3.胡蝶
◇
蚕にはもう緊張が無いようだった。
小刀を手にして積極的に私を攻めてくる。
本当に殺されてでも私の足を止めたいのだろう。その間に絡新婦が蝶を籠絡すると踏んでいるとでも言うのだろうか。
だとすれば、私は蚕を殺してでも行かねばならない。
その覚悟が蚕にはあるというのだろうか。
「蚕、お前は殺されたいのか?」
「絡新婦様の為になら死んでも構いませんよ」
蚕は冷静にそう言って、私から距離を取った。
小刀を向けたまま、その独特な胡蝶の目で私を睨みつけている。
「私を殺してでも絡新婦に力を貸すと言うのか?」
私の問いに蚕はそっと首を横に振った。
「貴女を殺したりはしません。我々は食虫花とは違うのです。これは貴女の命を守るためでもあるのです。蝶の事は諦めてください」
「私の為だと……?」
この胡蝶が何を言っているのか私には理解出来なかった。
食虫花とは違う。だから何だと言うのだろう。例え本当に食虫花と仲が悪くとも、だからと言って私の味方であると判断出来るはずもない。
奴らは私から蝶を奪った。それだけでも私の敵であると言えるものだ。
しかし、蚕は小刀を構えたまま冷静に私の目を見つめた。
「貴女は無防備過ぎます。絡新婦様を始め、この森の殆どの魔女たちは恐れています。食虫花とその配下は今も何処かで機会を窺っているのです。蝶は貴女にとって足手まといとなるでしょう。人工花ならばともかく、胡蝶を永遠に閉じ込めて養う事など不可能。そうなれば、蝶の身柄は絡新婦様が引き取った方が合理的なのですよ、女神様」
蚕はそう言うと小刀をしまった。どうやら本当に奇襲をするわけでもないらしい。じっと私の動きを見つめ、集中力を高めている。
思いきれば突破出来るかもしれない。
それなのに、私は動揺していた。
蝶を手放すようにと言われて手放せるわけがない。
蝶には華が、華には蝶が必要なのだ。そして何よりも私にとっても蝶は必要だった。
彼女を保護したのは憐れみと責任からだった。傷だらけで倒れている姿を目撃してしまった責任感と、痛みをこらえつつ震えている彼女への憐れみに過ぎない。彼女の美しさに見惚れてしまったのも確かだしその他にも劣情のようなものはあったかもしれないが、それも多くはない。
だが、今は違う。
外見の美しさや責任、憐れみといった類の感情以外に、大きなものが私の心を占めている。彼女がいなくなってしまう事が怖かった。誰かにくれてやることなんて出来ない。
それなのに、どうして私は強気になれないのだろう。
日に日に痩せ細っていった蝶の姿が頭を過ぎる。食虫花に囚われた自分を責め続け、森にて花を捕まえに行くことすらしなくなってしまった彼女。
「絡新婦様は蝶を食べたいわけではありません。貴女が同意してくだされば、絡新婦様は蝶の一生の安全を保障してくださいます」
私の方が間違っているとでもいうのだろうか。
女神である事を忘れ、無防備な胡蝶を囲っている私の方がおかしいのだろうか。
確かに蝶の身柄を胡蝶の事をよく知っている魔女に託せば、私の元にいるよりもずっと安全かもしれない。私と食虫花のいざこざに巻き込まれる事もなく、他の肉食者が蝶を狙うような事もないだろう。
強大な魔女の隷属となれば、この恐ろしい森でも長く生き残れる。
それを知っているから、生き物達の一部は魔女の隷属となってしまう。持って生まれたプライドをかなぐり捨てられる者、自由を手放す覚悟の出来た者は、すぐにでも各々の命を魔女に捧げてしまう。
しかし、それがどういう事なのか、忘れてはならない。
「出来ない……」
私は首を横に振った。
目の前にいるこの男も、そうやって絡新婦の隷属に下ってしまったはずなのだ。
そうだ。私は彼に対して何を感じただろう。哀れみしかなかった。怯えを隠しながら私に歯向かえたのも、主である魔女が命令を下したからだ。
隷属となってしまえば、主の命令には背けない。それがどんなに恐ろしい命令でも、隷属はそれを成し遂げざるを得ないのだ。
そんな存在に蝶がなってしまうなんて認められるわけがない。
感情がまとまった時、私の口からはっきりと要望が飛びだした。
「蝶を返してくれ」
私の言葉に蚕は目を細めた。
笑っているように見えるが、内心は恐らく笑っていないのだろう。殺さず、通すなという魔女の命令を忠実に守り続けるのだろう。例え命を落としたとしても、彼は絡新婦を恨んだりしないはずだ。
それが魔女の隷属という存在。
「貴女のお気持ちは分かりました」
蚕は丁寧にそう言うと、急に動き出した。
襲いかかって来た訳ではない。私は呆気にとられて彼を目で追った。彼が進むのは先程、幼い花達が走り消えた方向。そちらへと数歩進んだ後、彼は私を振り返った。
「絡新婦様がお呼びです。女神様。続きは後ほど、主様とお話し下さい」
どういう事だろう。
冷静な蚕の表情が妙に恐ろしかった。相手は無力な胡蝶のはずだ。彼らを恐れるのは花だけで、蜘蛛の加護がなければその殆どが長生きできない。
蝶と同じはずなのだ。
私が恐れるべき相手ではない。それなのに、蚕を相手にしていると、変に心が惑わされているような気になった。絡新婦の魔力のせいなのだろうか。それとも、胡蝶の持ちあわせる特有の力なのだろうか。
戸惑っていると、蚕は再び口を開いた。
「別に何も企んではいませんよ」
やや笑みを浮かべ、意図的に感情の込められた声を零す。
「私は絡新婦様の命令に従っているだけです。どうかお越しを。今ならまだ蝶と話せるかもしれませんよ」
その瞳に引き寄せられるように、私はやっと一歩を踏み出せた。
◇
道中、蚕は何も喋らなかった。
黙々と主の元を目指し、私の知らない道を歩いて行く。だが、その道には香りが充満していた。私も知っている残り香。虫ではないはずの私にも分かるほどの華の蜜の香りが、先を進む蚕の背中と共に私を誘導していた。
――華。
私はそっと先に行った無垢な人工花の事を想った。
売られる為だけに生まれ、可愛らしさと癒しだけを望まれた命。そんな彼女を買った当初は弱々しく加護するべき少女に過ぎないと思い込んでいた。しかし、一年前、野生花の少年と共に私と蝶の元へと駆けつけたあの日以来、私の中で華に対する印象がすっかり変わっていた。
刺青を入れた華はまるで人間の少女のように日々を過ごし、森へと足を運ぶ。
私はそれを見守り続けていた。
だが、忘れてはならない。彼女は人間ではないのだ。花というものは想像以上に弱く、虫にからかわれただけでも命を脅かされかねない。忘れかけていたその事実を思い出すのは、いつだって華の醸し出す蜜の香りを嗅いだ時だ。
この香りは危険なのだ。
本当ならば森は勿論、庭にさえ出してはいけないのだろう。
華は無事だろうか。
無事に蝶と出会えているだろうか。
蚕の背について行く中、私は内心不安を抱いていた。彼らは蜘蛛に見つかっているだろう。私は命じてしまったのだ。絡新婦の邪魔をして欲しいと。とても無謀な命令だったと今になって思う。
どうか無事でいて欲しい。そんな思いだけが虚しく渦巻いていた。
そして、蚕の後を歩いて数十分もしないうちに、その場所は現れた。異質な雰囲気の漂う、美しくも陰鬱とした空間。光の届かないこの森で輝きを生みだし放っているのは、私には備わっていない魔力を存分に沁み込ませた無数の糸だった。
――蜘蛛の巣だ。
そう理解するや否や、視界に飛び込んできたのは、身を竦ませている少年と日精の二人の花達だった。
華がいない。
真っ先にその事に気付いた。私の見える範囲には目立つ容姿の少女がいなかった。その代わり、巣の上部に何かが見えた。目を凝らしてみるまでもない。蜘蛛の巣に捕まるのはいつだってか弱い虫と決まっている。
「月様……」
少年たちが私に気付いて声をかけてきた。
すっかり怯えきっている。無理もない。あんな危険な夜の森を花達だけで走らせたのだ。その上、魔女と名乗るような強大な虫の邪魔をするようにと命じたのだ。怖くなかったわけがない。
見れば、少年たちは私と共にいる蚕を警戒していた。
蚕もまた少年たちを近づけまいと目を光らせている。何か意図があっての事なのかもしれない。だが、その意図について思考する間もなく、私はそれに気を取られていた。
繊細に折られた蜘蛛の巣の上部。
あの場所に囚われている者の姿に引き寄せられるように、私は歩み出した。誰も私を止めようとはしない。まるで糸にでも引っ張られているように、私の身体は差し支えなく巣への入口へとたどり着く。
絡まりあった糸は階段状になっていて、その上に大きな足場がある。
そこで彼女は囚われていた。
無数の糸に絡められ、身動き一つ取る事も出来ないように繋がれた美しい娘。時を止めてしまったように目を閉じる胡蝶。
その姿が目に入った瞬間、私もまた時を忘れてしまった。
いつだっただろう。
人間達の中には胡蝶の美しさに取り憑かれ、彼らを剥製にしてしまう者がいると聞いたことがある。剥製になった胡蝶は人形のように永遠の美しさを留め、所有者の元で眠り続ける。彼らは胡蝶の都合など考慮しない。胡蝶が恐れようと、嫌がろうと、剥製にしてしまう事を辞めようとしないのだ。
そうまでして、彼らは胡蝶の美しさを手に入れたがる。
絡新婦は人間じゃないはずだ。
人間のような姿をしていても、その本性は蜘蛛に過ぎない。それでも、この異常性は人間と変わらないのかもしれない。
囚われている胡蝶――愛すべき蝶の身体に、真新しい傷は見当たらない。
ただ自由を奪い、眠らせて、己の巣に無理矢理打ちつけようとしている。
しかし、これは何だろう。
自由を奪われ、その心にも苦痛を負わされた哀れな蝶の姿は、何故だかとても美しく、助けに来たはずの私ですら見惚れてしまうほどだった。
その時、状況を忘れかけていた私の目の前で、蝶の瞼が開いた。
虚ろな眼がゆらりと私を捉える。その意識は一体何処にあるのだろう。けれど、夢現の狭間に囚われたまま、それでも蝶は口を開いた。
「月……」
今にも泣きだしそうな声に、私の動きを止めていた呪縛が解けた。
無事だった。
また会えた。
そんな思いが溢れ、密かに身体が震えた。
早く助けてやりたい。抱きしめてやりたい。そんな気持ちが次々に湧き起こり、動かざるを得なかった。
だが、蝶の元へと駆け上がろうとしたその時、先程までこの場に姿を現していなかった者の気配に気づき、私は歩みを止めた。
無視できない鋭い視線。
その視線の元を見やると、美しい人間の女のような容姿の者が私を見つめていた。
「ようこそ、私の場所へ」
小鳥の囀りのように明るい声が響く。
「お会いできて光栄です、女神様。私の名前は絡新婦。貴女の大地で生まれ、やがて死にゆく小さな虫けらの一人です」
そう言うと人間のようなその女は私に向かって目を細めた。
絡新婦。やはりこいつがそうなのだ。
人間のように見えても、その本性は蜘蛛。胡蝶を始めとした力のない虫たちを捕えて喰い殺す肉食者。今までも数え切れないほどの虫の命を消費してきたであろう魔女。
そんな彼女は決して「小さな虫けら」等には見えなかった。
確かな力に裏付けされた自信が感じられた。
絡新婦というこの女は穏やかな話し合いを求めてはいない。
彼女は手ぶらではないのだ。抱き寄せているのは、恐怖に震えて動けない華だった。少年と日精から引き離され、たった一人で絡新婦に捕まっていた。華の柔らかそうな首元に爪の伸びた指先が食い込んでいるのがすぐに分かった。
絡新婦は華を見せつけるようにして、私を見つめていた。
取引のつもりだろう。
私が意にそぐわない事を言えば、躊躇い無く華を傷つけるつもりだ。
「絡新婦」
私は彼女の名を強調して呼んだ。
「お前は私の敵なのか?」
「いいえ」
絡新婦は即答した。声は低められ、やや中性的な印象を受ける。
「違いますよ、女神様」
不敵な笑みを浮かべつつも、華の首筋に更に爪を喰い込ませている。それを見ると一歩も動けなくなってしまう。
「私は貴女の命を守りたいだけです。貴女の足を引っ張るこの子たちは本来不要。それでも、蝶を諦めると私に約束すれば、華だけは返してあげますよ」
「できない、と言ったらどうなるんだ?」
「分かっているくせに」
笑みを声に漏らしながら絡新婦は言った。
華の顔は青ざめている。全てを諦めたように私をただ見つめているばかりだ。その喉元を、絡新婦の爪先がなぞっていった。
わざと華に恐怖を植え付けている。それを見ているだけで身体が動きそうになった。だが、動けば華は容赦なく傷つけられるだろう。
私はじっと踏みとどまり、絡新婦に言った。
「私の命など守ってもらわなくていい。二人まとめて返してくれ」
「何度でもお答えします。華は返してあげてもいい。でも、蝶は駄目です」
「何故!」
「食虫花に狙われている貴女に胡蝶を飼う等不可能です」
鋭い言葉が私の胸を貫いた。
「貴女の元に居れば蝶はいつしか餓死してしまう。けれど、外に出せば、食虫花は再び貴女を誘き出すために蝶に危害を加えるでしょうね」
冷たい声で言われ、言葉に詰まってしまった。
反論する事が出来なかった。蝶が痩せ細っていくのは確かなのだ。食虫花に捕まった自分を責め続け、やがては蜜吸い自体を怖がるようになってしまった。
それは確かに私のせいなのかもしれない。
このまま私の元に居たとしても、蝶が心から安心出来る事はないだろう。私には蝶を完全に守護する事等出来ないだろう。しかし、だからと言って、胡蝶を食べるかもしれない蜘蛛に託すなんてもっと出来ない。
「御心配なく」
私の気持ちを汲んだように絡新婦は口を開いた。
「蝶の事は一生お守りしますよ。この安全な空間にて、飢えも怯えもない生活をさせてあげられます。決して、あの子を食べてしまわないと貴女に誓いますよ」
「信用出来ると思っているのか? お前は蜘蛛だ。これまで胡蝶を食べてきたことがないと言い張れるのか?」
私の問いに絡新婦は再び笑みを漏らした。
「勿論、そんな事は言えません。美しい胡蝶を仕方なく喰い殺した事は飽きるほどありました。けれど、貴女が約束してくれれば、それだけで守る理由が生まれます。貴女との約束を破ったりはしません」
絡新婦に見つめられている内に、不安が生まれてきた。
このまま問答を続けたところで、絡新婦に有利である事に変わりは無い。蚕も控えて少年や日精を見張っている中では何も出来ない。
だが、そんな状況だけのせいではない。
絡新婦の眼差しには魔術が込められていた。女神であると生まれた時から言われ続けた私でさえも動揺してしまうほどに力強い威圧感。私を崇め、持ちあげているように見せかけて、端から負けるとは思っていないその表情に、私は惑わされていた。
決断を急かされている。判断を誤る事を狙っているのだろうか。
私は焦る気持ちを抑えるつもりで、そっと、意識的に、息を吐いた。
華が私を見ている。
不安げだが、気がかりなのは自分の身の上ではないのかもしれない。
この一年、華はいつだって蝶を心配してきた。蝶が痩せ細る姿に敏感で、己が無理をしてでも蜜を与えようとしていた。それが蝶を悲しませる事になると分かっているはずなのに、そうせざるを得ないほど心配が勝っていたらしい。
華は覚悟を決めているようにも見えた。
彼女は分かっていないらしい。私が蝶を見捨てられないのと同じくらい、華を見捨てることも不可能であるなんて当り前のことを。
鋭過ぎる絡新婦の視線から目を逸らし、私は巣に囚われた蝶の姿を見上げた。目は覚ましていても、意識はまだ混濁しているようだ。何か呑まされているのかもしれない。そうでなくとも、糸に囚われ続けているせいで体力も限界なのかもしれない。
私はゆっくりと蝶から視線を離し、再び絡新婦を見やった。
「頼みがある」
心を出来るだけ落ち着けて、冷静に彼女へと願った。
「蝶と話をさせて欲しい」
少しだけ絡新婦の表情が変わった気がした。