第一話 異変
「お前ら、裏切るだか!」
隱田郷、八梅保の保長・八梅棟品の屋敷から、怒声が響いた。
続けざまに、男とも女ともつかぬ悲鳴が幾重にも重なる。
何か重いものがぶつかり、砕け、屋敷そのものが軋みながら揺れていた。
異変が起きたのは、夕暮れも過ぎてからである。
その音は保内一帯に響き渡り、民は何事かと松明を手に集まってきた。
だが、誰ひとりとして屋敷へ近づこうとはしない。皆、遠巻きに囲んだまま、戸口と塀の向こうをおそるおそる窺うばかりであった。
「野郎ども、行くぞ」
戸主たちが選んだ屈強の男どもが、棍棒や鋤を手に踏み込もうとした。
だが、庭先へ足を踏み入れかけた刹那、彼らは揃って情けない悲鳴を上げ、踵を返した。腰を抜かして這い戻ってくる者さえいる。
「何しに行ったんだよ、お前ら」
「うるせえな。文句があるなら、てめえが行け」
怒鳴り合いが始まった、その時であった。
屋敷の中から続いていた悲鳴と破壊音が、ふいにぴたりと止む。
そして――
オオゥ、オオオオ……
屋敷の奥から、底冷えのする唸りが響いた。
人の喉から漏れるものとは思えぬ、重く濁った音である。周囲の者たちは、一様に肩を竦ませた。
戸主たちは思わず顔を見合わせた。
「郷長様へ使いを出すぞ。もう、ご助力いただくしかねぇ」
「待て、郷長様だけじゃ心もとねえ。次郎様へも使いを出せ」
次郎様とは、傍目荘の領主、傍目次郎のことである。
五十路を過ぎてもなお一騎当百とうたわれる武人で、群盗との争いや近隣とのいざこざでは、今なお頼みにされていた。今は郷長の任を弟に譲り、自ら切り開いたこの傍目荘で静かに暮らしている。
「主様。八梅保の者が、火急の願いと申して参っております」
夜更けの訴えであった。
尋常のことではない。
「余程のことだな。荘所へ通せ。皆を起こして物の具を整えよ。八梅保の方も見張らせろ。異変あらば、すぐ知らせよ」
次郎は使いの者から委細を聞いた。
そして、しばし黙考した。
(棟品家の内輪揉めではないのか。だが、この慌てよう……ただ事ではあるまい)
「ご苦労であった」
そう言って立ち上がると、戸口に控えた郎党へ命じた。
「我が鎧を持て。儂は八梅保へ向かう。訥平、留守は任せた。警戒は厳とせよ」
次郎の出立は、いかにも彼らしかった。
吉凶は占わず、軍盃の宴もない。鎧を着け、武具を整え、ただ守り本尊に加護を祈るだけである。
その守り本尊は、高さ一尺にも満たぬ素木の小像であった。
仏には見えぬ。
頭は蛇、全身は鱗に覆われ、広い肩に腕を組み、引き締まった胴の下では二本の脚が絡み合って、一つの大蛇の尾のようになっていた。
普段は厨子の中から家を見守り、戦となれば次郎に背負われて出陣する。
次郎は徒士の郎党四人を従え、八梅保へ向かった。




