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新月の蛍  作者: 十三岡繁
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白いタンポポ

 ここで、普通であれば今度一緒に登りませんか? などと誘うのかもしれないが、低山であっても一人で山を登っている様な人間は、一人で登る事が好きなのだ。山頂や休憩中に人と話すことはあっても、好きな時に登って降りる事が出来るこの自由さは、単独行でないと失われてしまう。彼女も多分そうなのだろう。そもそも誘うにしても車も無ければ、バイクで二人乗りをすると荷物が運べない。


 他の話題を探そうと考えてみるが、営業職の割にはこんな時に話す気の利いた話題は持ち合わせていない。あとで考えてみれば山の話をすればよかったのだが、そこまで頭がまわらなかった。なので多分ロケーションに合わない話をしてしまった。


「うちの会社の出退勤管理、タイムカード形式って今時古臭いですよね。いい加減何とかするように総務で話しておいてくれませんか?」

「私は契約社員なのでそんな権限はありません。でも安心してください。来年度から電子カード式の出退勤管理に変えるらしいですよ」

「それは初耳です。でもカードを持ち歩くのもそれはそれで手間ですね」

「カードはカードリーダーで読めるようになっていて、交通費や経費の精算も席にいるままで出来るようにするらしいです」

「ああ、それは確かに便利かも……」

「もう高橋さんも今までみたいに、残業時間をごまかせなくなりますね」

「よくご存じですね。というか僕の名前をよく覚えていましたね」

「契約社員とは言っても私は総務ですよ。社員の名前くらい分かります」

 こちらは斉木さんの名前はうろ覚えだったのに恥ずかしい限りだ。

「僕はどうにも印象が薄いらしくて、得意先でも全然顔と名前を憶えてもらえないんですよ」

「ああ、そう言えば名前は忘れたんだけど……って高橋さん宛てに電話されてくる方が結構いらっしゃいますよね」

「そんなに薄いですかね……」

「まぁ濃くはないんじゃないでしょうか?」

 彼女はこういう時に慰めてくれる感じの人では無いようだ。


 二人でコーヒーを飲んでから、彼女は僕とは違う登山口へ下りるというので、そのあとは別行動になった。僕は必要ないと強く言ったのだが、使ったシェラカップを彼女は洗って返すと聞かないので、そのまま持って帰ってもらう事にした。


 一人になりたくて山に来ているはずなのに、下山の道は少しだけ足が軽くなったように感じたのは、やはり見知った人と出会ったからだろうか。こういう偶然は嫌いではない。



 日曜日を挟んでの月曜日、僕はいつもの様に出社後タイムカードを押す。花瓶には金曜日に見た物とはまた違った花が一輪だけ刺してあった。自分の席に行くと可愛い柄がついた紙袋に入って、土曜日に斉木さんが持ち帰ったシェラカップが置いてあった。袋の中には『コーヒーご馳走様でした』と書かれたメモが入っていた。


 それから斉木さんと仲良くなったかといえばそんな事もなく、ただ廊下ですれ違えば挨拶を交わすぐらいにはなった。改めて見ても彼女は地味な存在で目立たない。後になって気が付いたが、立花山で一瞬思い出せなかったのは眼鏡をかけていなかったからだ。会社ではいつも細いフレームの眼鏡をかけている。フレームが細いのでかけてもかけなくてもそんなに印象は変わらないが、そんな事にも気が付かないくらいには遠い存在だったのだ。


 それから特に何事もなく、いつも通りの日々がただ過ぎて行った。ある日僕は朝から日帰り出張が入っていて、直行のつもりだったが資料を置き忘れていて、それを取りにまだ早くて誰もいない会社に立ち寄った。するとちょうど花瓶の花を入れ替えている斉木さんに遭遇したのだ。


「早いんですね。ここの花は誰が飾っているかと思っていましたが、斉木さんでしたか……」

「今度は名前を間違えませんでしたね。家で花を飾るのが好きなので、いつも一輪だけおすそ分けしています」

「微妙に癒されてます。あ、今日は直行なのでタイムカードは押しませんよ。では行ってきます」

「日帰り出張でしたね。お気をつけて」


 流石は総務である。営業の日帰り出張のスケジュールまで掴んでいるのかとも思ったが、よく考えると昨日のうちにホワイトボードにその旨は記載している。電話の取次ぎをする総務の人であれば、朝それをチェックしているのも当然かと思った。しかしその習慣も、来年度から経費精算等のオンライン化と一緒に、スケジュール管理もデジタル化されれば無くなるのだろう。


 花を替えてくれていたのが斉木さんだったからどうという事もない。日常は繰り返されて行くだけだ。しかしタイムカードを押す度に、いつもその一輪の花を見ては、ほんの少しだけ斉木さんを思い出して癒されていた。そこに生けてある花は、彼女の家に飾られている花と同じものなのである。


 そうして冬の寒さが厳しくなってきた頃、年度明けから始まる経費精算やスケジュール管理のオンライン化についてのマニュアルが配られた。ICチップ入りのカードはまた後で配られるらしい。それと同時に総務や経理などの人員が減らされるという事も知らされた。但しそれは契約社員等の再契約が更新されないというだけで、正社員はそのままだ。



 斉木さんとはそれほど親しくなれたわけではないが、タイムカードの横の花には癒されてきたので、そのささやかなお礼として、最後にシェラカップでもプレゼントしようかと思い、包みを机の引き出しに入れて準備しておいた。しかしまだ年度末まではしばらくあるという頃に、タイムカード横の花が無くなっている事に気が付いた。


 すぐに僕は総務の方に行ってみたが、そこに斉木さんの姿は無かった。なんでも退職前に有休の消化に入って、もう会社には出て来る事はないとの事だった。行く当てを失ったシェラカップは僕の引き出しの中に放置されることになった。


 総務の方では既に個別に送別会をしたそうだが、営業と合同でそういう席が設けられるわけもなく、多分彼女と二度と会う事は無いのだろうと思った。縁があれば山でまた会う事もあるかなと思っていたが、あの立花山以来彼女とは山で一度も遭遇する事は無かった。


 それから毎朝タイムカードに刻印するたびに、これを使うのも数日かと思えば少し寂しくもあった。きっとそこにあの見慣れた花が無い事も寂しさを増幅させているのだろう。


 花は活けていないが、空の花瓶は置きっぱなしだった。僕はなんとなく年度末の最後の一日に、少し早めに出社して花を一輪刺してみた。わざわざ花屋で買ったわけではない。昨日の帰りに、会社の玄関の脇で白いいタンポポが咲いているのを見つけたので、それを朝摘んで花瓶に刺しただけだ。


 その日は珍しく外回りは無くて、社内で雑務をこなしていた。年度替わりは何かと雑用が多い。食堂で昼食を終えた後、総務のあたりを通ると、斉木さんが最後に会社に挨拶に来ているのを見かけた。昼休みの残り時間で事務方の人たちと雑談している。


 僕は一旦自分の席に戻って引き出しを開けてみた。そこにはまだ彼女に渡しそびれたシェラカップが包みに入って鎮座している。これが最後だろうから渡しに行こうかとも思ったが、大して親しくもないのに、何かしらの贈り物を他の人が見ている前で渡せるはずもない。しかしそれを考えると、彼女が有給の消化に関係なく最後の日まで出社していたとして、やはり渡すタイミングなどなかったなと思った。


 そうこうしているうちに帰る時間となってしまった。いつもの様に身支度を整えて、明日からは出勤時には社員証を兼ねたカードが必要になるので、忘れないようにカバンの中に入っている事を確認する。そうして結局渡しそびれたシェラカップもカバンに入れて持って帰ることにした。最後にタイムカードにスタンプを押してから、花瓶に刺してあったタンポポを抜いてゴミ箱に投げ入れた。

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