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新月の蛍  作者: 十三岡繁
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立花山

 営業先でまた初めましてと言われてしまった。実はそこに行ったのは今日で三回目だったのだが相変わらず顔を覚えてもらえない。昔から特徴が無いだの印象が薄いだのさんざん言われて育ってきた。しかし社会に出て営業という職に就いた時、それはかなりのデメリットである事がよく分かった。


 営業先どころか、社内でも違う部署に行けば誰だっけという反応をされることが多々ある。名前の高橋直哉というのは、苗字はともかくそれなりに覚えやすいような気もするのだが、少し中途半端なのかもしれない。いっそ田中一郎ぐらいありふれた感があれば逆に覚えてもらえる様な気がする。


 多分世間一般で言われているイケメンというカテゴリーではない。かと言って極端な不細工という事でもないつもりだ。平たく言って普通の顔だろう。社内の健診では肥満と言われたこともないが、痩せすぎだと言われた事もない。将来どうなるかは不確定だが、今の所二十代で薄毛に悩んでいるという事もない。身長172㎝というのは高身長とは言えないが、それほど低くもないだろう。今まであだ名でチビが付いた事もなかった。


 中学高校は地元の公立学校で、大学だけは私立でそれなりに名前の知れたところに進学した。但し特に学びたい分野があったというわけではなく、なんとなくつぶしが効きそうだと思って経済学部を選んだ。周辺の連中もそうだったが、そこまで熱心に大学で学んだわけでも無くて、正直今ではあまり頭に知識は残っていない。


 営業回りを終えて社に帰ると既に時間は17時を過ぎていた。僕はネクタイの首元を緩め、見積書を一つだけ作ってからタイムカードを押す。今時紙のタイムカードを押すというのはどうなのだろうと思うが、他の会社がどうしているのかは知らない。タイムカードにスタンプを押す機械の横には、小さな花瓶が一つ置いてあって花が一輪刺してある。一体この花は誰が飾っているのだろうといつも不思議に思う。


 席に戻って帰るための身支度を整える。作った見積書はすぐに送ることはしない。なぜなら今日は金曜日だからだ。もし今すぐ送って先方が残業でもしていれば中身を確認するかもしれない。そうして何かあれば、電話をかけてくるかもしれない。社の代表番号は17時で繋がらなくしてあるようだが、携帯の番号を知られているので、そこにかかったら、もし出なかったとしても着信履歴が残る。それは週末を過ごす上で精神衛生上よろしくないだろう。だからメールに添付するのは週明けにするつもりだ。


 見積はともかく身支度を終えてからタイムカードを押すのが本当だと思うのだが、残業時間が多くなると結構な文句を言われたりするので、何かこのやり方がいつの間にか定着してしまった。


 金曜日の夜ではあるが、飲みにも行かずそのまま家に帰る。最近飲みに行くと予想よりも野口英世が二人ぐらいどこかへ行ってしまう。いや今だと北里柴三郎だろうか。薄給の自分には金曜日の夜を楽しめるのは月に一度くらいなものである。そうして明日は天気予報では晴れだと言っている。



 ごく平凡で、これと言って変わったところはないという自負はあるが、少しだけ珍しい事をしているといえば登山だろう。登山と言っても本格的なものではない。せいぜいバイクで一時間ぐらいで到着するような低山に登っているだけだ。車は維持費が馬鹿にならないので持っていない。原付二種というカテゴリーの125㏄のカブが相棒である。登山口にある駐車場は台数が限られているし、駐車スペース自体が存在しない登山口も多い。だからバイクの方が山に登るには便がいいという部分もある。

 雨が降ったりすると困ってしまうが、本気のアルピニストではないので、雨が降りそうなときに山を登ることはまず無い。


 今日は6時起きで福岡市の東の方にある立花山に登りに来た。人に話せば逆に低すぎて驚かれるかもしれないが、標高は367mしかない。しかしそこらの低山と違って生えている樹木が杉ではなくて広葉樹が多いのだ。町から近い低山は、どうしても植林されていて杉だらけのところが多い。杉が等間隔で生えているのを見ると、自然というよりは人工物の様に思えてしまう。これは登山者あるあるだと思う。


 朝食や便所を済ませ、家を出て登山口に到着した時間は八時少し前位だった。この時間だと駐車場は半分も埋まっていないが、自分はバイクなのでどのみち関係ない。登山に向けての身支度を整えて、靴紐なども結び直してすぐに登山道に入った。


 途中隣のピークなどにも寄り道しながら行くが、目標とする山頂の標高は367mしかないので、登山道も片道2㎞ぐらいしかない。地上でなら30分で歩ける距離だ。流石にそこは山道なので、それなりに汗をかきながら一時間以上かけて山頂に到着した。天気は予報通り晴れていた。晴れているとこんな低山でも山頂からの眺めはなかなかのものだ。博多湾の端から端までが見渡せる。


 存分に景観を満喫した後、お湯を沸かしてコーヒーでも入れるかなと振り返ったところで、見覚えのある顔をした女性の登山者が目に入った。見覚えはあってもすぐには誰だか思いあたらない。なんと声をかけようかと戸惑っていたら、向こうから話しかけてきてくれた。


「おはようございます。営業の高橋さんですよね?」

 そう言われて自分も思いだした。彼女は同じ会社の総務の人だ。あまり話した記憶はないので印象は薄い。

「あ、おはようございます。総務の……斎藤さんでしたっけ?」

「斎藤じゃなくて斉木です。高橋さんも山に登られるんですね」

「ああ、スイマセン。斉木さんでしたね。山と言っても立花山ですから……ただの気分転換です。……そうだ、今からコーヒーを淹れようと思っているんですが、宜しければ一緒にどうですか?」

「私水筒しか持ってきてないので……」

「ああ、カップなら予備のシェラカップがあるので大丈夫です」


 そうして僕はザックから小さなやかんとバーナーを取り出してお湯を沸かし始める。

「お湯を持ってきているわけじゃなくて、水から沸かすんですね」

「なんかこの方が気分がいいんですよ」

「気分転換という割には装備が本格的に見えます」


 彼女にそう言われて僕は少々恥ずかしくなった。登るのに二時間もかからないこの低山の頂上で、バーナーを使ってお湯を沸かすなど子供の火遊びにも近い感覚だ。しかし彼女の方も、この低山に似合わぬ本格的な出で立ちだ。ザックや小物も随分と年季が入っている。


「斉木さんは結構本格的に登っているんですか?」

「どこからを本格的というのかは分かりませんが、九州の中だけです。高橋さんは?」

「僕は九州どころか福岡県内だけですね」

 僕は少しだけ見栄を張ってしまった。福岡県内と言えば範囲は結構広い。どちらかと言えば福岡市内から1時間ぐらいで登山口に辿り着けるような場所ばかりで、行っても精々が125ccのバイクで難なく辿り着ける範囲だけだ。

「私はくじゅうぐらいは行きますよ」


 くじゅうというのは大分県にある連山で、九州内では一番の登山スポットと言ってもいい。バイクで行くのであれば、もう少し排気量の大きなもので高速を使わないといけない。


 お湯が沸いたところで、僕はコーヒーのドリップパックを二つ出して、二杯のコーヒーを淹れた。シェラカップに淹れた方を彼女に渡す。

「とってもおいしいですね」

 彼女は一口飲んでそう言った。

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