悪夢
黒いネット。
見慣れた長方形のコート。
そこに立ち、右手に握るのはラケット。
左手には黄色いボール。
観客席では、美由と美世ちゃんが応援している。
この1球を大事にしないと……
俺は1つ息を吐くと、トスを上げた。
いける!
ただ、そんな思いとは裏腹に……右手は動かない。
なんでだ……なんでだ……なんでっ!
「はっ」
気が付くとそこは見覚えのある光景だった。
薄暗く、目の前には天井が広がる。
自分が夢を見ていた事に気付くのに、そこまで時間は掛からなかった。
……またあの夢か。
すっかり見なくなったと思ったのに、ここ最近また見る様になった夢。いや、悪夢と言った方が良いのかもしれない。
「ふぅ」
思わず零れる溜め息。そんな時だった、
「悪い夢でも見た?」
横から聞こえる声。
思わず視線を向けると、そこには少し心配そうな表情を浮かべる美由がいた。
……そう言えば今日は美由が来てたな。肘は……いつも通り柔らかい感覚に包まれてる。とはいえ、下手に何事もなかった事にしようとしても、美由には通用しないだろうな。
「いや、テニスの夢見てさ?」
「テニス? あっ、ごめんっ! 右肘痛かった?」
その瞬間、少しだけ右腕の感覚が緩む。
そんな泣きそうな顔するなよ……
「大丈夫だよ。むしろ柔らかくて良い感じだ」
「本当? いつでも貸してあげるから」
「さんきゅ」
「いっそのこと、Tシャツの中に入れる? 首元から……」
なっ! それはやり過ぎだろう。
「それはいいよ」
「直に人肌が良いなら、いつでも言ってね?」
「はいはい」
まったく、提案が両極端だっての。まぁ、心配してくれてるのは全身で感じるんだけどさ?
「ねぇ、空くん?」
「うん?」
「1人で抱え込まないでね? 今は私達が傍にいるんだから……」
傍にいる……その言葉が耳に入ると、少しだけあの時の光景が蘇る。
俺がテニスと出会ったのは、小さい頃だった。
何でも母さんがテニスをしていたらしくて、そのラケットに興味を持ったのが始まりだったらしい。
そもそも、俺には母さんと過ごしたという明確な記憶はない。話だと、俺が1才半くらいの時に事故で亡くなったそうだ。
それ以来、写真や父さんのスマホに保存された画像。動画なんかで、顔や声なんかは何度も見て来た。それでも、直接覚えている記憶は……ない。
けど、そんな俺がやたらと興味を持ったのがテニスのラケット。それが父さんは嬉しくて仕方がなかったらしい。すぐに、近くのテニスコートに行ってレクチャー開始。
大学時代にサークルでかじった程度だという腕前だけど、色々な本やネットを参考に教えてくれたっけ。
その内、美由達とも出会ってさ? 最初は父さんの知り合いの子だと思ったよ。
けど、年が同じ位で仲良くなるのに時間はか掛からなくて……一緒にテニスやってたよな?
こんな感じで、俺は京南小学校へ入学。そのままテニス部に入部したんだ。成績はさ? 正直、そこまで突出はしてなかったよ。それでも純粋にテニスが好きだった。
でも、中学に進学して……俺は肘を痛めた。
信じられない激痛に、最初は驚いたよ。けど、安静にしてれば治るって事で治療に専念したんだ。
でも焦ったよね。同級生達が上手くなっているのに、俺は治療。その差が開くのはとんでもなく怖かった。
だから……完治する間もなくまたテニスをしてしまった。病院の先生にも父さんにも嘘を言ってさ。今思えばバカだったと思う。
その結果を知っているからこそ尚更。
結局、再発してしまったんだよね? けど俺はバカだからさ……同じ事繰り返しちゃったんだ。その結果は……ご覧の通り。
重症化して……満足にラケットが触れなくなった。
治療にどのくらいかかるか分からない。
そう先生に言われた時は絶望だった。
ましてや、その位から樫乃の様子がおかしくなって、あの出来事が起こって……最悪だった。
1人で……この部屋で過ごして……毎日泣いていたっけ。
まぁ、そんな時……定期的に会うようになっていた美由と美世ちゃんは、直ぐに俺の様子がおかしいって気付いたみたいだ。
目一杯笑顔でさ? 色んな事誘ってくれて……色々遊んでくれて……話してくれたんだ。
テニスからちゃんと離れるキッカケをくれたのは、まさしく2人のおかげだと思う。
そして2人が正式に家族になって、嬉しくて……毎晩のように見ていた悪夢も、全然見なくなっていた……はずだったんだけどな。
ここ数日、再び現れた悪夢。
そして、美由の言葉。
―――1人で抱え込まないでね? 今は私達が傍にいるんだから……―――
確かにな、あの時は1人だった。まぁ父さんも居たけど、仕事とかもあったし、心配もさせたくなかったって意地もあった。
でも、今は……美由も美世ちゃんも居る。1人じゃないんだ。
「美……んっ!」
その言葉に応えようと、美由の方へ顔を向けた瞬間だった。唐突に唇に感じる柔らかさ。そして、
「んっ……んん……」
口の中で絡み合う、温かい感触。
「はぁ……これで元気出た? 空くん」
「げっ、元気って……」
不意打ちは流石に驚くっつうの! まぁでも、
「空くんに辛気臭い顔は似合わないよ?」
2人の存在のありがたみに免じて、
「ありがとな?」
「ふふっ」
許してあげるか。
「元気出たみたいだね? ……あっ、当たってる」
「ん? 当たってるって……」
「ふふっ。えいっ」
「うおっ! なっ、どこ触ってんだよ!」
「触って無いよ? テントを撫でただけ。けど……うんうん。こんな事になってるなら大丈夫だね?」
なっ……生理現象なんだから仕方ないだろ?
「しっ、仕方ないだろ」
「仕方ない……ねぇ……もっとしてあげようか?」
「はっ、はぁ?」
「それか……私の触ってみる?」
っておぃ! 体揺らすな! 右腕に摩擦がっ!
「なっ、何言ってんだよ! 大体キスしただろ? それで満足してくれ」
「えぇ~? だったら足りないよ?」
「たっ、足りないだと?」
「うん」
……いっ、致し方ないか。今日だけはもう1回許してあげても。
「じゃああと1か……んっ!!!」
「空……んっ…………くん……」
そこからしばらくの間、俺の記憶は……
空白のままだった。
次話も宜しくお願いします<m(__)m>




