしで守っていたのだから、変更もなにもないのだが。


「どんな手使ったって無駄なんだよう!」


後ろで翼が騒ぐ中、一人は冷静に作戦を伝えた。野球に比べれば実に乏しいサッカーの知識を振り絞った策だ。


第三ラウンド、開始。


相変わらず真っ向から突破しにかかる翼に対し、野球部は一人を除く15人を3人5組に分けて縦に列を3つ構成する。


「ゾーンディフェンスのつもりか!バスケじゃねぇんだよ!」


1組目、2組目と難なく抜き去る翼、その足取りにブレはない。


3組、4組、5組と、そのまま順当に抜き去っていく。


「さぁ!残すはゴールだけ――」


ハーフウェイラインを越えたあたりでゴールだけに目標を絞り、翼がアクセルを踏み込もうとしたとき。






翼の視界はまだ遮られる、3人1組の野球部によって。


馬鹿な、もうディフェンスは全部――


翼の前に立ちふさがるのは、最初に抜き去ったはずの1組目だった。


これまで抜かれた者はただ翼の追いつけない背中を追いかけるだけだった。


しかし、システマティックなディフェンスの壁を何枚も並べることで抜くために必要な時間を稼ぎ、その間に抜かれたグループは翼の前に回り込んで再び立ちふさがるというローテーションを組んでみせた。


結果、抜いても抜いても次から次へと倒した敵が前に立ちふさがるという図式が出来上がった。


「ゾンビかてめぇらはっ!」


ローテーションを繰り返すたびに野球部は息を切らして足どりが重くなるが、それでもボールに食らいついていく。


翼の言うとおり、さながらゾンビだ。


軽快なボールタッチでゾンビをなぎ倒していく翼だったが、やはり同じことの繰り返しにはほころびも出る。


飛び込んだ真人の足に、わずかながらボールが触れ、浮き上がる。


「くそがっ!」


しかし翼はうまく胸で浮いたボールを落ちつかせ、再びループで真人を抜く。


しかしこれなら、いけるぞ。


翼の足にひもでもついているのかというほど、ピッタリと彼に寄り添って離れなかったボールが少しずつ、その距離を離し始める。


「無駄な小細工を……しやがってっ!」


半ば体当たりのようにボールを奪いにかかる野球部をかわす翼も息が荒くなり始める。


しかしそこは流石というべきか、15人にかわるがわるまとわりつかれようと着実に彼はゴールに近づいてきて、もうペナルティエリア手前まで迫っている。


ひとりに大多数が群がってボールを奪おうとするこのスポーツは、はたから見てもうサッカーには見えない気もするが。


そして翼はやっとのことで5組15人の壁を全て突破し、ついに視界をクリアにして見せる。


後ろには走り回った死屍累々が千鳥足でそれでも翼の背中を追おうしているが、ふらふらと前に進めない。


やれやれ、万事休すか。


一人は一度両手をぱしんと合わせて翼と対峙する。しかし相当スタミナと集中力は削いだはず。放たれるシュートの精度も――


「劣るはずだっ!」


翼渾身のシュートが蹴りだされた。


ボールは確かに放たれた。


しかしそれは、ゴールの枠を捉えるどこか、それに十分な距離すらも届かなかった。


その原因はシュートを放った直近の足もとにあった。


全身の力を込めて打ち抜いたシュートは、間一髪で飛び込んだ野球部員の顔面にダイレクトヒットしたのだ。


一人を始め、野球部と翼はその光景に絶句する。


顔面ではじかれころころと転がったボールは、キーパー一人が造作もなく拾いあげた。


顔を真っ赤にしてその場に大の字に倒れ込んだ、井上道を見下ろしながら。


両鼻からは鼻血が出て、白い肌に赤い筋をつくっていく。


「いのちゃん!」

「道!」


離れたところから戦況を見守っていたみちるたちも一目散に駆け寄って、道を抱きかかえる。


「いのちゃんなんて無茶を。ボールから目を離すなとは教えたけど、サッカーボールはいいのよ」


少しやりすぎた、そんなみちるが吹っ掛けた勝負で、自分の”愛弟子”がよもや犠牲者になろうとは。


みちるは今にも泣きだしそうな顔で、持っていたハンカチを使い道の鼻を抑えた。



道の色白な肌は次第にボールの衝撃で全体的にじんじんと赤く腫れてくる。


それでも彼は、自分を覗き込む皆の顔を目で見まわし、笑顔を作って言った。


「僕には、皆さんの役に立てること、今はこれくらいしか、ありませんから」


鼻を抑えられたまま鼻声でいう道に、部員たちは彼の入部当初、彼を内心馬鹿にしていた自分たちを恥じた。


この部のことを一番純粋に考えていたのは、きっと彼なのだと気付いたのだから。


「グラウンド、使えなくなっちゃったら、困ります、もん、ね……」


「道!!」


笑顔のまま気絶した道に、誰もが声をかける。命がついえてしまったかのような叫びようだが大丈夫、気絶だ。


みんな、いのちゃんを保健室へとみちるが指示すると、野球部総出で彼を搬送して行った。


もう勝負に勝ったことなど、その場にいるほとんどの者が忘れていた。


「さてと――」


この場に残ったのは、一人、真人、みちる、そして一転敗者となってしかも部員をノックアウトさせてしまった、ばつの悪そうな超新星がひとり。


さっきまでの大見栄はどこへ消えたのか、彼はただボール一点を見つめたまま、所在なさげにリフティングを繰り返していた。


「煮るなり焼くなり?なんて言ったんだっけ?」


みちるがしぼみ切って黙る翼に詰め寄った。しかし翼は一瞥もせず球をいじりを続ける。


「なんとか言いなさいよ。あんた都合が悪くなったらまた――」


ここぞとばかりに翼を責め立てようとするみちるの口を、すっとふさいで近づいていったのは、真人だった。


「なぁ翼、もういいだろ?」


言いながら真人は翼の足もと近くにしゃがみ込み、彼の顔を覗き込みながら言う。


「お前が俺たちと野球しなくなって、サッカーやって、俺たちが素振りやキャッチボールしてる間そうやってリフティングしてドリブルしてたことはよく分かったんだ。俺たちを見返したかったんだよな」


一人にも、少しずつ状況が読み込めてきた。


「お前は、逃げたんじゃない。違う居場所を見つけただけだ。それを俺たちは馬鹿にしたりしない。みちるだってもう――そうだろみちる!」


真人が半ば強いて同意を求めると、みちるはむすりとしながらも、もともとあたしはそんな気なかったものと小さく毒づいた。


「だからよ、翼。こんな意地の張り合い、もう終わりにしよう」


翼はリフティング続けていた足を止めた。


真人の言葉は、長年の幼なじみを心から気遣う優しいものだった。


翼と同じ様に、スポーツに関しては不器用なまでに真っ直ぐで図太い父に、こんな繊細な言葉をかける一面があったことに、息子は内心驚いた。


「翼、お前はサッカー部で国立のピッチを目指せ。俺たちも甲子園を目指す。お互い道は違うけど、お互いの実力は、思いは分かってる。それでいいんじゃないのか?」


マウンドで一人のサインに頷くときと同じ様に、真人はニッと歯を見せていたずら小僧のように笑った。


翼はうつむいた。くちびるを震わせ、拳を震わせ、まぶたを震わせた。そして――


「あぁ、あぁ、あぁ、もう!これだ!こういうお人よしな奴だから俺はお前のことが嫌いなんだっ!お前だって、あの冷徹女くらい単純でいろよっ!サッカー馬鹿にしろよっ!嫌いでいりゃいいんだよっ!なんで、歩み寄ったりするんだ。なんで仲間はずれのままにしないんだ。なんで、なんで――」


文句と共に超新星からこぼれ出たのは涙だった。


「俺に優しく、するんじゃねぇよ――」


「おい冷徹女!」


翼は食いしばった歯をほどいて、みちるに言った。


「俺を、野球部に入れろ」


「はぁ!?」


これまでの彼の野球批判が、みちるとの犬猿の仲が、目指すはずの国立のピッチが、いっぺんにひっくり返った瞬間だった。


これにはしゃがみ込んで笑っていた真人もあっけにとられる。


「でっ、でも翼お前サッカーは――」


「辞める。部はな」


そんなにあっさりと辞められるものなのか。この思い切りの良さは一体どこから来るものか。


「お前らに違うスポーツで競ったって意味がねぇ。そんな甘っちょろい言葉かけてうやむやにするくらいなら、もう一回正々堂々と勝負してやる」


一人は目を丸くして動けないみちると真人をしり目に、内心ガッツポーズをしたい心境だった。


「いいか真人、甲子園なんて行って当たり前、通過点だ。プロだプロ、ドラフトで勝負だ。ドラフトでお前より上位で指名されてやるよ、絶対にだ」


まだ状況を飲みこめない真人だったが、先ほどよりも柔らかくなった自分に向けられるまなざしを受けて、おうと一言返した。


長年離れていた距離を縮める大きな一歩が、ここに踏み出された。


*


全国高校野球 某県秋季大会ブロック予選 


東ブロックC組 第6試合


県立稲嶺 × 私立総陵


4 対 4


9回ウラ、稲嶺の攻撃


ツーアウト、ランナーなし


『稲嶺高校、選手の交代を申し上げます。8番、西上くんに代わりましてバッター、香川くん。背番号、18』


誰もが延長戦突入の準備をしていた最終回、突如現れた自称救世主は、元サッカー部の超新星だった。


例の変則サッカーから1週間、彼は全く練習に顔を出さなかっただけに、大多数の部員がどうせハッタリだったのだと気にも留めていなかったのだが、彼はこの土壇場になって現れた。


みちるの言うとおり、影からこんな展開になるのを息をひそめて待っていたのではないかというほど、彼の登場は予定調和だった。


あんな奴野球部にいたっけかなと、市村がのんきなことを呟きながら審判に代打をコールして戻って来る。


他の部員の名前だって、満足に覚えていないだろうに。


「先生、お疲れ様です。もう寝てても大丈夫だと思いますよ。悔しいけど」


みちるは何とも複雑な思いを抱えた表情で市村に言った。


「ん、彼がホームランでもかっ飛ばして終わりにしてくれるのかい?そりゃ早く帰れてありがたいね」


「いえ、あのバカにそんな腕力ありません。でも――」


普段あれだけ馬鹿にしていても、嫌っていても、今目の前で素振りをする魚屋のせがれは、仲間なのだ。


そして不本意ではあるが、彼の実力は幼なじみのみちる自身が一番よく知っている。


「見ていてください。すぐ終わります」


みちるにはその確信があった。


それすなわち、勝利の確信が。


初球だった。


相手投手の様子見の一球を、翼は間髪いれずにインパクトした。


高くバウンドした打球は三塁の正面へ。


総陵、客席のみならず、稲嶺のベンチまで、それは何の変哲もない凡打だと思った。


何だ、全く期待外れじゃないか。


しかし、三塁を守っていた光は投げられなかった。


正確には、投げるのを諦めたと言ってもいい。


光がゴロを待ち構え、捕球したときにはすでに、彼は一塁を駆け抜けていたのだから。






速い。


「おいおい光、投げて来いよ拍子抜けな奴だなぁ。ったく守備下手は相変わらずかぁ」


ベースの上でぴょんぴょんと高く跳ねながら翼が軽口をたたくと、光は小さくを舌打ちをする。


サッカーの道を突き進んでいると思って疑わなかった幼なじみが、何の経緯かまた自分と同じ土俵に立っている。


みちる、真人、稲嶺で何があったんだ。


光は試合をほっぽりだして相手ベンチに尋ねたいところだった。


9番打者が打席に入ると、一塁ランナーの翼はあからさまに大きなリードをとる。


その大きさは牽制が入って、頭から滑り込んでもぎりぎり戻れるかどうかというドでかいものだ。


二塁までの距離の4分の1は出ているのではないか。


「先輩!あいつ走りますよ!50m6秒前半の俊足です!」


光は三塁から、自分の持つ翼の情報をマウンドの投手に叫ぶ。


肩越しに翼をちらちらと見ていた総陵のエースは、光の忠告に従って1球素早い牽制を入れる。


しかし牽制球をリリースする瞬間には、翼はすでにリードの半分以上を戻り、頭から難なく帰塁する。


「無駄だって、そんなふぬけた牽制じゃ」


ユニフォームについた砂埃を払いながら、翼は実に愉快げに言う。


彼は足が速いだけではない。




反射神経が鋭いのだ。




その後続けて2度の牽制球も、翼は難なく戻る。頭から滑り込んだあと、ひょいと飛び上がって立ち上がる様は、嬉々としているようにみえる。


投手がランナーに対し牽制をする意味としては通常、ランナーの逆をついて誘いだし、アウトを奪うことはもちろん、ランナーに盗塁の意欲を減退させ、そのリードを小さくさせる意図がある。


しかし、この男にそんな理屈は通用しない。


「おいおい、もう牽制しないのか?待ってるんだぜ俺は」


大きくなっていくのだ。リードが。牽制を受けるたびに。


それは普通の野手が一見するだけでは分からない差ではあるが、ランナーの動きを敏感に察知する投手の視点からすればよくわかってしまう、ほんの10センチの差。


投手の心理は揺れ、乱れる。なぜだ、牽制してるんだぞ、怖くないのか。


もちろん翼は意図してやっている。この揺さぶりを。


真人が嫌がる揺さぶりを研究しつくした結果得た、彼独自の技術だ。


牽制か、投球か、牽制か、投球か、バッテリーの判断はかき乱されていく。


たまらず総陵エースはタイムを要求し、マウンドをならして心を落ちつかせようとするが――


「よっしゃ、次、走ろーっと」


独り言を下手に装った背中越しの声は、落ちつきかけた投手の心臓をぎゅうと握って離さない。


はったりだ、そうに決まってる!


投手はようやく9番への第1投を投げ込んだ。



ヨーイ、ドン。


投手が地面からその左足を離すより前、投球モーションの初期微動を察知しただけで、翼はスタートを切った。


「ボール!」


高く、大きく外れたボール球。そんな球をキャッチャーはすぐさま二塁へ――


投げられない。


立ち上がり、肩を大きく上げたときにはもう、彼は二塁に悠々と滑り込んでいた。


盗塁、成功。


彼の両眼は、投手のかすかな動きを見逃さない。そのわずかな信号をすぐに両足に伝達する卓越した運動神経の持ち主なのだ。


「クイックモーション※出来てなさすぎ。だからさ、サッカーの方が面白いんだって」


何食わぬ小ざっぱりとした表情で彼はつぶやく。


「ディフェンスの動き見切るより、全然簡単なんだよ」


もしかして奴は、こんな日のためにサッカーをやってきたんじゃないのか。


相手だけでなく、稲嶺ベンチを驚愕させるスピードを前に、部員たちはそんな仮説を立てずにはいられなかった。




※クイックモーション…ランナーの動きを封じたり、打者のタイミングをずらすため、投球の動作を出来るだけ小さく、速く行う技術。


衝撃は、終わらない。


今度は牽制球なく、打者との真っ向勝負を挑んだバッテリーだったが――


彼は走った。


三盗だ。


全くもって予期していなかった奇襲に、バッテリーは為すすべもなくこの盗塁を許してしまった。


一塁ランナーが、わずか2球で三塁ランナーに。


どんなバッテリーでも数ある場面をシュミレートするのは当然のことだが、誰がこんな速攻を予期できるだろうか。


「なんだ、また刺してこねぇのか。まったく拍子抜けな連中だな。こんなのに苦戦してるなんて情けねぇ」


その意表を突いて仕掛けてくるのがこの男だ。


「よう光、久しぶり。お前に会いたくて一塁から来てやったよ」


招かれざる客人を前に、三塁手の光は渋い顔をしてそうかとだけ答える。


「お前間違った情報先輩に教えちゃだめだろ。あとでちゃんと言っとけよ?」








「あの俊足君は50メートル6秒前半じゃなく、5秒台でしたってな」


香川翼にはイワシ並みの脳みそしかないなど、悪い冗談である。


彼は一人と同じく、人間の反応を察知し、裏をかくことの天才だ。


少々粗野で、感情を処理できないのが玉に傷だが。






翼の術中にはまった総陵エースは、完全に自律を失う。


ランナー三塁となって、もう盗塁の心配は皆無と言っていいにも関わらず、相変わらずドでかいリードを取り続ける翼に頭を悩ませた。


目の前を、ひょいひょいと軽いフットワークでちらつかれると、キャッチャーミットではなくどうしても三塁に目が行ってしまう。


牽制球を入れるも、相変わらず効果なし。むしろリードが広がって、事態を自分で悪化させているかのような錯覚に陥る。


「ピッチャー!バッター勝負だっ!」


キャッチャー、そして内野から声が飛ぶ。しかし混乱したエースの耳には届かない。


ホームスチール?そんなことできるはずない。しかしこの俊足ならあるいは――


無用な心配が頭をめぐり、制球が乱れる。


証拠に、何としてもアウトを奪い、延長戦に持ち込みたかった9番打者を早々にフォアボールで歩かせてしまった。


そして回って来た。この回どうあがいても回ってこないと思っていた男に。




『一番、キャッチャー、矢野くん』



ツーアウト、ランナー1、3塁。


一打、サヨナラの場面。


「優等生!還さなかった承知しないからなぁ!」


三塁から飛ぶのは励ましの声か、それともいつもの軽口か。


何にせよ、ここで自分が仕事をしなければならないということに変わりはない。


一人はいつもよりもしっかりと、グリップを握りしめる。


力んじゃ、ダメだな。


肩をストンとおとして一度大きく息を吐き、みちるのサインを見遣る。






――ほう。







なるほど――







――おもしろいじゃないか。




初球、一人はバントした。



セーフティバント――



いや、翼が本塁へ全速力で走り込んでくる。



これは――



セーフティースクイズだ。



そんな馬鹿な――ツーアウトだぞ!?



総陵ナインの度肝を抜いた打球は、三塁線に切れるか切れないかの絶妙な転がりを見せる。


普通にヒッティングでくると思って疑わなかった定位置守備のピッチャー、サード、ショートが慌てて前に突っ込む。


対応が遅れた。一塁は間に合わない!


なら、突っ込んでくるランナーを――!


マウンドを降り、投手が球を掴む刹那、目の前を駆け抜けるランナー。


間に合うか――


すぐさま、キャッチャーめがけてトス。


球はランナーよりわずかに早くキャッチャーのミットへ。



間に合った!



ダメか!



ベンチそれぞれの思いが本塁でぶつかり、交錯する。



球を携えたキャッチャーは間一髪のところでランナー翼と対峙する。


そのスピードでは引き返せまい、あとはタッチするだけ――





この男相手にその油断が、いけない。






待ち構えるキャッチャーを前に、翼は軽く身をかがめる。


コイツ、体当たりか?


そんな雰囲気を匂わせながら、体を左へと傾け内側から突破を図りにかかる。


と、見せかけて――



瞬時に傾けた体を右へと戻し、外側に回り込むようにして翼はキャッチャーの視界から消えた。



――フェイント?しまった!



フェイントであるという認識を持つのは必ず、そのトリックにかけられたあとだ。


もう、遅い。







「ゴォォォォォォォォォォーーーーーーーーーーール!!」





審判のセーフの宣告をかき消してしまいそうなほどに大きな雄たけびがグラウンドにこだまして、稲嶺ベンチから部員たちが飛び出した。


キャッチャーのブロックを見事にかわし、滑り込んだ超新星の左手は、しっかりと大金星を呼び込むホームベースに触れていた。


5 対 4


県立稲嶺の劇的なサヨナラ勝利だ。



「キーパーがフォワードに抜かれちゃ、世話ねぇな」



大喜びする部員たちにヘルメットをばんばんと叩かれながら、翼はこの日最高の笑顔を見せて言った。



見事セーフティスクイズを決めたもうひとりのヒーローは、その光景を眺め、これで翼が晴れて野球部の一員になれたことに心の中で拍手を送りながら、小走りで輪に加わっていった。


「早かったな」


「そうですね、速かったですから。あいつにおいしいところ持っていかれるのは、しゃくですけどね」


部員たちが飛び出し、いきなり閑散としたベンチで、みちると市村が二人。


「ったく、早く終わるのはいいが、僕はこれでまた来週も引率じゃないか」


「いいじゃないですか、これで新聞の取材が増えますよ、”名監督”?」


「……目ざといな君は」


みちるがじとりとした目で市村を見据えると、さすがの彼もばつの悪い表情で目を泳がせた。


「君たち知ってる?僕たちの部活手当。1日2000円くらしか出ないんだ。これじゃ一杯ひっかけて帰るくらいしかできないんだぞ」


「きっと勝利が何よりのさかなですよ」


「君はどうも不思議な子だな、本当に高校生かい?」


「ええ、わけあってちょっと早く大人になりたいだけです。まぁ見ててください先生。先生にはこのまま、甲子園まで引率してもらいますよ」


「ふん、そのころには部活手当で指揮棒買えるくらいにはなるかね」


市村が相変わらずの気だるそうな表情なまま、ひょいと両手で指揮をしながら拍を刻むと、みちるはええきっと、と付け足してくすりと笑った。



*


【一層、突破】


【波乱再び 総陵飲みこむ】


【快進撃 稲嶺の奇策光る】


その日の新聞各社の朝刊を、ふたばぁは出来る範囲で全て集めてくれた。


紙面にはようやく相手チームの名と対等に稲嶺の名前が踊り始めている。


「どうだ、お前は未来を変えているのか?」


激戦の翌朝、目の前でたばこふかしながら、ふたばぁは一人をからかうように言う。


彼女の足元ではラルドが朝食のツナフレークにがっついていた。


「正直、わからないんだよ」




「意外だな。ここにいると決めたからには、自分の存在意義をそこに見出していると思ったのだが。疑いなくな」


「疑いだらけだよふたばぁ。自分が本当に未来を変えられている実感なんて、その場では噛みしめられるものでも、いざそれが新しい現実として自分の感覚に馴染んでくると、どんな選択が正しいのかすら不安になったりする」


「こればかりはタイムトラベラーでなければ分からない心情だな」


各紙のスポーツ欄一面、小さくても二面には昨日のサヨナラ勝利を決定づけた翼の劇的なクロスプレーが取り上げられている。


見ろ、俺がヒーローだっ!今日学校に行けば彼はそう声高に叫んでいるだろう。それはそれで、いい。


しかし一人は不安だった。


「別にオレがいなくたって、今目の前に広がっている新聞の一面に大差はないような気さえしてくるんだ。自分がいなくたって、みんなはこの通りかそれに近い結果を掴み取りながら、未来に進んでいくんじゃないかって」


野球部を取り戻した考の熱意、絵里のマネージャー志願、新顧問市村、丈二との賭け、そして翼との和解。


どれも自分は決定的にものごとを為したわけではなく、それが早く上手く進むように助力をしたにすぎないのではないか。


むしろ自分がいることで、未来が好転してばかりとも限らない。絵里がサッカー部に傾きかけたことだって、自分が関わったことで予想外に未来を捻じ曲げてしまう可能性だってあった。


時間を重ねるに従って、自分の一挙手一投足が重く、思慮を伴っていかねばならぬものに思えて仕方ないのだ。


「いいじゃないか。別に」


ふたばぁは一人の悩みなど取るに足らないことのように笑う。


「未来が変わったかどうかが分かるには、実に明確な指標が用意されているのだ。お前たちが甲子園に行けるか否か。その過程においてどんなことがあろうと、大した問題にはなるまい。この結果が乗るか反るか、これに全て集約されるのではないのか。お前の存在意義は」


確かに、それ以外に今自分をこの世界につなぎ止めておける理由もなければ意思もない。この夢物語を現実として受けとめるために、一人が求めている唯一無二の答え、それが甲子園だ。しかしそれがもし間違いだとしたら――


「また難しいことを考えようとしているな」


心の内を射抜かれて、一人ははっと我にかえる。どうしてという目をすると、ふたばぁは一人の足もとでじっと彼の表情を見つめていたラルドを指さした。


「物事というのはどんな偶然であれ必然なのだよ。異論は認めるが、私はそう思うことにしている。自分の意にそぐわないイレギュラーが起こったとき、見通しが不透明な境地に立たされたとき、そう思うことで私は前に進んできた。この論理でいえば、お前がここに存在していること、それすらも必然なのだ。必然が既存の未来を塗り替えるというのなら、それもまた必然になり得る」


「要するに、気にするなって?」


「だから最初からそう言っているじゃないか」


くっくと低く笑うふたばぁに呼応するようにして、ラルドも一人に向かって小さく鳴いた。


「じゃあ、自分の意義を果たせば未来に帰れると思う?」


「さぁ、それもまた必然。いづれ分かることだ」




稲嶺の金星を伝える朝刊には、その衝撃を報じると共に、今後の展望についても記述がある。


【ダークホース、第二層と激突】


【今大会注目の大一番。勢いの稲嶺か、実績の創英か】


【見どころは、奇将市村監督と知将仙崎監督の対決】


もうあとには引けないのだ。呼びこんだ未来は、一人が判断するのに十分な時間を与えてはくれず、何物にもはばまれることなく眼前へと迫りくる。


これまでも、そしてこれからも起こること全てが必然であるというのなら、少なくとも自分はそれに目をそらさず向き合う義務がある。


きっと目を反らしていては甲子園はおろか、自分自身を維持することすらできない。


今一人がしなければならないことは、甲子園を見据えること、そしてもっと前にあることは創英の勝利至上主義を否定することだ。




一人が朝刊を全てたたんでテーブルに重ねると、灰皿からのぼる一筋の白煙は、灰がぽとりと落ちて消えた。


*


「おらおらバッチ来い!どんな球でも止めてやんよ!」


ようやく練習に本格するようになった翼は、セカンドで考に負けないくらいの大声を張り上げながらノックを受ける。


打球が打ち出されてからの初動と、打球に回り込むスピードは内野手の誰よりも速い。


無駄にかっこつけて取るクセさえなくなれば、もっと早く動けるだろうに。


ノックを打ちこみながら一人は苦笑する。


翼がサッカー部を辞め、野球部の練習に参加しなかった1週間、彼は彼なりに色々面倒な問題を抱えていたようだったと、あとになって絵里が一人に教えてくれた。


いきなり部辞めると言ったはいいが、彼に期待を寄せていたサッカー部の顧問の先生、先輩、そして同輩たちにことの次第を問い詰められ、それを言いくるめたり説得するのに必死だったという。


サッカーが嫌いになったわけじゃない。この部が気に入らないわけじゃない。


言いたいことはたくさんあったろう。しかし翼はこの一言で全てをまとめた。


「野球、してみたくなったんす」


本当は前から一緒にやりたかった。そんな素直な気持ちは伏せながら、不器用なりに野球への思いを表に出した翼の言葉。


そんな彼の背中を押し、擁護したのは意外にもマネージャーの弘美だったという。


かくいうこの話も、絵里は弘美から聞いたものだった。


常日頃から野球部を目の敵にする翼の言動の裏に隠された真意を、一番に読み取っていたのは彼女だったのかもしれない。


だからこそ、部が離れてしまったあとも彼らの凸凹な関係は日常生活の中で続いていたし、最終的に夫婦という形におさまっていくのだろう。


不器用な翼に、それを包み込む弘美という器は欠かせない。


「おい翼、全部取るな!外野に向けて打ってるんだから、外野の練習にならないだろう」


一人が外野に打った強めのゴロでさえ、翼は回り込んでさばいてしまう。試合になれば喜ばしいことだが、今は違う。


「ゴロを見逃すのもチームプレイだって?」


「練習ではそういうことだ」


「しゃらくさいねぇ」


相変わらず口は軽いが、それで足を止めるだけ彼は素直になった。


ライトの道に向かってノックを放つ。


不器用ながらも、一生懸命にボールへ向かっていく道。まだ捕球率は5割弱と言ったところだ。


この強烈なヒットのゴロを、道は身をかがめて捕球にかかるが、またグラブの先端ではじき、後ろへ反らしてしまう。


「おいみっちー!何度目だよお前!しっかり捕れって」


「ごっ、ごめんなさい!」


翼に怒鳴られ、へこへことしながら反らしたボールを追いかける小柄な身体。


「翼くん、言い方をもう少し柔らかくしようよ」


「ふん」


新参の翼の言い草に、考が注意するのはもう何度目になるか。


翼としても、チームプレイだと言われて見逃した球を簡単に後ろに反らされては、やっていられないという気持ちもあるのだろう。


しかしながら道は上手くなった。


入部して一ヶ月でこんなに変わるものかと部員たちが目を見張る上達ぶりだ。


まだまだ動きにムラがあり、たどたどしいプレイもあるが、自分たちが野球を初めて一ヶ月であったころと比較してみても、その伸びの早さは明らかだった。


走らせてみると足は遅くないし、目もいい。もともとある程度のセンスは持ち合わせていたのかもしれないと一人も彼の姿勢に感心する。


それとやはり、師匠がいいのか。みちるは道が入部してからというもの練習時間の半分ほどを彼につきっきりになっている。


『ボールから逃げるな!』


『変なクセをつけるな!』


『諦めるな!』


言葉こそ鬼軍曹も顔負けだったが、その指導には優しさも感じ取れるように一人は思う。


「よし、今日の練習はここまでにしよう!全員、一球ノーミスでさばいたらあがっていいぞ!」


考のひと声で、部員たちはホッとしたように汗をぬぐいながら最後の球をさばき、グラウンドを引き上げていく。


吹き抜ける風が冷たいのが常になって来た。


「お疲れ道、最近また上手くなったんじゃないか?」


体育館横の水道で、顔についた泥を洗い流している道に、一人は声をかけ、タオルを差し出した。


「あぁ矢野くん、ありがとう。まだまだ、皆に追いつくには程遠くて」


「でも、練習終わった後も考先輩と居残りでキャッチボールとかしてるじゃないか。成果は確実に出てきてるよ」


褒められることに慣れていないのか、道は困ったように目を泳がせながら、ふんわりと白い頬をほんのり赤くして照れる。


「やっぱり、僕みたいに運動得意じゃない人は同じ量の練習をしててもダメだと思って。付き合って下さる考先輩に感謝してもしきれなくて――」


「でも、こないだみたいに無茶はだめだぞ」


顔面を真っ赤に腫らせて、両鼻から血を流す道の顔は、想像もしなかっただけに衝撃だった。


「あはは、そうだね。でもなんだかみんなが心配してくれるのって。なんだか嬉しくなっちゃうよね」


「おいおい」


「ごめんね、人に必要としてもらえることって、とても素敵なことだと思うんだ。これは少し違うのかな」


おどけながら笑う道の表情は、まだ少年のものだ。しかし、天才美術少年が、人の注目や優しさを自ら欲するというのが一人には意外だ。


「それを言うなら、絵を描いていたときの方が人に必要とされることは多かったのではないのか?」


一人が次に口にしようとした言葉そのものが、別の口から発せられる。


3本のスポーツドリンクを携えて近づいてくる丈二の言葉だった。


一人と道にドリンクを放りながら彼は続ける。


「井上道がこんなに幼い少年のような絵描きだとは思わなかった。というか、俺は女性だと思っていたよ」


「僕の絵を、知ってるの?」


「ファンだったんだ。こう見えて絵は好きでな。県の総合文化祭で一番目立つところに飾ってあった絵を観てから、井上道の名前が挙がっている展覧会は大体観た。一つの傾向に縛られない作風がとても好きだよ」


「驚いたな、僕にファンがいたなんて」


意外なことだった。偶然とはいえ、丈二と道に野球部で会う以前に接点があるということは。


向き合った二人は、その身長差からか、雰囲気の両極端さからか、えらく歳の離れた兄弟のようにも見えた。


道は巻いたくせ毛の髪を恥ずかしそうにかきながら笑う。とにかく人に認められることに慣れていないらしい。


「人に必要とされる、その度合いからすれば、絵を描き続けた方が良かったのではないのか。お前の才能を求めている人がたくさんいるだろうに」


それは一人も気になるところだった。高校に入ったら野球部に入るつもりだったけれど、勇気がなかった。それは分かった。しかし、そもそもなぜ自分の才能を置き去りにしてまで野球をしたいと思ったのだろう。


「なんて言えば、いいのかな」


道は苦笑しながらうつむいた。答えにくい事情をそこから察する。


「絵は僕にとって、僕と家族だけのもので良かったんだ」


*


僕はひとりっ子だ。


子どもを作るのは難しい。そう言われたお父さんとお母さんの間に生まれたひとりの子ども。


二人とも僕が生まれて、気を失うかと思うくらいに喜んだって、親戚のおばさんに聞いたことがある。


本当にすごく喜んでいたって。


毎日毎日二人の笑っている顔を見ながら大きくなった。お父さんもお母さんも、僕にいつも優しい。


笑顔以外の顔を見ることなんてほとんどないんじゃないかな。


でも僕は小さいころ、体がとても弱くて学校にも満足に通えないままに病院で生活することが多かった。


毎日が白い壁と、乳白色のカーテンに包まれた部屋で始まって、終わっていく。


僕の世界は、僕の人生は、こんな白い箱に包まれたままに進んで、そして終わっていくんじゃないかって物心つくころにはそんなことばかり考えていたんだ。


6歳の誕生日に、お父さんとお母さんがそれぞれ誕生日プレゼントをくれた。


野球が好きだったお父さんは、グローブとボール。趣味で絵を描いていたお母さんからは水彩絵の具のセットをもらった。


「道が元気になったら一緒にキャッチボールをしよう」


そんな約束といっしょに、グローブは大事に病室の棚にしまっておいた。


「道、あなたの目に映るもの、映らないものだっていい。自由に描きなさい。お父さんとキャッチボールができるようになるまでは、これで我慢してね」


病室で僕は、毎日のように筆を握った。




するとどうだろう、僕は気付いたんだ。


これまでなんの変化もないと思ってた病室には、たくさんの色があったってことに。


病室にはいりこんでくる光は日によって違う。赤みを帯びていたり、影がくっきりしていたり、ぼんやりしていたり。


花瓶に生けられる花だって季節によって移り変わっていくし、同じ病室の中で入れ替わっていく患者さんたちの表情だってそれぞれに色があるんだ。


僕は描いた。病室という世界の移り変わりを一つも逃さぬように。


それは風景だけじゃない。向かいのベットだった女の子の表情を描いたとき、女の子はとても喜んでくれた。


白いただの箱だと思っていたものが、筆一本で宝箱に変わる。なんて素敵なんだろうって思ったよ。


僕は病室を飛び出して、庭の花たち、鳥たちを描いていった。


外の世界に出て、もっと、もっとたくさんのものを描きたい!そう思うほどに、僕の体は元気になった。


そして毎年、僕に絵具を、色のある世界をプレゼントしてくれたお母さんを描くことにしたんだ。


お母さんは本当に喜んでくれた。それを見たお父さんも嬉しそうだった。


もうすぐ退院できそうだね、今度は、キャッチボールだね。


そんな会話が僕たち親子の常になって、それは叶う直前のところまできていたのに。


僕の退院の日が決まった日、お父さんは事故で死んでしまった。


夜、会社からの車での帰り道に、中央線をはみ出してきた対向車と正面衝突して。


お父さんも、相手の運転手も、即死だったって。


司法解剖っていうんだっけ。事故の原因を警察の人が調査したんだ。そしたら、相手の運転手は過度の飲酒で酩酊状態にあった可能性が高いって結果がでた。


お父さんは何の落ち度もなく、殺されたも同然だった。


子ども心に、僕はその運転手を憎んだ。どうして、なにも悪いことをしていないお父さんが死ななくちゃならないのか。


泣いた、泣いたよ。もうそれ以外何も思い出せないくらいに。


唯一覚えているのは、お父さんのお葬式に参列した相手の遺族の人の足に、僕はしがみついて何度も何度も叩いたことくらいだね。


「お父さんを返せ!」


「お父さんは何も悪くないのに!」


「キャッチボール!キャッチボールが出来なくなったじゃないかぁ!」


そんな僕をひきはがして、顔を叩いたのは、お母さんだった。


そんなことをしてはだめ。涙を流す理由を間違えてはだめ。


お母さんは強かった。お母さんのあんな表情を見たのはそれが最初で最後だったんじゃないかな。


お母さんはその日を境に、いつものお母さんに戻った。


毎年お母さんを描き続けるという習慣も変わらなかったし、いつもお母さんは喜んでくれた。


中学生になったとき、僕は夏休みの宿題としてそのお母さんの肖像画を出したことがあったんだ。


それがまさか県の美術コンクールで最優秀賞になるなんて、思いもしなかったよ。


その絵は総合文化祭でも特別展示されたはずだから、最初に丈二くんが見てくれたのはきっとその絵じゃないかな。


それから僕のもとには担任の先生や美術の先生、校長先生までやって来てこう言ったんだ。


「もっと自分の才能を伸ばせ」って。


先生たちに言われるままに僕はたくさんの絵を描いた。それ自体はとても楽しかったし、たくさん自分の納得する絵を描くことができたことには満足もしてた。


だけど、その絵たちは僕の考えとは関わりなく、たくさんのコンクールに出品されて、勝手にたくさんの賞をもらった。


確かに自分が描いた絵でもらった賞ばかりなんだけど、どうしてだろうね、全校集会なんかで壇上に上がって賞状をもらっても、何か別の人の代理をして受け取っているような、そんな変な気分になったんだ。


それがはっきりしたのは、全国美術コンクールで賞をもらった作品に、選評がついたときだった。


【柔らかな色調を引き締める力強い線の構成からは感性を自由に働かせた即興性も感じられ、受賞者が日常的に鋭い観察眼をもっていることが伺えます】


世界的にも、とっても偉い先生の選評だったんだ。本当なら喜ばなきゃいけないところのはずなのに、僕はなぜか悲しくなったんだ。


僕の世界は、僕の絵は、こんな言葉で集約されるようなものじゃないのに。


僕はそんな構成とか、巧みな色彩感とか、そんな言葉を意識して絵を描いているわけじゃないんだ。


絵を見た人が、この選評をもとにして自分の絵を評価するなんて、そんなの嬉しくないし、間違ってるとすら思った。


こういうのって、ただのわがままなのかな。


そのとき思い出したんだ。小さいとき、初めてお母さんを描いたときの、二人の嬉しそうな顔を。


そうして気付いた。


あぁ、僕は自分の大切な人のためだけに絵を描ければそれでいい。僕の絵はたくさんの人に見てもらって、認められるために描いているわけじゃないんだって。


絵は、別にどこでだって、いつだって描ける。


それより僕は今しかできない、病室の棚にしまい込んだままのもう一つの約束を果たしたい。


キャッチボール、確かにもうお父さんとすることは出来なくなってしまったけど、僕が野球をすることはきっとお父さんも喜んでくれる。


お母さんだって賛成してくれたんだ。


僕は、野球で二人の思いに応えたい。



*


以前に丈二の過去を聞いたときと同じく、一人は道の生い立ちについて初めて知った。


『芸術とは心の対話』


市村が演説していたことを思い出す。


道にとって、対話の相手は両親とそれに近しい人たちで十分だった。


しかしそれはいつしか、彼の意図しなかった選評というフィルタと、賞という拡声機が介在することによって、彼の手を離れ遠くに行ってしまった。


対話する気もない独りごとを、受け手が勝手に解釈して満足する。


きっとそれは芸術とは呼べないのだろう。


道にとって、自分の才能は芸術におけるそれではなかったのかもしれない。


芸術として賛美される自分の絵は、自分が思い描いたのとは違う形で世の中で評価されたもの。


だからこそ、賞状を手渡されたとしても、それが実感として湧きあがってこなかったのではないか。


一人は自分なりに、市村が唱えた芸術観に合点がいった。


手を離れたからには、多様な見方が、対話があってもいいだろう。そういう伝え手もいるだろう。


しかし道に限って、その絵が発するメッセージは両親を笑顔にさせるためだけのものだ。


それ以外の価値など、無意味だったと言っていい。


そして野球もまた、同じなのだろうか。


「そこに、お前の意思はあるのか」


「えっ?」


丈二の言葉に、道ははっとして顔を上げる。


「絵を描いてきたのは、自分のためというよりは家族のため、そして今お前が棚からグローブを取り出したことも、約束を果たし、家族を喜ばせるため。お前自身が本当にやりたいことはなんだ」


重みのある言葉だ。母からは野球ができることを憎まれ、自分のねじ曲がった意思から通り魔という手段に走ってしまった過去を持つ男だからこそ言える言葉だった。


彼自身、自分が本当にやりたいことを見失っているからこそ、道は自分の姿とどこか重なるのだろう。


「僕は――」


道は再びうつむいて口をつぐんだが、少しすると笑顔に変わって言った。


「今はやっぱり、野球がしたいな」


「それは家族の意思ではなく、お前の意思なのか」


「うん、最初は丈二くんの言うとおり、僕は自分のことだけを考えて野球部に入ったわけじゃなかった。お父さんのためだった。けど、みちるさんに毎日特訓してもらって、上手くなったねってみんなに声をかけてもらえて、こないだのサッカーなんかみんな僕を心配してくれて――いつの間にか、僕はもっともっと上手くなりたいって夢中になってた。ここにい続けることはまぎれもなく、僕自身がそうしたいからだよ。それはこれまで絵を描いてきた感覚とは違うんだ」


「そうか、ならいい」


丈二は表情を変えず言う。自分と同じ様な悲壮な思いに、目の前の青年が行きつくことがないように。


そんな優しさが汲み取れた。


「やるからには命がけ、なんてことは俺は言わない。だが、それなりのものをかけなければ、得られる対価などない。お遊びじゃないんだ。お前にその覚悟はあるか」


「もちろん」


みちるの厳しい練習を日々こなし続ける彼の目は柔らかくも力強く燃えている。丈二は苦笑して、愚問だったなと付け加えた。


「だが、無理と無茶は違う。無理をすることも時には必要だが、無茶は何の採算も合わない。その線引を上手く考えることだ」


聞き役に徹してきた一人が、オレは完全に置いてきぼりなんだなと笑うと、二人は同時に吹きだして笑った。


三人で一緒に飲むスポーツドリンクが、体の芯までしみ渡る心地がした。


*


暗く、太陽が夜に遠慮がちに、空の片隅でぼうっと消えかけの線香花火のような光を放つ時間。


人気のなくなったグラウンドで、球が空気を切る音と、ピッチング用のネットがばさりと鳴く音だけが規則的に響いている。


ブルペンでひとり投げ込みを続けるのは、失意のエース真人だった。


『おい、稲葉真人。キミは何様だ』


球を投げ込むたびに、頭をよぎるのは、彼女の言葉。


『みんなの思いの詰まった点を、命がけで守るのがキミの仕事でしょうが!』


まとわりつく言葉を振り払うように、大きく、強く腕を振る。


『キミの命がけは、何の中身もない、カッコつけの嘘っぱちよ!』


「ちくしょうっ!」


しかし消えてはくれなかった。どれだけ投げ込もうと、力を込めようと。


今まで自分が信じて疑わなかった思いは、結局独りよがりの”嘘っぱち”だったのか。


「――ちくしょう」


そうだ、自分は我を忘れ、勝負に心を奪われて、信念すらも頭の片隅に追いやった。


「――ちくしょう」


そんなものは、


「ちくしょうめっ!」


信念とは呼べない。




力任せに投げた球は網を外れて支柱に当たってはじかれ、甲高く冷たい音が夜のグラウンドに響き渡った。


肩で息をし、体をじっと止めると、全身からじっとりと質量のある汗がふき出してきて肌に不快な層をつくるようにまとわりつく。


それは光にヒットを放たれた直後と同じ感覚だった。ボールが思うように手に付かず、力を込めようとした途端に自分の指から滑り落ちていくような失意の感覚。


まるで発泡スチロール製の球を投げさせられているような虚無感が、真人の右肩をむしばんでいくようだった。


思い出したくない、はずなのに。


一人に受けてもらうのではなく、自分はこうしてひっそりと不快な汗をかいて自分からあの悪夢を追体験しようとしている。


何度も何度も、光との勝負を思い出して球を投げ込んだ。


そのたびに、想像の中の光は自分の球を前にはじき返してくる。


負けた。また負けた。あの光に、どうして――


決定的敗北を知らないエースは、未体験の失望感に対してあまりにもぜい弱だった。


「あれ、真人くん?」


暗闇から声がする。


薄暗い視界の中、真人からその姿はよく見えないが、少しずつ声の主が近づいてくる。


「真人くん、だよね。どうしたのこんな遅くまで。一人くんはいないみたいだけど」


小さく二つくくりにしたセミロングの黒髪が見えたかと思うと、不思議そうにこちらを見つめる彼女の表情がはっきりわかった。


「黒田、さん?」


「絵里でいいよ。ここにきてもう一ヶ月なんだよ。よそよそしいのはなしにしましょう?」


黒ぶちめがね越しに三日月形にくいっと上がる絵里の瞳はとても愛らしい。


その手には泥だらけのボールが山盛りになったケースを抱えていた。


「あぁ、うん。だけど絵里こそ――」


「週に一回、ボール磨きをしてるの。すぐに汚れちゃうでしょ?小まめに磨いてあげた方が長持ちするかと思って。前にみちるさんに硬式球一球の値段聞いてびっくりしちゃったの。だから節約のためにも、ね」


「そうなのか、知らなかったよ俺。その……ありがとう」


「ううん、ほんとは内緒でやってるの。みんなの前でやると気をつかわれちゃいそうだし」


そう言うと絵里は足元にケースをごとんと置いて、ぼろになりかけのタオルと霧吹きを取り出す。


「あぁのさっ――」


それを見た真人が慌てて声をかけると、絵里は少し驚いたように目を丸くした。


「俺も、手伝うよ」


絵里は優しくゆっくりとうなずいた。








霧吹きでしゅっしゅと二回、球に水を吹きかけて、汚れてもいいタオルでさくさくと大きな汚れをふき取る。


そしてもう一回霧をかけたら、今度は比較的きれいなタオルで仕上げのひとふき。


そうするだけで、球はすっと汚れがとれて本来の白さを少しばかり取り戻す。


部室の薄暗い明かりしかない中でも、それははっきりとわかった。


簡単にきれいになるもんだなと、真人は少し驚いた。


「週一回こうやって磨いてるとね、一週間のあいだにどのボールにどんな傷が増えたとか、糸のちぢれができたとか、わかるんだよ」


絵里が手際よく球を磨きあげてかごに戻しながら嬉しそうに言う。


「うそだろそんなの。こんなにあるのいちいち覚えてられないって」


不器用に指を使いながら真人はこびりついた泥を落としていく。それを見てか、言葉を聞いてか、絵里はくすりと笑って続けた。


「ううん、ほんと。その真人くんが磨いてるボール、それ少し糸がほつれちゃってるでしょ。前は切れかけていた程度だったの。今はだいぶほつれて、皮もめくれかけてる」


「ほんとかよ」


にわかには信じられなかったが、絵里が嘘を言っているようには思えなかった。



「チームのみんなと一緒でね、ボール一個一個にも表情があると思うんだ。みんながユニフォームを泥だらけにして練習してるのと一緒になって、この子たちも泥をかぶってるの。自分たちだけ洗濯して、この子たちは置き去りって、なんか違うと思うんだ」


「なるほどなぁ」


道具を大事にしろ。それは少年野球時代から誰もが監督やコーチにしつこく言われることだ。だけれど、それはバットやグラブに限った話なんだと、真人は勝手に思い込んでいた。


ましてや球一個ずつにまで気を配るなんて、そんなことは思いもしない。


「だから結構、好きでやってるんだよね私。この作業。毎週毎週、みんながどれだけ練習頑張ってきたのか、それを代わりにそれぞれのボールが教えてくれてるような気がして」


球を磨く絵里の指はとても細くしなやかで、白くきめが細かい。


球一つ一つを丁寧に包み込むその優しい所作に、真人は時折見入ってしまった。


「ちなみにね、一週間で一番傷や汚れが増えるのは、真人くんが使ってるボールなんだよ」


「俺の?――すごいな、そんなことまでわかるのかよ」


「みんなのが分かるわけじゃないんだよ。真人くんのは特別。速い球を何回も投げて、それを受けとめる力って、やっぱり強いのかしらね」


間接的に努力をほめられているような気がして、真人はどこか照れ臭かった。


「だから――焦っちゃだめだよ」



「えっ――」


真人が思わず顔を上げると、ちょうど絵里と目があって、少し伏せた。


「この前の試合でみちるさんの言ったこと、一人くんから聞いたの。強い言い方だったのかもしれないけど、それがみちるさんなりの優しさだったんじゃないかな」


「俺は別に焦ってなんか――みちるをがっかりさせちまったって、思ってはいるけどさ」


「ううん、みちるさんはきっとがっかりなんかしてないよ。ずっとずっと一緒にいる幼なじみなんでしょ?真人くんのことを誰よりもよく知ってる人が、そんなこと一つでがっかりするはずなんかないよ」


「そう、なのかな」


「きっと、ただ気付いてほしかっただけ。柔らかい言葉をかけても伝わらないと思ったことを、違う方法で伝えようとしただけ」


絵里の言葉が、そのままみちるの心の声に通じているような気がしてくるから、真人は不思議だった。


「だから、焦らないで。何としてもこうしなきゃ、すぐに変えなきゃ、なんて考えなくていい。できる範囲でやろうよ。真人くんができる最大限のことはもう毎日してきてるはずなんだから。って、これはこの前読んだ本の受け売りなんだけどね」


「出た、受け売り名言。カズが言ってたよ」


二人は声を合わせて小さく笑った。


何のためらいもなく名言の種明かしをして、場を和まそうとする絵里の気遣いが真人の心のすき間をじんわりと埋めていく。


身を磨かれ、薄暗い照明の下でも誇らしく白く輝く硬式球。それが積まれた一番上でひときわ傷だらけの一球は、真人の思いをしっかりと体現してくれていた。




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