決別と記憶
私を突き飛ばす手。
鈍く光る刃物は誰の手にあるのかわからない。
「逃げてっ! 夕月……!!」
だけどその声だけは……
ハッと目が覚めて飛び起きれば、最近になってようやく見慣れてきた美しい天蓋。ベッドの振動で微かに揺れたそれは朝なのに夜を思わせる深い紺色。
以前はもっと明るい色だった気がするが、煌びやか過ぎるからやめてくれと言ったら一番地味な紺色の天蓋に変えてくれた。それでも十分高価なものではあるが、元の世界に帰りたいと思っている自分には過ぎたものだと思ったのだ。
夜の明かりは否応にもあの頃のことを思い出す。
私の人生で最も忌むべき過去であり、何よりも私を縛る記憶はあの日から私を前に進ませてはくれない。
コクンと唾を飲み込み、呼吸を整える。
昔からの癖はいつからかしなくなっていたのに、一体いつからまたするようになっていたのだろう。
ぎゅっと胸元を抑えながらもう一度喉を鳴らす。
「大丈夫。忘れてない。忘れてないよ……お母さん」
世界を超えたくらいで消していいものじゃなかったんだ。
見慣れた天蓋は綺麗な紺色。
この色と別れるのもあと少しだろう。
◆◇
招かれた部屋は広い宮殿の中でも、使われ始めてまだ新しい可愛らしい部屋。執着しないように、愛着が湧かないようにと頓着しなかった自分の部屋とは違ってこの部屋はとても住み心地が良さそうだった。
控えていた侍女に来訪の旨を伝えると部屋の主人を呼びに行ってくれた。
小走りで近づいてきたその人は額に薄っすらと汗を滲ませながらも愛らしい笑顔で夕月を出迎えた。
「ユエさんっ! 遅くなってすみません! お茶に誘ったのは私の方なのに」
「気にしないで。私も楽しみで時間より早くきてしまったから」
ニコリと笑った彼女ーーー藤堂有望は嬉しそうに微笑んで夕月をテラスへと案内した。
藤堂有望はこの世界に現れた二人目の花嫁。20歳になったばかりの大学二年生で、ようやく大人の仲間入りをした可愛らしい女の子。
彼女と私を繋ぐ共通点は扉を開けて突然異世界に来たということだけ。それ以外に何か目立ったことはなかったし、生まれも、性格も何もかもが違うから私達がこの世界にきた手がかりは得られなかった。
「すみません。何もお役に立てるような話ができなくて……」
「ああ、気を遣わせちゃってごめんね。私がきた時の状況も似たような感じで凄く唐突だったし、帰り方がわからないからせめて来た時の情報を整理しようと思っただけだから。有望ちゃんは全然気にしなくていいんだよ」
シュンとしてしまった彼女は本当に今時珍しいくらい良い子だった。心細いということもあるだろうが夕月を慕って頼りにしてくれるし、感情表現は素直なのに怒ったり当たり散らすことはなかった。
まだ20歳で十分若いのに周りをきちんと見れる頭もある。本当にしっかりとしたお嬢さんだ。
手作りをしたと言っていた焼き菓子を口に運んで大事に味わって食べる。どこか懐かしい味に目を細めると恐る恐るといった様子で話しかけてきた。
「あの、ユエさん。ずっと聞きたいことがあったんですけど……」
「ん? 私に?」
「はい。その、ユエさんはやっぱり帰りたいのかなって。元の世界に……」
有望ちゃんには私が知る限りのこの世界の情報を伝えてきた。流石に魔法の指南までは時間がなかったけれども、生活様式の違い、四つの国のこと、花嫁のこと、四天獣のこと。
けれどそこには少しも自分の意見を口にしたことはない。花嫁についての憤りも、四天獣の人柄も何一つ有望ちゃんには教えなかった。
そこには勿論私の言葉で彼女の気持ちを歪めてしまうのが嫌だったこともある。だけど他にも彼女に察して欲しくない気持ちがあったことも確かだったから敢えて何事も感情的にならず平坦に伝えてきたつもりだった。
だからこういう言葉が出てきたということは彼女がとても人の機微に敏感な子である証拠でもある。今までの会話から私の心を感じ取った証なのだ。
だから私は笑って答えた。
よくできましたと褒めるように、微笑んで。
「うん。帰るよーーー絶対に」
◇
静かな夜だ。月でさえも時折雲に隠れてその輝きをとどめている。
限られた明かりしか灯されていない廊下を夕月の足取りは迷いなく進む。
ノックの後、夕月を認めたクォルツは驚いたような顔はしていたが直ぐに自室へと招いた。部屋に明かりを灯そうとしてくれたが今ある分で十分だと言って断った。
椅子に腰掛けた二人は久し振りに向き合う。
二人目の花嫁が来てから、二人の間に流れる空気は変わってしまった。お互いが変わってしまったのだ。
「クォルツ様と二人で話すのは随分久し振りに感じます。ここ最近ずっとバタバタと忙しくしてたから」
「ああ、そうだったね。ユエはご飯をちゃんと食べているかい? 君は少食だから」
当たり障りのない会話。それが楽しいと思った過去はそれ程遠いものではないのに、もう二度と戻ることはないのだと思う。
二度と戻らないために夕月は今、ここに来たのだ。
出されたお茶からは湯気が立ち上っている。窓が開いていないから風もなく湯気は真っ直ぐに上っているが冷えた手をしていても飲む気にはなれなかった。たとえそれが、飲みなれた彼との思い出のお茶だったとしても。
「有望ちゃんはとてもいい子ですね。戸惑いながらも私の言葉にきちんと耳を傾けてくれた。きっとこれからここで生活することになっても、何が自分にとっていいことなのかきちんと判断できるはずです」
「ああ、まだ若い彼女だが周りをよく見て行動できる子だ。少しばかりそそっかしいところがあるけどね」
「あのくらいの年の子ならまだまだ可愛いものです。あなたもそう思ってらっしゃるんでしょう?」
「ふふ……そうだね」
その瞳から溢れる愛しいという思いがわかって夕月は小さく喉を鳴らした。
「クォルツ様」
「ん? ……なんだい? ユエ」
言え。
私なら言える。
だって私はまだ夕月だ。ユエじゃない。
終わりにしたくてここにいるのに、いつまでも揺らぎそうになる弱い自分が嫌で心の中で自分を叱咤する。
誰が悪いとかではないのだと思う。だってそういうものだと誰もが納得していたから。ギルバートもシエンもハルディオも、有望ちゃんでさえ受け入れつつある番というものを私だけが駄々をこねるように突っぱねていたのかもしれない。
だけどそれを受け入れてやる義理もないのだと私は思う。だって私は異世界の人間で、非凡な女でーーー誰かに愛されることを望んでなんかいない人間なのだから。
「有望ちゃんが、あなたの花嫁ですね?」
口に出したらもう後戻りはできない。それでも、返事なんてもうわかりきっていることだからだろうか。その言葉を口に出した瞬間、私の中で何かが終わった。
こちらの気持ちを汲んでくれたのだろう。悟ったような、それでいて少し寂しそうな顔をしている。「ユエ......」と呼ぶ声を、輝く金の瞳を、涼やかな髪の色を今はもう今は見たくない。
もっともっと暗ければ今の顔を見ずに済んだのか。
その思いに呼応するように部屋の明かりが一つ消えた。
来た当初のことを思い出すように視線を遠くへ向ける夕月は一度ゆっくりと瞬きをする。雲が晴れ窓から月の光が入り始めてきていた。
明るいのは嫌いだ。圧倒的な光ではなく、漏れ出るような、滲み出るような弱い光は特に。
また一つゆらゆらと揺れていた明かりが消える。
「ここにきて四人の男性の花嫁になれと言われたとき、どう転ぼうとも私はたった一人しか選べないだろうと思っていました。だれも愛したことがなかったから、愛せるなら、愛すことを許してもらえるならたった一人を愛しぬこうと思ったのです」
ああ、本当に良かった。今は心からそう思う。
間に合ってよかったと、心底思うのだ。
再びクォルツに視線が戻った時、出会った当初以上に冷たい眼差しを浮かべた夕月がクォルツの前にいた。
ついに全ての明かりが消えた時、それに変わるように月が顔を出しテラスから光の柱が伸びてきた。
夕月が少し顔を背ければクォルツからも顔を伺うことはできないくらい強い月の光が夕月の顔に濃い影を落とす。
半分だけ見えた夕月の顔には笑顔が浮かんでいた。
「愛さなくてよかった。与えられるままの愛を受け止めなくて本当に良かった。あなたに名を渡さなくて本当に良かった」
「ユエッ......!」
ああ、傷ついた顔なんかしないで。
だってそうでしょう? 番だなんだと言いながらささやいた愛はやはり偽物だった。誰かの登場でたやすく変わってしまうようなものだったのだ。
伸ばされる手が嫌で光の柱に背を預けるように立ち上がる。
もう夕月の顔は見えない。
それでもクォルツは声に言葉を乗せる。
「この世界の花嫁が一人なら番の波長は四天獣それぞれのものと重なるようになっている。けれど二人いた場合、より近い波長をもつ花嫁にひかれてしまうのは自然なことなんだ! どうかわかっておくれ、ユエ!」
「その言い分だと、私は陰の方々とひかれあうのが運命だということですか……?」
頷いていたクォルツは気づいた。
知らぬ間に開いていたテラスの扉から風が吹き込み、外の匂いに混じって彼女の香りが運ばれてきていることに。
彼女が自分で切った髪が随分と長くなっていたことに。
彼女が涙を流していることに。
クォルツが何かを口にする前にユエの声が風に乗り鼓膜を揺らした。
「では、番の波長関係なくあなたにひかれた私は一体何なんでしょうね……?」
コクンと喉を鳴らす音が聞こえてきたが、それでも抑えられなかったものを吐き出すようにユエは大きく息を吸い込んだ。
「あなたを愛してもいいと思った私の心は……!」
きっとどこかおかしいのでしょうね。
そう小さく呟いたのを最後に夕月はクォルツに背を向ける。
「さようなら。四天獣、陽の獣のお方。この巫山戯た世界の統治者様」
「待ってくれ、ユエッ……!!」
首だけ振り向いた夕月の顔は月明かりに照らされてその黒を輝かせた。
小さく開いた口は、それでもはっきりと言葉を紡ぐ。
「あなたも、この世界も、大嫌いよ」
背中ほどまで伸びた黒髪が翻ったのを最後に、花嫁が一人この宮殿から姿を消した。




