灰の街で、風が鳴った
「ロビン。また机で寝たね」
頬をつままれて、オレは飛び起きた。
鼻の奥に、油と鉄粉と朝霧の匂いが入り込んでくる。ここは魔道都市ポトスの東区画、ブランフォード工房。窓の外では、夜明け前の薄い霧が石畳を白く撫でていた。街はまだ眠っている。煙突も、時計塔も、市場の天幕も、今日が昨日と同じ一日になると信じきっているみたいに、静かだった。
「いってえな、姉さん。頬がもげるって」
「もげるほど立派な頬してないでしょ」
ミリアム・ブランフォードは、そう言って笑った。
七つ上の姉。オレの頭を小突くのが趣味で、オレよりずっと器用で、工房長のヘクターに「最近の若いワッツ見習いの中じゃ飛び抜けてる」と言わせた人。頬にはいつもの油汚れ。髪は寝癖で少し跳ねている。それなのに、手元だけは不思議なくらい綺麗だった。
その手のひらに、小さな太鼓が載っていた。
手のひらに収まるほどの真鍮の胴。薄い膜の内側には、細い風導管が蜘蛛の巣みたいに走っている。中央には、オレの知らない青白いクリスタルが一粒、心臓みたいに埋め込まれていた。
「……それ」
オレは息を呑んだ。
「風の太鼓、完成したのか」
「完成させたの」
「ずるいだろ! 最後の風路調整はオレがやるって言ったじゃん!」
「寝た奴が悪い」
「職人として一番ひどい裏切りだぞ、それ」
「じゃあ、職人として一番いいものをあげる」
姉さんは太鼓をオレの手に押しつけた。
冷たいはずの金属が、妙に温かかった。まるで、オレの体温を先回りして覚えていたみたいに。
「ロビン。それ、あんたが持ってな」
「は? 一緒に作ったんだろ。姉さんが持てよ」
「ううん。あんたが持つの」
その声が、いつもより低かった。
オレは顔を上げた。姉さんの目から、ふざけた光が消えていた。代わりに、オレの知らない影が、ほんの少しだけ差していた。
「あんたが、どこに行くことになっても。誰に追われることになっても。何を信じたらいいかわからなくなっても」
「……姉さん?」
「それだけは、肌身離さず持ってな」
冗談だと思いたかった。
でも、姉さんの指先は少し冷たかった。その冷たさが、なぜかオレの胸の奥に引っかかった。
「なんだよ、それ。まるで今日で最後みたいな言い方すんなよ」
「最後じゃないよ」
姉さんは笑った。
いつもの笑顔だった。けれど、目だけが笑っていなかった。
「ただ、もしも、あたしがあんたに何も言えなくなった時は」
彼女は太鼓の鎖を、オレの首にかけた。
「風を聞きな。風は、嘘をつけないから」
その時のオレは、意味なんてわからなかった。
わかるわけがなかった。
姉さんはいつもの姉さんで、工房はいつもの工房で、ポトスはいつもの街だった。今日も朝飯を食べて、ヘクターに怒鳴られて、昼には工具を探して、夜には姉さんとまたくだらないことで言い合う。そんな一日が来ると、オレは当たり前みたいに信じていた。
だからオレは、風の太鼓を胸元にしまいながら、軽く笑った。
「わかったよ。姉さんの形見みたいに大事にする」
「形見とか言うな、馬鹿」
小突かれた頭が痛かった。
その痛みが、オレが姉さんから受け取った最後の痛みになった。
顔を洗いに行った、次の瞬間。
朝焼けが、鉄の雨に変わった。
最初に来たのは音だった。
腹の底を殴るような低い轟音。続いて、熱。さらに遅れて、ガラスの割れる音と、人の悲鳴。鏡がひび割れ、天井から白い漆喰が降ってきた。
「何だよ、今の!」
窓に駆け寄ったオレは、言葉を失った。
空に、巨大な鉄の島が浮かんでいた。
ヴァンドール帝国の飛行戦艦。
軍の教本でしか見たことのない化け物が、ポトスの上空にいた。腹に並んだ砲門が赤く瞬き、次々に火球を吐き出している。狙いは軍事施設じゃなかった。市場。民家。時計塔。子どもたちの学校。職人街。
この街には、兵士なんてほとんどいない。
ここにあるのは、工具と炉と、手を真っ黒にしながらものを作る人間の暮らしだけだ。
なのに、帝国はそこを焼いていた。
「ロビン!」
姉さんの声が、背中を打った。
振り返ると、彼女はもう工具袋と外套を抱えていた。頬の油汚れはそのままなのに、目だけが別人だった。工房で笑っていた姉じゃない。何かを知っていて、何かを覚悟している人の目だった。
「走るよ!」
「姉さん、あいつら何でポトスを撃ってるんだ! うちは民間区画だぞ!」
「理由を尋ねる相手が、理由で止まると思う?」
姉さんはオレの手をつかんだ。
「いいから走りな、ロビン!」
裏路地へ飛び出した瞬間、熱風が頬を焼いた。石畳には割れた窓と煉瓦が散らばり、どこからか焦げた布の匂いがした。遠くで誰かが子どもの名前を呼んでいる。返事はない。
オレは姉さんの手を必死に握った。
この手を離したら終わる。
そう思った。
でも世界は、オレの思いなんて簡単に踏み潰した。
背後の時計塔が、獣の断末魔みたいな音を立てて崩れた。瓦礫の波が路地を呑み込む。オレはとっさに振り返り、姉さんの手を強く握った。
握ったはずだった。
次の瞬間、その温もりは煙の向こうに消えていた。
「姉さん!」
喉が裂けるほど叫んだ。
返事はなかった。
瓦礫を掘った。爪が剥がれて、血が滲んだ。石をどけ、梁を押し、焦げた布をめくった。見つかったのは、姉さんのローブの切れ端だけだった。
軽すぎた。
それが、何より怖かった。
「……嘘だろ」
その時、胸元が熱くなった。
オレのスーツの内側で、風の太鼓が青白く光っていた。脈打っていた。まるで、生きているみたいに。
オレは震える手で、それを取り出した。
中央のクリスタルが、オレの鼓動に合わせて明滅している。
姉さんの声が、頭の中で蘇った。
風を聞きな。風は、嘘をつけないから。
「姉さん」
言葉が、灰まみれの口からこぼれた。
「あんた、知ってたのか」
答えはない。
ただ、太鼓が鳴った。
音じゃなかった。耳で聞くものではなかった。胸の奥に、直接触れてくる震えだった。
生きろ。
そう言われた気がした。
「ロ……ビン……」
背後から声がした。
振り向くと、瓦礫の隙間に赤髭の大男が倒れていた。工房長のヘクター・ガラモンド。親父代わりで、怒鳴り声だけで工具箱を震わせるような男が、血まみれで笑っていた。
「ヘクターさん!」
「ひでえ顔だな。男前が台無しだ」
「黙ってろ! 今助ける!」
「その前に……聞け」
ヘクターは咳き込みながら、オレの胸元を見た。風の太鼓の光を見て、何かを悟ったような顔をした。
「ミリアムは、やっぱり……お前に渡したか」
「何を知ってるんだよ!」
「工房長室の金庫の裏だ。革の筒がある。あいつが隠してた」
「姉さんが?」
「取ってこい。中身を見ればわかる」
ヘクターは、折れた肩を押さえながら言った。
「あれは、ただの設計図じゃない。たぶん、帝国がこの街を焼いた理由だ」
血の気が引いた。
ポトスが焼かれた理由。
姉さんが死んだ理由。
オレの胸元で鳴る、この小さな太鼓の意味。
全部が、一本の細い糸で繋がりはじめていた。
オレはヘクターを近くの生存者に預け、燃え残った工房へ戻った。熱で肺が焼けそうだった。梁が落ち、床が抜け、腕の皮膚が焦げた。それでも止まれなかった。
金庫の裏には、本当に革の筒があった。
中には、古い設計図の束。
一枚目を広げた瞬間、オレは息を忘れた。
それは飛行艇だった。
ただの飛行艇じゃない。今のどの工房でも再現できない、古代ポトス式の超高速飛行艇。風導管、クリスタル炉、翼の可変機構、その全てが、常識を笑うような精密さで描かれている。
余白には、姉さんの字があった。
『ロビンへ。これを一人で背負うな』
たった一行。
でも、その下にもう一つ、薄く浮き上がるような文字があった。
『この機体の原型は、聖地より発掘された。風の太鼓は鍵であり、地図であり、警告である』
「鍵……?」
その瞬間、風の太鼓が強く光った。
設計図の線が青白く浮かび上がる。紙の上に描かれた機体が、まるで生き物みたいに脈打ち、オレの頭の中へ大量の情報が流れ込んできた。
翼の角度。
炉心の鼓動。
風の流れ。
空を裂くための道筋。
痛い。
頭が割れそうだった。
けれど、オレは笑っていた。
姉さんが、オレに残したもの。
それは復讐の道具なんかじゃなかった。
世界の嘘を暴くための刃だった。
ポトス陥落から三日。
地下水路の避難所で、オレたちは飛行艇を組み上げた。部品は足りない。時間もない。人手もない。あるのは瓦礫から拾った鉄材と、すすけた工具と、焼け残った人間たちの意地だけだった。
「本気で飛ばすつもりか、ロビン」
ヘクターが、包帯だらけの体で腕を組んだ。
「飛ばす」
「未完成だぞ」
「オレも未完成だ」
「帝国の戦艦相手に、一機で何ができる」
「姉さんが残したものを、奴らの目の前まで届ける」
ヘクターはしばらく黙っていた。
それから、大きな手でオレの頭を乱暴にかき回した。
「馬鹿弟子が」
「知ってる」
「必ず戻れ」
その言葉に、オレは答えられなかった。
戻れるかどうかなんて、わからなかった。けれど、止まることだけはできなかった。止まった瞬間、姉さんの最後の温もりまで、灰の中に沈んでしまう気がした。
夜明け前。
つぎはぎだらけの飛行艇が、地下の隠し滑走路に震えながら立っていた。翼は歪み、炉は煙を吐き、操縦席の計器は半分死んでいる。
それでも、操縦桿を握った瞬間、機体はオレを待っていたみたいに応えた。
胸元の風の太鼓が、静かに鳴った。
「行くぞ、姉さん」
機体が走り出す。
瓦礫の街を抜け、朝霧を突き破り、オレは空へ上がった。
雲海の上に出た瞬間、そいつはいた。
ポトスを焼いた鉄の島。
ヴァンドール帝国の大戦艦。
無数の砲門。黒い装甲。艦腹に刻まれた帝国の紋章。その全てが、オレの中の炎に油を注いだ。
「やっと会えたな」
護衛艇が散開する。対空砲が火を噴く。翼が焦げ、機体が悲鳴を上げる。それでもオレは速度を落とさなかった。
設計図は、戦艦の弱点を教えていた。
艦橋直下。装甲の継ぎ目。正面からは見えない、たった一つの裂け目。
「姉さん」
オレは即席のダイヤミサイルに指をかけた。
「見てろよ」
発射。
白い尾を引いた弾頭が、朝焼けの中をまっすぐ走った。
次の瞬間、戦艦の艦橋直下で閃光が膨れた。鋼鉄の装甲が内側からめくれ、破片が雲海へ散る。艦橋の壁が裂け、軍服姿の人影がひとつ、腕を押さえながら宙へ投げ出された。
届いた。
たった一発。
戦艦を沈めるには足りない。帝国を倒すには遠すぎる。それでも、オレと姉さんの一撃は、確かにあの鉄の島へ届いた。
「やったぞ、姉さん!」
叫んだ直後、世界が白く爆ぜた。
直撃弾。
機体がきりもみする。計器が砕け、クリスタル炉が悲鳴を上げた。高度計の針が狂ったように落ちていく。
雲海の下に、赤黒い霧が広がっていた。
ダークフォースの海。
人が近づけば肺が腐り、獣が狂い、大地そのものが呪われていると教えられてきた禁忌の地。
そこへ、オレは落ちていた。
マスクは割れていた。脱出装置も死んでいる。指はもう動かない。
オレは胸元から風の太鼓を取り出した。
青白い光が、今までで一番優しく揺れていた。
「ごめんな、姉さん」
声になったかどうかもわからない。
「仇、全部は討てなかった」
でも。
「オレ、まだ知りたいよ。あんたが何を見てたのか。何を怖がってたのか。何をオレに託したのか」
赤黒い霧が、機体を呑み込んだ。
息が詰まるはずだった。
肺が焼けるはずだった。
死ぬはずだった。
なのに、最後に聞こえたのは、風の音だった。
そして、誰かの声。
「……あなた、本当に地上の人?」
まぶたを開けると、そこは死の海ではなかった。
淡く光る霧。青い花。水晶の実をつけた木々。夢みたいに澄んだ空気。
その中心に、白銀の髪の少女が立っていた。
彼女はマスクをつけていなかった。
肩には、小さな翼を持つ獣が乗っていた。
少女はオレを見下ろし、不思議そうに首を傾げた。
「あなた、どうしてその太鼓を持っているの?」
オレの手の中で、風の太鼓が鳴った。
今度は、はっきりと。
まるで、世界のどこかで閉じていた巨大な扉が、初めて開いたみたいに。
ここから、オレの復讐は終わった。
そして。
世界の本当の姿を暴く旅が、始まった。




