月日は流れ
『続いては大相撲のニュースです。――大相撲秋場所千秋楽。東横綱・雷電が、押し出しで大関を下し、見事三場所連続となる全勝優勝を果たしました!』
テレビのスピーカーから流れる実況アナウンスと、満員御礼の国技館を揺らす地鳴りのような歓声。
画面の向こうでは、黒と金の重厚な賜杯を誇らしげに抱きかかえる横綱・雷電の姿が映し出されていた。
幕内の頂点に絶対王者として君臨し、他の追随をまったく許さない圧倒的な強さ。
画面越しであっても、その存在が放つ圧迫感は部屋の空気を重く沈めるのに十分だった。
パチ、と小さく音を立ててリモコンのボタンが押され、画面が暗転する。
「……相変わらず、化け物だな。あの横綱は」
煙草の煙を白く吐き出しながらそう呟いたのは、手鏡を覗き込んでいた荒磯親方だった。しばらく前まで禁煙をしていた親方も最近はまたタバコを吸うようになった。
鏡に映っているのは、親方自身の顔ではない。その前にどっしりと胡坐をかき、床山の手によって髪を結い上げられている一人の男――轟の姿だ。
かつて新十両の土俵を騒がせたザンバラ髪の面影は、もうどこにもなかった。
頭上に綺麗に結い上げられた、艶やかな漆黒の大銀杏。先日、二十歳を迎えたその顔つきからは、かつての粗削りな少年っぽさは完全に消え失せ、幕内上位の激しい修羅場をいくつも潜り抜けてきた男だけが持つ、静かで重厚な関取の風格が漂っていた。
「できましたよ、関取」
床山がクシを置き、満足そうに一礼して手を止める。
轟は鏡の中の己の姿を一度だけ冷ややかに見つめると、無言のまま静かに立ち上がった。
かつてよりも一回りも二回りも大きくなった巨躯から放たれる圧倒的な威圧感に、稽古場の空気が一瞬で緊張に包まれる。
新十両での大活躍から数場所――。
轟の勢いは止まるどころか、加速する一方だった。
幕内へと昇進を果たすと、並居る幕内のベテランや実力派力士たちを、その規格外の馬力と研ぎ澄まされた突き押しで次々と土俵下へ粉砕。引き技も変化も一切通用しないその怪物ぶりに、相撲界は激震した。
一気に「三役」へと駆け上がり、いまや番付表の最上段近くにその名を連ねる、『関脇・轟』。
「轟関、お茶が入りました」
少し緊張した面持ちで湯呑みを差し出してきたのは、荒磯部屋に入門して間もない十代の若い新弟子――轟の付け人だ。
かつては4人きりで、長年寂れ果てていた荒磯部屋だったが、いまやその面影はない。
新十両、新入幕と快進撃を続ける轟の強さに憧れ、全国から新しい弟子たちが門を叩くようになっていた。
かつては雑用から付け人業まで全てこなしていた満吉に代わり、今では部屋に入ったばかりの新弟子たちが、関脇である轟の身の回りの世話をこなしている。
「轟関! 刷りたての新しい番付表が届きましたよ!」
大部屋の仕切りを威勢よくくぐって入ってきたのは、締まった体に凛とした雰囲気を纏った満吉だった。
満吉の背後にもまた、荷物を抱えた別の新弟子がペこぺこと頭を下げながらついてきている。
そう、満吉自身もまた、あの三月場所で親方直伝の投げ技を武器に勝ち越しを重ね、ついに「十両」へと昇進。
見事関取の仲間入りを果たしていたのだった。
かつて轟の付け人として大きな荷物を抱えて花道を追いかけていた少年は、今や自分の付け人を従え、自分の部屋と締め込みを持つ立派なプロの力士となっていた。
「これを見てください、轟関」
満吉は破顔しながら、刷りたての真っ白な番付表をテーブルの上に大きく広げて見せた。
番付表の最上段、三場所連続優勝を果たした横綱・雷電の名からほんの少し目を滑らせたところに、太く力強い筆文字で鎮座する「関脇 轟」の二文字。そして、十両の欄には「満吉」の名も確かに刻まれている。
「東の関脇筆頭か……。いよいよだな」
親方が深く煙草を吸い込み、番付表を見つめながら静かに言った。
「雷電はこれで三場所連続優勝。幕内上位の力士たちも軒並み打ちのめされている。だが……次の九州場所、轟関、お前が二桁勝てば、いよいよ『大関とり』が現実味を帯びてくる。そうなれば、嫌でもあの化け物と真っ向からぶつかることになるぞ」
大関昇進、そしてその先にある横綱の座。
かつては遠くから見上げるだけだった大相撲の頂の景色が、今や手を伸ばせば届く現実として、目の前の土俵に広がっていた。
轟は差し出されたお茶をゆっくりと口に含み、暗転したテレビの画面に映る自分の大銀杏を見つめた。
全勝で土俵を蹂躙し続ける絶対王者・雷電。
そして、その首を狙う位置まで、文字通り己の力だけで登り詰めてきた関脇・轟。
かつて自分て化粧まわしすら用意できなかった男は、一部屋を背負う大看板として、ついに最高峰の舞台へと踏み出そうとしていた。
(第8章 / 第1話・了)




