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「どうぞ、ごゆっくり」
笑顔で立ち去った母を見送りながら、テーブルのそばに戻る。トレイの上の物を並べている間に先生が一度立ち上がり、間もなく腰を下ろし直した。
何をするのかと見ていたのだが、どうやら母が閉めてしまったドアをまた開けただけのようだ。冬ではないからいいものの、一体何の意味があるのだろう。
「これはね、信用の証と言うか、まあ、僕の理性の顕れなんですよ」
と、訊ねもしないのに先生が、勝手に説明をしてくれた。信用? 理性? 何の事やらさっぱりだ。
「あんた、こういう事には疎いんでしたっけねえ。うっかりしていましたよ」
少し呆れたようなそれでいて楽しそうな顔に、不覚にもどきりと胸が高鳴った。
「僕は男で、あんたは女。ご両親がいるとはいえ、このドアを閉めたら、この部屋は密室になるでしょ。ミッシツに」
密室をやたらと強調しながら、先生はコーヒーカップに口をつける。
「密室に男と女が二人きり。なんて事になったら、いくら理性的な僕でもヤバいでしょうが、いろいろと」
理性を総動員して我慢した挙句お父さんにあらぬ疑いを抱かれるのは、なんだか割が合わないしね。なんて事を言われ、ようやくその意味に気が付いた。なるほど、わたしはとことん男女の事に関しては疎いらしい。
「こんな事くらいで真っ赤になるんだから、本当に可愛いねえ」
盛大な溜息を吐く先生に何か言い返してやりたいのに、適当な言葉が見つからない。
「とまあ、それはこっちに置いといて」
急に姿勢を改めて胡坐から正座になった先生は、神妙な面持ちで真っ直ぐにわたしの顔を見た。その滅多に見ない表情に、ざわざわと胸の中が落ち着かなくなる。
「ごめんなさい」
そう言うと、がばっとテーブルに両手をついて、頭を低く下げてしまった。
「約束が反故になって、すみません」
「は? いや、だから怒っていませんから、顔を上げてください」
「なんで、怒らないの」
「は?」
怒らないの、って、それはもちろん怒っても仕方がないからなのだけれど。
「ずーっと片想いし続けて来た相手とやあっと彼氏彼女になれて初めてのまともなデートだってのに一方的にキャンセルになっちゃってしかもそれをメールで済ませようとしたのになんで怒らないんですかあんたは普通怒るでしょ彼女なら」
恨めしげな上目使いをこちらに向けて来る先生は、一息で言い切った。せめて句読点を入れてくださいとお願いしたいところだけれど、とてもそんな事を言う雰囲気ではない。
「いや、でも、お仕事ですし」
確かにがっかりしたしちょっとばかり悲しかったけれど、わたしが怒ったからといって仕事がなくなるわけではないのだ。それに、メールだったからこそ、少し落ち込んだわたしの顔を見せずに済んだのだから。
「お仕事ですしって、それでいいんですか。彼女としてどうなんですか」
どうなんですかと言われても。
「センセーこそ、何が言いたいんですか」
静かにそう訊ねてみると、先生がぐ、と言葉に詰まった。
「さっきからしつこいくらいに同じ事を繰り返していますけど、わざとわたしを怒らせようとしていません?」
どうやら図星だったようで、上目遣いの視線を逸らしてしまった。
「どうしてもわたしを怒らせたいのなら、その理由を言ってください。二百字以内と言いたいところですけど、規制なしで構いませんから」
「作文や論文じゃないんだから」
などどぶつぶつ言いながら、ようやく先生の頭が持ち上がる。
「でも、できるだけ分かりやすく簡潔にお願いします」
何しろやたらと分かり辛くしてはぐらかすのが得意なのだ、この人は。そのせいで何度わたしが泣かされた事か。思い出すだけでも、切なさに胸が痛くなる。
あの頃覚えた胸の裡の痛みは、あのささくれは。少しずつ修復されつつある今もなお、消える事なく小さな痛みを訴え続けている。
先生が黙り込んでしまったので、わたしも口を閉じている。少し冷めかけたコーヒーに口をつけて、そう言えば社会科の準備室で先生と一緒の時は、お茶が冷えてしまう事が多かったななどと考える。
「やっぱり、とりあえずごめんなさい」
天ぷらの事は諦めたけれど、食事が中途半端で満腹には程遠い。せめてお茶菓子で誤魔化そうと手を伸ばしかけたところで、先生がまたしても頭を下げた。今度はさすがに足は崩したままだし、手をついているのは膝だったけれど。
「だから、怒っていませんからって、さっきから言ってるのに」
「なんで、怒らないの」
「は?」
またさっきの会話を繰り返すつもりなのだろうか。
「なんで、怒らないの、あんたは」
「なんでと言われても。お仕事」
「だーかーらー。仕事でも何でも、あんたとの約束の方が先だったでしょうが」
「それでお仕事がなくなるのなら、怒りますけど」
まだまだ学生の身のわたしでは想像する事くらいしかできなけれど、個人の約束よりも仕事が優先してしまうのは仕方がない事だと思う。子煩悩な父でも、急に仕事が入ったり休んだ人の穴埋めに奔走したりで、遊びに行けなくなった事は何度もあったのだから。もちろんまだ幼い子供だった頃には、無理を言って泣き喚いた事もあったけれど。
物事の判断ができる年になった今、ここで怒るのは、単なる子供の我儘と同じだ。
「いや、それはそうなんだけど、ってそうじゃないでしょ。それはちょっと違うでしょうが」
先生が、がしがしと頭を掻く。
「あんたは、僕のなんなんですか。あんたは僕の彼女でしょ。恋人でしょ」
彼女とか恋人とか、どうして臆面もなくそういう単語を言えるんだろう。言っている本人よりも言われているわたしの方が恥ずかしいのはなぜなんだろう。
「あー、多分?」
即答したら、先生ががっくりと肩を落とした。ちょっといじめすぎただろうか。
「多分って、なんですか、それは」
先生の眉が顰められ、どうやら機嫌が傾いて来ているらしい事に気付いた。
「まだ実感がないというか、現実味がないというか。とにかくそんな感じなので」
それは、いつも感じていた事。片想いが長過ぎたのかもしれない。本当は今も、こうして先生と二人きりでわたしの部屋にいる事が、まるで夢の中にいるように不確かで現実味がないのだ。
「まったく、あんたは。じゃあ、どうしたら現実だって分かるんですか。抱きしめればいいのかそれともキスすればいいのか、いっそ押し倒しでもしないとだめだって言うんじゃないよねえ。ってこら。今ここでそんな事をする気はないから、逃げるんじゃありません」
あまりに過激な内容に思わず逃げ腰になったわたしの手を、先生がテーブル越しにしっかりと捕まえてしまう。
「だからね。とりあえず、今目の前にある現実を認めてクダサイ。でなきゃあんたにこれだけ惚れちゃってる僕の立つ瀬がないでしょ」
「ほ、惚れ、って。え? えええええ?」
「惚れているっていう言葉が気に入らないなら、好きって言いましょうか? まさか忘れていたとか言わないよねえ? あの時ちゃんとあんたに言ったし、あんたも好きだって言ってくれたから、お付き合いする事になったんでしょうが。それともなに。会う度に好きだって言わせたいんですか。まあ、僕はそれでもいいけどね」
「い、いいいいえええええ。け、結構ですっ。ちゃんとわ、分かりましたからっ」
先生の顔を直視できなくて、必死に体ごと顔を背ける。ばくばくと心臓が暴れているのに、そんなにしょっ中言われたりしたら、とてもじゃないけれど身が持たない。
わたしが逃げないと判断したのかどうかは分からないけれど、掴まれていた腕から先生の手がするりと離れて行った。
「だからね。あんたは僕の彼女なんだから、こういう時には怒る権利があるんですよ。ってーかむしろ怒ってもらわないと困るじゃないですか」
「こ、困るんですか」
「困りますよ。会いたいのは僕だけなんだなあとか我儘も言ってくれないのかとか色々落ち込む材料がてんこ盛り状態ですよ。今回は完全に僕の都合なわけだし、これはちょっとマジで凹んじゃうでしょやっぱり」
思わず目が丸くなる。会いたいと思っていたのは、どうやらわたしだけじゃなかったらしい。
「や、でも、お仕事だし。それでも会いたいなんて言ったら、ただの子供の我儘と同じじゃないですか」
「ただの子供じゃないでしょ。彼女でしょ恋人でしょ。至って正当な要求でしょ。あんたが我儘言わなくて、他の誰が言うの」
思いがけない言葉に、唖然とした。どうもさっきから聞いていると、先生は。
「もしかして、怒ってもいいって言うかむしろ叱って欲しかったり、します?」
まさか、わたしよりもずっと年上の先生が。日頃わたしをからかってばかいりる先生が。
まさかの文字が頭の中を飛び回り、穴があくほど真っ直ぐに先生の顔を見つめた。するとどうした事か、先生の目の下あたりが、ほんのりと紅くなっている。もしかして照れているのだろうか。まさかあの先生が? いつも憎らしいくらいに落ち着いて、余裕をぶっこいている先生が?
「えええええ? マ、マジっすか?」
「冗談でこんな恥ずかしい事を言えるわけがありませんよ。マジに決まってるでしょ、マジに」
うわ。これはかなり恥ずかしいかもしれない。先生よりもさらに顔を紅く染めながら、けれどその恥ずかしさよりも嬉しさの方がずっと大きい。
「そ、それなら、次からは、そうするようにしましょうか?」
恋愛経験がほとんどないに等しいわたしには、とてもではないけれど、先生が望む事なんて想像もできない。だから念のため、確認しておいた方がいいと思ったのだけれど。
「ぜひそうしてください。って、改めて言うのも変なんですけどねえ。言わなきゃ分かってくれませんからねえ、誰かさんは」
いつの間にか顔の赤味がすっかり引いてしまっている先生は、にやにやと人の悪い笑いを浮かべている。もうすっかりいつもと同じその様子に、心の中でこっそりと胸を撫で下ろした。
「明日の埋め合せは、必ずしますからね」
「期待しないで待っています」
「いや、そこはもうちょっと期待して下さいよ」
「期待していてまたポシャったりしたら、目も当てられませんから」
先生の帰り際、玄関前までお見送りに出たわたしは、正直に思っている事を口にした。なぜか先生ががっくりと肩を落としているけれど、本当の事なんだから仕方がないと思う。
「とりあえず明日、部活が終わったら電話するからね。せめて夕食だけでも行きましょ」
ぽんぽんと頭を撫でられ、また子供扱いされた事に少しだけ傷つく。
「そんな顔しないの」
「う」
「あんたの後ろから、熱ーい視線がね。突き刺さって来るんですよ」
言われて振り向いてみれば、来た時と同じように、リビングのカーテンの隙間から覗いている父の顔があった。あああああ。我が父ながら、恥ずかしい。
「お父さんっ!」
思わず大声を上げたわたしを見て、先生がくつくつと笑う。その笑顔が嬉しくて、わたしもつられて笑ってしまった。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
短い言葉を交わして、手を振り合って。先生が父に向かってぺこりと頭を下げると、少しだけ引きつった笑顔を返し、父の姿がカーテンの向こう側に消えた。