タイトル未定2026/06/17 06:17
居酒屋を出た流花は、思い切り走り出した。
最寄りの地下鉄の階段を、駆け足で降りる。
ホームで電車を待ち、電車が来るとドアが開いたと同時に、電車に飛び乗った。
流花が駆け足で電車に乗っていた時、マスターは診療所のカーポートに置いてある自転車に乗った。
ペダルを踏み、自転車を漕ぎ出すと夜風が頬に当たる。
冷たい夜の中を、マスターは自転車を漕ぎ、待ち合わせ場所に急いだ。
自転車を漕いでいると、汗が滲んできた。
冷たくなっていた身体は、少しずつ熱くなっていた。
マスターは、自転車で暗い夜道を走り続けた。
入り組んだ路地に入っていき、古いアパートが並んだ場所で、マスターは自転車を停めた。
自転車から降りたマスターは、背負っていたリュックを降ろし、リュックから携帯を出した。
リュックはサドルに下げ、マスターは携帯のラインを開いた。
そこには、マスターが流花に送った文字があった。
(会いたい。流花が住んでいるアパートの前で、待っています)
流花の返事はなかったが、既読になっていた。
マスターは、流花が住むアパートを見つめた。
周りの街灯はなく、二階建ての築何年かするさびれたアパート。
流花が住むアパートを見つめ、マスターはそれまで忘れていた、この世には既にいない、初恋の彼女坂田瞳を思い出していた。
背が高くショートカットで、同い年とは思えない女性だった。
一人っ子でシングルマザーで育ち、今にも崩れそうなアパートで生活をしていた。
マスターが流花と初めて出会った時、マスターは流花と瞳を重ねて見ていた。
見た目の雰囲気、シングルマザー、一人っ子。
全てが、瞳と同じだった。
……流花が、住んでいるアパート。瞳ちゃんが住んでいたアパートと似ている。
忘れていた瞳を思い出し、マスターの目頭が熱くなった。
「マスター」
流花の声でマスターは顔を上げ、振り向いた。
そこには、呆然と立ち尽くしていた流花がいた。
「マスター……なんで、此処に?」
「流花が住んでいる場所を、緑さんから聞きました」
緑は流花のアパートまで、送ったことがあった。
流花は夜空を見上げ、大きく息をついた。
「……こんなアパートに暮らしていること、マスターには知られたくなかった」
「どうして?」
「マスターは医者で、barのバーテンダーで、実家とマンションを行き来していて……嫌でも貧富の差を感じていた」
流花の言葉を聞いたマスターは、愕然となった。
瞳も貧富の差を感じ、マスターを自分が住んでいるアパートに近づけさせなかった。
……ここまで、似ていたとは……。
「流花がどんな所に住もうが、ボクにはどうでもいいことです。そんなことより……流花に会いたかった」
居酒屋で田中と過ごしたひと時が、流花の中で少しずつ霞んでいった。
何も知らないマスターは、流花をじっと見つめた。
お互い忙しくて、会う時間がなかなかなかった。
それでも良いと、マスターは強がっていた。
……会えなくて、ボクは寂しかった……。
目の前にいる流花が歪み、マスターはいきなりきつく流花を抱きしめてキスをした。
唇を離したマスターは泣き顔を流花に見られないように、流花を抱きしめたままでいた。
「流花に会いたかった……。流花がボクの側にいるだけで良い。……流花、卒業おめでとう」
寒い夜空が、二人を静かに包みこんでいた。
完




