二節フリバー・ライヘルド24
震える身体を言い聞かせて、フリバーはナイフを手に取ったのは、ブレイルが聖剣を抜いたのと全く動じの事だった。
ナイフを握りしめたまま、フリバーは見知らぬ声がした方向へと振り向く。
それは、路地の入口。大通りへと抜ける細い出口の前。ここから5mほど離れている場所に。
立っていたのは、一人の男。
黒い服を纏った男。
自分達とは違い、武器なんて何も持っていない、ただの男。
「――……っ!」
それでも、息を飲む。見た瞬間に気が付く。
男が纏う、黒い空気に。
その場は酷く冷たく、凍り付くように寒い、張りつめた空気に。
この、殺気は、あの男が出しているモノだと。
男は、鋭い黒い眼に二人を映しとり、小さな笑みを浮かべていた。
「おまえ、アドニス――!」
「!」
隣からブレイルが声を上げる。
フリバーは思わずブレイルを見た、彼を見て、もう一度目の前の男に視線を戻す。
――アドニス。
もう一人の、『異世界人』。
ブレイルが殺し屋だと断定した。“死”の側にいる男。
その男が、アイツだと言うのか。息を呑む。
いや、呆然としている暇なんてない。
フリバーは額に冷や汗が流れ落ちるのを感じながら、ナイフを握りしめた。
「――なんだ。もう一人はどうした。女が一人いただろう」
そんな此方の様子にお構いなしに、アドニスが口を開く。
うっすら湛えていた笑みは消え、鋭い眼があたりを見渡す。
視線が此方から離れた。
しかし、フリバー達からすれば一瞬たりとも目は話せず。油断も出来ない状態は変わりない。
目を逸らせば、危険であることが嫌でも察していたのだ。
ただ、考える。アドニス。この男が言う「女」とは?
いや、簡単だ。この状況から考えて、おそらく彼女の事に違いない。
「な、なんだ!俺達に何の用だ!」
先に声を荒げたのはブレイル。
ただ、その声からは緊張感が走り、表情は余裕がなく、聖剣を握りしめる手に力が入る。
嗚呼、当たり前だ。
アドニスの殺気は全く衰えていないのだから。――……怖い。怖くてたまらないのだ。
「――何の用だ、か」
アドニスがポツリと呟く。彼の視線が此方に戻る。
酷く面倒くさそうに、整った顔を顰めて、懐に手を伸ばす。
その僅かな行動に、ブレイルも、フリバーも肩を震わす。
「なんだ。つまらん連中だな」
二人を前にアドニスは笑む。
しかし、その眼は酷く呆れ果てたようなものだった。
フリバーは静かに眉を顰め、声を出す。
「物騒なのは何方だ。そんな、恐ろしい殺気を出しておきながら」
声が震えるのが分かる。笑みを浮かべる余裕も無い。
フリバーの言葉に、アドニスは僅かな溜息を一つ。動きを再開する。
彼の手が動く。懐から何かを取り出す。
緊張が走る中で、彼が取り出した其れは、1つの紙袋。
疑問に思う前に、アドニスは手にする袋をブレイルの足元へと投げ捨てたのだ。
「――ほら、薬だ。“医術”からのな」
そう、どこか面倒くさそうに小さく呟いて。
これに首を傾げずにはいられない。
「薬……?」
「ああ」
アドニスが頷く。
「特別に調合した、薬だそうだ。ブレイルってやつに渡せと言われたんだが……」
「――!」
名を呼ばれ、ブレイルは表情を変える。
だが、それも瞬間。再び彼の表情は険しい物へと変わった。
「パルの薬か!?」
「――ん?しらん、ピンクの髪の『異世界人』の薬だそうだ」
特徴を聞いても、それはパルしかいない。
だが、何故彼が?
フリバーと同じ考えにブレイルも至る。
「なんでお前が――!」
「だから、頼まれたんだよ。治療が出来ない代わりにだとさ」
ブレイルの問いは、あっさり返された。
何故だろうか、アドニスの言葉の端々、態度からは嘘偽りは一切感じられない。
ただ、身体が危険信号を送り続ける。嘘はついていない、だが決して目を逸らすな。
それはブレイルも同じ。
ただ、今の彼にとっては何にだって縋りたいのだろう。“医術”の名を出されれば尚更だ。
だから、ブレイルはゆっくりと膝を付く。
聖剣を利き手に握りしめながら、足元に落ちた薬の袋に手を伸ばすのだ。
刹那。――アドニスの、口元は吊り上がった。
「――!」
黒の陰が地面を蹴りあげる。
いや、正確に言えば、蹴り上げた所なんて目にも映らなかった。
ついさっきまで立って居た処から唐突に消えた。この表現が正しい。
だから、それはフリバーの憶測。蹴り上げて、男は移動したのだと。
いや、どちらでも、良い。
アドニスは、一瞬にして、ブレイルの目の前まで移動していたのだから……。
「――がっは!!」
ブレイルの口から、声にならない音が零れる。
冷たい大きな手が、容赦なくブレイルの肩を掴み上げ、容赦なく地面に叩きつけたのだ。
背中を叩きつけられたブレイルの手から、聖剣が投げ出される。
フリバーが我に返るよりも先に。
理解が追い付くよりも先に、もう片方の手がフリバーのナイフを握る腕を掴み上げた。
ぐるりと世界が揺れる。次に後ろ首に冷たい手の感触。うつ伏せに倒れ、身体全体に感じる鈍い痛み。
ブレイルと同じ様に、アドニスの手によって、地面に叩きつけられたと理解するまでに酷く時間が掛かった。
あまりの衝撃で息が出来ない。抑えられている首が痛くてたまらない。
ただ、妙に頭だけはハッキリしている。
この瞬間で、あの一瞬で、この男は二人を押さえつけたのかと。
それも、此方に迫りくる瞬間は、目にも見えなかった。
「――なるほどな。これは、骨が折れそうだ……」
鈍く感じる痛み。折れるのではないかと思えた痛みが、軽くなる。
アドニスが手を離したのだ。同じように、ブレイルからもアドニスは離れる。
フリバーが首を押さえ、身体を起こすと同時、その手に何かが押さえつけられたと同時。
驚き顔を上げた瞬間に、アドニスの姿は目の前から消えていた。
「――――っ!?」
「よわいな、お前ら」
つまらなさそうな声。気が付けば、黒い影は再び、路地裏の出口の前にいる。
いつの間に、あそこ迄移動したと言うのだ。また、目でとらえることも出来なかった。
ただ、あの恐ろしいまでの殺気が当たりから消えている。
反対に送られるのは、冷たい視線。心底飽きたと言う様な、物へと変わっていた。
フリバーは思わず、眉を顰める。
――この男の真意が、全く見えない。
何故、どうして、この男は、自分達の目の前に現れ。剰え襲ってきたと言うのか。
「お、まえ…!」
側で、同じように肩を押さえるブレイルが声を漏らす。しかし動けないようだ。
いや、彼は恐らく、自分より強く、背中を叩きつけられたのだ。暫くは動けないだろう。声だってうまく出ないはずだ。
それでも、もう興味も失ったように此方を見据えるアドニスに、擦れながらも声を張り上げる。
「――お、まえ!なんの、つもりだ!」
「タナトスからの命でね」
当たり前のように彼が答える。
ブレイルがその言葉に理解し、顔を歪ませていったのは瞬間。
「お、まえ!!あいつの居場所を!!」
ようやく声が戻る、でも身体はまだ動かない。何とか身体を起き上がらせるのが精一杯。
そのブレイルの様子に、アドニスは完全に興味を失ったのか、背を向けた。
ポケットに手を入れ、音を鳴らしながら、問いに答える事無く、この場を離れていく。
その様子は、ブレイルを逆上させるには十二分だ。
「お前!!――なんで、アイツの側にいるんだよ!!あいつの正体を知らないのか!!!!」
アドニスの歩みが止まった。
彼は、もう一度振り返る。
振り返って、ブレイルを映しとる。黒い黒曜石の瞳に。
そして、笑みを一つ。口を開く。
「――この世界の『死』だろ。勿論しっているさ。知っていて、俺はあの子に付くことにした」
あまりに、冷静に、当たり前に、全てを肯定したのだ。
これに目を見開き、口を閉ざしたのはブレイルだ。
反対に、フリバーは違う。自分も同じ様にエルシューには協力しないと言ったのだ。
そんな存在がいても可笑しくないと最初から分かっていた。
だが、彼を見て気が付いた事がある。――この男は自分と違う。
「死を消したこの世界」を案じて、エルシューを突き放したのではない。別の理由がある。
「――何故だ。何故、“死”に協力する!」
だから、問いただした。
疑問のままに、問いただす。
僅かな間、アドニスは、口を開く。
「あれは……」
そう、一息おいて。
「――そう、美しい。だから、俺はアイツを主としただけだ」
僅かな笑みを浮かべたのだ――……。
辺りが静まり返るのが分かる。
その表情に、言葉にフリバーもブレイルも呆然とするしかない。
――……理解など追いつく筈も無い。
愕然とする二人を前に、アドニスは鋭い眼を細めた。
もう笑みはない。無表情のままに、彼は最後に言う。
「――じゃあ、またな」
ただ、そう一言零して。
何事も無かったように、路地から出ていくのだ。
黒い影がゆらりと視界から完全に消える。
「――おい、平気か」
「あ、ああ。骨は、折れてない」
すこしして、まだ起き上がるのがつらそうなブレイルにフリバーは手を貸す。
肩を借りて漸くブレイルは立ち上がる事が出来た。
ただ、2人とも理解できない。あの男の全てが。
薬を届けに来た、コレは分かった。“死”の正体を知った上で協力している。コレも理解出来た。
だが、何のために自分達を襲い、彼が何故“死”に協力しているか。――この答えが見つからない。
頭が上手く回らない。
「……取り敢えず、家まで行くぞ」
フリバーはブレイルに肩を貸したまま、リリーの家に身体を向ける。
ブレイルは無言だ。無言のまま、大人しく従っている。
その姿を見て、小さく息を付く。
今日は、本当にコレで解散すべきだ。
そう、判断して。
――アドニスから手渡された、手にある小さなメモをきつく握りしめるのだ。
『彼』




