川底の夢
御剣と別れたあとも、胸の火照りは冷めそうになかった。
轟は手の中の空き缶を揺らし、深く息を吐き出す。宿舎へそのまま帰るには、まだ心が昂ぶりすぎている。途中のコンビニでもう数本の酒を買い足すと、足は自然と近くを流れる河川敷へと向かっていた。
夜風が吹き抜ける堤防に腰を下ろし、草むらに深く身を沈める。静かに流れる川面には、街灯の光がゆらゆらと反射していた。
プルタブを開け、冷えた酒を喉に流し込む。じわじわと体内に染み渡るアルコールの感覚に浸りながら、轟の意識は自然と一人の少女へと向けられていた。
(最近、琴音ちゃんとまともに話せてないな……)
大関昇進、日々の厳しい稽古、そして二場所連続の緊張感あふれる土俵。あまりに怒涛の日々の中で、気付けば彼女との時間を満足に作れていなかった。
次の五月場所は、角界の最高峰「横綱」がかかる人生最大の勝負所になる。だからこそ、その激闘に身を投じる前に、何か心を込めたプレゼントを贈りたい。何を買えば喜んでくれるだろうか。
普段の会話や彼女の好みを思い出そうと試みながら、轟は暗がりの中で一人、静かに口元を緩めた。彼女の笑顔を思い浮かべることが、今一番心を穏やかにしてくれた。
缶を空けるペースは思いのほか早く、気づけば足元に転がる缶の数は増えていた。
(……少し、飲みすぎてしまったか)
立ち上がると、視界がわずかに揺れ、足元に重い疲労感がまとわりついた。千秋楽までの十五日間の疲れと酒が、一気に押し寄せてきたようだった。轟は千鳥足にならないよう気を引き締め直し、川沿いの道をひとり歩き始める。
その時だった。
「——キャン! パシャパシャッ……!」
静けさに包まれた河川敷に、水を狂おしく叩く音と、悲痛な犬の鳴き声が響いた。
ハッとして川面に目を凝らす。夜の闇が落ちる川の真ん中で、小さな影が必死に頭を上げようとしては、流され、沈みかけているのが見えた。
「おい……ッ!」
考える隙すらもなかった。酒が入っていたことで、冷静な状況判断が鈍っていたのは間違いない。だが、目の前で消えかかっている命を前にして、素通りすることなど轟の性分が許さなかった。
「待ってろ! 今助ける!」
上着を脱ぎ捨てる間もなく、轟は勢いよく川へと飛び込んだ。
しかし、夜の川は外から見つめるよりも深く、冷たく、そして流れが急だった。足をつこうと深く踏み込んだ瞬間、川底の感触に激しい違和感を覚える。
ヘドロと、不法投棄された自転車や金属のゴミが深く堆積しており、大関の頑強な足腰をもってしても全く踏ん張りが効かない。
それどころか、着水と同時に水を含んだ重い服が全身にまとわりつき、ゴミの隙間に足首をがっちりと取られてしまった。
(くそっ……! なんだこれ、足が抜けない……!)
焦りが走り、全身に力を込めて引き抜こうとするが、ヘドロが泥沼のように足を踏み留めさせる。激しい水流が体力を容赦なく削り取り、冷たさが急速に体温を奪っていく。
体勢を崩し、頭から濁流の中へと飲み込まれた。息が続かない。激しい水が鼻と喉を焼き、意識が急速に白く霞んでいく。
脳裏を駆け巡るのは、横綱という名誉ある頂の景色、命を燃やしてぶつかり合ってきたライバルたちの顔、そして、明日プレゼントを渡して笑顔を見せるはずだった彼女の姿。
手を伸ばしても、掴めるものは冷たい濁流しかなかった。
土俵ではこの上なく有利に働く轟の巨体は、この時ばかりは轟に牙を向く。
やがて大きな水音がひとつ弾け、やがてそれも静かな川のせせらぎの中に消えていった。
角界の頂点を目の前にした大関・轟の挑戦は、春の静かな夜の底で、あまりにも静かに幕を閉じたのだった。
(完)




