―第九章 ひととひと―
話は前日の昼に遡る。
「もしもし笹子?フリーライター頑張ってた?」
『いーや、開店休業って感じ』
「美味しい話あるけど、どう?」
『…椿の美味しいはお値打ちありそうね』
「最高級よ。町井幸子の話」
『あー、健康オタクおばさんでしょ』
「29歳でおばさんねぇ…さすが笹子は過激だわ」
『で、そのおばさんスキャンダルでもあるの?』
「まだ女の感よ。ちょっと健康オタクすぎるっていうか、金使い荒そうっていうか」
『ほーう。健康オタクに金のニオイ。スキャンダルなんて最高ね!情報ありがと』
「待った待った。超特急でお願いしたいのよ」
『は?』
「今日中」
『はぁぁ!?』
「でなければ、明日の朝イチ」
『何言ってんの!?』
「情報だけあればいいのよ。勿論報酬は多く出すから。どう?」
『絶対乗る。ついでにおばさんから巻き上げようかなー』
「いや、本家は手出さない方がいいよ。デカイみたいだから」
『マジ?』
「さっき調べた」
『そっかー。……って、どゆこと?』
「この辺に居られなくなるようなネタがあればそれでいいわ」
『十分おいしそうね。すぐかかるわ』
「お願いね。あ、その夫人妊娠したばっかりだから間違っても殴んないでね」
『物騒だなぁ』
「29歳をおばさん呼ばわりしてるのとどっちが物騒よ」
『どっちも』
「そうね、じゃよろしく」
『はいよー』
フリーライター、坂出笹子。
彼女は自由に記事を書きたくて、独立した。
自由というのは建前で、本当は「スキャンダルを掴んでみたい」という野望の元、独立したのだが。
深夜11時、彼女から連絡が来た。
『もっしー』
「お疲れ様」
『ぜーんぜん。面白くてこれいいネタだわ、ほんっと』
「どうだったのよ、声が弾み過ぎて怖いわよ」
『あのおばさん、健康食品で押し売りやってたわ。料理教室で売り込んで、買わない奴には月謝法外にして追い出すって手法』
「うわー…胸焼けするね」
『アポ取り三人だけだったんだけど、まだまだ出るわねこれ』
「笹子、声が怖い」
『あ、そう?ごめんごめん!こんなにオイシイとは思わなくてさー!』
「録音送ってくれる?」
『もちろん』
「それで、記事のタイミングなんだけど…」
『すぐ出さないよ。このおばさん子供の過剰おけいこもやってて、社会派にもウケそうだから同時進行でやってるんだわ』
「ネタが二つかー。十分落とせるねぇ」
『でしょでしょ』
「とりあえず目安、いつくらい?」
『んー、健康食品の方はすぐにでも。おけいこの方はもう少し時間欲しいかな』
「じゃ、押し売りは一週間後でどう?そしたらこっちの記事も差し止め出来るし楽だわ」
『やだー椿ったら、巧いなぁ』
「笹子ほどじゃないわよ。で、脅すの?」
『いや、押し売りは一週間で出すよ。んで、次の記事で脅す』
「うっわ悪どい」
『で、椿の案件は?悪どいの?』
「いーや、その押し売りから旦那を救うヒーローってとこかな」
『ひゃーかっこいいねぇ!で、いつ実行?』
「明日」
『はぁ!?』
「だから急いだのよ。ほんっとありがとね」
『いや、面白かったからいいけど…どうすんの?』
「記事が出たら、こっちで完全に身柄を受け取るよ」
『うわーちょっと、面白そうじゃん』
「そーゆーことで、記事頼むね」
『はいよ。出来たらソッコー送るから』
「よろしく。こっちもちょっと済んだら送金するから。それこそ一週間くらいかな」
『オッケー。じゃお互い頑張りましょ』
「そうね。ありがと」
―まずは明日、引き金を引く。
一週間、町井には耐えて貰わなければならないが。
そして、一週間後には決定打が出る。
それをネタに、連載を打ち切る。
それを火種に見せ、国の研究機関に移籍させる。
そして町井直季は、卯木椿のものになる。
人一人救うのに、人一人に恋をするのに、こんなに用意周到になるとは思わなかった。
誰が?勿論、椿本人が一番思っていなかった。
―誰から貰った恩だって、誰にでも恩で返す。
恩というより恋だけれど…。
話は更に前に遡る。
椿、16歳。
彼女は家に居るのが嫌だった。
絵画に運動にとても優れ秀でた妹といつも比べられ、それに反論もせず寡黙に住む家が嫌だった。
定時制高校に通い、日中はアルバイトをしてとにかく家から一分でも多く、離れて暮らした。
ある夜、妹が絵画展で日本の何本指だかに入ったとか言って、家族で会食をした日があった。
彼女は当然、学校だった。
あまりにもつまらなくて、料亭に入り込んで酒を頼んだ。
「お嬢さん、若い方は駄目ですよ」
女将は注がなかった。
「お金ならあります」
「お金の問題ではなく、お歳の問題ですよ」
「問題ね……女将さん、じゃ質問に答えてくれる?答えられなかったら、頂戴」
「ふふ、面白いお嬢さんで。いいですよ」
椿は佇まいを直した。
「昼間、ここで雇って下さい」
「あら、どうしてかしら」
「貴女のそばにいたいと思ったからです」
じっと目を見つめた。
多少、無茶苦茶な答えだが、本当にこの一言に尽きた。
居場所を求めている中で、居場所になれそうなんだと、思っている。
「…あなた、良い目をしてる。この道に来れば間違いなく、天下を取る目。面白いわ」
「ありがとうございます。…質問、答えられなかったですね」
「いいえ」
女将はカウンターを出て、暖簾をしまった。部屋の電気も、カウンターの一部だけに絞った。
「ここからは外に出しちゃいけない話。でもあなたは頭が良さそうだから、分かるわね?」
女将の笑顔は、少し楽しそうだった。
「ちょっと二人で飲みましょうか」
「はい」
女将は肴と日本酒を出して、一緒にカウンターに座った。
乾杯はおしとやかにすることを教えられながら。
「「乾杯」」
互いに一口ずつ飲む。
「お名前は?」
「卯木椿です」
「私は東光子。お互い、華やかなお名前なのねぇ」
「ええ、素敵です」
「それで、どうしてうちに来たのかしら」
静かに置かれたコップに、一々気品がある。椿は真似るように静かにコップを置いた。
「実は今朝通りすがりました。毎日外から掃除を始めて、ずーっと上まで行く間に、焦げた匂いしたのを」
「あらやだ、恥ずかしいわ」
自分の頬に手を当てる光子は、本当に照れているようだ。
「その後、コップが割れる音がしました。」
「もう、椿さんはいやぁね」
「でも叱るような声はありませんでした。お一人でやってるんだな、と思って」
光子は黙って椿を見る。上から、下までじろじろと。
「だから雇ってもらおうと思って。朝からでいいです。賃金はギリギリで構いません」
「素敵ね。お互いに利益だわ。いいわ、やりましょう」
「よろしくお願いします」
椿は頭を下げた。
「仕事は掃除と接客、条件は学校に遅れない事。それと」
光子は椿の唇に指をあてた。
「ここは偉い人の大事な場所なの」
「裏からでも表からでも、お忍びでいらしたい方が来るわ。そのための部屋が二階……昨日の片づけに思った以上に時間がかかっちゃって、椿さんに見つかってしまったわ」
「片づけといっても難しい事ではないのよ。髪の毛一本、指紋一つとして残せないのだから時間がかかるだけ」
「…あ、殺しとかは禁止よ。それまでは面倒見切れないから」
「ただし、ここには居なかった。それだけをご説明するために綺麗にお掃除をするのであってね」
「ホテル代わりにはさせませんから、そういった掃除はないから安心してね」
「それから、上のお客様に多少触られても、あしらってあげてね。あなたにはそれだけの冷静な心があると思っているわ」
椿は背筋に寒気を感じたが、迷うことなく光子を見つめて言った。
「頑張ります」
それから二人で酒を酌み交わしながら身の上話をした。
椿の家には優秀な妹がいて、両親は椿の事に関心がない事。そしていつか家を出て、自力で生きる事が目標だということ。
光子は昔銀座の高級ホステスで、ナンバーワンまで取ったが女のいざこざに疲れて独立した事。そして、当時のお客に恩を返すためにこの特殊な料亭を始めた事。
二人は何かと似ていた。
世間に興味がない事、自力で生きる事、酒の好み…
さばさばとして、冷静な所。
短い時間ながら、互いに、運命的な出会いはあるものだと感じた。
「あらぁ…もうこんな時間」
時計の針は深夜1時を指していた。
「ごめんなさい、光子さん。この時間には帰れないんです」
椿は、家の事情を説明した。
特に何時に帰ったところで何を言われるわけでもないし、むしろこんな夜中に帰っては起こしたことに両親の神経を逆なでする。
寧ろ両親が出掛けてから帰った方が楽だ。誰にも会わないし、何も言われない。
「任せなさい、ここは私の腕の見せ所よ…といっても、面倒そうではないわね、聞く限り」
椿は光子と一緒に料亭の二階に上がった。
机と座布団、小さな箪笥だけのシンプルな部屋だ。
光子は箪笥のカギを開け、書類を数枚取り出した。
「履歴書と、ここに住み込みで働いてもらう承諾書。それから便箋よ」
「…住んで良いんですか」
「いいわよ。但し23時閉店、片づけて25時就寝、店の準備は10時からで忙しいけどね」
「…ありがとうございます…こんな、小さな人間にこんなに…」
「あたしね、誰から貰った恩だって、誰にでも恩で返すって決めてるから」
椿はちょっと涙ぐみながらも、ペンに手を伸ばした。
「あとは明日、最低限の荷物をまとめて持ってきて頂戴ね。必要になれば、ここで稼いで買えばいいんだから。学費は自分で払う体にしましょう」
光子もペンを持った。
「お給料は、生活費と学費込みで出すから安心なさいね」
「本当に、本当に………ありがとうございます……」
翌日、昼間に家に帰った椿は下着や最低限の生活用品を荷物にまとめた。
そして、封筒を居間に置いて、タクシーで家を出て行った。
『家には帰りません。同封の就業承諾書にサインと押印の上、郵送願います。また学費の口座振替は解除して頂いて構いません』
翌日には書類が届き、先生から口座振替解除の件を聞かされた時は本当に呆れてしまったが、今の彼女には希望がある。
それだけで、良かった。
※本来は※
お酒は20歳になってからです。また犯罪に関連する隠ぺいは罪に問われます。16歳で働く他、未成年を守る法律等々は多くありますので表現に惑わされないで下さい。笹子さんも法律ギリギリですよ。