7:聖水が湧く湖
7:聖水が湧く湖
「着きましたよ」
夕陽が湖面を照らす。辺りは朱色の優しい光で包まれている。月がちょうど上がりはじめたところらしく、水面にその姿が映りこんでいた。
「この湖全体が聖水なの?」
湖畔に馬を止めて下りる。水際に来ると、ウラノスはアリスをポケットから出して地面にそっと置いた。
「えぇ。水の精霊の加護を受けている一番大きな湖であり、ネロプネブマ王国の魔力の源なんですよ。――その水を浴びれば、呪いは解けるはずです」
「わかったわ。浴びればいいのね」
言われて、アリスは水辺に寄る。聖水と呼ばれているだけあり、水に近付けば近付くほど毛が逆立った。魔力を宿しているのがそれでわかる。
覚悟を決めてアリスはそっと後ろ足から水に浸かる。ひんやりとした感触が伝わると同時に光の魔法陣が展開。真夏の陽射しのような強烈な光が小さな彼女を包み込む。やがて光は収束していき――。
「やった! 戻れたわ!」
視界がいつもの見慣れた高さに戻る。先ほどまで前足だったのがちゃんと腕に変わっているのを確認。赤みを帯びた長い金髪が聖水に濡れて重たくなっている感覚もあって、人間の姿になっていることを改めて感じ取った。
「ありがとうございます! エマペトラ先生っ!」
アリスは感謝を述べて微笑むが、ウラノスは顔を真っ赤にしたまま固まっていて反応がない。どうも様子がおかしい。
――ん?
理由にすぐ思い当たらなかったアリスであったが、視線を動かしてやっと気づいた。
「ひゃあっ!」
湖面に映った自分の姿を見て、アリスは素早く水の中に身体を沈める。長い手足や成長途中の細い身体を包み隠すはずのものが何もなかったのだ。
――と……当然よね……ネズミに変えられた時、自分の服の中に埋もれていたんだし……。ってか、見られた……。
全身真っ赤になりながら、アリスはウラノスに背を向けて落ち込む。男性に肌を見られるだなんて、十六になったばかりなのにとんだ災難である。
「す……すまない、アリス君……」
気まずそうなウラノスの声。涙目のアリスは何も答えられない。
「……とりあえず、これを着なさい。君のローブです」
沈黙に耐えられなかったのだろう。ウラノスは馬に戻って荷物を探りローブを出すと、アリスの頭上に差し出した。
「ど……どうも」
背を向けたままアリスは受け取ると、ウラノスから手渡されたローブをおずおずと羽織る。
渡されたローブは彼女の身体に合う大きさだった。てっきりウラノスの私物だと思っていたのにちょうどぴったりなので、アリスは不思議に感じる。前をきっちりと合わせると、ウラノスに向き直った。
「これ……」
「大きさは問題なさそうですね」
ウラノスはアリスの全身を見て優しく微笑む。どこか満足げだ。
「本来であれば、王宮入りの日にお渡しするはずだったのですが、遅れてしまいましたね」
言われてよく見ると、このローブがただのローブではないことに気づく。
――水の精霊の紋章入りってことは……。
王宮魔導師であることを示すローブをアリスは着ていたのだ。
「これっ……あたしの……?」
感情がたかぶってしまって、言葉をうまく紡げない。ついローブのいろいろな場所を見てしまう。身体にとても馴染んでいた。
「君のローブだと説明したはずですが?」
やっと実感が湧いてきた。ウラノスに見習い王宮魔導師になることを認めてもらえたということなのだ。
「嬉しいですっ! ありがとうございますっ!」
感きわまって、アリスは勢いよくウラノスに抱き付いた。
「うっ……アリス君、傷がっ……」
ウラノスの呻きに、アリスははっとしてすぐさま離れる。彼が脇腹に負った怪我のことをすっかり忘れていたのだ。
「す、すみませんっ! お怪我は大丈夫なんですか?」
裂かれたローブはそのままで血液がべったりと付着している。だが、血はすっかり止まっているようで、アリスはちょっとだけ安堵した。
「えぇ、君のおかげで大事には至らずに済みました。あの状況で魔法を二つ同時に編むのは困難でしたからね。感謝しております」
ウラノスは眼鏡の位置を直しつつ、アリスから視線をそらした。
「良かった。治癒魔法、あたし苦手だったからうまくできているか気になっていたんです」
魔法が正常に発動するかは不安だった。しかしそれ以上にウラノスの身が心配だった。必死だったのだ。
彼は小さく笑う。
「アリス君は、火炎魔法以外はほとんど素人ですからね――でも、君ならやってくれると信じていましたよ。あのとき、幼くて非力だったはずの君が、私のために精一杯尽くしてくれたのをずっと覚えていましたから」
「あのとき……?」
少しずつ引き出されていく記憶。幼い日々を過ごした故郷での思い出。
――まさか、本当に?
驚きと戸惑いで、何から話したらいいのかわからなくて言いよどむ。思考がごちゃごちゃしてなかなかまとまらない。
ウラノスは寂しげな表情を浮かべた。
「まだ思い出していただけませんか?」
問いながら、彼は眼鏡を外して真っ直ぐ見つめてきた。
太陽の輝きのような髪、よく晴れて澄み切った空のような瞳。
『もし王都を訪れることがあるなら、王宮にお越しください。必ずこのお礼を致します。ですから、私の名前を覚えていてください。私の名前は――ウラノス=エマペトラです』
記憶がしっかりと繋がった。
フィロが何を伝えようとしていたのか、ここにきてきちんと理解できた。フィロは、アリスとウラノスの接点を知っているのだ。
鼓動が早くなる。
「……あたしが看病した王宮魔導師は、あなただったんですね」
アリスが過去の夢を見たのは、単なる偶然などではなく、彼の面影が記憶に引っかかったせいなのだ。あどけない美少年の印象が強く、立派な青年となった今のウラノスと重ねることが全くできなかった。だから、ずっと心の中でくすぶることになってしまったらしかった。
「その反応ですと、すっかり忘れられていたようですね。君が来るのを楽しみにしていたのに」
「だって、先生はあたしに再会したとき、そんな素振りは一瞬たりともしなかったじゃないですか。眼鏡をかけて、雰囲気も違ったし……」
「眼鏡は研究のし過ぎの影響ですよ。雰囲気は意図的に変えました。上を目指すためにも都合が良かったので。それに、アリス君と繋がりがあると知れたら、贔屓だと妬む者も出てきましょう。そうでなくても、ロディア君のように嫉妬する人もいるのですから」
さらさらと答えられてしまった。アリスは俯く。
――確かに、贔屓されて合格を得たいとは思っていなかったけど……。
そう考えると、自分がまるっきりウラノスのことを忘れていたのは好都合だったように思えてくる。妙な誤解を生まないためにも、それがいい。
――でも、どうしてこんな大事な、あたしがここにいる要因になっている出来事を忘れていたの?
「あ……」
自問して、アリスは心の奥底に閉じ込めていた気持ちに意識が向いた。言葉となって、口からこぼれ落ちる。
「……あたしは、ずっと、あなたから魔法を習いたかったのよ」
あの日々の記憶を忘れていたのは、忘れようとしていたからだ――そこに至って、やっとすべてを思い出した。
顔を上げて、アリスは続ける。
「あたし、あなたを恨んでた。王都に行くことなどできないって知っているはずなのに、王宮で待っているだなんて言ったから。なんて意地悪なことを言うんだろう、どうして視察団として来てくれないんだろうって、ずっとずっと恨んでたっ!」
感情のままにアリスはウラノスにぶつけた。どんどんとあのときの気持ちが呼び起こされる。
アリスが魔法を学びたいと本気になっていたのは事実だ。だが、視察団としてやって来た王宮魔導師たちに魔法を教えてと頼んだ理由はそれだけではない。ひょっとしたら再会できるんじゃないか、せめて彼の噂くらいは手には入るんではないかと、淡い期待を抱いていたからだ。もしかしたら、魔法を学ぼうと努力していることが彼に伝わるんじゃないかと思ったからだ。それが幼い彼女なりに考えた、当時できたことのすべて。
「探していたのに。会いたかったのに。あなたは一度もあたしの故郷には現れなかった。だからあたしは、魔法を教えても良いって言ってくれたフィロさんを頼って、必死に学んだのよっ。あなたを忘れたい一心で。もう二度と会えないだろう人から魔法を学ぼうなどと思わないようにっ!」
封印してきた想いを全部ウラノスにぶちまけた。これが、九つになる前のあの日から抱え続けてきた自分の気持ちだ。
怒りのままに叫んで肩で荒く呼吸をするアリスを、ウラノスはそっと抱きすくめた。
「っ!?」
「アリス君? 私と君は再会することができましたし、これからは私が君の先生です。君の願いはまもなく叶いますよ」
落ち着くようにと背中を撫でられている。アリスは身をよじるが、彼の腕の中からは抜け出せない。
ウラノスはアリスの耳元で優しく囁く。
「寂しい思いをさせてしまったことは謝ります。今まで黙っていたことも」
「…………」
抵抗が無理だと判断したアリスは、しぶしぶウラノスに合わせる。無言のまま、ただ耳を傾ける。
「私は王宮で待つと約束しました。その理由が、君には伝わっていなかったようですね」
ウラノスは回していた腕を解くと、アリスの肩に手を置いて向かい合った。
「君にはもっといろいろな経験をさせてあげたいと思いました。あんなに幼かったにもかかわらず、自分の将来に夢や希望を持てない君だったから。世の中には様々な選択肢があって、君自身にも価値があるということを証明してやりたいと考えてしまった。それが、尽くしてくれたアリス君に対して私ができる最大の恩返しだと――」
そこまで告げると、彼はため息をついて視線を外した。
「君に私の気持ちが伝わっていなかったのなら、私が君を思ってしてきたことはただの自己満足でしかなかったということでしょう。フィロ君にも指摘されていたことでしたし……おとなしく認めておけば良かった」
最後はぼそりと呟いて、アリスの肩から手をどけた。そしてくるりと背を向けてしまう。
「――結局、君は私の意図とは関係なく王宮魔導師採用試験を受け、合格を手にしました。それは紛れもなく君の努力が実を結んで得られたものですよ。自信を持って、行きたい道に進めばいい。私は君を応援いたします」
そう告げて、彼は眼鏡をかけ直すとアリスを肩越しに見やった。
「私の年来の思いは聞かなかったことにしてください。溜め込んできてしまったものを、誰の邪魔もされないところで吐き出したかっただけですから」
彼の笑顔には寂しげな色が滲んでいた。
「どうして……」
呟いて、アリスは一度俯いて拳を作る。そして唇を動かした。
「どうしてそんな顔で言うんですかっ!?」
「どうしてって……」
「あたしはもう忘れたくありません。どんなに恨んでいたとしても、なかったことになんてしたくないっ」
ありったけの力を込めて、アリスは叫ぶ。
「それに、呪いを解くのと引き換えにあなたを師範にしてみせるって誓いました。あたし、立派な王宮魔導師になって、あなたが見いだしてくれた力が役立つことを示したいですっ。それがきっとあなたがあたしのためにしてくれたことの恩返しになるって思うからっ!」
フィロに再会したとき、彼は言っていたではないか。『頼まれていなくてもそうした』と、『偶然ではない』と。あれはつまり、ウラノスに頼まれてアリスの指導をすることに決めていたということだろう。直接習う機会こそ得られなかったが、故郷にいた間もウラノスはずっとアリスのことを気にかけてくれていたのだ。
――気づけなかったのはあたしが幼かったせいよ。だから、今度は絶対に忘れない。忘れるものか。
「アリス君――」
「くしゅんっ!!」
盛大なくしゃみが出て、アリスは自分の肩を撫でる。陽が暮れて風が出てきたからだろうか、だいぶ肌寒い。
ウラノスは小さく笑った。
「くくくっ……しまりませんね」
「黙っていてください」
格好がつかないのは承知している。わざわざ指摘などされたくはない。
「ローブだけでは寒いでしょう? 君の着替えも持ってきていますよ」
「そういうことはもっと早く言ってよ……」
がっくりとしたまま、アリスは岸に上がる。空にはまるく輝く月とたくさんの明るい星。辺りはすっかり暗い。
ウラノスが持ってきた荷物の中から、アリスが王宮入りに備えてまとめていた荷物が出てきた。それを受け取ると、中身を確認する。着替えのほかに、使い込まれた雑記帳も出てきた。無事だったらしい。表紙をなでると、それをフィロから受け取った日のことを思い出す。
――これはエマペトラ先生からの……。
ぎゅっと抱きしめて、鞄の中にしまう。彼が背を向けている間に着替えを済ませた。
「――期待して良いですか?」
不意にかけられた問い。アリスはローブに袖を通しながら、その問いに応じる。
「立派な王宮魔導師になるっていう誓いは、破るつもりはないですよ? エマペトラ先生の指導をしっかり身に付けてみせます」
「頼もしい台詞で何よりです。――それに早く一人前になってもらわないと、責任取れませんからねぇ」
「責任?」
ウラノスの終わりの台詞にアリスは首をかしげる。
「……見ちゃいましたからね、事故とはいえ」
その呟きに、引いていた熱がぶり返す。裸を見られてしまったことを言っているのだと理解できたからだ。
「無理しなくていいです! ってか、それはきれいさっぱり忘れてくださいっ! 責任取れだなんて言いませんから!」
アリスはウラノスの背に向かって叫ぶ。そんな理由で彼から結婚を申し込まれたくはない。
「ですが、それだけじゃないのですよ?」
ウラノスはアリスが着替え終わっているのを見越して振り向いた。その顔には不敵な笑みが張り付いている。
「本当に君は鈍いのですね。君を王宮魔導師にするために私がここまで尽くしてきた理由を、あの日の恩返しや職務上の誇り、出世のためだと本気で思っているのですか?」
――え? えええ??
言っている意味が理解できない。できないというか、したくない。
戸惑い、わけがわからずきょとんとしているアリスにウラノスは背を向けて歩き出す。
「――さて、帰りましょうか。次の行事は任命式です。この調子では王宮に着きませんよ? いきなりクビにされそうですね」
王宮で会ったときと同じ冷たい声でウラノスはきっぱり告げる。ぼんやりしていたら置いていかれてしまいそうだ。
「帰りますっ! 帰りますから先に行かないでください!」
アリスは慌ててウラノスの後を追いかける。
――なんか、衝撃的な告白をごまかされたような気がするけど……あたし、またからかわれている?
ウラノスの本心がどこにあるのか、アリスにはさっぱり想像できない。
「ぐずぐずしていると置いていきますよ?」
「わかってますって!」
アリスは胸がドキドキするのを感じる。それは新しくはじまる見習い王宮魔導師としての生活に期待しているからだろうか、それとも別の理由があるからだろうか。
二人は馬に乗ると、王宮を目指して走り出したのだった。
《了》