師走の巻(三)
二十三時に布団に入って、目を閉じれば次は朝日を浴びる。僕の睡眠のリズムは、一定だった。
昨日は、何をしても眠れなくて、壁を向いてあぐらをかき、朝を待ちました。僕の意識をボールにたとえたら、手や足で押さえつけたって、ボールは水の中に沈んでくれず、しつこくぷかーって浮上してくる感じ。橋の下に流れる川に、つやつやしたピンクの球が顔を出して泳がされているのを、一度は見たことがあるでしょう? その球と同じでした。おかげで、出勤してあくびが止まらなくなりましたよ。
カフェインを摂りまくった? いいえ、違います。胸騒ぎがしていたのです。大事なものが、ある日突然、手元から無くなってしまうんじゃないか、と。
師走十五日 鬼さんにも笑う日をあげたってバチは当たらないんだよ、多分。
いかん、昼にがっつり寝たら、夜行性のデブになる。それよりも、仕事中ですからね! 睡魔を払ってくれるプロがいたら、連絡したかった。僕ひとりで、打ち勝ちましたよ。
四限終わりに、四回生の額田きみえさんが来てくれました。卒業論文を出して、胸のつかえが下りたかな。そうそう、額田さん、春からは空満高校の国語科教員なのですよ! 現役で学校教員になるのは、毎年一人出るか出ないかなのですよね。悲しい現実、空満大学日本文学国語学科に「現役合格」は、トランプタワーを作るよりも難しいことでして。良かった! 額田さんは学校の先生が夢でしたものね。
「夢のひとつを叶えられて、やったやった! と思いました」
僕も、自分のことのように嬉しい。倭文野、額田さんを一回生の頃から、頑張っている姿を見てきたのです。倭文野四回生、就職と卒論に「まあどうにかなるっしょ」な姿勢でのらくらキャンパスライフを送っていた間に、額田さんは共同研究室に早くから訪れて、書庫とコピー機と学習スペースを行ったり来たりしていました。共同研究室の奥でお菓子をむさぼるように食らっていた僕は、額田さんに「のんびり明るくいこうぜ校風の空大に、どえりゃあ才女が来たー!」と衝撃を受けたものです。
「半分は罪滅ぼしのため、なんですけどね」
なんだか、重い動機だな。幸い、他に誰もいなかったから、このまま場所を移さずに聞こう。
「……高校では、私、見て見ぬフリをする最低なタイプだったんです」
額田さん、えらいよ。普通、自分の汚点ていうのかな、後ろ暗いところは見せたり話したりしないじゃない。弱みを握られるリスクとか、キャラを壊しちゃうとかを怖れて「善人」を演じるというのに。ああ、そりゃあ額田さんは、教員の資格をつかみとれるわけだ。
「クラスでいじめがあったのに、深入りしたらまずいから、先生に知らせることも、その子のそばにいることも、しなかった。でも先生は、ある日のホームルームでいじめの件で話をしました」
ごっつええ先生だ。僕だったら、お子ちゃまじゃないんだからさお前らで解決しろや、あーかったるいわーはよ卒業してくれないかな、これ諸手当出ます? とかね、面倒くさくなってあれやこれや手を使って退避しますわ。
「もし、自分の家族や友達がいじめられていたら、どうする? 自分が、心ない言葉を浴びせられ、いないように扱われたら、どんな気持ちだ? イメージしてみなさい。できる人は、なぜ止められなかった? できない人は、なぜ痛みを分からない? 人を傷つけることは、最低な行為だ。それよりも最低な行為は、人が傷つけられているところを目にしておいて、他人事だからと放っておくことだ……グサグサきました。でね、先生も、対応が遅れてすまなかった、って謝ったんですよ」
その場でいじめた人をつるし上げるのはしないで、紙を配って状況を書かせたみたいです。額田さんのように正直に書いた人が多かったから、いじめは収束 (心の傷は、ずっと残りますが) したんですって。
「あの時の担任の先生に憧れて、もありますけど、最低な行為をした私にできることが、教職にあったから。教科書に載っている作品をただ教えるだけじゃなくて、点数の稼ぎ方を叩きこんで大学に合格させるだけじゃなくて、人間性を育ててもみたいんです。社会にもみくちゃにされても、この志は、ずっと持っていたい」
未来でも額田さんが変わらず仕事をしているかは、僕は神様じゃないから何とも言ってやれないけれど、今ここにいる額田さんが、僕には輝いて見えました。夢を抱いて羽ばたく人は、楽しそうに生きている。僕も、小さいですが夢があります。大好きな人と笑って暮らす。お金でスパッと実現できるような、単純なものではないんだ。
僕の奥さん×××を、いらない責任から解き放ってあげたい。
あとがき(めいたもの)
問:共同研究室の常連四回生について、簡単に教えてください。
答:額田きみえさん……上代文学ゼミ、リーダー指名され率高し。勉強熱心。
柿本いろはさん……上代文学ゼミ、四回生のボケ担当。機転が利く。
安部砂子さん……近現代文学ゼミ、共同研究室のご意見番。毒舌だが友情に篤い。
改めまして、八十島そらです。今回は、このひとことだけにします。
舞台で大きな旗をひとりで振って赴任し、崩壊していた学級を立て直し、翌年教壇を降り、若くして世を辞したわが友に、この話を贈ります。




