1.蚕
◇
その人物と目が合った瞬間、どうしてわたしは少年の手を放してしまったのだろう。
一瞬の気の弛みも許されない。ここはそんな場所なのだと何度も教えられてきたというのに、そんな事も忘れてしまってわたしはその人物の姿に見惚れてしまったのだ。
彼は蝶と似ていた。
蝶と同じくらいの年頃のようだけれど、男性と女性という大きな違いに興味を引かれてしまった。
森に入るようになって一年が経っていたけれど、胡蝶なんてあまり見たことがない。
だから、なのだろうか。
そうだとしても、この気の弛みは恐ろしく大きな失敗に違いなかった。
「華、駄目だ!」
少年がわたしの名を呼んで手を伸ばそうとしたその時、その胡蝶の青年はもうわたしの目の前に来ていた。
威圧するようなその視線に、少年の動きが止まる。
振り返ろうとしたけれど、その時にはもう胡蝶の大きな手がわたしの身体をがっしりと掴んでしまっていたのだ。
「は、放して……!」
無駄だと分かっていたけれど、暴れずにはいられなかった。
けれど、胡蝶の青年は苛立ちもせず、じっとわたしを力で捻じ伏せたまま、その視線を真っ直ぐ少年に向けていた。
「君も来てくれるのかな?」
にやりと笑う胡蝶の横顔が見えた気がした。
少年の事も狙っている。このまま二人して捕まっては駄目だ。様々な思考が瞬時に巡ったけれど、その全てが鎮圧された。
胡蝶の手によってほんの少しだけ蜜をかき乱された気がしたからだ。
「……いい香りだ。やはり野生花とは違う」
低い声で胡蝶が唸る。
この場で感じたくもなかった蜜を吸われたいという汚らしい欲求が、わたしの動きを完全に縛っていた。
「華を返して!」
少年が声を荒げた。
けれど、胡蝶は笑みも崩さずにその姿を見ているだけだった。
「……駄目、来ちゃ駄目」
蜜吸いへの欲求によって乱される意識の中で、わたしはどうにか少年に訴えた。
「逃げて、お願い!」
少年は戸惑っている。
けれど、少年が決断するより先に、状況は動き出した。恍惚とした感覚のせいで動けないわたしを軽々と抱き上げて、胡蝶が少年に背を向けたのだ。
「悪いが、君を待っている時間は無いのでね」
「待って!」
少年の声に胡蝶の青年が少しだけ立ち止まった。
「離れたくないなら、君の方が来ればいい」
吐き捨てるように告げて、胡蝶は再び動き出した。
動けないままわたしは、離れていく少年の姿を確認しようと視線を動かしたけれど、映るのは目まぐるしく変わっていく木々の色ばかりだった。
「やだ……」
振り落とされようとしても、胡蝶の力は強すぎて逃れられない。
変わっていく風景が、わたしの中で恐怖を掻き立てるだけ掻き立てていった。
「いやだ、行きたくない……」
懇願しても胡蝶は少しも立ち止まってくれなかった。
このままどうなってしまうのだろう。
蝶以外の虫に蜜を吸われたくはない。けれど、一瞬だけ青年の手によって乱された理性はなかなか戻ってきてくれなかった。
このままでは、ろくに抵抗も出来ない。
いや、それどころか、この胡蝶に殺されてしまう可能性もある。
もはや辺りが何処なのかわたしには分からなかった。この場で逃れられたとしても、月や蝶の元に帰ることが出来る自信が全くなかった。
――じゃあ、わたしはどうなってしまうの?
不安が不安を呼んで身体を硬直させてしまう。涙すら流す暇もないほど、わたしの心身は凍ってしまっていた。
そうしているうちに、その場所に着いたのだ。
胡蝶に抱かれたまま、わたしは「彼女」に引きあわされた。初めて見る女性だったけれど、森に入るようになって一年経つわたしにも、彼女が何者なのかはなんとなく分かった。
蜘蛛。
詳しい種族は分からない。
ただ、蜘蛛の魔女だと分かっただけだ。
胡蝶を食べるのだという恐ろしい虫の魔女。彼女はわたしの顔を見ると、優しい心でも持っているかのように微笑んで、何も言わずにそっとその右手を開いて見せた。
その瞬間、わたしの身体は胡蝶の手を離れ、何かに拘束されて宙づりになってしまった。両手両足が強く引っ張られ、千切れてしまうのではと思うほど痛かった。
「痛い……」
思わず悲鳴をあげると、蜘蛛の笑みが深まった。
それ以上は近づかず、彼女は青年へ向かって口を開いた。
「蚕」
その名に青年が反応した。
「しばらく貴方に任せる」
冷静に、淡々とそう言われ、蚕と呼ばれた胡蝶は静かに頭を下げた。
◇
蚕。
その短い名前は彼自身もきちんと教えてくれた。
残酷な胡蝶だと自ら名乗り、わたしの蜜の香りに舌舐めずりをする青年。けれど、彼はわたしに一切手を出さなかった。紳士的に名前を聞いて来て、以後はその名前で呼んで人扱いしてくれる。
何故だろう。
わたしはてっきり胡蝶に捕まったのだと思っていた。けれど、彼はただ蜘蛛の命令で動いているだけで、わたしを自由に出来ないようだった。
任せるとは言われていたけれど、彼のわたしに対する扱いは遠慮気味だった。
「勿論、本当なら思う存分、枯れてしまうほど君の蜜を吸いたいところだよ」
蚕は言った。
「けれど、君を枯らしてしまえば、恐らく僕の命もないだろうからね。それに、僕は彼女を失望させたくないんだ」
皮肉でもなければ冗談でもない。
彼は本心からそう言っているらしい。
「どうして貴方は蜘蛛に従っているの? 彼女は胡蝶を食べるのでしょう?」
わたしの問いに、蚕は意味ありげな笑みを見せる。
獣のような目付きで彼はじっとわたしを覗き込んだ。
「君は月の城で可愛がられているとある胡蝶の娘ために、わざわざ女神様が町の花売りより取り寄せて買われたと聞いたけれど、本当かい?」
突然問われ、わたしはおずおずと頷いた。
すると蚕は更に訊いてきた。
「じゃあ、君はその胡蝶の事が怖い? 蜜を吸われるのは苦痛かい?」
遠慮のない問いに戸惑った。
なんとなく恥ずかしい気持ちが湧きあがってきたけれど、置かれている状況を思い出して、わたしは素直に答えた。
「いいえ、怖くもないし、苦痛でもないわ」
「それは何故だい?」
「だって、彼女はいつだって優しくて可憐で……わたし、彼女の事が大好きだもの」
隠すことなく答えたわたしを、蚕はじっと覗き込んだ。
意外そうな顔をしているような気もした。どうしてそんな表情をしているのかは分からない。それよりも沈黙が怖くて仕方なかった。
「君はその胡蝶に恋をしているんだね」
頬を触れられて、身体に刺激が走った。
吸うつもりは全くないはずなのに、彼は無駄にわたしの体内の蜜をかき乱していく。そうやってわたしの欲求が高まるのを見て面白がっているのかもしれない。
真偽は分からないけれど、彼はわたしの頬を何度か撫でながら、そっと声を落とした。
「その胡蝶の名前を当ててあげようか?」
急な言葉に戸惑うわたしを置いて、蚕は続けた。
「蝶、と呼ばれているんだよね?」
その名前を出されて、わたしは思わず目を見開いた。
別に蝶の事を知っている者は珍しいわけじゃない。つい一年前までならば、彼女は森にしょっちゅう足を運んでいたし、胡蝶の仲間なら彼女を知っていてもおかしくはない。
けれど、今、この場で蝶の名前を出されるのは引っかかるものがあった。
特に、蝶の名前を出した時の蚕の目に含まれているものが、わたしの恐怖を捕えてはなさないのだ。
どうして彼が蜘蛛の言う事を聞いているのか。
どうしてわたしの処遇が蜘蛛に委ねられているのか。
どうして蜘蛛の言う事を聞く蚕が蝶の話題を出してきたのか。
無駄に蜜をかき乱されながら、わたしはそれらの疑問を少しずつ噛み砕いていった。そして生まれてきた一つの可能性に気付いた時、やっとわたしは不安の断片を掴んだ。
「蝶をどうするつもりなの?」
食いつくように訊ねると、蚕は頬から手を放して軽く息を吐いた。
「察しがいいなあ。価値が高いだけあるんだね」
「ねえ、質問に答えて。蝶に何かするつもりなの?」
「元々僕が月の城まで迎えに行く予定だったからね。あの少年が行ってくれたおかげで手間が省けたよ」
「彼が……?」
「そうだ。君は知らないんだったね。あの少年は助けを求めに行ったようだよ。蝶の耳に入るのも確実だね」
恐ろしさで息が詰まりそうになった。
このことが蝶の耳に入る。でもそれは、多分よくないことだ。蚕の、いや、恐らくあの蜘蛛の女の狙いはわたしではないのだ。
彼女達がどういう関係なのかは分からない。
ただ、胡蝶を食べるという蜘蛛が、蝶をわざわざ誘き出させたからには、何かとても恐ろしい事が計画されているに違いなかった。
「蝶をどうするつもりなの……?」
答えてもらえない質問をわたしは繰り返した。
蚕は笑うばかりで真面目に取り合ってはくれない。その態度からは、同じ胡蝶としての慈悲があるようには全く思えなかった。
蜘蛛の手下として、蜘蛛の意思に従って、蝶を狙っているのだろう。
彼らは一体何者なのだろう。どうして蝶を狙っているのだろう。
まさか、食虫花の仲間なのだろうか。月を狙うために、敢えて弱いわたし達を狙っているというのだろうか。
どちらにせよ、わたしのせいで蝶が危険な目に遭うなんて嫌だった。
「ねえ、どうして?」
わたしは蚕に訴えた。
「胡蝶同士は仲間じゃないの?」
「さあね。でも蝶は僕の旧友なんだよ」
「旧友? それならどうして?」
「だからこそ、さ。安心しなよ、華。僕達は別に蝶を殺したいわけじゃない。彼女は優しい人だからね。機嫌を損ねなければ安全も保障される」
「やめて。蝶は繊細な人なの。月と一緒じゃないと壊れてしまうわ」
「壊れてしまった方が好都合さ」
蚕は残酷に言った。
「彼女が欲しがっているのは飽く迄も蝶という存在だけだからね。傍に置いて可愛がれるペットであればいいのさ」
「そんな……」
月のためではない。
あの蜘蛛はただ蝶を欲しがっているのだ。愛らしい蝶。彼女がふらふらと外を歩き回っていたのはもう一年前のことだ。
わたしはいつも不安だった。
危険なほど愛らしい彼女は、よくない思惑を抱いた者に目をつけられてしまうのではないだろうかと。
その心配は杞憂などではなかった。
「蝶は助けに来るかなあ」
涙の溢れそうなわたしを覗き込みながら蚕はそう言った。
わたしはその目から顔を逸らし、吐き捨てた。
「来られるわけないわ。だって蝶は一年も外に出てないのよ」
それだけでなく、一年前と比べて随分と痩せ細ってしまった。
わたしの蜜だけでは足りないというのに、そのわたしの蜜ですら拒もうとすることがある。繊細な彼女を追い詰めたのは食虫花という恐ろしい花の魔女。彼女のせいで、蝶は常に不安定な状態で月の城に匿われている。
そんな彼女が外に出られるわけがない。
いや、そうであると信じたかった。
「仮に来られないとしても、付け入る隙は生まれるだろうね」
「どうして蝶なの? あの蜘蛛には貴方がいるじゃない。どうして蝶までも狙うの?」
「『彼女』が欲しがっているから。それだけだよ」
この問答は無駄だ。
そう思い始めた。どうあっても蚕と蜘蛛は蝶を誘き出して捕まえる気なのだ。捕まってしまったら蝶はどうなってしまうのだろう。
蚕のようにあの蜘蛛の奴隷になってしまうのだろうか。
それとも、蝶は拒み続けるだろうか。きっと、彼女は拒み続けてしまうかもしれない。蝶は月の事が心から好きだから。
でも、もしもそうなれば、蝶はどうなってしまうのだろう。
いつまで経っても従おうとしない胡蝶を、あの蜘蛛はどうしてしまうのだろう。
「怖がっているね」
蚕の大きな手が再びわたしの頬に触れた。
「安心しなよ。君を傷つけたりはしない。君の蜜を狙うような虫が来たとしても、僕が追い払ってあげるよ」
「蝶を捕まえたら、わたしはどうなるの?」
「さてね、それは『彼女』が決めることだ」
わたしは表情を歪めた。
その優しげな口調が耳ざわりだ。
「月のものに手を出したら、どうなるか分かっているの?」
「無意味な事を言うね。どうせ僕も彼女も女神様の命さえあればいいという考えで生きている。君達の刺青が効果を成すのはせいぜい人間相手くらいのものじゃないのかな?」
そんなこと分かっていた。
人間以外の者に対しては刺青が気休めに過ぎないことなんて、一年ほど外を歩くようになって痛いほど学んだ。
わたしはいつだって、少年の手を握っていないと森を安全に抜けられないのだ。
分かっていたはずなのに。
蚕に捕まる直前だけは、魔法にでもかけられたように少年の手をするりと抜けだしてしまったのだ。
「泣いているのかい? 可哀そうにね」
ちっとも同情を含んでいないその言葉をかけられて、わたしは思わず目を瞑った。
涙が流れているのかどうか分からない。
ただ捕まってからずっと気を強く保っていないと泣いてしまいそうだった。でも、泣いてはいけない。泣いていいわけがない。自業自得なのだ。それよりも、もっと酷いことが起きようとしている。
「お願い」
無駄だと十分理解していても、言わずにはいられない。
「蝶に酷い事しないで」
抵抗も虚しく涙が頬を伝って流れていくのを感じた。
こんなわたしを蚕はどんな顔をして見ているのだろう。どうせ意地の悪い表情に決まっている。そんな顔を見たくなくて、わたしは目を瞑り続けた。
「酷い事はしないよ」
わたしの耳元で囁くように蚕は言った。
その手が掬うのはわたしの涙。目を閉じていても、その動作が感覚となって伝わってきた。嫌に繊細で優しい動作。
「ここは胡蝶にとってある意味では一番安全だからね」
「嘘言わないで。全部まやかしだって知っているんだから。貴方だってあの蜘蛛に逆らえば食べられてしまうのでしょう?」
「逆らわなければ大丈夫。君は本当に頑固だね。ああ、そういえば蝶も頑固な子だったなあ。あの子だったら彼女の誘いも拒み続けるかもしれないね」
蚕のわざとらしい声に、わたしは思わず目を開けた。
その途端、すぐに蚕の鋭い眼差しとぶつかり、身体が強張ってしまった。
「彼女を拒み続ければ蝶の未来は悲しいものになるよ」
わたしの髪を手で梳きながら、蚕は穏やかに言った。
「でも、君がこの場に居続ければどうだろうね。君を盾にすれば、さすがの蝶も彼女の誘いに応じざるを得ないのではないかな?」
「わたしを利用する気なの……?」
「君だって蝶を長生きさせてあげたいと思わないかい? ここにいれば、『彼女』が守ってくれる。女神様よりももっと確かな力を持った魔女に身を委ねるだけでいいんだ」
この人とは話が通じない。
どれだけ時間を稼いでも、どれだけ会話を重ねても、彼と心が通じ合うような日は来ないだろう。
「いや……」
わたしは首を横に振った。
「それでも、わたしは月がいい。蝶だって同じはずよ。こんな事、無意味だわ。だから、お願い、月の城に返して」
プライドも何もかも捨てて、わたしは懇願した。
ずっと縛られている手足は痺れていて既に感覚がない。このまま宙づりにされていれば、身体がどうかなってしまうだろう。
そんなのは嫌だった。
このまま朽ちてしまうなんて絶対に嫌だった。
「無意味だなんて」
蚕は微笑みを浮かべる。
「そんな事分かりきったことだよ。でも、僕はそれでいいんだ。彼女は蝶を欲しがっている。だから、彼女に蝶をあげる。心は手に入らなかったとしても、どう足掻いても蝶は彼女から逃げられない」
その微笑みがわたしの心を凍らせた。
これは危険な罠だ。ただ、蝶を捕えるためだけに、事態が動き出している。
「どうして?」
わたしは再び蚕に訊ねた。
「どうしてあの蜘蛛に味方するの?」
どうしてこの人はそこまでしてあの蜘蛛に味方をするのだろう。それだけ、あの蜘蛛の持つ魔力が強大であるのだろうか。
しかし、蚕の眼差しに狂いを感じはしなかった。自我を失っているわけではなく、彼は彼で彼としての意識の上で行動している。
何故だか、そんな確信が持てた。
「同じだよ」
蚕は答えた。
「君が蝶を庇おうとしている気持ちと同じものだよ」
その言葉の意味が、わたしにはよく分からなかった。