5.花の子
◇
ふと目を開けて、自分が眠っていた事に気付いた。
起きれば状況は変わっているかもしれないという期待は数秒も持たず、あたしはただ空虚な心持で前を見つめていた。
絡新婦は近くにいない。
頑丈な糸は眠ってしまう前と変わらずにあたしの身体を絡めていた。もがいてはいけない。意識すればするほど緊張は高まり、じっとしているだけでも疲労はたまっていくばかりだった。
けれど、そんなあたしの体力を回復させるかのような香りを、風は運んできた。
可能な限り視界を動かしてみれば、遥か下の地面より蚕があたしを見上げている。その手が掴んでいるモノを見て、あたしは惚けた。
ついモノと言ってしまったが、人物と言った方が良かったかもしれない。
――野生花の少女だ。
けれど、その人物は本当にモノのように手を掴まれていた。情け容赦なく、蚕に捕まってしまったようだ。きっと華もああやって連れ去られたのだろう。
「気分はどうだい、蝶」
蚕が話しかけてきた。
「お腹が空いているだろう? 君のために花を捕まえてきたよ。絡新婦様のご命令でね」
あたしはぼんやりと蚕に捕まっている野生花の少女を見つめた。
華とは対照的な金髪。明るい印象をまとうその少女は、震えながらその場にいた。胡蝶に魅了されてしまった花がよく見せる反応だ。
蚕もまた花を呼びこむ術に人一倍長けているのだ。
だからこそ、華も攫われてしまったのだろう。そして、目の前にいる花もまた、手を引っ張られているだけで逃げることが出来ない。
蜜を吸われたいようだ。
紅潮した頬を見ているうちに、あたしの喉を唾が流れていった。こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそ、なのだろうか。蜜への欲求は果てしなく、一度気付いてしまったら、もうどうしようもないほど渇いてしまう。
蚕はそんなあたしの内心に気付いているらしい。
わざとゆっくりした動作で野生花を引っ張り、あたしの釣られている場所まで近寄ると、のんびりと登らせていた。
ゆっくりと、のんびりと、野生花の少女はあたしの前へと辿り着く。
漂ってくる蜜の香りが更にあたしの食指を動かした。
「さあ、お嬢さん。その哀れな胡蝶に蜜を上げてやってよ」
蚕の言葉通り、野生花の少女は躊躇いつつ、動かせないあたしの身体に密着した。野生花にしては濃い蜜の香りがした。
「お姉さん、どうしてこんな目に遭っているの?」
密着しながらその野生花の少女は訊ねてきた。
たどたどしい子供の声だ。華よりも年下かもしれない。
「さあね。どうしてかしら」
曖昧に答えつつ、あたしは野生花の少女の温もりをじっと感じた。華を逃がし、月にも会えない今、ささやかでも癒しが欲しかった。
ふと少女に訊ねた。
「貴女、名前とかある?」
別に大した意味はない。ただ呼びかける名前があればいいと思っただけだ。野生花には殆どの場合、名前なんてない。
しかし、少女はすんなりと答えた。
「日精。日の精霊って書いて日精」
日精。それは本当に個人の名前なのだろうか。
種族名だったような気がする。野生花の一種だったか、人工花の一種だったかは分からない。月の城で読んだ本の何処かにあった気もする。
しかし、他ならぬ少女が名乗るのだから、あたしもその名前を使うことにした。
「そう、日精ね。あたしは蝶よ。覚えてくれても、覚えてくれなくてもいいわ。それよりも、日精、お願いがあるの。あたしはこれ以上動けないから、貴女の方からもっと近寄ってきてくれると有難いの」
あたしの言葉に日精はたどたどしく頷くと、素直にその唇をあたしの口に近づけてきた。
野生花らしく、どうすればいいのか分かるらしい。
あたしは目を閉じて、柔らかな日精の感触を味わった。
◇
日精の蜜はあまり覚えのない味だった。
この森に住んでいる野生花とも違うのだろうか。華にも似ているけれど、何処か違う。人工花の血を引いているのかもしれないし、もっと別の大地から何らかの理由でここに来てしまったのかもしれない。
どちらにせよ、彼女の未来もまた暗いもののようだ。
蚕の誘いを受けたのが全ての間違いだったのだろう。彼女の役目はあたしに蜜を与えることのようだ。日精自身もそれを理解しており、出来るだけ従順に振る舞ってその役目を全うしようという姿勢を見せていた。
蚕はそんな彼女を褒めていた。
けれど、絡新婦はどうも違うようだ。どんなに日精が素直であったとしても、彼女は常に何かよくない考えを含んだような意地の悪い目で日精を見つめていた。
どうしてだろうと考えるまでもなかった。
半日も経たないうちに、絡新婦は大人しい日精に手を出したのだ。それも、あたしのすぐ目の前でのことだった。
まるで残酷にも花を摘んでしまう人のように、絡新婦は日精を無理矢理何処かに連れて行こうとし始めた。
日精が悲鳴を上げたのを見て、あたしは思わず絡新婦に叫んだ。
「やめて。その子に乱暴しないで」
絡新婦がすぐにあたしへと視線を動かした。
「蜜を取り出すためさ」
「蜜ならちゃんと貰っているわ。別に取り出さなくたって――」
「花の蜜は取り出してしまった方が扱いやすいんだよ。その蜜を使えば別の胡蝶も誘き出せるからね」
その言葉を聞いて、あたしはふと絡新婦に出会った頃の事を思い出した。
彼女は毎日蜜をくれた。皿に盛った蜜をたっぷりと。
「……その子はどうなるの?」
あたしの問いに絡新婦は答えない。
「蜜を取り出すって、その子をどうするつもりなの?」
「どうするって、決まっているじゃないか」
絡新婦の冷たい声が耳にずんと響いた。
決まっている。聞くまでもない。蜜は花にとって体液のようなものだ。目にも見えないし、感じる事も出来ないけれど、生きた身体を乱暴に絞ってしまえば、或いは、潰してしまえば、目に見えた形で取り出すことが出来る。そうやって絞られた蜜を使って、薬や菓子が作られる。
残酷な人間がそういう実験をしたのだと月の城にあった本に書かれていたのを覚えている。でも、あたしだってその手法で採取された蜜で造られた飴を、月から与えられてきた。
勿論、その手法を使えば、花は死んでしまう。
あたしは声を張り上げた。
「待って! お願い!」
絡新婦を必死に呼び止め、あたしは懇願した。
良心とでもいうのだろうか。悲鳴を上げる日精を見て、このまま放っておくことが出来なかったのだ。
「その子の蜜が気に入ったの。でも、温もりがある蜜じゃないと嫌なの。その子の鼓動と唇の柔らかさを感じながら味わいたい。だから、その子は殺さないで。きっと代わりなんていないはずよ。見たこともない種族の子だもの」
「へえ。君は随分と大胆な子だね。隷属でもない君の頼みを私がそこまで汲んであげないといけないなんて事が果してあるのかなあ」
絡新婦が面白そうに呟くのを見て、あたしはさらに食い下がった。
「今は隷属じゃないけど、どうせそのうち隷属にするんでしょう? じゃあ、今聞いてくれたっていいじゃない」
「なりたくないって言っていたくせに調子がいいものだね。……でもまあいいや。それならこの子は君にあげる」
絡新婦はそう言うと、苛立ち気味に日精を手放した。バランスを崩した日精があたしにぶつかるのを見て、絡新婦は少しだけ笑みを漏らす。
「まあ、退屈しのぎにはなりそうだ」
そう言い残して絡新婦はするりと糸を降りていく。
何処へ向かうのだろう。同じように捕まっている胡蝶の元だろうか。それとも、日精の代わりになる花を探しに行くのだろうか。
どちらにしても、今のあたしには引き留める術もない。
絡新婦が離れていくだけで、少しだけほっとした気持ちになれた。
何も知らないで絡新婦の傍にいた時が懐かしい。怖いなんて感情もなく、優しい絡新婦をすっかり信用し、知らず知らずのうちに依存させられていたあの頃。
「お姉さん」
ふと考え込んでいたあたしを日精が覗き込んできた。
潤んだ目に、金髪。彼女の姿はひと目見ただけで目が覚めるものだ。深紅の目はどこか華にも似ているけれど、髪の色のせいか、もっと主張が強く見える。
「助けてくれて有難う」
日精はそう言って動けないあたしの身体に寄り添った。
あたしは静かに目を伏せ、首を横に振った。
「いいのよ」
それよりも、あたしは少しだけ期待していた。
記憶の中でひたすらあたしに助けを呼ぶ胡蝶。彼女はチャンスを待ち続けて殺されてしまった。そして、旧友の蚕は、命が惜しいあまりに早くから屈服してしまったらしい。
――では、あたしは……。
屈服するつもりもなければ、死ぬつもりもない。どうにか月の元に帰りたい。
今は、月に頼るしかない。彼女はきっと助けに来てくれるだろう。
絡新婦や蚕の言う通りならば、あたしのいるこの場所は、月だけでは辿りつけない。少年と華だけに頼るのも、あまりに心許無い。
けれど、もう一人向かわせればどうだろう。
「日精、あたしの話を聞いてくれる?」
そっと問いかけると、日精は大きな目であたしを見つめ、黙ったまま頷いた。
あたしはその頭をそっと撫で、彼女の耳元でそっと告げた。
「月の事は分かるかしら? この大地を治めている女神様よ」
「うん、分かるよ。蝶はその月様のお妾なんでしょう?」
「ええ、その通りよ。今、この事を月に知らせに行っている人達がいるの。日精と同じ花の男の子と女の子よ。でも、彼らはもしかしたらこの場所を見つけられないかもしれない」
「魔法がかかっているから?」
「そうよ。彼らが逃げた時よりも魔法が強くなっているみたいなの。でも、今ここにいるあなたなら、もしかしたら惑わされないかもしれないわ。日精、お願いがあるの。もしも月に会えたら、ここを知らせて欲しいの」
震える体を必死に抑えて、あたしは冷静さを取り繕った。
日精を一人で逃がすのは心細いけれど、そうしなければどうにもならない。幸いにも、彼女は縛られたりしていない。逃がすなら今しかない。
しかし、日精はあたしの言葉の意味を理解するや否や、首を横に振った。
「いや、駄目。蝶を置いていけない」
「行きなさい。そのまま安全な場所に逃げたっていいわ。もしも月に会えたら、簡単に知らせてくれればいい。だから、今のうちに逃げなさい」
「駄目だよ。だって、あたしが逃げたら、蝶はどうなるの?」
「大丈夫よ。ああ見えて、絡新婦は肉食者にしては器が大きいの。でも、蚕には気をつけなさい。あの胡蝶は花を消耗品としか思っていないから」
「……蝶」
「お願い、行って。今は貴女だけが頼みなの」
あたしは縋った。
このまま日精と共倒れするよりも、この方がずっといい。糸から抜け出せないあたしは、日精に全てを託すしかないのだ。
そんなあたしの目を見て、日精の表情が変わった、
「――わかった」
くぐもったような日精の声が聞こえ、あたしはようやく少しだけほっとすることが出来た。
◇
日精がいなくなってどれだけの時間が経っただろう。一日経ったのかどうかということも分からない。
蚕も、絡新婦も、日精が居なくなっている事に対して何も触れなかった。二人とも、まるで始めから日精なんていなかったかのように振る舞うのだ。
あたしを怯えさせる為かも知れない。
気持ちが折れれば絡新婦の甘い言葉の誘惑に頷いてしまいそうなくらい、あたしは不安に駆られていた。
絡新婦の魔法に包まれているというこの空間では、時間の感覚が狂ってしまっている。
今が何時で、どのくらいの時をこうして過ごしているのか、あたしにはさっぱり分からなかった。
糸に絡みつけられている身体は、殆ど痺れていてもはや感覚がない。
下手にもがかずとも、少しの動きの積み重ねだけで絡まりは複雑になっていき、このまま永遠に抜けだせなくなってしまうのではないかという恐怖までもが積もり始める。
このままでは駄目になる。
何とかしたい。けれど、どうすることもできない。もどかしい想いだけが募っていく。
「蝶」
短く声をかけられて、あたしは閉じかかっていた瞼を開いた。
最後に日精に蜜を貰ってから、満足に蜜を口にしていない。飢えと渇きが同時に身体の中を渦巻き、あたしの意識を仄暗い闇へと引き込もうとしていた。
目を開けると一瞬だけ身体が重くなった気がした。
けれど、その重みに気を取られる間もなく、絡新婦の強い眼差しが目の前に現れた。
「口を開けなさい」
あたしは戸惑った。
彼女の言葉通りにしないといけないとは思ったけれど、何をされるのかが怖くて身体が言う事を聞かなかった。
怯えを隠せないまま絡新婦を見つめていると、彼女は大きく息を吐いた。
「蜜を持ってきただけだよ。蚕にお願いしてね」
「……また、花を捕まえたの?」
「そう、珍しくもなんともない、この月の森に沢山いる雑種の花の子だよ」
絡新婦はそう言ってあたしの唇に指を当てた。
その途端、仄かに甘い蜜の味があたしの口に入りこんだ。絡新婦の指についていたものだ。そっと視線を動かしてみれば、彼女の片手には小瓶が握られていた。
中にあるのは、きっと蜜だ。
残酷な方法で取り出した蜜が、その中にたっぷりと入っている。
名前も姿も知らない花が、あたしの糧になるために絡新婦に潰された。目を逸らす事の出来ない事実が恐ろしかった。
「どう? 少しは美味しい?」
返答も期待せずに絡新婦は言う。
そして、小瓶の中身を口に含むと、そのまま舌であたしの唇を侵して中身を流しこんできた。少しも待つことなく、さっきよりも濃厚な甘みが広がっていく。
やっぱり蜜だ。
けれど、違うものも混ざっている。それは唾液。
女郎蜘蛛の体液は胡蝶にとって微細な毒であるらしい。命を奪うものではないけれど、正常な判断が鈍らされてしまうほどに恐ろしい。浸れば浸るほど自由は奪われ、滲みれば滲みるほど未来は閉ざされる。
そんな毒が蜜と一緒にあたしの体内に入って来るのが分かった。
虚しいほどに淡々と、身体の端々が痺れはじめているのが実感できた。
口が解放されても、あたしの身体で起こっている事は治まらない。
「やっぱり君はいい子だね、蝶」
絡新婦の恍惚とした声が耳元で響く。
「今まで捕まえてきたどの胡蝶よりも素敵な子」
毒が廻り始めているのかもしれない。
あたしには絡新婦の言葉をただ聞いている事しか出来なかった。
「君を殺すのは本当に勿体無い。出来るだけ待ってあげるつもりだけれど、早いところ決心してくれたら私も助かる」
絡新婦はそう言って、あたしの頬を優しく撫でだ。
毒のせいかもしれない。毒のせいだと思いたい。
その感触が、今だけは変に心地よく感じてしまったことに気付いて、あたしは内心焦りを強めていった。
――あたしは月の城の娘。
意識しなければこのまま忘れてしまいそうだ。
――身体に入る刺青は月のモノである証。
意識しなければこのまま堕ちてしまいそうだ。
それほどまでに、この場所は危険なものだった。
身体を絡める黄金の糸も、身体の奥で疼きだした毒の気配も、そして、あたしに密着して温もりを与えてくる絡新婦の肉体も、全てが危険な魔法のようだった。
そんなあたしの焦りを感づいたかのように、絡新婦は再びあたしの口に毒を流しこんだ。
今度は蜜の誤魔化しも全くないものだった。




