アルカディアの22
二話連続投稿。
こっちが長くなってしまった。
牢屋と聞くと地下にあったりジメジメと湿気ていて薄暗い、そんなイメージしかなかったが、予想に反してきていなものだった。
ベッド、というには少しお粗末だがそれらしきものはあるし、壁には明かりもかけられている――まぁ明かりに関しては自ら作れるから必要ないはずなのだが――アパートの一室と言張れる程度には環境は整っていた。
この世界でも犯罪者の人権は保障されているので、拘留中の最低限の生活は保障される、とはヴィートから聞いたことだ。
とはいえ三方を囲む無機質な石壁と、決して外には出さないと設置された鉄格子が、内側にいる人間の精神をどれほど削っていくかは、目の前にいる彼女の顔色が物語っていた。
「一応今生の別れのつもりで話してたから、ついてこられると恥ずかしいわね」
「冗談言える余裕があるようで何よりだ」
ぎこちない笑みを浮かべるフィリーネに、リュージもまた下手くそな笑みで応じた。
「それにしても、どうやって騎士団の本部までついてきたのかしら、そんなことできる状況じゃなさそうだったけれど」
「ああ、それについてはあいつの手柄だよ、なあラフィ」
リュージは振り返って、背後にいるはずの今回の功労者を呼ぶ。
「このクソガキ!テメエのせいで俺たちの人生おしまいだ!」
「ぶち殺してやる!」
「もっと近寄れ馬鹿!」
「ほわぁぁ!?ちょっとラフィさん、押さないでくださいよ!危ない危ないってば!!」
「ほーれ、ほーれ、もう少しで手が届くわよぅ?」
牢屋に捕らえられている見覚えのある男たちに向かって、ヴィートが捕まるかギリギリのラインに押したり引いたりして遊んでいるラフィがいた。
「たまに褒めてる時くらい真面目にしてくれねえかな……」
思わず頭を抱えるリュージにも気付かず、当の本人は実に楽しそうにヴィートで遊んでいた。
しかしここに着いてこられたのは間違いなくラフィのおかげだ。
連れていかれるフィリーネを見ていることしかできず、何なら自分たちを囲んでいる騎士をどうすればいいかも分からなくなっていた時、そういえば姿が見えなくなっていたラフィが、隊長と呼ばれていた初老の男と共に歩いてきたのだ。
二人の間でどのような話が交わされていたのかは知らないが、そこからはトントン拍子に話が進んだ。
ここまでついてこられただけでなく、牢屋の見張り番――ディルクのことだ――を部屋から出したうえで話をする時間まで貰った。
まさかラフィがここまで交渉上手だとは、普段の姿からは考えられないことだ。
「あ、あはは、こんな状態でもあなたたちを見てると少し気が楽になるわ」
「褒められてるきがしねえなおい」
「そんなことないわ、ホントに救われてる……それで、ついでに聞きたいんだけど、イナセは?一緒に来てたでしょ」
「外にいる、中には入りたくないってよ」
「……そっかぁ」
無理もない、助けようとしていたい相手から、何としてでも救いたかった相手からはっきりと拒絶されたのだ。
むしろあの憔悴しきった状態で、ここまでついてくる決心を即座に固めただけでも上等だ。
それでも限界だったのだろう、会うのが怖いと入り口の前で座り込んだ少女の姿を思い出して、少し気が重くなるが凹んでいる時間も惜しい、十五分しかないのだ。
「言いたいことも、怒りたいこともいろいろある、でも今は聞かなきゃいけないことの方が多い」
「……なにかしら」
「とりあえず先にはっきりさせとくぞ、お前がなんて言うか知らねえが、俺はお前が犯人だなんて思ってない、そんなことする奴じゃねえ」
「たった一晩食卓を囲んだだけで、買被りすぎじゃない?それとも猫もかぶれない小娘だと思われてるんなら、はっきり言って勘違いよ」
「昨日夜もさっきも、イナセのことを話すお前の言葉に嘘はなかった、あんなに幸せそうに、大事そうに人の話する奴が、全部を台無しにするような真似するわけがねえ」
そう言う意味では、確信したのはついさっきだった。
あの状況で、自らの保身も何もかもかなぐり捨てて、最後に頼んだのが、イナセのことだったのだ。
フィリーネのことはほとんど知らない、でも信じたいと思うには十分すぎる理由だ。
「人を見る目に自信があるのね、でもそれだって私があの子を騙してるだけかも――」
「違う」
食い気味に言葉を遮る。
驚いているフィリーネに、もう一度はっきりと告げる。
「絶対に、違う」
嘘であるわけがない、笑顔でイナセをからかっていた笑顔が、照れくさそうにしているイナセを見ていた優しい眼差しが、作りものであると言うなら、この世に本物なんかない。
リュージの眼を見たフィリーネが、小さくため息をつくとかすかに頬を緩めた。
「知ってはいたつもりだけど、見たことないお人好しね、リュージさんは」
「信じたいもの信じてるだけだ、単なるわがままみたいなもんさ」
「変わった人だわ、本当に」
「俺だけじゃない、あいつらだって」
意味の分からない遊びで、ヴィートの精神を痛めつけているラフィと、現在進行形で痛めつけられているヴィートに目をやる。
ああ見えて、真っ先に話を進めていたのはラフィだし、ヴィートは何の文句も言わずに着いてきた。
二人とも、信じているものは同じはずだ。
「え?ああそうね、そのとおりよ!」
「ま、前!せめて前見て!袖掴まれてるから!」
「……この通りだ」
「どの通りよ、本当に気の抜ける人たちねぇ、でもそのくらいの方がちょうどいいのかもね」
「何の話だ?」
「こっちの話よ、気にしないで」
フィリ-ネは瞑目すると緩めていた表情を元に戻した。
「リュージさん、ラフィ、ヴィートくん、信じてくれてありがとう、私もあなたたちのこと、信じて見るわ」
どうやら話をするための入口には立つことができたようだ。まっすぐ視線を合わせてくるフィリーネに、リュージ達は三者三様に頷いた。
「ああ、任せろ」
「絶対に、何とかしますから!」
「ま、既に大船に乗ることに成功してるんだから、安心なさいな」
「えぇ、でもごめんなさい私から伝えられることは何もないのよ、そもそも何が起きてるのか今でも分かってないの」
何も知らない、とフィリーネは言った。
事実上の、本人の口による犯行の否定。最初から信じるつもりでいたが、実際に本人の口から聞けて安心した。
だがとなると当然のように浮かび上がってくる疑問がある、先にそれを口にしたのはヴィートだった。
「でもそれなら何で自分がやったなんて――」
「それは……」
途端にフィリーネは表情を曇らせて口ごもる。
そして意外にも代わりに口を開いたのはラフィだった。
「そのことについては聞かなくてもいいわよ」
「え?いいんです、か?」
「いいから、お子様には分からないかもしれないけど、大人にはいろいろあるんだってば、ねぇリュージ?」
「ん、あ、ああ、そうだな?」
急に同意を求められても困る、というか何の事だかさっぱりだ。
ラフィは頭からクエスチョンマークを飛ばしているリュージを「お前もか」とばかりに半目を向ける。
「まったく、うちの男どもは駄目ね、喧嘩にしか頭使わないから」
「ええとラフィ?あなたどこまで分かってるの?」
「まだ何もよ、ただの勘を分かっただなんて言わないもの、でもそのリアクションを見るにあながち間違いじゃなさそうね」
二人の間でだけ会話が成立している。
リュージは同じく何も分かっていなさそうなヴィートと顔を合わせて首を傾げるばかりだった。
「フィリーネ、あなたがいい人なのは分かるし、迷惑掛けたくないのも分かるつもり、それでも今回は勝手に調べさせてもらうわ、真実をはっきりさせるためにもね」
「……そうね、任せる」
「よし!はいリュージバトンタッチ!質問続けてー」
「自分で言いたかねえが俺よりもお前が続けた方がいい気がするぜ」
「やーよ、疲れるもの」
持ち合わせていた真剣さはたった数秒間で旅に出たらしい、どこまでも通常運転なラフィに何とも言えない気持ちになりながら、リュージは聞くべきことは何かと頭を働かせる。
「あの荷物が、かばんに入ってた理由に心当たりは?」
「それなんだけど、実はついさっき思い出したことがあるの」
「言ってくれ、今はどんな小さいことでもいい」
「今朝のことよ、昨日よっぽど盛り上がったみたいね?イナセが帰ってこなかったじゃない?」
「……そうか、あいつ昨日は戻らなかったのか」
昨日の一件に着いてフィリーネは何も知らないみたいだ。
途切れた会話に首を傾げる彼女に、何でもないと首を振る。
こんな時に更に重荷を追加してやる必要はない。
「それで?一人の朝食は寂しかったって話じゃねえだろ?」
「もちろん、今日は買っときたい物があったから、どうせ一人なら外で食べようと思って『ジューンブライド』ってお店に入ったのよ」
リュージは知る由もなかったが、アルカディア内でも評判の喫茶店らしく、朝だというのに店内は祭りのごとき様相を呈していたそうだ。
結果的にフィリーネの朝食はテラスで取ることになったという。
「案内されてる席に向かってる途中にね、男の人とぶつかって鞄を落として、中身が散らばっちゃったの、相手の人が謝りながら全部拾ってくれたんだけど――」
「その時に混ぜられってことか」
「考えられるとしたら……」
「その店はどこに?」
「さっきの通りよ、店を出たところで騎士に声をかけられて」
その結果があのひと騒動と言うわけだ。
全くのノーヒントから始まることも覚悟していたが、これは有力情報だ。
他に考え付くこともなし、まずはその店に行ってみるかと方針を固めていると、
「ちょっと、何ニヤニヤしてんのよ」
「どうした」
振り返ると、ラフィが例の三人組の檻を見ていた。
正確には檻の中で檻の中で頬を吊り上げているバンダナの男を、だ。
「この状況で笑えるなんて、そんなに檻の中が居心地良かった?それとも目の前に見たことないレベルの美人がいるから感謝感激ってとこかしら?」
「ハッ!良く舌が回る聖職者だな、布教用に口に油でも差してんのか?」
「残念生まれつきの才能よ……違うなら何で笑ったの」
「さぁな」
「何か知ってるんじゃないの?話聞いて笑ったもんね、今」
「どうだかな」
「今なら素直に答えるなら一発くらいヴィートのこと殴らせてあげてもいいわよ?」
「何で一切の相談なく僕を巻き込むのか!?」
突然取引材料に使われたヴィートの必死の抗議を無視して、ラフィはバンダナの男の返事を待つ。
「……そりゃいいな、先に殴らせろよ、そしたら考えてやってもいい、三日三晩寝ずに考えてやるよ」
答える気がないことは明白だった。
無言になったラフィの後ろ姿に、リュージの肩が無意識にぶるっと震えた。
気圧された、違う、そんな精神的な原因ではない。
本当に寒気から肩が震えたのだと気づいた瞬間にはラフィの握っていた鉄格子が凍りついた。
「知ってることがあるなら早く言って、今日の私はほんのちょっと急いでるから」
「ラフィさん!?」
「おいラフィ、何やってんだ!」
「すぐ終わるから、静かにしてて」
ラフィが声に耳を貸す様子はない。
その後ろ姿にリュージは強烈な違和感を感じた。
端的に言えば、らしくもなく焦っているように見えたのだ。
圧倒的な冷気を武器に繰り出される渾身の脅し、震え上がる残り二人とは対照的にバンダナは凍った鉄格子を鼻で笑い飛ばした。
「わかってねえな、今更そんな脅しに意味はねんだよ、過程はどうあれ仕事を達成できなかった。俺たちゃ牢屋から出た途端にお陀仏よ、いまどんだけ痛めつけられようと、殺されようと結果は同じよ」
暫しにらみ合いが続いた。
火花散らすにらみ合いに、ヴィートはおろかリュージでさえ静止するのが憚られる。
一触即発の空気を空気を打破したのは部屋の入り口から聞こえたノックの音だった。
「すみません、そろそろ時間なので――あれなんか床濡れてませんか?」
開いた扉から顔をのぞかせたディルクが床を見て疑問を口にする。
そこには小さくない水たまりが出来上がっていた。
ノックが聞こえた瞬間にラフィが溶かした氷の成れの果てだ。
「ヴィートの服が水吸ってたみたいね、もう子供でもないくせに雨の中を走り回るから」
「うえぇえぇぇ!?」
ラフィはなに食わぬ顔でディルクに告げる。
突然全ての罪を被せられたヴィートは驚愕に震えていた。
「ごめんなさいね、なんだったら今拭かせるけど」
「そういうことでしたら構いませんよ、どうせ仕事も少ないですから僕がやっておきます、ああそうだヴィートさんこれをどうぞ、今更かも知れないですけど」
ディルクがポケットから出したハンカチをヴィートに差し出す。
今更真実を伝えることもできず、ヴィートは引きつった笑みでそれを受け取っていた。長い前髪に向こうにある目はラフィを睨みつけていることだろう。
だが今はそんなことよりも、だ。
「もう終わりか?そんなに時間経ってたか」
「それが予定が早まってしまいまして」
「予定?」
「はい、そこの三人組を監獄に連れて行くんです、馬車が思っていたよりも早くついてしまって、予定を繰り上げることになったんです」
監獄と聞くと物々しいが要は刑務所だ。
この牢屋は一時的な拘留場所なので、罪が軽いものはともかくそうでないものは数日の期間を置いて都市内にある監獄に送られる。
「というわけなので、申し訳ないんですがこれ以上は――」
「わかった、今出ていく、フィリーネ色々ありがとな、あとは任せろ」
「そうね、任せたわ」
「おう、よし行くか」
「は、はい!」
納得しきれないが仕事だと言われては食い下がることもできない。それにフィリーネの口から、自分は犯人でないと聞けただけでも大きな収穫だ。
それに一応手がかりも手に入れた、あとは自分達でなんとかするしかない。
部屋を後にしようとしたリュージは足音がひとつ少ないことに気づいた。
振り返ると、ラフィが牢屋に顔を近づけて何かを話している。
「フィリーネ、最後に聞きたいんだけど――に――の――って覚えてる?」
「え?えぇ、それなら――よ、間違いないわ」
「……へぇ」
「何やってんだラフィ、もう行くぞ」
「はいはーい、今行くってば」
顔を近づけて話していた二人の会話はよく聞き取れなかったが、ラフィの表情からは何かを掴んだことが伺えた。
「何話してたんです?」
「内緒よ、ただ無駄にはならないこととだけ言っておくわ」
「……内緒ねぇ、いい予感がしねえのは俺だけか?」
「失礼な、少しは人を信じる心を身につけなさいよ、そんな風に理由もなく人を疑うのはリュージだけに決まってるじゃない、ねぇヴィート」
「………………そうですね」
「なーにかしらねぇ今の沈黙は」
「うわ冷たっ!?や、やめてくださいよ今服濡れてるんだから、冗談じゃすまないですって!」
「人を信じる心を忘れた少年の心を取り戻してあげようとしてるのよ、少し凍るくらい我慢しなさい」
「そういうことばっかやってるから信じられねえんだよ」
ヴィートの服の裾からパキパキという音が聞こえる。
掴んでいる本人は焦るヴィートを愉快そうに眺めていた。
基本的に怒っているフリをしているだけの愉快犯なのでたちが悪い。
「ぎゃあぎゃあ騒ぐなよ、周りに迷惑だろ」
すれ違う度に、騎士たちから迷惑そうな視線を送られるのは居た堪れない。
真面目に働いている彼らからすれば、忙しいのに目の前で遊ばれてはいい気はしないだろう。
最も、それだけではなさそうだが――。
「迷惑なんて今更もいいとこよ、騒がなくとも花摘みなのは変わらないだろうし」
「まあそれは、そうだけどよ」
あっけらかんと言い放つラフィにリュージは嘆息した。
実際その通りだ、いまリュージ達はアルカディアの騎士からよく思われていない。
それというのもラフィが騎士を説得する際に使ったらしい一言が原因だ。
『こっちで当たりつけてたやつと違うのよ、彼女は誰かに嵌められてるだけの可能性があるわ』
この二週間近く、市民の対応に追われ、親方のイヤミに尻を蹴飛ばされ、外から来る人々には呪いの言葉を吐きつけられる生活を余儀なくされてきた彼らにとっては、やっと見つけたゴールの前で足踏みさせられているのが現状だ。
その原因とも言える自分たちにいい感情を持つわけがない。
それに今しているのは――。
「そうか、そういやそういうことになるのか」
「……どしたの?」
「いや、なぁヴィート」
「うわぁ裾が割れてる……ってはい?なんですか」
「今更だけど、俺たちが今からやろうとしてんのは、ここの騎士たちの誤認逮捕を暴くことなんだが、お前良いのか、その――」
「……確かに、少し心苦しくはあります、フィリーネさんの無実を証明したら、少なからずここの人たちは非難されるでしょうから」
例え見ず知らずの他人だとしても、ヴィートにとっては同じ使命に燃える同志だ。葛藤がないわけではないだろう。
でも、とヴィートは続ける。
「僕たちの仕事は市民の安全を守ることです、面子を守ることじゃない、きっと分かってくれるって信じてます」
「そうか、聞くだけ野暮だったみたいだな」
「あ、ご、ごめんなさい!偉そうなこと言って、上から目線過ぎました、かね……?」
「その卑屈さがなけりゃなぁ、満点だったよ」
浮かべていた笑みを苦笑に変えながら、リュージは出入り口のドアノブに手を伸ばす。
そういえばイナセはまだいるだろうか、一緒に住んでいると聞いているので可能なら協力を仰ぎたいところだ。
そんなことを考えながら扉を開けると――。
イナセが土下座していた。
「な、何やってんのイナセちゃん!?地面に頭なんか擦りつけたら汚いよ!」
「頼みがある」
驚きに喉を震わせるヴィートを無視して、イナセは声を絞り出した。平坦な声を出そうとしてうまくいかなかった、そんな声だった。
そしてイナセの頼みとやらがなんなのか、見当はついている。リュージは頭を掻きながら呟いた。
「イナセ、もういいから頭上げろ」
「盗った金は返す、足りねぇなら今まで貯めてた分だって全部出すよ、だから、だからさ――」
「あのねぇイナセ、あなたのやってることって時間の無駄よ?」
「ああ分かってる、そりゃ奪ったもの返すだけで済むなんて思ってねぇよ、だから全部終わったら気のすむまで痛めつけてもらって良い、なんならそのまま――」
「イナセ!」
ビクッと、一喝されたイナセだけでなくとラフィの隣にいたヴィートの体も震える。それほどまでに驚かされたのだ。
ラフィは気が長いとは言えない性格だが、声を荒げている姿は今まで見たことがなかったからだ。
まだ言い足りんと眼光鋭く口を開こうとするラフィ、リュージはそれを片手で制すると、小さく震えているイナセの前に屈みこんだ。
「頭上げろよ」
「で、でも――」
「いいから、こっち見ろ」
ゆるゆると、イナセが顔をあげる。
その心細そうな様子に、リュージはまたため息を、今度は大きなため息をついた。
イナセは年の割に達観したところがある。
それは彼女が今まで歩んできた道の険しさを物語っているものでもあるのだろう。
人を騙し、陥れ、傷つけなければ生きていけない環境、かつては自分も歩いてきた道だ。歩かざるを得なかった道だ。
それでもここまで生きてこれたのは、こんな自分を見捨てずに諭し続けてくれた人たちがいたからだ。決して多くはなかったが、信じてくれた人がいたからだ。
リュージは話すのが苦手だ、かつての恩人たちのように相手を慮って的確なアドバイスを送るなんてできるはずもない。
だから、当たり前のことを当たり前に告げよう。
図体がでかくなっただけのガキだとしても、自分に伝えられることを言おう。
「悪いと思ったらまずは『ごめんなさい』だ、困ってんだったら『助けて欲しい』だ」
「え……?」
「報酬だの、気が済むようにだの、つまらねえこと言ってんなよ、俺たちは、赤の他人じゃねえだろうが」
「――ッ!」
イナセの顔がくしゃっと歪んだ。
目は固く瞑られ、開けては閉じられる口からは意味を成さない音が出てくるばかり、求められた二つの言葉、短い二言があまりにも遠くにあるような、自ら投げ捨てた扉の鍵を探しているような苦しさが、表情からは滲みだしていた。
時間の感覚なんてとっくに狂っていた、数分たったのか、それとも数時間か。
耳を澄まさねば聞こえないような、小さな声だった。
「……お金盗んで、ごめ、ごめんなさい、フィリーネのこと、助けて欲しい、です」
小さな滴が、地面に落ちた。
わずか一滴に交じっている感情は複雑で、流した本人にすら分かっていないはずだ。
力強く膝を叩いて、リュージは立ちあがる。
「よし、とりあえず『ジューンブライト』だったか、その店行ってみるか」
「そうね、早く行きましょ、一分一秒が惜しいわ」
「なんだ、珍しくやる気だな」
「いつもは無気力みたいに言わないでよ、私はいつだって活気と魅力に満ち溢れてれでしょ?」
「そうだな、お前はいつでもそんなだったな、間違えてんのは方向性だけだよな」
「聞かなかったことにしてあげるわ……本当に時間ないし」
「ん?なんか言ったか?」
「なーんにも」
「あ、あの、それより僕服がびしょびしょだから一旦着替えに帰りたいんですけど……」
「ああもう!そんなの乾かしたげるからさっさと行くわよ!」
「え?ちょ、ちょっとラフィさん?その炎何に使うんですか、な、なんでこっち来るんですかなんでこっち向けるんです――ほわああああああああ!?」
乾かすついでに灰になってしまいそうな火炎から逃げ惑うヴィート、リュージは呆れを含んだ視線を向けながら、ぽかんとこちらを見上げているイナセに手を差し伸べた。
「なにぼさっとしてんだ、さっさと立てよ」
「え、えぇ?」
「なんだ、手伝ってくれねえのか」
イナセの視線が差し伸べられた手と顔を何ども往復する。
それでも少女は最後には手を取る道を選んだ。
零れ落ちそうなほど溜まっていた涙は、いつの間にか引いていた。
いつもよりも長めだから明日は無し……なんて言いませんよもちろん。




