最終章 ただしいのはどれ
19時まで、彼の決断を待つ。
最初から返さなかったら、誘拐沙汰にされそうというのが正直な所だ。
あの家の空気。子供への情け。
どの状況にしてもリスクを孕んでいる。だが、この人を助けるためには、正しく助けるためには、極力確実な手順を踏みたい。
あと一時間。
重い空気に声を発したのは、町井だった。
「俺は、苦しんでいるべきなのかな…」
「…直季さん」
か細い声に疲弊を感じる。
「どれが正しいかなんか、いや、正解はないんだと思う。誰が苦しむか、ただそれだけ……」
天井を仰ぐ町井に、椿は立ちあがって視線を遮る。
「私は家族と絶縁しています」
「……え」
「ご立派な両親は、芸術の才能がない私に興味がなかったんです」
椿は座って、目を瞑った。
あの頃の気持ちを、しっかり思い出して苦しむために。
「卯木の家には、妹がいます。小さい頃から絵画の才能があって、両親は私の事を忘れたように生活していました。16で家を出ましたが、その時も必要な書類しか出しませんでした」
うっすらと目を開ける。
「大人になるまで苦しむのと、小さなうちに幸せを願うのとでは、どちらがいいんでしょう…。私には分かりません」
町井の驚いたような開いた口に、そっと人差し指を当てる。
「分かんないですよ。そりゃあね、私は今を生きているんだもの。家に居たらどうだったかなんて考えるだけ時間の無駄です、私は私ですから」
「…今の自分…」
「そうです、今の自分。今も、これからも、あなたの生がある限り、あなたはあなたのものです」
彼女は町井をタクシーで送った。
そして電話をかける。
『もしもし』
「もしもし、卯木です」
『あら、椿さん!こんばんは』
「こんばんは、幸子さん」
椿は声を聞くなり、今すぐにでも、幸子を殴りたい衝動に駆られる。
だが今は落ち着いて、通話を続ける。
『うちの夫が会合でお世話になって…メールを頂いてすみません、ありがとうございます』
「いいえ、うちの上司が突然お誘いしてしまって、申し訳ございません。今どうにか先に抜けて、タクシーでお帰りになりましたので」
『あらわざわざ…ありがとうね、椿さん』
「いえ、こちらこそお陰さまで……植物学会の飛躍を見られた会合になり、大変感謝しております」
『それはよかったわ!』
「では、私はまだ少し会合がありますので…」
『あ、ごめんなさいね。わざわざありがとうございました、ごめんください』
「はい」
早く、早く、この化けの皮を剥がしたい。
気持ちを抑えて、料亭に戻る。
「椿ちゃん、折角だから片付けまでしていってね」
「勿論です、光子さん」
―きっと今、光子さんに私の顔は般若か仏像か、恐ろしい形相で勝利の微笑みをしていると見えているのだろう。
二階の、町井が居た座布団に寂しさを感じつつ、また電話を取る。
「もしもし笹子」
『はいはいどうだったの』
「記事流していいわ」
『マジで!了解すぐ流すわー!やったね椿ぃ!』
「…まぁ記事が出るまで分かんないけどさ」
『何それ、勝者のセリフじゃないわね』
椿は一つ、溜息をついた。
「だって不安だよ、あの人真面目だから子供のために家に居る事にした、とか言って心変わりしたらどうしていいか…」
計画に完全はない。
自分の道を選んだ彼だが、彼は、優しすぎる。
『あんたねぇ、そんな勝った声で言われても困る』
「…そっか」
『まぁ大丈夫よ、生きていればどうにかなるってもんよ』
「…ありがと」
『よし、じゃ流すから。頑張ってねじゃ!』
― 一週間後 ―
笹子の記事はゴシップ誌大手の主婦層向けの雑誌に載った。
『料理教室の罠!教室は健康食品の押し売り会場だった!?』
これだけで蹴り落とした気分だ。笹子の事だから、今頃部屋を引き払って、原稿料で海外にでもバカンスに向かっただろう。…当分追手をまくために。
椿は携帯を新たな番号にした。
もうあの女の連絡は届かない。
蹴った所に、隕石でも落ちてきたといった所だ。
最高の解放感がある。
自分の事じゃないのに、胸の奥から湧き出てくる解放感。
少し、ゾクゾクした。まだ案件は達成していないのに、何かが始まる予感が体を取り巻く。
都内のビルの谷間にある、小さな小さな公園。
たった三つの遊具と一つのベンチ。
彼は来るだろうか。
ベンチでノートパソコンを開き、「植物学問」の上司にメールを入れる。
『お疲れ様です。
大手ゴシップ誌、拝見しましたか?
町井幸子は健康食品の押し売りをしていたようです。
当雑誌の信頼の為に、料理教室の記事は打ち切りしましょう。
代わりに「近東」という料理店のレシピコーナーを提案しましすので、添付のDTPを見て下さい。
店名を出さない事が条件でしたので、考慮の上宜しくお願いします。
携帯が破損しましたので、当分メールにて連絡致します
卯木 椿』
さて、後は新居を探そう。
足跡を一つとして残してはいけない。
偽善でも義理でも、恋でもない。
愛だけだ。
私のエゴかもしれない。
それでも、幸せにしたい人がいて、それにひたむきに走っている。
一人の不幸に囚われてはいけない。
一人の幸せを願っている、それだけだ。
「いけません、お戻り下さい」
「これだけ一緒にいて帰るの?」
「薄情」
「違います、貴方の為に」
「ご家族の為に言っています」
「やだ。一緒にいたいから居る」
「いいでしょ?」
もう、こんな夢は、たくさんだ。
私は愛として、幸せを成し遂げてみせる。
―ピッピッ
遠くから聞こえる、聞きなれた時計の音。
幸せが、始まる音。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
次ページにあとがきを掲載。




