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ハイライト  作者: にしおかナオ
14/18

11.決意と、結実と、結末と【前編】

県立稲嶺高等学校


1.セカンド   香川翼

2.ショート   武田考

3.キャッチャー 矢野一人

4.センター   坂本丈二

5.ファースト  武田優

6.ピッチャー  稲葉真人

7.レフト    戸田

8.ライト    西上

9.サード    北川


ベンチ 井上道ほか8名 




10月7日


これまで試合となれば、はいそうですかと球場の上にかかる雲をこともなげにどかしてくれたお天道様は、どうも今日はご機嫌斜めらしく、空には濃い灰色の雲が重くカーテンを作っている。


こんな空を見て、昨日の天気予報が晴れだったと言われて信じる者は少ないだろう。


行きのバスの中で、創英には相当な雨男がいるらしいと丈二がつぶやくと、部員たちは一様にどっと沸いた。


風もないのが不思議だ。こんな嵐が来そうな日には、子分のような風が前もって暴れまわっていそうなものなのに。


いや、これこそ嵐の前の静けさというやつか。


こんな天候の悪化が目に見える雲行きにも関わらず、ずぶぬれ覚悟の高校野球ファンが大勢に球場につめかけていた。


前評判を過大に近い記事で煽ったマスコミの影響も大きな要因だ。しかしそれと同じくらいに、偶然にも初戦から稲嶺の快進撃を目撃した観衆がリピーターとなり続けていることもある。


稲嶺にはいわゆるファンが出来ていた。弱小校が見せるメークドラマの連続は、いったいどこまで続くのか。


それに期待する人々が、確実に増え続けている。


「まさか本当にこんなところまで来ちまうとはなぁ」


これまでの予選で使われた球場とは違い、ベスト16の試合から使われるのは年間プロの試合も数試合行われる設備も整備も十分行きわたった球場だった。


広くてきれいなベンチに足を踏み入れた優がそうつぶやくと、みちるが当然よと胸を張って言った。


「寝ぼけんなよ肉屋のせがれ。こんなもん通過点だっつうの」


後ろからひょいひょいと現れた魚屋のせがれが優の大きな腹をぼんと小突いてから、一番手前の席に陣取った。


新参でありながら溶け込むのは早い。


しかし、みちるの構想も翼の言った通り。


『甲子園かかってんのよ』


総陵に追いつかれた直後、マネージャー生命を心配する一人へ言い放った一言。


彼女が目指しているのは、最初から甲子園ただ一点。


丈二との賭けも、強豪総陵の撃破も、その過程にある通過点でしかない。


ただ高みだけを見つめる彼女の目には、そんなもの鼻から映っていない。あってもなくても彼女の決意はなんら揺らがない。


その思いの強さは、こんな大一番でさえ特段意識をしないほど大きなものなのだろう。




ちなみに、稲嶺高校野球部の長い歴史において、秋季大会の予選を突破しベスト16に残ったのはこれが初めてのこと。


当然、予選突破が当たり前の創英との対戦も、これが初めてとなる。


創英のスターティングメンバーに目を通した選手たちは一様にうなりを上げる。


それは対戦相手として戦々恐々としているというよりは、テレビでしか見たことのない芸能人を間近に見たときの騒ぎように近い。


こいつ知ってる。こんなヤツと試合するのかよ。


実感が湧かずに浮足立っている者がほとんどというのが実情。


みちると一人は顔を見合わせてやれやれと苦笑した。


「――みちる」


そんな中で、みちるに神妙な面持ちで声をかけたのは、エース真人。


「本当に今日、俺でいいのか」


スタメン、投手の欄にはいつもと変わらず稲葉真人の名前がある。


前回一人とみちるの意向を無視して独断行動で自滅した責任は、先発降格という形になるのではないか思っていただけに、真人は素直に先発のマウンドへ上がれるか不安だった。


そんなエースの不安をよそに、指揮官はさっぱりとしている。





「なんで?っていうか、まーちゃん以外にウチ先発いたっけ?」


「いや、その――」


「ジョーくんは抑えの要。先発はあなた。一回きりのミスで方針を変えるなんて、どっかの勝利至上主義の使い捨て采配と同じじゃない?」


みちるの目を力強く、優しい。


「あたしはまーちゃんに、みんなの思いがつまった点を命がけで守れと言った。それと同じ様に、あたしは監督としてまーちゃんの投球を命がけで信じる。これで対等!なんの問題もなーし!」


うつむく真人のおでこを、みちるは背伸びをしながらトンとつついてニッと白い歯をみせた。


「だから、投げなさい。いつもと同じ様に、命がけでね」


何が情けないって、今まで何に申し訳ないと思ってきたのか、何を不安に思ってきたのか、それが一瞬にして吹き飛んでわからなくなる自分が情けない。


真人はくちびるを噛んで大きくうなずく。


「ありがとう。みちる」


「いいってことよ。監督は寛大な心を持たないとね。あ、そうだまーちゃん、手ぇ出して?」


差し出した真人の手に乗せられたのは、可愛らしいトマトをかたどったマスコット。


「なんだよこれ」


「まぁ、ベタだけど。お守りってヤツ?いつぞやのかんざしのお返し」


手先の器用なみちるらしく、普通に店で並べられていてもおかしくないほど整った縫製のマスコット。


裏には、こんな文字が金色の糸で刺しゅうされている。


To be to be ten made to be.


「えっと、とぅーびーとぅーびー……どういう意味?」


「飛んで、飛んで、天まで高く飛べって意味。良い言葉でしょ?おまじない」


甲子園めがけて高く舞い上がる稲嶺の不死鳥、その原点となる言葉がここにある。


あ、ボール飛ばされちゃダメだからねとみちるがほおを赤らめながら付け足すと、今度は真人がみちるのおでこを一度つつき、ブルペンへと向かって行った。


正直なところ、今回の創英戦においてはマークしなければならないファクター(要因)が多すぎる。


真人の投球練習を受けながら、一人は頭の中を懸命に整理していた。


今度の相手は、総陵のように分かりやすい野球をしてくれる相手ではない。創英の予選での対戦成績を見てみる。


第一試合 14 対 1 (7回コールド)


これは非常に分かりやすいワンサイドゲーム。相手が無名の高校であったことも関係する。


第二試合 8 対 6


一方でこの試合はかなり実力が拮抗し、乱打戦に近い結果。相手校は県内中堅。それが原因かと思いきや、なんと創英はスタメンのほとんどを入れ替え、サブのメンバー中心で戦っていたという。


第三試合 2 対 0


一転今度は投手戦を演じて見せている。この試合ではほとんど長打を放たず、ヒット、バント、エンドランなど、いわゆるスモールベースボールに徹した攻勢。


まさに変幻自在。


対戦相手に、戦い方を絞らせないそのスタイルは近年の創英スタイルだ。


これは現監督、マスコミから知将ともてはやされる若き指揮官仙崎が就任してから確立されたものだ。


野球部に競争社会の概念を持ち込み、多様な持ち味の選手に合わせて野球の仕方を自在に変える。


一見すれば選手一人一人の特徴を捉えた名将であるようにも思える。しかしその実態は、多様な野球に対応できないものをふるい落とし、どんな采配にでも順応できるものだけを残す徹底した勝利主義だ。


資本主義社会をリードする企業や集団に欠かせないワードとして、コアコンピタンスという言葉がある。


自分たちが持つ、他の追従を許さない独自技術、独占的手法のことだ。


世界を震撼させる日本の技術や思想、はやぶさ、ES細胞、炭素繊維、ハイブリッドカー、おもてなしの心。


各分野のトップを走るためには、このコアコンピタンスが欠かせない。


仙崎は高校野球のトップを走るため、常にチームのコアコンピタンスを模索している。


作っては崩し、作っては崩し――終わりのないパズルを組み続けるようなもの。


優秀な選手たちは、そのための組み合わせ素材でしかない。


甲子園までの道程である予選は、もはや仙崎にとって格好の実験場所に過ぎない。


そしてマスコミがはやすメークドラマの主役である稲嶺も、格好の実験台というわけだ。


一人が強いて今回の要注意人物を挙げるとするなら、4人。


まずエース小関。常時140キロ前半を記録する直球に、スライダー、ドロップ、フォークと充実の変化球。ザ・エースといった感じの正統派右腕。


彼は将来埼玉のプロチームに所属し、中継ぎのエースとして一時代を築くことになるというのは、一人だけが知る未来だ。


現在のタイプそのものは真人に似ている。性格は定かではないが、共通する部分が多いとなれば攻略の糸口もつかめるはずだ。



次はひと組で考えた方が良いだろう。1番ショートの久坂、2番セカンド生野。共に未だ1年生。


このコンビこそ、創英の柔軟な野球を可能にするエンジンといっていい。


巧みな連携と阿吽あうんの呼吸によって生み出される鉄壁の守備。


二人だけであっという間にチャンスを拡大して見せる速攻。


俊足かつバットコントロールが上手いというだけでなく、彼らは長打を打てる力もある。


いかにも仙崎が重宝しそうな選手だった。



そして一人が最も危惧する選手。それはキャッチャーの瀬良せら


1年生ながら投手と並ぶ最重要のポジションを掴みとった頭脳は、同じ1年生捕手である一人といえども想像できない部分が多い。


創英のグラウンド上での司令官を任される男だ。誰よりも仙崎がイメージする野球について理解しているとみていいはず。


加えてバッティングも脅威。4番に座り、ここまでの予選三試合で通算打率.650、本塁打2本。


前回の笠原との勝負に近い苦戦を強いられるだろう。





見て分かる通り、創英のスタメンには1年生の名前が多く挙がっている。


実力だけで選手を評価する。その姿勢は、毅然とメンバー表の並びに表れている。


ベンチ入りメンバーを見ても、1、2年の比率は五分五分。そしてここに名前を連ねたからといって安心できる時間など微塵もない。


結果を残せなければ即降格という厳しい現実が待っている。


そしてその限られた席を狙う猛者たちの羨望と野心に満ちた視線が、上の客席から飛び、グラウンドで戦う選手たちはそんなプレッシャーにさらされ続けるのだ。


兄さんは、こんな集団の中でエースの座を守り続け、そして捨てられた。


兄さんにとっての敵は、目の前の打者でも背後のランナーでもなく、遠く離れた場所から向けられるこの胸を突き刺すような視線の重圧だったのではないか。


丈二はベンチから創英の一団を鋭く見据え、くちびるを噛んだ。



ここまで来たからにはやることは一つ。



今こそ、復讐を。



兄さんの、仇を。


「セーフッ!」


わずかの差だった。一塁を駆け抜けた翼の到達と、送球の到達はほぼ同時。審判によってはアウトを宣告されてもおかしくないタイミング。


試合開始早々、客席が鼓動を高鳴らせるようにどっと沸き上がった。


1回、先攻は稲嶺。この試合から1番に座った翼が、変化球に上手くタイミングを合わせ、一二塁間の深いところに打球を放った。


抜けた!ヒットだ!誰もがそう感じた当たり。


しかし創英の二塁手、生野はそれに追いついて見せた。体勢を崩しながらも外野に抜けるかという球を抑えると、倒れ込みながら一塁へ正確に送球した。


結果はセーフだったが、本当に間一髪。


内野安打となったことに喜ばなければならない稲嶺のベンチなのだが、まさか今の打球が内野で抑えられるなんて――


思わず誰もが息を飲み、言葉にならなかった。


まぁいいか。惜しくもアウトを逃した生野は、倒れたままぺろりと舌を出す。


これくらいの芸当、できて当たり前とでも言いたげだ。


並みのヒット性の当たりも、あいつには裁かれる。後に控える選手たちにとっても戦慄の光景だった。


ただひとり愉快げだったのは、当の翼本人だけ。


「おうおう、総陵とは三味くらい違うみたいだな、おっもしれぇ」


翼は鼻を親指でぐいっとこすって、内野を見まわしながら笑った。



2番考の打席で、翼は前回同様に大きなリードを取ってエース小関に揺さぶりをかける。


背中越しにしかランナーを視認することができない右投手は、翼にとって絶好の獲物。


問題は、クイックモーション(早い投球動作)をどれだけ得意としているのかだ。


考はバントの構え。しかしバントをかけるわけではない。構えだけ見せて捕手の視界を遮り、盗塁を試みる翼をアシストする格好だ。


1球目、内角に直球がズシンと決まる。ストライク。


球速、141㎞/h。


コースこそ、バントしてくださいと言わんばかりの正直な球だが、何せ速い。


真人の球をいつも間近に見ているとはいえ、だからといってそうそう当てられる球ではない。


鼻から構えだけを決め込んでいる考も、思わず腰を引いてしまいそうな速球だった。


一方の翼も、1球目はスタートを切らなかった。


さっすがぁ、モーション早いな。


盗塁を未然に防ぐ小関のクイックモーションに、翼は敵ながら感心する。


小関は始動時、ほとんど左足を浮かさず、地面すれすれをスライドさせている。


身体が動き始めてから、リリースまでにほとんど時間を要していない。







しかも策士と来てるな。あれ自分で考えたのか?それとも誰かの入れ知恵かぁ?


翼が注目したのは、左足を置くマウンドの土だった。


あらかじめそれとなく深めに掘っておくことで、足をその穴にすっぽりとはめ、地面から離れた瞬間を判別しにくくしている。


これは単なる習慣ではない。まぎれもなく、背後のランナーの視線を意識しての策だ。


「ま、そうこなくっちゃな」


翼はリードを10センチ、大きくとった。


2球目、またも同じコースへの直球。早くバントすればいいじゃないか。そんな急かしの気持ちが見え隠れする配球。


同じコースは頭になかっただけに、考も戸惑う。


そして翼はまたもスタートが切れない。


動き速いなぁ、足も見にくいし。どうすっかなぁ。


考えを巡らす最中に、牽制球が来る。一瞬、意表を突かれた。


やべっ!


頭から滑り込み、何とかセーフ。


魚屋!集中しろっ!ベンチからみちるの声が飛んで、翼は小さく息を吐いた。


3球目、翼はスタートを切った。


頂きだ!


先ほどまで小さく素早くスライドされていた小関の左足が、ゆっくりと動き、タメをつくる。


ははん、挑発で力んだか。


翼は思った。しかし――




いや待てよ――?さっきまであんなに安定してたフォーム。しかもツーストライクだ。そんないきなり力むものか――?




――まさかっ!?



スタートを切ってスピードを上げていく足の回転はそのままに、翼はちらりとホームに視線を送る。


悪い予感というのは的中するものだ。


キャッチャー瀬良は、素早く立ち上がって投球を受けた。




やはり――ウエスト※!





力んだのではない。最初から、読まれている。






※ウエスト(ボール)…バッテリーがランナーの盗塁を予期し、意図的に打席の外に球を大きく外して投げることで後の捕手の送球を素早く行う戦略の一つ。


「アウトォ!」


送球を受けたショート久坂と、滑り込んだ翼の交錯。


先ほどのプレイみたく、またもほぼ同時のタイミングという難しいプレイだったが、今度は創英側に軍配が上がった。


翼が刺された。


それは稲嶺にとってアウト一つ以上に大きな痛手だった。


翼が左足のスライドを頼りにスタートを切るという特徴を走られる前に理解し、あえてその動作を大きくみせることでウエストという脅威に対し彼を盲目にした。


いくら翼が全国屈指の俊足とはいえ、立ち上がった状態から投げられる強肩捕手の送球が絶妙に決まれば結果は五分だ。


その計算を、わずか3球程度の間でやってのけたというのか、このバッテリーは。


ネクストの一人は創英バッテリーの想像以上の実力に目を疑った。


いやバッテリーだけの力ではない。翼の特性をいち早く理解した指揮官がいるからこそのこの作戦だ。


チームの圧倒的最速である翼が刺されたことによって、稲嶺の機動力には大きな楔が打ち込まれたも同然。


翼が刺されるんだ、盗塁なんか出来っこない。そんな考えが選手を支配し、それは知らず知らずのうちに足かせとなる。


稲嶺は早々に足を潰された。




これが仙崎の野球か。




「ストラックアウトォ!」


ストライク2球を無為に使ってしまった考はあえなく空振りの三振でツーアウト。


タイミングこそ違えど、これでは事実上の三振ゲッツーだ。


ベンチに戻っていた翼はひとり、あいつらすげぇよ!燃えてきたぜと飛びはねているが、みちるに感心してる場合かと小突かれている。


みんなが彼ぐらいに楽観的であれば苦労はしないのだが――


3番一人が左打席に入る。


「君だろう?この快進撃の立役者っていうのは」


後ろから瀬良が声をかけてくる。


「すごいもんだな、入部して半年でどうやってそんなにチームを変えられるのか、教えてほしいね」


小関の1球目、ぽんと上に飛び出したボールが縦向きに急激な落差の弧を描いて滑り落ちてくる。


「ストライク!」


縦変化のカーブ。通称ドロップ。


「なぁ教えてくれよ、どうやって追い出すんだよ」






「先輩たちをさ」


こいつ――なぜ事実を知ってる。


言い方こそ誇張しているが、他校の一生徒が関われる問題ではないはずだ。


「その方法が分かればさ、もっと俺らのチーム作りはスムーズなんだよ」


2球目、またもドロップがふっと舞い上がってストライクゾーンを串刺しにするように落ちてくる。


球をぎりぎりまで引きつけて、レフト方向にカット。ファウルゾーンに切れていく。


「実力もないのにでかい顔をして、仙崎さんの顔色を伺ったプレイしかできない。そんなのはさっさと追いだして、がむしゃらな奴だけ残せばいいんだ」


そして瀬良は、いいよね1年生がのびのび出来るチームってのはとつぶやいた。


確かに、創英と同じ様に、稲嶺の1年生の比率は多い。というか松野のグループが抜けたことで2年生は考を含めて3人しかいないのだ。


1年生が中心にならざるを得ないチーム。


それを瀬良は羨ましいという。なんだ、実力が物を言う社会ではないのか創英は。


3球目、140キロ級のストレートがアウトハイぎりぎりを突いた。


「――ボール!」


だめだ、今のは手を出さなければならない。瀬良の言葉に気を取られ過ぎる。


「いやぁ、だから個人的には惜しかったんだよ、あの先輩は――」


まだ言うかこいつは。


4球目、正確でブレのないフォームから投げおろされるのは、直球。


「――坂本拓実先輩はさ」


内角低めを突いてくる直球を、一人は腕をたたみこみながらすくい上げるように捉えた。


やった!


ライナー性の打球は一二塁間。何者にもはばまれることなくライト前へ――




――落ちない。




「アウトッ!」


前もって深く守っていたセカンド生野。足のばねを存分に使った跳躍で、過ぎ去ろうとする強烈な打球を捕らえた。


灰色の空が支配する世界の湿度は重く、滑り込んだ地面には砂埃ひとつ立たない。


そのあまりにも味気のない光景が、このスーパープレーすら大したことでもないような印象を稲嶺に植え付けていく。


ここまでの試合、稲嶺が初回の攻撃を3人で終わらせてしまったのはこれが初めてのこと。


創英の意識付けの呪縛は足からバットへも及んでいくのだ。


*


「あなたがふたばおばあちゃんですね?みんなからお話聞いてます」


「誰だ」


「あ、ごめんなさい。私稲嶺の野球部でマネージャーをやってます。黒田絵里といいます」


「絵里。あぁ、お前さんが」


「え、ご存じなんですか私のこと」


「いや、何でもない。こちらの話だ」


なるほど、かず坊は母親似なわけだな。一人の未来の母親を初めて目の当たりに、ふたばぁは思った。


「となり、いいですか?」


「かまわんよ」


球場のバックネット裏中段の席に、絵里とふたばぁは並んで座る。1回ウラのマウンドに上がった真人を眺めながら、絵里はいそいそと書きかけのスコアを開いた。


「スコアラーか。ベンチにはいないのか」


「みちるさんが監督みたいなものですからね。代わりに私が」


「大変だな。じゃじゃ馬の相手は疲れるだろう」


「いえ、ほんとに楽しいですよ。疲れなんて感じる間もないくらい」


「ふん、得な性格をしているな。重宝されるわけだ」


創英の1番久坂に対し、真人の直球が決まると、スタンドはお決まりのようにどよめく。147㎞/h。みちるに背中を押され、勢いを取り戻した球だ。


スタンドの絵里はふたばぁの言葉にくすりと笑いながらスコアに白い丸を書きいれた。


「ふたばおばぁちゃんは、毎試合来られてたんですか?」


「いや、今回が初めてだよ。雑魚との試合を見たところで退屈しのぎにはならんからな」


「でも光さんの総陵高校は手ごわかったですよ?スタンドで見てて手汗が止まらなくて」


「あの日は仕事でね、東京に行ってたんだ。だから今回はな」


東京でお仕事、何されてるんだろう。雑貨屋さんて思ったより忙しいのかなと絵里は不思議だった。


カウントツースリーとなっても、久坂は真人の直球を2球続けてフライで後ろにはじく。流石は創英1番といったところか。真人の球にももちろん反応してくる。


「また当てた、流石だなぁ。これまでの試合なら面白いくらいに三振とって来たのに、真人くん」


「しかし負けちゃいないよ」


「そうですね、甲子園常連のチーム相手でも全然怖いもの知らずって感じですもんね」


「あいつの良いところでも、悪いところでもある。昔はただのやんちゃ坊主だったが、今は少し違う。その真っ直ぐさを上手く引き出してくれる相方が見つかったようだからな」


「ふふ、一人くんですね?」


「捕手は投手を気持ちよく投げさせてやるだけが仕事じゃない。自分でも気付かないような潜在的な力を常日頃から引き出してやれるかどうかが良し悪しを決めると言っていい」


「やっぱり、お詳しいんですね」


「私があいつにこれを教えたらしいからな」


不思議な言い回しに絵里ははてと軽く首をかしげた。


ひざ下へと沈み込む真人の絶妙なカーブに、久坂のバットは空を切る。


「真人くん!ナイスピッチ!」


グラウンドに向き直った絵里は嬉々としながらスコアにKの文字を書き込んだ。


初回からかき回され、かく乱されることを覚悟した創英打線に対し、真人は全く劣らなかった。


球数を使い、粘られながらも打席の要所には正確なコースに武器の剛速球と洗練されてきたカーブが決まる。


一人のサインを忠実に守り、強力な相手に対しても決して浮足立たない。


集中してるな。何かあったのか?


父の変貌に、息子も感心と意外性が入り混じった気持ちになる。


何にせよこのままなら、何の問題もない。


自慢の直球で、3番打者を見事空振り三振にとって見せる。いきなりの2三振スタートだ。


創英の小関に負けじと、真人もこの回を3人で締めた。


「ナイスピッチナイスピッチ!乗ってますね、真人くん!」


スタンドでぱちぱちと絵里が手を叩きながら子どものようにはしゃいでいる。


「言ったろう、良くも悪くも正直なのだよあいつは。今はその針が良い方向に振れているということ。まだわからんよ」


腕組みをしながらマウンドを見つめるふたばぁの目は、まだ厳しいものだった。


「あとは実力如何だけではいかない部分というものも、今日はありそうだ」


「どういうことです?」


「お天道だよ。この天候、この風、どちらの味方をするのかは気まぐれだろうよ」


その時、うなじをじとりと撫でさするような風が絵里の背後を伝った。


思わず首を引っ込めて口を一文字に結ぶ彼女。


「私、晴れ女なんだけどなぁ」



*


「君が拓実先輩の弟くんか。へぇ、4番なんだすごいね」


2回表、打席に入った丈二に対して、瀬良は一人のときと同じように声をかける。


「仙崎さんから聞いたよ。君ウチの野球部に乗り込んで来てとんちんかんなこと言った挙げ句先輩たち病院送りにしちゃったんだって?」


初球、内に切れ込んでくるスライダーを、丈二は力一杯にしばき込もうとするが空振り。力のあまり、体勢が大きく崩れる。


「おいおい、そんな打ち急ぐなって。もっとおしゃべりしようよ」


瀬良は丈二の剣幕に思わず吹きだしながら言う。そんな軟派な絡みを吹き飛ばすように、丈二は彼を鋭く一瞥した。


「仙崎の犬と話すことなどない」


向かってくる球に対し、がむしゃらに食らいつこうとする丈二。しかし、理性を持たぬ打棒に球はかすりもしない。


「犬とはひどいね。俺らは別に仙崎さんのいいなりってわけじゃない。少なくとも僕らレギュラーはね」


高めの釣り玉を2球続けるも、丈二は打ち気をなんとか踏みとどめる。カウント2ボール2ストライク。


「特にすごかったんだよ、君のお兄さんは」


真ん中近くの直球、インパクトした打球は勢いがありながらも右に切れた。


「仙崎さんの指示も何も受けなくとも自分で全てやってのけてしまった。あの人は誰よりも仙崎さんの理想に近い人だった。けど、同時に面白みもない人だったよ」


「ああぁっ!!」


邪念を振り払う丈二の一喝と同時に、ボールがリリースされる。球腫はドロップ。


高めに浮いて入ってくる球は、真芯近くで捉えられた。



打球は伸びる。高い弾道でライトスタンドを目指す。


スタンドの観客、稲嶺のベンチも乗り出してその行方を注視する。


入るか――入るか――


半身になりながらライトが下がる。一歩、また一歩とフェンスへの距離が縮まっていく。


「入れっ!」


誰かが叫んだ。だが、




「――入らないよ」



つぶやいたのは、瀬良だった。



「アウッ!」


打球はフェンスぎりぎりのところで勢いを失い、すとんとライトのグラブにおさまった。


捕球したライトは思わず真後ろのフェンスに背中をつけて捕球を確認した。


あと、1メートル少し。


丈二の力は十分だった。


はばんだのは、急に勢いを増し始めた逆風だった。


「だからダメだって、力んじゃ。弾道高いと風に嫌われるよ」


瀬良は慈悲なく口角を上げた。


「気にならないか?どうして僕が君たちの部の内部事情を知ってるのか」


2回ウラ、4番瀬良が右打席に立つ。身体に無駄な力の入っていないことが伺える、実に軽い構えだ。


「さぁな」


ド真ん中へ直球が決まる。瀬良はピクリとも動かない。


「稼ぐなよ、カッコよくないな」


「勝手におしゃべりしてるのはそちらだ」


瀬良はまぁいいやと笑って向き直る。


「汚職まみれの松野議員、支持してたのは稲嶺だけだと思うか?」


なんだと?


「仙崎さん、創英も受けてたんだよ。資金援助を。その代わり創英の選手は松野の関係する私立大野球部へ勧誘される。昔からのからくりだよ」


淡々と話を続けながら、真人の渾身の球を瀬良は簡単にカットする。まだ話してる途中だろとでも言いたげに。


「でも、最近は設備も、選手も充実してきて甘い汁も必要なくなってた。だから厄介払いができてむしろ君らには感謝してるんだとさ。しかしそんな高校に拓実先輩の弟がいて、こうやって試合することになって、なんの因果やらだね」


一人のサインに、真人はうなずく。




リリースから、打者の手元までの勢いは直球。


しかし、打者が打ち気に反応した瞬間に急激な落差を見せる変化球、フォークボール。


前回の総陵戦での失敗を踏まえた特訓の成果の末、伝家の宝刀は実用できる段階まで来ていた。


全くもって予想していなかった初披露の変化に、瀬良のバットは直球を迎え撃つ軌道のままぶんと鳴った。


「ストライク!バッターアウッ!」


「へぇ、知らなかったな。そんな球投げられるんだ」


去り際に瀬良は言う。その口角は上がりっぱなし。


「野球をしろよ。お遊びは終わりだ」


「情報交換、だろ?お互い知らないこと知れたわけだし」


風にまじって、ぽとりと雨粒がグラウンドに落ち始めた。



0 対 0


試合は中盤膠着こうちゃくする。早い段階で創英が試合の主導権を握るだろうという大方の予想を覆し、稲嶺のエース稲葉真人は、好投を続けた。


新変化球フォークを決め球として駆使し、配球の幅を広げることが出来たバッテリーは波に乗る。


5回ウラ終了時点で3者凡退が3回、7奪三振。被安打は久坂と生野に打たれた2本のみ。盗塁を試みようとする久坂も、一人が素早い反応で補殺した。


対する創英小関も5回まで無失点。安定したフォームとコントロールで、すきを作らない。3種の変化球を多彩に織り交ぜる瀬良の配球に、稲嶺は狙い球を絞れない。


しかし6回表、そんな均衡突き破る好機が回って来た。


ツーアウト、ランナーなし。打順は3番、矢野一人。


風は向かい風、長打を狙うには不向きな状況。


しかし、一打席目にヒット性のセカンドライナー、二打席目にもセンターへ大きな飛球を飛ばした一人と、この小関の相性は決して悪くない。


この状況で、瀬良はどう配球を組み立てる。自分ならどうする。あらゆる可能性を脳内打席で試行する。


その答えは、初球にあった。





追い風であれば直球が伸びる。向かい風であれば変化球が切れる。


風による外部要因の変化によって球の良し悪しも変わる。


経験を駆使し、配球を思案する捕手は数あれど、この要因を瞬時に判断することのできる高校生捕手は少ない。


その数少ない捕手が打席の矢野一人。そして一人は、この瀬良もその内のひとりであると読んだ。


投手にとっては追い風となる今の状況を利用するならば、瀬良が重点的に使ってくると考えるべきは、直球。


狙い球を一本に絞る。それも、ここまで小関が投げてきた直球より一段上の球威を予測して。


安定してクセの少ないフォームから、投球前に球種を読むことは難しい。だからこそ、風を読む。


小関の両指から球がリリースされる。球種は――





――狙い通りだ。


強い勢いを殺すように、一人はダウンスイングでインパクトした球を地面にすりつけるようにして放つ。


それは二塁寄りに守っていたファーストのミットを越え、一塁線に勢いよく転がった。


「フェア!」


長打コースだ。


一人は余裕で二塁をおとしいれ、ようやく先制の口火を切る。


そうか、読んだのか。あいつ、ただのガリ勉キャッチャーじゃないみたいだね。


この試合初めてピンチらしいピンチを迎えても、瀬良は動じるどころか嬉々として二塁上の一人を見つめた。


続くは4番、坂本丈二。


ぽとりぽとりと雲の水漏れ程度だった雨粒が、コックを緩めたかのように、ぱらぱらとその量を増し始める。


雨が土を、空気を、人を冷たく濡らす中で、丈二のもとに落ちるそれは彼の覇気によって干上がってしまうのではないか。


そんな静かな熱気を、丈二は轟々と放つ。


190センチにせまる大きな体躯は、実寸以上の大きな威圧感をまとって小関を気押す。


研ぎたての刃物のように危険を帯びた眼光は、小関の心臓を射抜かんばかりに光っていた。


舞台、ここに整う。


初球。


直球。


甘く入って来たインローの球。


ライトポール際、スタンドに飛び込んだ打球はわずかに、左。


この県の高校野球の定説を、誰もが予想していなかった結果を、呼び込むのではないか。


その当たりへの観衆の反応は、大歓声ではなかった。誰もが息を飲み、目の前の事実を認識するのに時間を要す。


スタンドのふたばぁは、ふんと鼻を鳴らして笑う。


絵里も衝撃のあまり口をぽっかりと開けて固まったが、目の前の事実が分かった途端にぴょんと立ち上がり、飛び上がった。


「いやったぁぁぁぁ!」


絵里の歓声を皮きりに、客席はドミノ倒しのようにうなった。


ようやく試合が動き出す、値千金のツーランホームラン。


それはまだ復讐なのか、克己こっきなのか。様々な思いを乗せた大飛球は逆風をも突き破り、ライトスタンドに叩き込まれた。


2 対 0


ホームベースを踏んだ丈二を待ち構えたランナーの一人は手を差し出す。


がっしりと結ばれた握手は、必然だった。


『創英学園高校、選手の交代を申し上げます。ピッチャー、小関くんに変わりまして、佐久間くん。9番、ピッチャー、佐久間くん。背番号11』


仙崎の動きは早かった。一人と丈二の当たりを除けば、ほぼ完ぺきな投球を続けてきた小関を、惜しむことなくマウンドから降ろす。


審判に交代を告げるその表情は、リードされたことに対する怒りも、焦りも感じる取ることができない仏頂面だった。


強いて言うなら、中指で眼鏡のずれを整えるしぐさが多かったことくらいか。


「同じだ」


丈二が言う。


肩を落とし、絶望にも似た表情でマウンドをひとり後にする小関。そんな彼に励ましの声をかける選手は誰もいない。


淡々と、内外野はボール回しで時間をつぶす。瀬良も、小関に何ら声をかけることなく冷めた目をしたままマスクをかぶりなおした。


「これが――」


「そうだ。創英の野球はチームプレイであってそうじゃない。個人個人が干渉せず、自己の責任の範囲しか全うしない。その外で何が起ころうと、必要以上のアクションを起こすことはないんだ」




野球は集団競技であって、個人競技でもあるという議論がある。


サッカー、バスケ、バレーのように、どこか一カ所に不具合や実力の格差が生じても、他のポジションの者がカバーできる可能性が高いスポーツと違い、野球は一つ一つのプレイが個人の裁量に支配される。


それぞれが自分の与えられた仕事をする。それを越権して違う者の領域をカバーするという必要性は少ないし、そもそも出来ないことが多い。


フォワードでも、ミッドフィールダーでもディフェンスでも、ゴールは狙える。


しかしキャッチャーがいきなりピッチャーをして三振を奪うことはなかなか出来ない。そういう理屈だ。


創英の野球はまさに、それぞれの役割を理解し、完全に分業している野球だ。役割の幅にこそ差はあれ、専門外のことに関しては何を言う権利もない。


それが究極にまで突き詰められた結果、創英の選手は自分の役割を担い、他者に奪われないよう守ることに専念するようになってしまった。


それがゆえに、中途半端な気持ちで他者の領域に踏み込むことはできないし、踏み込んで地雷を踏む気もない。


これが仙崎の競争社会の狙いだというのなら、原因と結果を判別しやすい実にシステマティックな構図だ。


しかしそれは、こんな社会の中でも集団競技としての可能性を模索しようとした坂本拓実にとっては実に苦痛を伴うことになっただろう。


マウンド上で倒れた兄、肩を落としマウンドを降りる小関。彼らにもし手を差し伸べる仲間がひとりでもいたならば――


悪いのは構図を作りだした仙崎か。それともその構図に疑いを持ちながらも飲みこまれた選手たちか。


答えが出たところで、丈二にはどうしようもないことだった。


6回のウラになって、雨が強くなり始める。


地面に舞い落ちる程度にしとやかだったその足音は、ぱちぱちとベンチの屋根を鳴らし、不躾ぶしつけなものに変わっていく。


湿り気を帯びていた程度の土も、さらに水を含んで次第にゆるく結束する。


客席に咲く傘の華がとたんに増えた。


先ほどまで打者にとって逆風であった風も、何を心変わりしたのか方向を真逆に変える。


この土の具合、風の具合を好機と見るのが、創英の野球。


この回の先頭は1番、久坂。ここまで外野にはじき返そうとしてきたスイングを、いきなりダウンスイングへと切り替える。


真人の速球に対し、久坂は十分に対応することが出来ていない。しかし当てるだけであれば、できる。


総陵戦、秋山光が編み出した真人の速球攻略法、大根切り。


それに近いダウンスイングで、久坂は真人の球をインパクトした。


結果はドン詰まりのショートゴロ。しかし――


ぬかるみかけのグラウンドでは、ゴロがバウンドしない。叩きつけられた球の勢いが死んでいく。


予想の軌道と違うバウンドを見せる球に、考は慌てて前進して処理する。


しかし、投げられない。



2番生野の打席。3球目、ランナー久坂が走る。


スタートを切ったのを確認して、一人も送球の体勢を整えるが――


運悪く真人の投球は低くコントロールを誤まってホームベースで跳ねる。


何とか捕球して送球を試みるが、またも投げられず。


捕球をしたまではよかったが、掴んだ球は泥にまみれて滑る。


上手いな、天候の変化を見逃さない。


マスクにかかった泥を手で払いながら、一人は仙崎を見る。


天候の変化は何人にも操れないとはいえ、変化から生じる結果を利用することは出来る。


変則的かつ柔軟な野球を信条とし、そのノウハウを持つ創英にとってはこれ以上ない環境。


そして新参、急ごしらえの稲嶺にはそんな応用力は皆無に等しい。


個々の実力とは別のチーム力が問われている。


4球目、二塁ランナー久坂がスタートを切る。


まさか、三盗!?いや、これは――


打席の生野は大根切りのバットを前に出した。





ヒットエンドランで放たれた打球はセカンド、翼のもとへ。


「へっ、余裕!」


軽快な足取りで前に出て、球をさばく翼。しかし意図的に泥の中へ叩きつけられた球はしっかりと水をまとって、滑る。


「なっ!」


いくら圧倒的なフィジカルを持つこの男といえど、ブランクはある。ましてや、こんな特殊な状況での野球には耐性がない。


いつも通り投げたはずの一塁への送球は、ファースト優まで届かず、水切りをする石のように転がる。


その間に生野は一塁を駆け抜けてセーフ。


――だけではない。




「優!何してる!バックホームだっ!」


一人がマスクを投げ捨ててホームから叫ぶ。


目の前の走者を刺すことに躍起になった翼と優は、三塁を蹴った久坂の存在に気付けなかった。


慌ててホームへ転送する優。


しかしこれまた焦りと滑りで反れる球を捕球をするのが精いっぱいで、一人はブロックが取れない。


「セーフ!セーフッ!」


一瞬にして1点を奪い返された。


たった1本のヒットで。



未だノーアウト、ランナー一塁。


3番打者は、打席に入るなりバントの構え。


送りバント?


しかし生野だって十分に走って来れる足がある。構えだけか。


いやしかしこのグラウンドだ。バントで確実に転がして、またミスを誘うなんて考えも――


一人は一瞬で3つの可能性を仮定して組み立てる。


様子見で高めに釣り玉を1球、外角にカーブも1球。


2ボールとなって、それでもバントの構えを引くだけで動かない打者。


やはり、構えだけか。切り替えて、内角ストライクゾーンに直球を要求。


しかしその結果は、一人の予想したどのパターンでもなかった。


ランナー生野がスタートを切る。やはりバントの構えはアシストか!なら、バントの構えは引かれる!


補殺のために腰を浮き上がらせる一人。しかし打者のアクションは――


――ヒッティング。


バスター※だって!?





※バスター…バントの構えを瞬時に引き、ヒッティングに切り替える奇襲策。送りバントを予想し、前進守備を図る内野の頭を抜く強硬な戦術として有効。盗塁と組み合わせる、バスターエンドランはこの策を応用した高度な技術。





転がった球は、真人の横を抜け、しぶとくセンターへ。


ランナー生野は止まらない。二塁を蹴る。


「丈二!三塁だっ!」


水を含んだ芝で、転がりを止めようとする球を走り込んで掴み、丈二の強烈な返球がサードに投げ込まれる。


球の滑りをモノともしない握力で、送球は正確にサードのグラブにおさまる。


タッチは――


「セーフッ!」


生野の足がまさった。


「すまないね、ウチはこんなところで負けるわけにはいかないんだよ」


ノーアウト、ランナー一、三塁。


打席には4番、瀬良。


勢いの死んだ内野ゴロを何としてもバックホームするため、内野は前進。長打を警戒し外野は下がる。


「お決まりの布陣か。残念だけど、狙ってないんだよね」





「ファウル!」


「ファウルボール!」


「ファウル!ファウルボール!」


瀬良はストライクボールをことごとくファウルゾーンにさばく。


カウント2-2。しかし瀬良ひとりに要した球数は13球。


雨あし強まる中、全力投球を続ける真人の体力を、目の前の打者と、ユニフォームにしみ込む冷たい水滴が奪っていく。


そんな中でも、マウンドの父は変わらぬ速球を投げ込んでいるように見える。


しかし、明らかに体温は次第に下がり始めているはずだった。


ポケットに入れたロジンバック(滑り止め石灰のふくろ)を握り、また球に手をかける。


まずい。瀬良の狙いは目の前の一点ではない。早くこの回を終わらせなければ。


一人はサインを切り替えると、真人は一瞬怪訝な顔をしたが、うなずいた。


サインは、敬遠(意図的に勝負を避けるフォアボール)だった。


「おいおいここまで来たら勝負しなって」


瀬良はあからさまに退屈そうな声で一人をなじる。


「まぁ、もう十分だけどね。遅いよ、気付くのが」







遠くの雷鳴が聞こえた。そろそろ雷親分の登場というところか。


グラウンドでは風の子分が雨粒を横殴りにあおり、横暴に指揮している。


その中心で、四方からの冷たい嵐にさらされる真人は、濡れた顔を袖でぐいとぬぐってミットを見据える。


瀬良をフォアボールで歩かせ、ノーアウト満塁。


しかし瀬良の言うとおり、一人が瀬良の、いや仙崎の策に気がつくには遅すぎた。


ここまで真人の球数は126球。そのうちこの回で費やしたのはなんと34球。


先発投手の体力指標として、100球というのは一つの目安だ。到達時点の調子で交代が考慮される。


6回まで無失点できたとはいえ、強力な創英打者ひとりを抑えるのにもかなりの力を要したため、真人のここまでの負担は決して軽くない。


そして創英は、雨が降り出し、投手の肩を冷やす悪条件が固まったところで真人に球数を投げさせる作戦にシフトした。


その結果は、次の打者への投球に表れてしまう。



「デッドボール!!」






制球を誤まった球がのけぞった背中に当たって、打者はその場に倒れ込み悶絶する。


140キロ後半の速球だ。激痛は必至。倒れ込んだ打者に、主審が声をかけている。


真人は慌てて帽子を取った。しかし、相手ベンチも、仙崎も、もちろん騒がない。


痛恨の死球によって、同点のランナーが生還。


2 対 2


死球。確かにコントロールミスによる死球だが、これは事実上瀬良の打点だと一人は思った。


冷たく身体を刺す雨によって奪われる体力、十分に温まらない肩、神経が届かなくなる指先、そして、ロジンで細心の注意を払っても滑る球。


真人のベストな投球をはばむ要素は出揃い、それを長引かせた瀬良の粘りはとどめの一撃と言ってもよかった。


変わらず満塁。悪化するコンディション。


死球を与えたことで、真人は心理的にも動揺を隠せなかった。先ほどまで冷静に見据えていたミットをなかなか直視できない。


何度もこめかみにしたたってくる水滴をぬぐって、間を作ろうとする。


しかし、もうストライクが入らなかった。


6番打者に対し、カウント3ボールとなったとき。


「タイム!」


稲嶺ベンチは動いた。


*


『稲嶺高校、守備の交代を申し上げます。センター坂本くんが稲葉くんに代わってピッチャー、ピッチャー稲葉くんが坂本くんに代わってセンターに入ります』


「丈二くんに、交代ですね」


「まぁ、そうするしかないだろうな」


お手製の雨避けビニールを使いながら、レインコートを羽織った絵里はスコアに交代を手際よく書きこんでいく。


「心配か?」


「えっ?」


「まさ坊だよ」


絵里はきょろきょろと目を泳がせて、少しだけとつぶやく。


「でもきっと大丈夫です。前みたいに焦ったりしてないはずですから」


泳がせた目を止め、マウンドをしっかりと見据えて言った。


「そうか」


「でも本当におばぁちゃんの言った通りに――というか創英さんの方が雨に好かれてるみたいですね」


「あぁ。正しくは、創英が雨を好いているんだ。だから上手く使う方法もよく知ってる」


「なるほど」


不思議なもので、傘一本しかさしていないふたばぁは他の観客よりも濡れていない。雨粒でさえも、この魔女は避けて通るのだろうか。


「まさ坊の正攻法、馬鹿正直な戦い方は打者個々の実力を浮き彫りにしてくれる分かりやすい戦い方だがね、鼻から相手にされてなきゃ、その反動をもろに自分でくらっちまう。ずっとカウンターパンチもらってるようなもんさ」


「はん、真正面から勝負しねぇ野球なんざ野球じゃねぇよ。だから創英は嫌いなんだ」


二人の背後から、男の声がかかる。その主は――


「ふん、くだらんプライドにとりつかれおって。ごたくを並べようが勝たなければ意味がないのだよ。ヒット一本で満足しているようでどうする」


総陵期待の1年にしてみちるの双子の兄、光はふたばぁの隣に腰掛ける。


「喜ばせてくれよばぁちゃん、やっとこさの一本だぜ?」


「それがくだらんプライドだというんだ。お前は黙ってあいつらと同じチームで野球をしていればよかったのだ。それを――」


「あぁ、わかったわかった。もうそりゃ聞き飽きたよばぁちゃん。今更だぜ」


「あの、光さんですか?」


「そうだけど、おたくはどなた?」


「す、すいません!稲嶺でマネージャーをしてます黒田絵里です!」


「あぁ!」


「ウチの妹がいつも世話に――」

「みちるさんにはいつもお世話に――」


重なる言葉に、お互いが吹きだした。しっかしあのじゃじゃ馬の相手は疲れるだろうと、ふたばぁと全く同じことをいう光に、絵里はさらに笑った。


「光さんも観戦に?」


「そう、創英がぶっ飛ばされる気持ちのいい絵を見にな。本当は俺たちがぶっ飛ばすはずだったんだけど」


光が肩をすくめると、ふたばぁはとなりでくっくと低く笑う。もう言うなよと光は釘を刺した。


「しっかし空も内容も湿っぽい試合になって来たな」


「だが、創英としてはまさ坊より酒屋のせがれの方が戦いにくい相手だろう。データをもとに対策を組むには、酒屋の情報はちと少ないからな」


丈二くんの重い球、こんな天気の中ならきっといつも以上に重く感じるんだろうなと、絵里はなんの根拠もない想像を巡らしながら濃い灰色の空を見上げた。





*


そちらが雨を利用するのならば――


一人が敷いた布陣は、実に極端なものだった。


内外野ともに極端な前進守備。


外野が頭を越されれば、走者一掃の長打は必至であるリスクの高い作戦に打って出た。


しかし、これが当たる。


丈二の鉄球は、ただ重いと分かっているだけではどうも対応のしようがない。実際にインパクトした打者は一瞬その衝撃に戦意を喪失する球だ。


常人に比べて大きな手のひらで握り込まれてリリースされる球は指に頼る割合が少ないため、この悪条件の中でもコントロールのブレが少なく、一人のサイン通りのコースに決まる。


真人が作った3ボールという状態から、丈二は見事に三振を奪って見せた。


そして次の打者がしびれる腕で放ったのはボテボテのセカンドゴロ。


「翼、大事にだ!」


「わかってらぁ!」


極端な前進守備の正面にやってきた打球を簡単にさばいた翼は本塁へ送球、難なく本塁へ突っ込むランナーを殺し、一塁へ転送。


4-2-3でダブルプレーの完成。


ここまでの苦戦が嘘のように、稲嶺は一瞬にしてピンチを突き破ってしまった。


雨に好かれる方法、勉強させてもらったよ。


無表情を貫く創英ベンチの仙崎に対して、一人は一方的に視線を送った。


さぁ!反撃だ反撃だ!びしょぬれになりかけているナインを出迎えて、みちるは息巻いている。


ベンチに戻った真人と、丈二は無言でハイタッチ。


いきなりノーアウト満塁、ノースリーという絶対絶命、投手であれば一番上がりたくないであろう場面にリリーフして見事無失点に抑えてしまう丈二の強心臓に、一人を始め部員たちは改めて驚愕した。


こいつに緊張という感情はないのか。


これほどまでにセットアッパー、クローザ―に向いている選手は他にいない。


一方真人の目には、前回のような負い目はない。それぞれに合った場面で仕事をした、チームプレイであるという思いが彼の中に芽生えていた。


ピンチのあとにはチャンスあり。


メークドラマのシナリオ通りなら、そんなポジティブな観測が待っていそうなものだが、この試合に限って残念ながらそんなことはなかった。


原因は小関のあとにマウンドに上がった創英に背番号11番にある。


佐久間、清司。


一人はこの名前に聞き覚えがあった。




かつて東京のプロチームに所属し、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、そして沢村賞などを総なめにした天才左腕。


2度のノーヒットノーランも記録している名実ともに大投手のひとりだ。


しかし投手として脂の乗り切った時期であるプロ入り10年目、28歳にして突如球界を去ってしまった謎多き男でもある。


そうか、彼も創英の出身だったな。


この試合が今大会の初登板となるだけに、一人も見落としていたファクターだった。


彼の特徴は何といっても左のサイドハンド(後述)から繰り出される角度のある直球と、打者の予想をはるかに上回る変化量のスライダー。


そのあまりの変化ゆえに、打者のスイングと全く見当違いの場所で捕手が球を受けるという絵を、真人は子どものころテレビで何度も見、衝撃を受けたものだった。


そんな大投手が、今自分の目の前にいる。


ただ見るだけなら野球ファン必涎の光景だが、目の前の佐久間はまぎれもなく敵だ。喜べるはずもない最悪の敵。


証拠に、6、7、8番の下位打線とはいえ、佐久間の球に稲嶺のバットはかすりもしない。


「何だよあの球は。なんであいつがエースじゃないんだ!?」


あまりの角度と変化量にまったく自分のスイングをさせてもらえなかった真人が頭をくらくらさせて戻って来る。


打てない球=力でねじ伏せる剛速球という考えの真人には、佐久間の三次元を駆使した投球は理解しにくいものなのだろう。


何にせよ、厄介な相手が出てきてしまった。


しかし丈二も負けてはいない。前進守備をデフォルトに据え、内野ゴロが来ると読み切った守備陣形が当たる。


直球とわかっているのに、打てない。


丈二が投げているのは、ここまで直球一本。球速は出ても135㎞/h。にも関わらず、創英の下位打線はゴロしか打てない。


「落ちついて!」


ぬかるみかけたグラウンドに転がる球を大事に処理し、確実にアウトをとる稲嶺。


7回ウラの創英の攻撃を難なく三人で切る。


理論だけでは太刀打ちできない球、決して折れない精神力を持った選手。


まさに創英野球の天敵と言ってもいい。


それもこの天敵は、ぼろ雑巾のように使い捨てた、かつてのエースの弟であるというのは何の巡り合わせなのか。


まるで坂本拓実の亡霊が、怨念を持って自分たちの前に立ちふさがっているように創英の選手たちには感じられた。


そんな思いから、バットが思うように前に出ないということもあるのかもしれない。


ホームランを放った打席と同じ様に、黒く、重い妖気にも似た覇気を放ちながら、丈二は投げた。


その1球ごとに、兄の無念を晴らしているという実感があった。自分の、家族の抱えてきた思いをぶつけているという確信があった。


しかしその欲求と渇きは満たされることなく、止めどなくあふれてくる。


いや、いい。


これが、勝利に、復讐の完遂につながるというなら、俺は投げる。


鉄球はさらに重く、相手打者のバットを砕かんばかりの力を放っていた。


「タイム!代打!井上!」


8回表、市村が雨を嫌いながらひょうひょうと出て行って告げた名前に、ベンチの全員がギョッとしてみちるを見た。


「えっ、えと、みちるさん、先生間違ってますよ。早く訂正しにいかないと――」


「なんにも間違っちゃいないわよ、いのちゃん。いよいよあなたの出番よ」


部員の誰よりも耳にしたコールを信じられない道本人はみちるに確認を求めるが、それは事実だった。


なんだ、血迷ったのか、みちるは勝負を捨ててしまったのか。


そんな思いを抱くのが部員の大半だった。しかし、みちるは何の不安も表情に出さず、自分より少し高い背丈の道の頭にポンと手を置く。


「あたしは最初から、あなたをこの試合で使うつもりだった。そのタイミングが今。ただそれだけのことよ。見せてやりなさい、今までの練習の成果を。創英だけじゃない、今あたしの起用を疑ったこいつらもねっ」


大半の部員がぎくりとのけぞった。やっぱりバレてる。


道はきょろきょろと所在なく視線を落とし、目をぱちくりさせたが、意を決したようにみちるを見据えて言った。


「はい、僕やります。見ていてください!」


「うん、頑張ってきなさい。愛弟子よ!」





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