第四話 大森林のエルフ
森の中を縫うように切り開かれた道を進む人馬の隊列があった。人間の身には想像も出来ない長い年月を過ごしたと思われる巨木の中にあって、彼らが歩く道は細く頼りなく見える。幅は人が三人並んで歩くのが精一杯で、馬ですれ違う時にはどちらかが立ち止まる必要があるだろう。しかも森には、木々の葉が完全に落ち切っていないのにも関わらず雪が薄く降り積もっている。一足早い冬の到来によって、人馬はより困難な旅路を強いられていた。
雪を踏む音以外は禁じられたように寡黙に歩き続ける隊列だったが、先頭を進む騎馬が道端に置かれた塚石を見止めると、立ち止まって後ろの仲間達に休憩の合図を送る。その指示に人馬の群は申し合わせたように深い溜息を吐いた。
「ふう・・・」
隊列の中腹付近にいたリーンも白い息を漏らすと、肺の中にゆっくりと冷たい森の空気を吸い込む。それと同時に目的地であるハルフィート砦までの距離を自分なりに計算にする。このペースなら砦まであと二時間というところだろう。日没までにはぎりぎりで間に合う計算だ。
本来は単独行動を好むリーアだが、エルフ族の勢力圏内とは言え大森林を一人で闊歩するほどの命知らずではない。森に出向かうには独自に護衛を雇うか、今回のようにラハダスの街から砦に向かう定期の隊商に加わっていた。
「早く砦に着いて、熱々のシチューを食べたいぜ!」
「うん、今夜は屋根のある場所で温かいご飯を食べられそうだ」
休憩のため倒木に腰を降ろしたリーアの隣に、護衛役の冒険者がやってきて会話を始める。リーアの本業はあくまでも薬師だったが、定期的に大森林へ赴いているのでラハダスで活動する冒険者の多くとは顔見知りだ。
「そうだぜ、リーア。今晩は二人で一杯とは言わずゆっくり飲もうぜ!そして、その後はベッドでお互いの身体を暖めあうってのはどうだ?」
「・・・遠慮しとく。これでも身持ちは堅いんだ」
冒険者、鎖帷子と槍で武装した男の誘いをリーアは毅然として断った。お高く止まるつもりはないが、女を口説く台詞としてはいくらなんでも下品過ぎる。もう少しなんとかならないのかと、リーアは心の中で呆れる他なかった。
「つれねえな!たまには俺のような伊達男と遊んだ方が良いぜ!」
「あっ?!どこに伊達男がいるって?」
「・・・いや、冗談だって・・・もう少しで砦だから、ちょっと調子に乗っちまったな。ははは・・」
リーアの突き刺すような冷たい視線を受けると、男は逃げるように乾いた笑いを上げて立ち去って行く。それを見送りながらリーアは姉のナーシアのことを思い出した。彼女ならもっと上手く男をあしらえるに違いないからだ。
ナーシアから多くの技術や教えを学んだリーアだが、この分野に限ってはお手上げだった。まず外見からして、男なら誰でも振り返るような金髪碧眼の美女である姉と、黒髪で薄茶色の瞳の地味な自分とでは大きな違いがある。あの優雅な物言いや仕草は姉だから許されるのだ。
「まあ、あたしはあたしなりにやればいいさ・・・!」
リーアは苦笑を浮かべながら一人呟く。姉のナーシアは確かに美人だが、その美しさと若さを維持するために弛まない努力と手間を掛けていることを知っていたし、あの大きな胸では素早く動くのには不利だった。また、艶のある見事な金髪は人ごみに紛れるのにも向いていない。リーアは女としての名利を高く持つ姉に嫉妬するのではなく、むしろ自分の細味ながらも素早く動ける身体と、どんな人ごみや闇の中でも目立つことのない黒髪に誇りを持つことにしていた。無いモノを羨むよりも、自分が持つ長所を活かすことが人間として建設的というのがリーアの信念だ。
やがて、前方から再出発の合図が投げ掛けられると、各々のやり方で休憩を取っていた商人や護衛の冒険者達がそれに答えて立ち上がった。
リーアもそれまでの考えを頭から追い出すと、新調した毛皮のマントに掛かった雪を払いながら出発の準備を開始する。フード部分は黒貂、その他はウサギの毛皮で造られたマントは、今回の旅で彼女を寒さから充分過ぎるほど守ってくれている。安くはない買い物ではあったが、今回の旅だけでも元が取れたと言って良いだろう。何しろリーアは病や怪我を癒す薬師なのである。風邪を引いてしまっては格好がつかなかった。
日暮れまでの到着を目指して、三十人と十頭の馬からなる隊商は再び動き始めた。
ハルフィート砦は大森林の西部に位置し、エルフ族とベリゼール王国から派遣された兵士や冒険者が共同で暮らす拠点の一つである。ラハダスの街から送られる物資の一時集積と管理を主な目的としており、妖魔の矢面に立つエルフ達を支える後方支援の要であった。元は森の中に点在するエルフ族の集落の一つに過ぎなかったのだが、エルフの族長がベリゼール王国に妖魔との共闘を求めて三十年経過した今では、多くの人間達がこの砦に入植するようになって、砦というよりは小さな街と呼べるまでに発展していた。
砦の周囲は森で伐採された太い木々で造られた塀で覆われて、天然の木が物見櫓としてそのまま使われている。
内部の建物や施設も現地調達が可能な木製が殆どだが、主に二つの区画に別れていて以前から住むエルフ族の居住区と入植した人間や派遣された兵士達が暮らす地区が存在する。文化やしきたりに違いのある両種族の住み分けのためだ。これは、妖魔との戦いを継続させるために必要な物資の供給と運搬、管理を負担する人間と前線である森の深部で戦うエルフ族との役割の違いもあって戦術面からも合理的な判断だった。
もっとも、最初からこのように上手くことが進んだわけではなく、当初は種族間の軋轢が存在していた。本来、エルフ族は他種族とは積極的に関わることのない排他的な種族だった。彼らエルフ族は神々がその姿を自分に似せて創造した最初の人型種族であり、人間の水準からすると極めて長寿で魔法の扱いにも長け、容姿も美しい。そのためか、後に生まれた人間やドワーフ族等の人型種族に対して優位性を主張しプライドが高かった。世界創造の後に起こった神々の大戦では人間と共に光の神々側として参戦しているが、大戦が神々の共倒れによって終結すると、早々に大陸に存在する森を自分達の領土として独自の文明世界を構築していた。
そんな背景を持ったエルフ族だが、森に棲みついたのは彼らだけでなく大戦で闇の神々の尖兵として戦った妖魔達も森を縄張りとしたため、大戦の残り火とも言えるエルフ族と妖魔達との争いが発生する。優れた才能を持つエルフ族だが、唯一の欠点として繁殖力の弱さがあった。長寿である彼らは急いで子孫を残す必要性がないからだ。繁殖力に勝り数で押す妖魔達に大森林で暮らすエルフ族は次第に劣勢になる。
やがて、単独で妖魔の攻勢を退けることが不可能と判断したエルフ族は決断を下す。妖魔との共闘を人間の隣国、ベリゼール王国に求めたのだ。これに当時のベリゼール国王が承諾することで、これまでの種族的な蟠りは棚上げにされて両者は協力して妖魔に対抗することなる。もちろん、これには王国にとっての打算も含まれていたのは間違いない。何しろ大森林のエルフ族が妖魔に敗北すれば、次にベリゼール王国が彼らの標的になるのは確実であるからだ。それでもエルフと人間が共に戦うのは大戦以来のことであり、歴史的なことだった。
雲の奥に隠れていた陽が僅かな光を残して西の彼方に沈もうとする頃、リーアの参加する隊商の一団は目的地であるハルフィート砦に到着することが出来た。安全圏に辿り着いたことで、参加者の顔には無事を喜ぶ笑顔が自然と浮かび上がる。今夜は屋根のある暖かい部屋で寝られる、それはこの季節を旅する者にとって最高の幸せなのだ。
もっとも、彼らには運んだ荷物をそれぞれの依頼人や倉庫まで届けるという最後の仕上げが残っている。検品や馬からの積み下ろしを考慮すると、ゆっくり身体を休めるにはもうしばらく掛かるだろう。
気の毒と思いながらも、リーアは隊商のリーダーに同行させてもらった礼と感謝を告げると、彼らと別れて独自の行動を開始する。彼女は隊商の正式なメンバーではないので、荷物に対する責任はない。逆に言えば、宿や食事の手配は全て自分でこなさなければならないということでもあった。
一人になったリーアは砦内をエルフ族の居住区に向かって歩き出す。住み分けがされていると言っても、お互いを立ち入り禁止にして壁で区切っているわけでない。それでも居住に対する考えの違いから、エルフ族のテリトリーに入ったことは一目瞭然でわかる。人間の住む家や建物は伐採した木を使って一から造り上げているのに対して、エルフ族は生えている木をそのまま柱として流用していることが多いのだ。可能な限り現状を残そうという考えなのだろう。また、人間の暮らす地区では絶えず何かしらの音を発しているが、エルフの居住区は静かだった。
その静寂の中、リーアは微かな灯りを頼りに歩く速度を上げる。エルフは人間よりも遙かに夜目が効く、のんびりしていると辺りは真っ暗闇に包まれるだろう。
やがて、見慣れた扉を見つけるとリーアは礼儀に従いノックをする。こういった習慣はエルフ族でも共通していた。
「・・・やあ、こんばんは」
「・・ああ」
「陽が暮れ掛かっているけど、早い方が良いと思って・・・頼まれた品物を届けに来た」
住人によって扉が開かれると、リーアは僅かに緊張しながら挨拶を告げる。対応したのがこの家の主人の息子だからである。彼は端整な顔つきをしていて淡い金色の髪を長く伸ばし、その髪の隙間から尖った耳が突き出ていた。美しさと長い耳はエルフ族の特徴だ。
見た目は自分より僅かに若くに見えるが、長寿なエルフ族なので実際の年齢は不明である。彼とは何回か面識があるのでリーアも男性であることを知っていたが、見た目だけでは背の高い美少女と区別がつかないだろう。もっとも、その彼がこれまでリーアに歓迎の素振りを見せたことはない。それに文句を言うつもりはなかったが、人間を見下したような視線には軽い反発心が湧いてくる。リーアはそれを抑えるために自分を制御しなければならなった。
「ああ、その声はリーアかい?!外は寒いだろう早く入って貰いなさい!」
「・・・どうぞ、中に」
「・・・どうも」
奥からもう一人別の男性の声が響くとエルフの少年はその声に従い、慇懃な態度でリーアの入室を許した。
「やあ、いらっしゃい!リーア!雪が降ったから君が来るのは、もう少し先になると思っていたけど、約束通りだね。さすがだ」
「こんばんは、ファルゼク。もちろん、あたしは約束を守るよ!」
家の中に迎えられたリーアはそれまで堅かった表情を崩すと、家の主人であるエルフの男性に笑顔で挨拶を伝える。人間にも様々な性格の者が存在するように、エルフ族にも人間に対する反応や考えは多様なようで、かつてリーアが薬草採取のためエルフ族に大森林の案内を頼んだ際に快く応じてくれたのが、このファルゼクだった。付き合いが始まって二年が経った今では、逆に森では入手出来ない品物の買い付けを彼から依頼されるようになっており、お互いを必要とする良い関係を築けていた。
「それじゃ、頼まれていた品物を渡すよ」
簡素な家具が置かれた居間に通されたリーアは出されたお茶で一息入れると、背負い袋から皮袋を取り出してテーブルの向かいに座るファルゼクに手渡した。エルフ族だけにファルゼクは落ち着いた気配に似合わない若い姿をしている。人間で言えば二十代前半程度の美青年で、息子の方は他の部屋に移っておりこの場にいなかったが、二人が並んでも親子とは信じられないだろう。事情を知らない人間が見れば兄弟と思うはずだ。
「うん、間違いない。ありがとうリーア。これで新しい色の布が織れる」
ファルゼクは皮袋の中が赤味を帯びた小さな貝殻で満たされていることを確認すると、笑みを浮かべてリーアに礼を告げる。彼はエルフ族の機織り職人だった。彼を含めてこの砦で暮らすエルフ族達は何かしらの職人であることが多い。彼らの製作するエルフ族の工芸品がラハダスの商人に買い取られ、物資の購入資金となるのだ。
「それじゃ、明日にはトロチの実を採りに行きたいんだけど、頼めるかな?」
リーアも立て替えていた貝殻の代金を受け取ってその数を確認すると、主目的である薬草採集の案内役を切り出した。赤い貝殻は南方の海で取れる貴重な染料であり、高額で取引されている。それの入手と森での案内が二人の交換条件になっていた。
「うん、それなんだが・・・今回、君の案内には息子のサディークに任せようと思うんだ。どうだろうか?」
「そ、それは・・・」
ファルゼクの提案にリーアは難色を示す。先程の対応からしてもサディークが自分に対して良い感情を抱いていないのは間違いない。正確にはリーアがどうこうというよりは人間に対して懐疑的なのだろう。ファルゼクのようなエルフの方が少数派なのだ。
「君の気持もわかるが、あいつにもそろそろ人間達に慣れて欲しいと思っている。私の知る人間の中では君が一番信頼出来るんだ。協力してくれないかな?」
「・・・わかったよ。あたしの方もあんた以外のエルフに慣れておく必要があるだろうしね」
「おお、助かるよ、リーア!いつもどおり泊まっていくだろう?外の情勢を聞かせてほしいな」
「ああ、厄介になるよ!」
サディークに関しては若干の不安もあったが、ファルゼクの申し出にリーアは笑みを浮かべて喜ぶ。彼女が砦に出向いたおりにはファルゼクの家に泊まるのが定番となっていたが、やはり家主から早々に切り出してもらえると嬉しいものだった。
この後リーアはファルゼクから振る舞われた夕食を食べながら、最近のベリゼール王国とラハデスを取り巻く情勢をエルフの親子に語って聞かせる。この時ばかりは、サディークもリーアの話に耳を傾けていた。保守的な彼も好奇心には勝てないのだろう。
「ふわあ・・・」
うっかり欠伸を上げたリーアをファルゼクは客室へと案内する。何しろリーアはラハダスから砦まで三日の道のりを隊商と野宿しながらやって来たのであるである。これまで誤魔化していた疲れが、温かい食事と気の置けない知人との会話で現れたのだ。
リーアはファルゼクに就寝の挨拶を伝えると四日ぶりに屋根のある部屋で寝られる幸せを噛みしめた。
「こっちだ・・・」
「わかった」
先を進むサディークに続いてリーアは、まだ薄暗い森の中を突き進む。トロチの実の群生地は一番近い場所でも四時間は離れた距離にある。二人は夜明けとともに砦を出発していた。
リーアに対するサディークの態度は相変わらず素っ気ないものだったが、大弓と革鎧で武装しながらも殆ど音を立てずに薄く雪が積もった森の中を進む彼の姿は、さすが森での生活に慣れたエルフ族だと認める他なかった。
「そういえば、ラハダスの街に迷い込んだフェアリーが現れたよ。なんでもダークエルフに棲家を追われたらしい・・・。森での戦いは激しさを増しているのかい?」
辺りが明るくなったのを見計らってリーアはサディークに話し掛ける。彼女自身もあまり社交的とは言えないが、ファルゼクの意図を考えるとリーアの方から歩み寄った方が良いと判断したのだ。
「あいつらは、自分達以外・・・いやことによると仲間同士でも命を奪い合うからな。無害なフェアリーにも容赦をしないんだ。くそ!俺も早く一人前に認められてあいつらと戦いたいのに・・・人間のお守りをしなきゃならないなんて!」
「お守りで悪かったな!・・・と言うか、エルフのわりに随分とせっかちだな!」
「なんだと?!人間のあんたに何がわかる!」
「少なくとも、しなくてもいい喧嘩を売るような奴が直ぐ死ぬことくらいはわかるさ!」
胸の中でリーアは舌打ちする。サディークの言葉に対して思わず言い返してしまったからだ。歩み寄るつもりが、これでは藪蛇だった。
「くそ!これだから、人間は!俺達があいつら裏切り者と妖魔をこの森に釘づけにしているから、あんた達ベリゼールの人間は繁栄することが出来たんだぞ!それなのに援助をすると言いながら商売にしているじゃないか!それに俺の母はあいつらに殺されているんだ!仇を討とうとして何が悪い!」
「・・・そういうことか」
サディークの反論にリーアは言葉を飲む、前半はともかく後半に限っては確かに他人が口出しするべき問題ではないからだ。親の顔を知らない彼女だが、母親を姉のナーシアを置きかえれば彼の憤りが理解出来た。
ちなみに、妖魔とは闇側に付いた様々な人型種族のことを指すが、その中のダークエルフは神々の大戦において闇の神側に付いたエルフの一派である。起源を同じくする彼らだが、お互いを裏切り者として激しく憎悪していた。サディークにはそれに加えて母親の仇が加わっている。彼にとって妖魔は不倶戴天の敵なのだろう。
「まあ・・・いいさ・・・、急ごう!あんたも陽が暮れるまでには帰りたいだろう?!」
「・・・ああ」
リーアが納得したことで溜飲を下げたサディークに、彼女も素直に頷いた。
「これくらいかな」
雪を掻きわけて集めたトロチの実で一杯になった皮袋に満足すると、リーアはサディークに声を掛けた。彼とはぎこちない関係ではあったが、採集に関しては文句を言わずに手伝ってくれた。どうやら、やるとなったら中途半端なことはぜずに全力を尽くす性格のようだ。
「ああ、採り過ぎては森の調和を乱すからな。昼食を摂ったら戻るとしよう・・・」
サディークの言葉に従い二人は手頃な場所を見つけて腰を降ろす。親しく会話を交わすには少し遠く、お互いを無視するには僅かに近いそんな間合いだった。
「なあ・・・」
「あれは・・・」
二人が口を開いたのはほぼ同時、ファルゼクの用意してくれたエルフ風のパンを丁度食べ終えた時のことだ。彼らの耳が遠くから響く物音を捉えたのだ。それは複数の人間もしくは動物が雪を踏む音と思われた。
リーアとサディークはお互い視線を交錯させると素早く静かに立ち上がる。音が発する方角は南西方向、ラハダスと砦を結ぶ道はここより北東を通っている。人間の隊商や哨戒隊が発した音とは思えない。自分達と同じように狩や採集で森に立ち入った砦の人間やエルフ族の可能性もあったが、それにしては数が多い。二人は直感的にその音の源が妖魔であると判断していた。
「・・・あっちもこちらに気付いているな・・・音が近づいている」
「数は・・・少なく見積もって二十は下らないな・・・」
「ああ、下手するともっと多いかもしれない。くそ!こんなところまであいつらが侵入するなんて!」
リーアはサディークに身体を寄せて小声で見解を伝えるが、彼は弓を握る手を怒りから激しく痙攣させていた。
「まさか、戦うなんて言わないよな?」
「・・・俺だってそんなに馬鹿じゃないさ!今は砦に戻ってこの事実を報せるのが先決だ。それに俺は父さんからあんたの世話を頼まれているからな!」
「それを聞いて安心した。さっさと撤退しよう!」
「ああ!付いて来い!言うまでもないが、俺が踏んだ箇所を追って来いよ!」
サディークは心配するリーンに尊大に頷くと砦に向かって早足で歩き始めた。
「ここで俺が奴らを食い止める!あんたはその隙に逃げろ!」
「馬鹿!一人で死ぬ気か!」
リーンは向き直って弓に矢を番え始めたサディークに罵声を浴びせる。逃げ切れないと判断し、戦いを覚悟したことについては異存がなかったが、全てを一人で背負うとする態度が気に食わなかったのだ。
「武器を持っているようだが、人間の薬師であるあんたが妖魔と満足に戦えるわけがないだろう!俺は父さんにあんたの身の安全を任されている!早く逃げろ!」
「あたしもね、少しは戦えるんだ!それに近づいて来る獣・・・足音からして、おそらくワーグが三頭。一人で三頭は厳しいけど、二人ならなんとかなるよ!」
早々に逃げ出すことを選んだリーン達の判断は客観的に見ても正しいと思われたが、不運にも二人は妖魔達の風上に位置しており、彼らの匂いを頼りに追手であるワーグと思われる獣が差し向けられていた。ワーグは妖魔達に飼い慣らされている大型の狼で、小型の妖魔の騎乗や偵察等に用いられており、逃げる敵の脚止めには最適と思われる尖兵だ。リーアとサディークが生き残るには、ワーグを素早く倒して妖魔の本隊が来るまでに再び逃げ出す必要があった。
「くそ!頑固な奴だ。俺は警告したからな!」
「そっちこそ!」
リーアを無力な薬師と思っているサディークだが、それ以上の議論はしなかった。敵の足音はもうすぐそこまで迫っている。迎撃に意識を集中しなければならなかった。また、リーンも彼の射線を確保するために距離を取って前に出て、小剣と短剣をそれぞれの手に握り戦いに備える。サディークの弓の腕前は定かではないが、ファルゼクと同水準とすれば接敵前に一頭は始末してくれるだろう。更に自分が前衛に立って残り二頭のワーグの注意を惹きつけば、彼は射撃を続けることが出来る。正直、ワーグ二頭を同時に相手にするのは楽ではないが、それが最も勝率が高い戦法のはずだった。
「来るぞ!」
後ろから発せられたサディークの声と共に、前方の木々の間から汚い灰色の塊が飛び出て来た。大きく開いた口蓋とそこから滴る涎が視認出来るまで近づいたところで、風切音が周囲の空気を引き裂くように鳴り響きワーグの眉間に矢が命中する。命の糸が切れたように崩れ落ちる獣だが、その骸を飛び越えてもう一頭のワーグが出現して前衛に立つリーアに襲い掛かった。
サディークの弓の腕前を褒める暇もなくリーンは接近戦に引き摺りこまれる。厄介なことにワーグはその体躯だけでなく知能の方も狼を凌駕している。仲間を囮に使う奸智も備えていた。
左手に持った短剣を投げつけながら、リーアは自分の体重の倍はあろうワーグの攻撃を左に飛んで避ける。牙と爪は凶悪的に長く鋭いが、単純にぶつかれただけでもただでは済まないと思われた。
それでもリーアの短剣は狙いを誤らずにワーグの右目に突き刺さった。
「もう一頭は?!」
戦果を確認しながら、リーンは最後の一頭を探し出そう周囲に警戒をする。彼女の投げた短剣には痺れ薬が塗られている。人間を想定した毒なのでワーグには効果が薄いだろうが、かなり弱らせたのは間違いない。事実リーンを襲ったワーグは安酒を飲み過ぎた酔っ払いのように震えており、立つだけでの精一杯の様子だ。今はこれに止めを刺すよりも無傷の三頭目を追うのが先決だった。
そのリーンの心配は的中する、三頭目のワーグは自分ではなくサディークに襲い掛かっていた。彼は自分に圧し掛かって首に噛みつこうとするワーグの牙を弓でなんとか凌いでいる状況だった。
「くそ!」
既に新たな短剣を抜いていたリーアだが、背を向けるワーグに投げつけることに躊躇する。頭部のような皮の薄い箇所ならともかく、分厚い毛皮に覆われた背中や臀部を投擲で突き通す自信はない。かといって前方に回り込んでいる余裕もない。その間にサディークの首は惨たらしく噛み切られてしまうだろう。
「うお!!」
次の瞬間にはリーアは気合を発するとワーグ目掛けて突進していた。体格で勝るワーグに自ら接近することは危険でもあったが、サディークを助ける方法をこれ以外に思いつかなかったのだ。彼女は体当たりの要領で短剣と小剣をワーグの背中と右脇腹にそれぞれ突き刺した。だが、ワーグもその痛みに耐えて後ろ足を思いきり蹴り上げる。リーアは激しく胸を打たれると後ろに弾き飛ばされた。
「く!」
鉤爪がリーアの顔を捉えたのだろう。彼女の頬に一筋の傷が開き、赤い鮮血が零れる。その血の匂いに誘われたようにワーグは新たな獲物としてリーアを捉え、襲い掛かろうとする。身を翻して跳躍の初動作に移ったワーグだったが、突然力を失ったように横へと倒れた。自由になったサディークが下からワーグの頭部を射抜いたのだ。
「動けるか?!」
「・・・立つのがやっとで・・・走れそうにはない。さっきとは逆になったが、サディーク、そっちだけでも逃げてくれ!」
残ったワーグにも止めを刺したサディークはリーアを助け起こそうとするが、彼女は仲間の逃走を示唆する。呼吸の度に激しい痛みが脳内を焼くように響く。胸骨か肋骨の何本かが折れているに違いなかった。下手に動けば肺に刺さる可能性もある。妖魔の本隊が迫っているこの状況では打つ手がないように思われた。
「大丈夫だ。俺は〝癒し〟を使える!」
サディークはリーアの胸に手を置くと何かへ訴える呪文を唱える。革鎧と服を素通りするように掌から温もりが発せられ、同時に痛みが消えていくのをリーアは感じた。
「これが魔法か・・・」
サディークに手を借りながら立ち上がったリーアは先程まで傷んでいた胸に手を当てると〝癒し〟の効果に驚きの声を上げる。痛みは完全に治まり、顔に負った傷も消えている。心なしか身体全体が軽くなったようだ。
「すごいな!これじゃ、薬師なんて意味ないじゃないか・・・」
「いや、自慢じゃないが俺くらいの若さで〝癒し〟を使えるエルフは滅多にいないし、俺も一日一回使うのがやっとのとっておきの魔法なんだ!」
「そうなのか・・・。貴重な魔法で助けてくれてありがとう!」
「まあ、危ないところを先に助けられたのは・・・俺だしな・・・」
「とりあえず逃げるか!」
はにかむサディークの姿に何か感じつつあったリーアだが、まずは命を存続せることに集中する。ワーグは倒したが妖魔の群に追われていることに変わりはないのだ。
「ああ、そうだな!」
サディークは再び先頭に立つと逃走を開始し、リーアは軽くなった身体で彼の後を追った。
リーア達を襲った妖魔の群は砦から出撃した迎撃隊によって早々に撃退された。おそらくは後方支援の拠点であるハルフィート砦に向けられた妖魔側の威力偵察だったと思われるが、逃げ帰った二人の報告により被害が出る前に対策を講じることが出来たのだった。
「済まない!災難に合わせてしまったな・・・」
「いや、ファルゼクのせいじゃないさ。たまたま運が悪く妖魔の群にかち合ってしまったんだ。それにサディークがあたしを助けてくれたよ!」
事件が落ち着きを見せた翌朝に、二人の身に起きた危機に対してファルゼクがリーアに謝罪を伝えるが、彼女は笑って許した。そもそも妖魔との遭遇は不可抗力であったし、サディークもその任をやり遂げていた。感謝してこそ恨むのはお門違いだった。
「そうか・・・サディークは一人前になってくれたか・・・よくやった!」
考え深く語るファルゼクの言葉にその場に居合わせたサディークは顔を赤らめる。これまで自分のことを認めない父親に反発を感じていたようだが、いざその父に褒められて面はゆい気持ちになったらしい。
「そ、そうだ!リーア!あんたがあのとき勇気を持ってワーグに立ち向かってくれなかったら俺は死んでいただろう!これは俺からの気持ちだ、受け取ってくれ!」
照れを誤魔化すようにサディークはリーアに鞘に入った短剣を差し出した。柄と握りにはかなり凝った独特の模様が刻まれている。
「これは?」
「俺が使っている短剣だが、あんたはあの戦いで短剣を二本失くしただろう。代わりにこれを受け取って使ってほしい」
「え!これはミスリル銀で出来ているんじゃないか?!」
一目で業物とわかる白銀の刃に爪を当てながらリーアは驚きの声を上げる。ミスリル銀はエルフの鍛冶職人でしか加工出来ないとされる金属だ。その特性は鋼鉄よりも堅く、それでいて遙かに軽いと言い伝えられている。
「こんな高価な物はもらえないよ!それに命は助けたのはお互い様だろ!」
「いや、いいんだ!これは対になって二本あるんだが、その一本をリーア、あんたに持っていて欲しんだ。これは・・・あんたを人間ってだけで毛嫌いしていた詫びも兼ねているんだ」
サディークの言葉を受けてリーアはファルゼクにも視線を送るが、彼は静かに頷くだけだった。
「・・・そういうことなら、ありがたく頂くかな。これから大事に使わせてもらうよ!」
「ああ、俺達男同士!種族を超えた友情の証だ!」
満面の笑みを零すサディークだったが、リーアは大事なことを聞き逃さなかった。
「今、お・と・こ・ど・う・しって言った?」
「ああ、俺とリーア、男同士の友情だ!」
「あ、あたしは女だぞ!」
怒るべきなのか、呆れるべきなのか判断が着かなかったが、とりあえずリーアは自分の性別を主張する。
「な、なんだって!じ、冗談だろ!人間が良く言う、その場限りの軽い嘘なんだろ!」
「そもそもあたしは男だなんて言った覚えはない!それに人間の・・・少なくてもこの地方じゃ、名前の最後がアで終わるのは女だけだ!」
「そんなこと知らなかった・・・・。でも、人間の女は髪を長くして、胸が大きく膨らんでいるものだろう!」
リーアの訴えに納得出来ないとばかりに、サディークは再び問い掛ける。これはエルフ族が男女による外見の差が少ないことによる誤解だった。人間の目には細くしなやかな肢体が持った若い女性に写るリーアも、人間社会に疎いエルフからすれば平均的な肉体を持った男性にしか見えないのだ。
「髪はそれぞれだし、胸の大きさにも個人差があるんだよ!悪かったな、大きくなくて!それに革鎧を着ているんだから、膨らみなんてわかるわけないだろう!」
「ほ、本当にリーアは女性なのか?」
「おう!なんなら証拠を見せてやろうか?」
「い、いやごめんなさい。そ、それはやめて下さい!信じましたリーアは女性です!」
「ああ、それで良いんだよ!!」
ズボンを止めるベルトを外そうとしたリーアを宥めるとサディークは溜息を吐いた。
「い、いやちょっと待てよ!ひょっとして、父さんはリーアが女性だって知っていたの?!」
「ああ、もちろんだ。リーアは人間の若い女性だよ。今更だな!」
「じゃ、父さんは母さんを亡くして百年も経ってないのに、若い女を家に泊めて、森で二人きりになっていたというの?」
「おいおい、変なことを言うなよ!私とリーアはあくまでも友人だ。勘繰るのはやめてくれ!」
「とっ父さんの馬鹿ぁ!」
突然泣き始めたサディークは脱兎のごとく居間を抜けて更に家を飛び出して行った。
「やはり、まだ感受性が強い年頃のようだ。森の奥に送るにはまだ三十年は早いかもしれん・・・」
「・・・これだから・・・エルフは・・・」
残されたリーアはそう呟くしかなかった。
「・・・とまあ、こんなことがあったんだ!その後、サディークは丸一日家に帰ってこなかった。あたしはその間に忘れていた差し入れを届けたりして、隊商が出発するのを待っていたんだけどね」
大森林での採集から戻ったリーアは、今回の経験を姉のナーシアに語り聞かせる。
「ちょっと!ワーグとの戦いはやむを得なかったとしても、その時サディークさんが止めなかったらあなた、どうしていたのよ!?」
「そりゃあ!もちろん決定的な証拠を見せてやったさ!あの様子だと、もっとショックを受けたかも知れないけどさ!うひひひ!」
「呆れた・・・私はあなたをそんなことをする女に育てた覚えはなのに・・・」
「もちろん、冗談だよ!いくらなんでもそんなことはしないさ!・・・でもさ、あたし決めたんだ!」
「どうしたの、改まって?」
「あたし、髪を伸ばすよ!」
リーアはセディークから譲られたミスリル銀の短剣を手の中で器用に回しながら宣言する。
「そうね、それがいいわ!」
ナーシアは妹の決断に微笑を浮かべて頷くのだった。