メタルキス終話
メタルキス終話
少年がひとり泣いている。
放課後の図書室。
西日が差し込み、埃が金色の粒子のように舞う。
その隅で、一人の少年が立ちすくみながら泣いている。
肩を震わせ、声をつまらせながら、絶望の淵にいる。
あれは、かつてのぼくだ。
ぼくは、透明な壁越しにその光景を見ているかのような感覚で、あの日へと引き戻される。
彼女との出会い。
彼女はぼくの、隠しようのない斜め後ろからの視線に気づいていた。
好奇心や嫌悪とは違う、熱を帯びた、吸い込まれるようなぼくの視線を。
ぼくは、間違いなく彼女に憧れていた。
歯列矯正をしていたことはもちろん。
彼女の存在に憧れていた。
そして、彼女は優しく、そして勇敢だった。
自分の孤独の象徴であり、痛みの証であるその「メタル」を、ぼくに差し出したのだ。
「……つけてみる?」
その瞬間、ぼくの心臓は破裂しそうだった。
本当に、憧れていた。
装置に触れてみたかった。
彼女の一部になりたかった。
その冷たい感触を、痛みを、共有したかった。
本当に、つけてみたかった…
けれど、あまりに強烈な「憧れ」は、
未熟なぼくの”弱さ”が、憧れの形を歪め、防衛本能という名の凶器に変わってしまった。
ぼく自身が“変わった人”であると思われることも嫌だったが、
何よりも、ぼくが受け口にコンプレックスを持っていると、周りに“弱さ”を見せたくなかった。
ぼくは、彼女に、こう言ってしまった。
「……気持ち悪い」
ぼくの口からは、
最も安直で、卑劣で、人として最低な言葉が、彼女に対して、投げつけられたのだった。
その瞬間の彼女の目。
さみしそうで、どこか「やっぱりね」と諦めたような、あの凍りつくような瞳。
すべてが終わった音がした。
彼女の勇気を、ぼくは一番残酷な形で踏みにじったんだ。
なんで、願望と真逆の言葉で、彼女まで傷つけなければならないんだ。
「……最悪だ。ぼくは、なんてことを……」
泣いている少年の肩に、大人のぼくはそっと手を置く。
少年は顔を上げない。けれど、ぼくの存在に気づき、震えながらすすり泣く。
「彼女を傷つけた……。本当は、大好きだったのに。
あの装置も、かっこいいと思ってたのに……」
大人のぼくは、少年の隣に静かに腰を下ろして、言った。
「もう泣かなくていい。ぼくもやっと、彼女の目線に立てたんだ。何十年先になるかもしれないけど、いつかは、許される日が来るから」
大人になってから、お金をためてぼくは矯正した。
でも、コンプレックスであった「受け口」は、成長が終わってから矯正したため、横顔の劇的な改善は難しく、不十分な結果になっている。
自分の口元を指先でなぞった。
今は装置も何もついてない、多少は整った白い歯列だが、
金属の冷たさ。歯を締め付ける鈍い痛み。頬の裏側に当たるブラケットの感触。
あの日、彼女が耐えていたことの一部は、ぼく自身の身体で体験し、理解した。
「見てごらん。きみは、いつか、彼女と同じ景色を見ることになるよ」
少年がおずおずと顔を上げる。
大人のぼくの不十分ながらも、整った歯列を見て、少年の瞳に驚きと、小さな救いが宿る。
「……ぼくは、許される?」
少年が掠れた声で言った。
それは、今でもあの日ぼくが、どうしても言えなかった言葉だった。
「ああ、いつかは許される」
ぼくの手には、もう主のいなくなったチンキャップが一組。
誰かが戦った証拠だ。
少年とそれを手に取ってみた。
「ああ、かっこいいよ。これは、彼女が戦っていた証なんだ」
ぼくは、チンキャップを手にした少年の、細い、震える背中を強く抱きしめた。
「きみが吐いてしまった言葉は、一生消えない。でも、今のぼくが、このメタルを愛することで、きみを、そして彼女への想いを守り続けるから」
少年の姿が、夕闇の中に溶けていく。
最後に少年は、一瞬だけ、幸せそうに笑った気がした。
手には、チンキャップが一組。
金属のカップが、なぜか、温かかった。
少年のものか…彼女のものか…
ぼくは、ふと我に返った。
小高い丘から、ふるさとの海を見て、
物思いにふけっていた瞬間から、
少年のときの、ぼくの[もしも…]を追い続けていた。
もう、誰に届くわけでもない独白。
「…好きだよ」
(完)




