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声なき悲鳴の秘密 ―エレン―

「エレン、今日はお招きありがとう」


あたくしからの招待に彼女は頬を染めてはにかむ。


やけに嬉しそうなその様子に、そういえば、目覚めて以降、初めて彼女をこちらから誘ったのだと気が付いた。


「お久しぶりね、ソフィー。貴女に会えて嬉しいわ」


「私も、嬉しい!」


これからのことも知らず、彼女は無邪気に笑顔を見せる。


久しぶりに楽しい時間が戻ってきた。


広がり始めていた2人の間の距離を埋めるように、あたくしたちはおしゃべりに時間を捧げる。


そうして機を見て、あたくしは合図をし侍女たちを下がらせる。


「――そういえば、先日参加した集いで大変だったのよ」


「どうしたの?」


「あるご令嬢が飲みすぎて倒れてしまったの」


「まぁ、大変」


「ええ、でも不思議なことにその直前まではお元気だったの。あたくし、彼女とお話もしたのよ」


「そ、そうなの……」


「彼女、緊張のあまり持っていたグラスの中身をこぼしてしまって、あたくし、自分の持っていたものを差し上げたのよ」


「…………」


「倒れたのはその直後だったの。ああ、そう言えば、その杯は貴女の婚約者からいただいたものなの。これってどういうことかしら?」


あたくしの問いかけに彼女は顔面蒼白となっていた。茶器に添えた手が小刻みに震えている。


「ねえ、ソフィー」


彼女を正面から見据える。


「あたくしに何か伝え忘れていることはないかしら?」


「……し、知らないわ」


一拍おいて、静寂を彼女が破る。そして慌てて席を立った。


「わ、私、用事を思い出したから今日は帰るわね。ごめんなさい」


「待って頂戴」


あたくしの制止も聞かず、彼女は部屋を出て行こうとする。


「待ちなさい、ソフィー!」


彼女の手首をつかんだ途端、


「痛いっ」


彼女が悲鳴を上げて、慄く。本気の悲鳴だった。


それほど強くつかんだつもりはなかったのに。


「ごめんなさい、力を入れすぎたかしら」


怪我をさせてしまったかと確かめようとした手を彼女は隠すように庇う。


その一瞬、レースで最初は気づかなかったけれど、皮膚が黒ずんでいるように見えた。


「ソフィー、あたくしに腕を見せなさい」


「何でもないわ、大丈夫よ」


「見せなさい!!」


大きな痣だった。青黒く、内出血を起こしている。


「なんなの、その傷」


「先日、ちょっと転んでしまって……」


「転んだ程度でそのような箇所をそこまで怪我するわけがないじゃないの。軍人の娘なのよ。どの程度の力を加えれば痕ができるかくらい知っているわ」


「本当よ。階段から落ちて変な打ち方をしてしまったの。だから……」


あたくしは有無を言わせず、もう片方の手袋も取り上げ、彼女の袖をめくる。


似たような傷がそこにも、そしていくつもあった。勘違いでなければ、葉巻を押し付けられたような火傷の痕もある。ソフィーは喫煙者ではないというのに。


「何なのよ、これ……どういうことなの」


目の前のことが信じられなくて、声が掠れた。


一方の彼女は答えようとしない。


ただ黙って、そしてあたくしが諦めるのを待っている。


「レイモンド、ね」


彼女がびくりと肩を揺らした。それが答えだった。


「どうして、彼がこんなことを……貴女の婚約者なのでしょう? それなのに、いったい何があったの? どうして貴女にこんな仕打ちを? 貴女はどうして黙っているの? なぜ自分で怪我をしただなんて言ったの?」


矢継ぎ早に問うあたくしに対して、彼女は無言で応える。


「ねえ、あたくしに話してちょうだい」


「……何もないのよ、エレン」


「怖いの? 何を怯えているの?」


「本当に何でもないのよ」


「ソフィー、あたくしを見て」


「エレン、私は本当に……」


あたくしは彼女の顔を覗き込み、


「あたくしは貴女の親友でしょう? そう思っていたのはあたくしだけなの?」


彼女の心が揺れているのが分かった。


目が時計の振り子のように何度も自分の傷と彼女を掴むあたくしの手を往復する。


急かすことなく、あたくしはただ待つ。


ずっとずっと待って、ソフィーは本当にあたくしに諦める気がないのだと悟ると、やがて、おとなしく先ほどまで座っていた場所に戻り、震えた声で話し始めた。


「――……多分、全てを説明するにはレイモンドにお世話になるきっかけになった、あの火事のことから話をする方がいいと思うの」


「貴女、事件のこと、覚えているの?!」


今まで彼女が自らそのことを口にするのは聞いたことがなかった。だから、本当に記憶がないのだろうと考えていた。


彼女は困ったように笑う。


「ええ。ただ、切っ掛けはそれよりも前だと思う。火事で全てを失う前の年、ある日の晩、王宮で侍女をしていた母は帰ってこず、次の日の昼過ぎにやっと帰宅したことがあったの。迎えに行った父が問い詰めても母は何もないと言い張った。大変だったわ、2人とも止まらなくて。今までも父が母に何かを言うことはあったけれど、母は反論しなかったし、私には見えないようにしていたのに。その日を境に、父はあからさまに母を怒鳴りつけるようになって……その1年後、弟が生まれたの。弟は母にそっくりで父の特徴は何一つ継いでいなかった。おかしなことではないのよ。私だって母そっくりなのだもの。でも、父は弟が生まれるとあの子を存在しないように扱い、ますます母につらく当たるようになったわ」


普通は男子を産んだら、よくやったと褒められるものだ。妻の務めを果たしたと。


それなのに、忌むように態度を硬化させるだなんて。


「まさか……」


彼女を見る。あたくしの考えを察したのだろう、彼女は頷くと言葉を返した。


「父は弟は自分の子ではないと疑っているようだった。でも、母が他の人と通じるだなんて思えない。ただ、私は見たの。あの日、遅く帰ってきた母がいくつも体にあざを作り、湯船の中で泣いていたのを。あの時は分からなかったけれど、今思うと……」


誰かに乱暴されたのではないか――彼女はそう言いたいのだろう。そしてダンブリッジ卿はご子息をその結果生まれた子だと疑っている。


「でも私は弟が生まれたのが嬉しくって、いつも可愛がっていた。そうしたら、母は大事なものだと言って、ある晩、私に指輪を見せてくれたの。高級そうな、売れば結構な額になりそうなものよ。これがあれば大丈夫と母は言っていたわ。もしもの時はこれが助けてくれると。あなたも大切になさい、って。でも、そこへ父が突然部屋に入ってきて、母の手の中の物を見た途端、激高したの」


彼女はそこでようやく一息つく。そして、覚悟を決めたように大きく息を吸い、


「私は怒る父に引きずられて別の部屋へ閉じ込められたの。何とか抜け出してもう一度母のところに戻ったら、一面が血の海で、母だったものは頭がなくなってて人形みたいに床に倒れてた。弟がひどく泣いていたわ。それからしばらくして、屋敷から火の手が上がった。私は弟を連れて逃げようとした。そのときに、母が言ったことを思い出したの。指輪はまだ母の手の中にあったけれど、母は手をぎゅっと握りしめて死んでいた。固くて、私にはその手を開くことができなくて、だけど、火が迫ってくるから、私は……迷ったすえに、母に刺さっていた剣を抜いて、それで手を……」


「なん、ですって?」


「手首を切り落として、弟と一緒に……」


彼女は見る間に体を丸めてぶるぶると震え出した。にわかには信じられなかった。


この可憐な少女が、まだ温かい自らの母の体に刃物を突き立て、切り落とすさまを。そうして、血が滴る親の手と幼い弟を抱きかかえて夜道を怯えながら駆ける姿を。


到底あり得ず、聞いた今であっても想像は形にならない。


「神経質で気難しい父の親戚とは私はほとんど交流がなくて、レイモンドとも彼のご両親のお葬式で会ったくらいだったの。でも、レイモンドは家族を亡くし、家を継いだばかりだったのに、そんな私たちを温かく迎えてくれたの。叔父にはよくお世話になった、だから遠慮はいらない。君は家族だ、って」


「それなのにあなたに傷を? 今まで逃げようとは考えなかったの?」


「逃げようにも弟は別館にいて、いつも誰かがそばにいるわ。大切にはされているようだからレイモンドにも懐いていて、でも2人きりでは会わせてもらえないの。それに、逃げられたとしても何処に逃げるというの? お金だってないのよ」


弟は体が弱いから、外には出られないの。


そう説明されていた。確かに、このように姉が繊細であるのだから弟もそうであろうと、彼女の説明にさもありなんと、今まで会えないことに対しても全く疑っていなかった。


「最初はレイモンドも優しかったの。弟は事件の後遺症が大きいから、しばらくは静養させた方がいいって別館に。私の顔を見ると事件を思い出してしまうかもしれないからって。すべて信じて、彼の言うとおりにしたわ。事件のことも覚えてないって証言した。母の手のことも知らないって。でも、いつまで経っても弟に会わせてもらえなくって、ある日会わせてほしいって騒いだの。そうしたら――」


その先は簡単に推測できた。


「ぶたれたのね」


「レイモンドはね、静かに怒るの。そして彼の中には他人にはわからない物事の境界線があって、私がわずかでもそれをかすめると不満を行動に表さずにはいられないの」


「あの男は何が目的なの?」


「多分、彼はうちの残り少ない財産が欲しいのだと思うわ。後見人として弟を操って、成人したら受け取れる、銀行に残ったわずかばかりの。そういうものを自分のものにしたいのだと思う。薬だとか、屋敷の使用人への支払いだとかいろいろとお金がかかるから」


“薬”――尋ねる前に彼女の口からこぼれた。


彼女は知っていたのね。


あたくしはため息をつく。もしかして、彼女は何の関係もないのではないかというわずかな希望が失われたことは胸にしまって。


「ソフィー、訊きたいことがあるの。あの男は、薬物をつかっているのかしら? 貴女、以前あたくしが彼から飲み物を受け取った際に不安そうな顔をしていたわよね」


「……使っていると実際に知っているわけではないの。でも、同じような状況で口にした女の子たちが意識を飛ばしたり、ろれつが回らなくなって部屋に運ばれていくのは目にしているわ」


予想はしていたけれど、犠牲者がすでにいたのだ。そしてあたくしも。


ようやく理解した。


恋におちたと思っていたあのふわふわとした感覚も、幸せな高揚感もすべてはただの幻覚だった。1度目の人生、あたくしはあの男に薬漬けにされていたのだ。そして、この度も同じ目に遭いかけていた。


それを目にしても何も言わなかったソフィーに怒りがこみあげてもくるけれど、弟を人質に取られ、彼女自身も支配されていた。そのことを忘れてはいけない。


傾いた天秤の錘を下ろすように、少しずつ息を吐いて気を静める。


“人生は常に戦場と思え。一時の怒りに流され、大局を見失ってはならない。”


数々の敵を退けて来た父の言葉だ。


薬を使われていたとは言え、欲にまみれ、彼女を裏切ったのはあたくしも同じだった。


常に薬が効いていたはずはない。あの感覚を愛だと思い込み、自ら会いに行ったことだってあったのだから。愚かで盲目であったのはこちらも同じ。


はき違えてはならない、と自分に言い聞かせる。


「領地のないレイモンドが自ら栽培して薬をばらまいているとは思えないわ。どこから手に入れているのか分かる?」


「多分、サロンだと思う。素行の悪い令息たちが集まっているサロンがあるの。違法な賭博や色々なものが取引されているみたいだわ。私に躾を行う道具も大抵そこから仕入れていたはず」


躾――犬猫じゃあるまいし。


彼女は自分への虐待を語る時も顔色を変えない。まるで他人事のように話す。心が自分のこととして受け止めるのを拒んでいるのだろう。


感情のこもらない声がむしろ彼女の精神の裂けめの深さを感じさせる。


思い返せば今までにもおかしなことはあった。座るのを避けるような素振りや、笑っていたら突然雷に打たれたようにぎくっと体をこわばらせたことなど。


気づかなかった己が不甲斐ない。


「怪我を……なぜ、あたくしに言わなかったの」


「言えるわけがないわ」


「ソフィー?」


「こんな、みっともない私を知られたくなかったの。あなたには」


「みっともないだなんて馬鹿なことを言わないで頂戴――これから、どうするつもり? あたくしにできること――」


「どうするって、変わらないわ」


「変わらないって、まさかあの家に戻るつもり!?」


まるで脅かすものなど何もないかのように窓の外からの光を目でとらえ、彼女は紅茶を一口飲む。


器を置く手はどこまでも落ち着き払っていた。


「ええ、帰らないと。弟がいるもの。私がいなくなったら、きっと彼は私にしたことを弟にするようになるわ」


「2人くらい人が増えたってうちはどうってことないわ」


父は異民族との小競り合いで国境に出ていて帰ってくるのは当分先だし、母もそのような父の代わりにあちこちを取り仕切りほとんどこの屋敷には帰ってこない。


そもそもこの家は広すぎて空き部屋が両手足を使ってもまだ足りないほどあるのだ。


「無理よ。少なくとも弟が成人するまでは彼が後見人なの。あなただって法は犯せないでしょう?」


「貴女の傷を証拠として権利の剥奪――」


どうしてこのような時にまで笑えるのだろう。


彼女は微笑みながらかぶりを振って、


「彼は否定するわ。そして、あのお屋敷の誰ひとりとしてそういう場面は見たこともないって証言するわ。彼のお友達もね」


「そんな……」


「ありがとう、話を聞いてくれて。嬉しかった。でも、もうここには来ないわ。今度こそあなたを巻き込む訳にはいかないから。――さようなら、エレン」


彼女は戸口に向かいかけ、戻ってくるとあたくしを一瞬だけ痛いほどに強く抱きしめ、あとは、振り返ることなく出て行った。


あたくしは一人部屋に取り残される。言葉もなかった。


ソフィーはただ被害を受けて震えているだけではなかった。


彼女は誰よりも冷静に状況を見つめ、静かに絶望し、現実を受け入れていたのだ。


驕っていた。


あたくしが手を延ばせば彼女は簡単につかむと、この地位を使えば問題も解決すると思い込んでいた。


世の中の大抵のことは分かっているつもりだった。


金も権力も両親と叔母から借りたものに過ぎないというのに。


1度目の人生、罠にかかったのもこの慢心からの結果だったのだと今なら分かる。


けれど、あたくしはエレンディール・キングストン。このまま黙って引き下がるつもりはない。


もう2度とあたくしの人生もソフィーの人生も操らせはしない。


父がよく言っていた言葉を思い出す。


“敵の首が欲しければ、まず馬を殺せ。戦場での心得だ”


だとするならば行動は決まっている。あたくしは決意を込めて拳を握る。


「まず、サロンをぶっ潰すわ」

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