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12/32

12、6月のレア物と言えばホタルとアジサイ

 

「その本、よろしければお貸ししましょうか? 読み終わったので」

 私が手に持って悩んでいたのはお笑い芸人が文学賞を取った話題のハードカバーで、ギッと鮎川氏を振り仰いだ。

「しばらくお借りしてもいいなら、お願いします」

 自分でもびっくりするぐらい流された。


 薄暗くなったので眼鏡をかけた鮎川氏の車でキャンプ場までの道をもう一度途中まで走って、「え? ここから川に行けるんだ?」みたいな住宅街への道に折れる。

 もうね、この辺りはちょっと大きい道を外れるとすぐ田園地帯になるんだよ。

 道の両脇に水田と、所々数軒の家が立ち並ぶ田舎道を10分も走らないうちに到着。


「寒いですか?」

 車を降りると同時に、腰に巻いていた長袖シャツを着直すと心配そうに聞かれる。

 でもって自分のシャツを脱ごうとしちゃってるから慌てた。

「蚊対策です」

 丈夫な子なんで!

 ホタル観賞のマナーの一つが「大きな声はあげない」、である。

 少し音量を落として話すので距離は自然と近くなった。


「今日は完全防備ですね。ちょうど良かったです」

 完全に陽の落ち切っていない、全てが青ベースの色彩の世界。

 そんな状況の中見える鮎川氏の穏やかな笑顔は、なんとも優しい。


 ホタルは度肝を抜かれました。


 よくニュースとかで見る「一面にぶわっ」ってカンジ。

 昔、山で見たホタルを思い出した。

 しばらくは声にならなかったくらい。


 水田の向こうには林。

 こちら側の足元に幅30cmほどの田んぼ用に整備されたコンクリートの水路が流れてるけど、田んぼに水を入れる時期だからこれは急流すぎる。


「向こうの林と田んぼの間にさわがあるんですよ」

 なにげなく水路を睨んでいるとそう教えてもらった。

 沢。

 なんて素敵な響き。カニとかいそう。

 薄暗くなっているし、当然沢は低い所を流れているので道からは見えなかった。

「あっちに通路があるので沢まで行けますよ」

 残念に思っていたら見越したように鮎川氏が教えてくれる。


「ほら、あそこ」と鮎川氏が肩を抱く勢いで顔を寄せて来た時は、さすがに動揺したけど。

 ぼんやりと白く帯状に見えるのはコンクリート製の道路らしい。

 田舎の田んぼ周辺はアスファルトじゃなくて、コンクリートの白っぽい農道が多かったりするからね。

 うん、これなら足元にも不安はない。


 だから、手は繋がなくても全っ然、大丈夫なんですけど。

 沢も見えたし、もう手は離してもらっていいんですけど、どうしたもんかねこれ。


 親指以外の4本の指を軽く包み込むようにして引いてくれた大きな手。

 当然ながらそれを握り返すわけにもいかず、かといって手を取り戻すのも意識しているみたいだし、で結局何も出来ず。

 そんな状態での沈黙に耐えきれなくて口を開く。

「あれってアジサイですよね」


 色も見えないけど、こんもりとした繁り方で分かった。

 アジサイは根が張るから土砂崩れ防止に山肌に植えられる事が多いってニュースで言ってたなぁ。

 それで沢の向こうに端から端まで垣根状に連なってるんだろうね。

 ああ、これは━━

「明るいところで見たらすごそうですねぇ」

「アジサイ、お好きですか」

「アジサイに限らず可愛いもの、綺麗なもの、美味しいものが好きです。女子なので」

 鮎川氏は小さく声を上げて笑ってくれた。

 社内の男性陣からはきつい女に見られがちだけど、そんな事はないからな。


「あそこのアジサイは青系一色なんですよ。ピンクとか紫がある方が良くないですか? 今度アジサイ園にでも行ってみませんか。きっと今が見頃だと思いますよ」


 ……鮎川氏?

「え、なんでアジサイの色、分かるんですか?」

 もう影みたいにしか見えなくなってるのに。


「実家がこの近くなんです。田舎でしょう? 夜、ロードの練習でよくこの先の山を登るんで、ホタルが出る時間とかも知ってたんですよ」

 ロードバイクの練習。

 え、チャリって練習するもんなの?

 

 て言うか、よく登るならいつもホタル見てたんですか?

 珍しいもんでもないんですか?

 じゃあ私に見せるためにわざわざ連れてきてくれた、って事になっちゃったりするんですかね?


 でもって実家の近所とか、もうあきませんわ。


「鮎川氏、そんなに簡単におうち教えるような真似しちゃダメですよ。女子力高いんだからストーキングされちゃいます」

「そんな人には家は教えませんよ」

 そう笑ったけど、いやいや、鮎川氏、自分のスペックをきちんと把握した方がいいって。

 そんなに簡単に人を信用しちゃダメだって。



「近くにうどん屋があるんですが、どうですか?」

 晩ご飯は車を停めさせてもらっているショッピングセンターで何か軽いものを買って帰るか、冷凍の『茹でるだけ狸うどん』まだあったかなぁ。

 買い物も面倒になってたら冷凍のご飯でもチンしようか、などと考えていた私にとってそれは渡りに船で。


「帰り道ではあるんですけど、国道から外れた上に、ちょっと峠みたいな道にある所なんですが」

 え、それって知る人ぞ知る的なお店って事?

 目立たない所で営業が成り立つってすごい美味しいって事じゃない?

 山の水だから美味しいとか?

 うどんなら入りますよ。

 冷やしうどんがあればなお良いです。

 そして私はうどんの誘惑にまたしても陥落。


 非常に悔しい気もするけど、こうなったら認めますわ。

 今日の鮎川氏の引き出しは魅力的過ぎる!

 おうどん屋さんだって、山道にある一般住宅みたいなお店だった。

 今日はお昼が濃厚だったので、夜はさっぱり「みぞれうどん」。

 普段ならちょっと悩むけど珍しく即決出来た。

 大根おろしなんて家ではその一手間も惜しんじゃうからね。

 ちなみに清算が面倒になるかと思って辞退していたバーベキューの野菜代金だという事で、ご馳走になってしまった。

 律儀だ。

 かえって気を遣わせてしまったか。 



「今日は大変充実した1日でした」

 そう。

 プチ引きこもりの私からしてみたら何日分にもなる充実度。

 来月から仕事がハードになる予定だし、しばらくの間はずっと引きこもりでも許される気がする。

 そう思ったのに。


「それは良かったです。またご一緒しましょう」

 そう穏やかな笑顔で言われたのは、誤算だった。

 うまくうやむやに出来たと思ったのに。

 いや、うん、まあ社交辞令だろう。

 そうタカを括っていたのが、大きな間違いだと気付かされるのは帰り際の事。


「次はアジサイですね」

 社交辞令じゃなかったのか。


「……自転車はムリですよ?」

「片道70キロはありますよ。山をいくつも越えますし。僕だって行くには行けますが、その日には帰って来られません。もちろん車ですよ」

 それを聞いてほっとしたけど、ものすごく真剣に説明してくれるので笑うとこなのか迷う。


「本はその時にお持ちします」

 あ、この人、やっぱり手練れだな。



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