262◇紅く燃ゆる・邪
『紅の英雄』シヴァローグ=グラファイレングスに大層な過去はない。
アークレアは不幸な者が転生してくる世界、これは事実。だが不幸が大きければ補正が大きくなるというのは、まったくのデタラメではなくともおかしいと少し考えれば誰でも分かる。
そもそもがこの表現自体、正確性よりわかりやすさを優先したもので、来訪したばかりの転生者への説明を除けば、現地人が転生者について語る時に出てくるような浅い知識に過ぎない。
誰よりも転生者自身がすぐに気づくのだ。自分から見て彼の方が不幸な目に遭っているが、自分の方が補正が強いなんてことを何度も経験する。逆も然りだ。
不幸、というのは主観だ。自分にとっての不幸が他者にとっての日常、あるいは幸福だということも有り得る。ものの値段とは違い、万人に共通な価値は付けられない。
それでも人は理解した気にならないと不安で、だから前述のような表現が生まれたわけだ。
不幸が大きくなれば補正も大きくなる、と。
では実際のところはどうなのか。少し踏み込むと、こういう情報に辿り着く。
補正は過去生の闕乏と冀求による、と。
足りないものを埋める形で、求めるものを与える形で、補正が掛かるのだと。
このイメージが自分の中にあるか、ローグに言わせれば補正の強弱を分けるのはそこだ。
例えば過去生で殺された転生者がいたとする。自分より強靭な肉体を持った襲撃者に殴り殺されたとする。
凡人は自分の不幸や犯人を呪い、そこで終わる。だから転生したところで大した補正は受けられない。
だが強力な転生者となる者はそこが違う。どうすればその状況を回避出来たか。不可避だったとして、どうすれば死なずに済んだか。対話による説得、隙を見つけて退避、その場のものを利用しての撃退、救援を要請、あるいは襲撃者の殺害。生き延びる方法はいくらでもある。自分には何が足りなかったのだろう。これがあればどうにか出来たのに。
そういう風に考えられる者は、強くなる。きっと、強くなった時にその力を使いこなせるからだ。
グレアやクロノを見ると分かりやすい。『併呑』。グレアは旅団という形で、クロノは連合という形で、バラバラの英雄を指揮下に置いた。単に奪うのでも脅し従わせるのでもなく、併せ呑む。
己の性質を表すような能力を獲得する。
才能の有無ではなく、どのような人間かで変わる補正。
ローグは確かに、『紅』が司る『進行』を欲した。時の有る無しがいかに人生を分けるかを幼い頃からよく理解していた。
同じ努力量でも成果に違いがある。ならば、自分と同じ努力で自分以上の成果を出す人間にはどうすれば勝てる。相手が休んでいる間にもっと頑張る? 相手も同じだけ頑張ったら? 何を以って勝敗を分けるかにもよるだろうが、工夫にも限度がある。工夫を凝らすのにだって時間は必要だ。
そもそも、時間を確保出来るのは富める者だ。
この場合の時間とは、純粋に己の研鑽にのみ捧げることの出来る時間を指す。貧しい者に自分を磨く時間はない。富める者の子が親の財で賢く逞しくなっている間、貧しい者の子は頭を空にして労働に励む。欲しいものがあっても、一方が親に与えられる中、一方は自分で稼いだ金で買う。
最も有用で、また後から金で買うことも出来ない『時間』という資源を、貧しさが浪費する。
ローグはそのことで富める者を恨むことも、貧しさを嘆くこともなかった。
元より世界は不平等。真正面から向き合っていては、出発点から不利な人間は余程のことがない限り勝者になれない。
だから過去生でのローグは頭を使い、人を欺き利用し、必要に応じて集団を組織し、勝者になるべく動いた。富める者から奪えば、財は一気に増えた。
『それを自分が働いて稼ぐのに本来必要な時間』の短縮だ。一生働いても届かない額を一晩で手にすることもあった。
体格にも恵まれなかったから、強い者を雇った。身長が高く肩幅が広く全身を筋肉で固めたような大男を。
『自分を鍛えて筋骨隆々になるのに本来必要な時間』の短縮。
時間という資源を他者がどう使ったか。それをどう利用するかが肝要。
ローグはある日、複数の強奪事件を始めとする犯罪行為の首謀者として捕らえられた。ある一件で組んだ者が減刑と引き換えに裏切ったのだ。
その時もローグは恨みなど抱かなかった。次は他人に知られた場所は二度と使わないようにせねば。そして必要であれば仕事が終わるごとに関わった者を始末しよう。いや裏切ってはただでは済まないと思わせる立ち回りが肝心か。毎回全員始末していては仕事にならない。そのように考えていた。
だがそうはならなかった。ローグは牢の中で殺された。いつか襲撃し、皆殺しにした貴族。その妻がたまたま領主の娘だか姪だったらしい。
『愛する者の仇が公正な裁きに掛けられ然るべき罰を受けるまでに本来必要な時間』を、領主は待てなかったわけだ。だから権力を行使し、大幅に短縮した。
ローグは自分を不幸だとは思わない。ただ、不運ではあった。不遇でも。幸福の対が不幸であるならば、幸不幸どちらか問われれば、不幸の側ではあっただろうが。
『面白い子』
神の声を聞いた。事故死すれば哀れみの声を、自殺すれば勿体無いとの言葉を掛けられる。殺された者に掛けられる言葉にはパターンが幾つかある。が、ローグのそれは一般的ではないらしい。
たまたまか、幻聴か、違う神の声だったのか。
とにかくローグは転生し、『紅』を得た。時を進める『進行』の魔法を手に入れた。
怪我をしても『それが癒えるまでに本来必要な時間』を短縮出来た。自分の攻撃魔法と合わせれば『それが敵に到達するのに本来必要な時間』を短縮、敵の攻撃魔法に当てれば『それが魔法の形を保っていられる時間』を早めることも出来た。
善悪には興味がない。全人類に共通する唯一のことは、人生の不条理に晒され続けるということ。
ローグはただ、自分がよりよい人生を送る為に努力しているだけ。
他者への理解はあれど共感はなく、自己への執着のみがローグを突き動かす。
英雄は一人の例外もなく狂人だ。異世界に来てまで他人の為に正しい行いとやらに励む狂気か、己の望みの為だけに生きる狂気かの違いしかない。
ローグは後者。旅団の仲間意識というものも理解はしているが、それだけ。そもそもが精神に欠陥を持った哀れな強者共。凡人の真似をしてつるむのは、それぞれに理由がある。
『暗の英雄』グレアを始めとした何人かは、仲間を本気で大切に思っている。だが単に後ろ盾を欲している者や、旅団を通して人間らしさの獲得を試みる者、単にグレアに拾われたから在籍している者など様々。そう、バラバラなのだ。バラバラなのに一緒にいて、困っていれば理由も聞かずに手を差し伸べ、損得を越えて共に在る。
『時間』を重要視するローグにとって、旅団の存在は不可解に過ぎた。無償で誰かの為に時間を使うなんて馬鹿げている。
だがローグも、旅団にいる限りは馬鹿だった。
「走馬灯でも見ているのでしょうかー」
一瞬より短い時とはいえ、意識が飛んでいた。
「――――ッ。黙れ、売女がッ!」
赤く燃えている。己とその背中にへばりつく女の身体が。
赤々と燃え上がっている。
「純潔の乙女に対してその言い草は失礼ではないですか? もう、全然死にませんし、しつこくて口が悪い男って最悪ですよー」
魔法具宝具を全身に装備した濃い紅色の髪をした女。
感じ取れる範囲では大した器ではない。ダルトラでいえば貴族レベル、転生者なら下の上から中の下程度の魔法使い。だが所有する宝具魔法具と、呪いをものともしない胆力、初手の不意打ちがローグを苦しめていた。
「なら、その純潔とやらを散らしては再生して、延々鳴かせてやる、クソ女ッ」
燃える先から『治癒』魔法を掛け、再生能力を『進行』させていることで焼死を逃れている。それだけではなく女の肉体に対して『進行』を施し瑞々しい肢体を骨まで進めていた。何度も何度も。
それでも女は死なない。
苦痛も恐怖も、温室育ちの貴族様に耐えられるようなものではないというのに。
だが、紛れもなくこの女は貴族の娘だ。ローグは確信を得た。
死を想起させる連続した色彩属性による攻撃と、絶えずその身を焼き焦がす自らの炎に晒されているというのに、背後の女は涼やかな声を崩さない。
「勘弁してくださいな。私、未来の夫であるクロさん以外と臥所を共にする気はありません。清楚な深窓の令嬢系ヒロインなものですから」
「クロノの前でテメェを――」
「下品なお口ですね、焼けるといいですよー」
この狂気は、紛れもなく英雄のそれだ。




