2.奔走
◇
――月様、お待ちください!
女中頭の甲高い声に背を向けて、私は華と少年に連れられて夜の森へと駆けこんだ。
か弱い花二人と、慣れない左手で剣を握りしめる私。客観的に考えれば滑稽なほど貧弱な集団だ。だが、それでも行かなければならない。ただ蝶を連れて城を帰るだけの話だ。
少年が先を進み、私と華がそれを追う。
次第に華の歩みは遅くなりはじめ、私は華に右手を差し伸べた。
「掴まって」
「大丈夫。平気」
案の定、断られた。
私は透かさず華に言った。
「私が平気じゃないんだ。すまないが、手を握っていて欲しい」
すると遠慮気味に華は私の手を握った。
案外、嘘でもない話だ。蝶を捕まえた蜘蛛の魔女がもしも食虫花のような厄介な者だとすれば、相当な覚悟を決めなくてはならないだろう。歩みを深める毎にその緊張は強まり、私の身体を硬直させてくるのが実感できたのだ。
そんな中で、華の温もりは癒しとなる。
少年の後を追いながら、私はその癒しを実感していた。
「絡新婦は糸を操るの」
華が私に言った。
「糸に繋がれたら身動きが全然取れなかった。蝶もきっと今頃、糸に捕まっているのかも」
「蜘蛛はそういう生き物だからね」
華にそう返しつつ、私はふとその光景を思い浮かべた。
蝶はどうしているだろう。相手は胡蝶を喰い殺しかねない蜘蛛だ。恐ろしくないわけがない。恐怖に怯えているとすれば、早く助けなくては。
「蚕っていう胡蝶も一緒だったの。胡蝶のくせに絡新婦に味方をして、蝶を捕まえる手伝いをしてしまったの。わたしを捕まえたのも彼なの」
胡蝶。
なるほど、だから蝶は私に告げる間も惜しんで森へと飛び込んでいってしまったのだろうか。同じ胡蝶が相手ならば大丈夫だと信じて。
「そういえば、胡蝶を奴隷にするって言っていたな。その女、蝶も奴隷にする気か」
「そのつもりのようだった。蝶は多分、拒み続けるわ。でも、魔女の誘いを拒み続けるって事はつまり――……」
華がそこまで言って口籠った。
大いにあり得ることだ。拒み続けた結果、蝶がどうなってしまうかなんて考えたくなくても分かってしまう。
早く見つけなければ、高確率でそんな未来が訪れてしまう。
「……急がないと」
早く助け出さないと。
◇
城を抜けだしてやや経った。
焦っても仕方ないと思っていても、やはり落ち着かない。
ようやく辿り着いたのは、少年と華が胡蝶に出会ってしまった場所。
それは、花達にとっての遊び場でもあるらしい。こういった場所は人間の著する本になんか載っていない。人間達の知らないようなその場所で、少年が森に住まう精霊たちを捜している中、その声は突然降りかかってきた。
「これは、これは、女神様」
久しぶりに聞く声に私は思わず視線を奪われた。
聞き慣れているわけではない。だが、以前にも彼の声は聞いた。そう、あれは、一年前、食虫花に囚われた蝶を迎えに行った時の事だ。
視線の先にいるのは蝙蝠。
中年の男の蝙蝠。奴が何者で、誰に味方をしているのか、私はもう分かっている。彼は敵だ。月の城にとっても憎むべき相手だ。以前、私の命を守った人工花を……母の愛した人工花を無残に殺した蝙蝠とは彼の事に違いない。
警戒と嫌悪を顕わにする私を見て、蝙蝠はほくそ笑んだ。
「こんな時間にふらふら歩いていては危ないですよ?」
「食虫花の手駒だな」
私の言葉に蝙蝠は笑みを深めた。
この蝙蝠は以前、我が城の人工花を喰い殺した。華にそっくりな人工花の女性だ。その時、幼かった私の記憶にはもう殆ど残っておらず、肖像画でしか分からない。だが、彼女の末路はどうしても、華の身に不安を抱いてしまうものだった。
「そんなに怖い顔をなさらないでくださいな。何も私は貴女とやり合う気は全くないのですよ。主様と違って、私は無力で哀れな蝙蝠に過ぎませんからねえ」
妙に余裕の含まれる口調で蝙蝠は言う。
剣を構え、私はその読みとりにくい表情を観察した。
「お前達も関わっているのか?」
敵意を込めて私は彼に問う。
華がやや不安そうに私を見つめているのを感じたけれど、それに構っている暇は全く無かった。
食虫花がいるのか否か。
それだけで大きく状況が変わってしまう。
「違います」
しかし、蝙蝠はきっぱりと否定した。
「今の主様にそんな御力は御座いません。他ならぬ貴女がその剣で残酷にも貫いてしまわれましたからね」
「でも生きているんだな? そうだろう?」
手ごたえがあるようで無かった感覚は覚えている。
亡骸が確認出来ないのならば、魔女は死んでいないものと思えという言葉は、私に聖剣の使い方を教えてくれた師範の言葉だ。
「それは勿論。主様はあのような一撃で命を落とすほど柔な御方では御座いませんよ」
蝙蝠はあっさりと答えた。
「ですが、これだけは正直に告げましょう。貴女の大切なものを奪ったのは、私でも主様でも御座いません」
そう言って蝙蝠は声を押し殺すように笑って見せた。
信じ込んではいけない。だが、疑い過ぎるのも良くない事だ。
少なくとも蝙蝠には、ここで襲いかかってこようと言う気は無いらしい。食虫花が動けないと言う事は本当なのだろう。
「寧ろ、その逆です。主様の命によって、貴女のために大切なあの胡蝶を取り返す手助けをしてあげましょう」
「手助け……?」
思わず私は眉をひそめた。
何か企てているのか、それとも全く別の目的があっての事なのか。
「どうも信用ならないな」
私の言葉にも蝙蝠は表情を変えずにあっさりと流す。
「なあに、すぐに分かりますよ。もうすぐ此処に大きな手掛かりが私の導きで現れるはず。彼女こそが貴女の愛する胡蝶への道標となるはず」
道標。
そう問い返そうとした時、真っ先に少年が視線を逸らした。
物音がしているようだ。野生花である彼は一番気が聡い。彼の見つめている視線の先より、何かがこちらに近づいて来ているらしい。
あれが蝙蝠の言っていた道標だろうか。
何かあったらすぐに華を引き寄せられるように、私は手を握る力を強めた。
華からも強く握り返してくる反応がある。
緊張が張り詰められ、蝙蝠ですら動かない中、とうとうその者は現れた。
その姿を見て、私は更に困惑した。
野生花の少女だ。
いや、本当に野生花なのだろうか。
華や少年とは全く違う種類。本で見たことがある。その名は恐らく日精。太陽の落とし子とも呼ばれる我が城にはあまり似合わない類の眩い花。
輝かしすぎるほどの金髪に真っ赤な目。
彼女はすぐに私達に気付き、他ならぬ私を見つめ動揺を顕わにした。
「日精。貴女の探し求めていたのはこの方ですよ」
蝙蝠が冷静に告げる。
日精。やはりそうだ。月の森にいるにしてはやや珍しい花。町の花売りの一派も彼らの血統を保護している者がいると聞くほどだ。
日精と呼ばれた少女は更に動揺を見せた。彼女が見ているのは私のみ。少年も、華も、彼女の視界には入っていない。
日精は私を見つめたまますぐに頭を下げた。
「初めまして、女神様」
彼女の声は少年や華よりも幼いものに聞こえた。
「蝶に逃がされて、貴女を探していました」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で思考が止まってしまうほどの衝撃が生まれた。
頃合いを見計らったかのように蝙蝠が立ち去っていく音がしたが、私は日精から目を離す事が出来なかった。
蝶に逃がされて。
その一言が、私に力をくれるようだった。
「女神様、どうか、あたしについて来てください。早く蝶を助けてあげて」
「勿論だ。案内してくれ」
私の言葉に日精が安心したように息を吐いた。
「あたしも絡新婦に捕まったのです」
道中、日精は私達に向かって話し続けた。
眩い太陽のような金髪は暗い森の中でも目立ち、仄かな安心感を与えてくれるかのようだ。華とも少年とも違う雰囲気の癒しが、今の私の荒んだ心には有難いものだった。
「正確には絡新婦の手下の胡蝶に」
「蚕ね」
華の言葉に日精は頷いた。
「絡新婦の命令で、蝶の命を保つために捕まってしまったの。もう少しで蜜の為に命を奪われるところだったけれど、庇ってくれたのが蝶だった」
日精は遠くを見つめながら呟く。
「逃がしてくれたのも彼女なの」
胡蝶の中に花の命を気遣う者が多いわけではない。それは己の命を保つために仕方のない事だ。花を気遣わない胡蝶が悪いのではないと私は知っている。
だが、それでも蝶は花を守ろうと必死だった。花の命を奪ってしまった時の彼女の怯えを私は知っている。彼女が深手を負えば、その傷を治すためにそれだけ花の命が散ってしまうのだ。その事に何も感じていないはずもなく、蝶は密かに落ち込んでいるようだった。
彼女は胡蝶としては生きづらいのかもしれない。
それでも、その彼女の優しさがこんな所で役に立った。
「逃げてからは蝙蝠の案内で進んだの。あのオジサンが何者かなんて知らないけれど、確かに女神様たちの元に運んでくれたわ」
「そうか……」
どういうつもりなのかは分からない。
あの蝙蝠が食虫花の手先であるのは確かだし、私の敵であるのは確かだ。だが、そうであっても、絡新婦に蝶を取られたくない理由でもあるのだろうか。ともあれ、その案内のお陰で私達は確かな手掛かりを得ることが出来た。
「蝶は無事よ」
日精は言う。
「ただ糸に捕まっているせいでちっとも動けないの。恐ろしい蜘蛛の魔女に、いつ、何をされるか分からない状況にいたの」
絡新婦。蜘蛛の魔女。
その姿を見たわけではないが、静かな怒りが私の中にて渦巻いていた。
蝶は怯えていることだろう。そうでなくても、ここのところずっと怯えたまま過ごしていたのだ。彼女の心身には古傷がたくさんある。食虫花に付けられたその傷を更に抉るような真似を許してはならない。
と、その時、日精がぴたりと動きを止めた。
ほぼ同時に向かう先より何かが近づいて来る気配を感じた。私は華の手を引っ張ったまま、日精へと近寄った。少年もすぐ傍にいる。
野生花の二人が怯え始めた。
間違いなくこれは信号だ。近づいて来ているのは、花を脅かす者。野生花としての本能が彼らの神経を逆撫でしている。
聖剣を構えた時、その姿は見えてきた。
背後で華が息を飲んだ。
「蚕……」
その名が呟かれ、現れた青年の表情が少しだけ歪む。
蚕。では奴が絡新婦の隷属なのだろう。
その歩みは止まらず、睨むような視線で日精を真っ直ぐ見つめている。
聖剣をちらつかせ、私は威嚇した。
「止まれ」
蚕の動きがぴたりと止まった。
視線が日精から私へと移る。
笑みは浮かべているが、緊張しているらしい。それもそのはず、奴は一介の胡蝶に過ぎない。蝶と何も変わらない美しいだけの虫だ。彼の持つ魔性の類は花にしか通用しない。
「初めまして女神様。僕の名は蚕。絡新婦様の命によりご挨拶に伺いました」
蚕は淡々と言い、頭を下げる。
「ようこそ、我が主様の世界へ。ここは他の場所とは違う幻想的な世界です」
胡蝶らしい優雅な雰囲気だ。
だが、何処か禍々しい。少なくとも、そこは蝶と違う。蝶だけではなく、ごく稀に我が城の庭に現れる見知らぬ胡蝶とも違う。
絡新婦の隷属になってしまった所為なのか否かは、私には分からない。
「まさか我らが月の大地の命そのものである貴女様にお会い出来るとは思いもしませんでした……が、お引き取り願います」
蚕の声色が突如変わった。
「この先は我が主様の私有地。いかに女神様といえども、勝手に踏み荒らすことは許しません」
その強い拒絶の言葉に、緊張が生じた。
「私に逆らうつもりか。この先に蝶がいることは分かっている。彼女はすでに月の城の印を受けている。返してもらおうか」
強気で胡蝶を圧倒しようとしたが、彼は引き下がろうとしない。
そう、彼はただの胡蝶じゃない。その背後には絡新婦という魔女が存在している。彼よりもずっと強く、巧妙な魔術を秘める者がいる。
「そのような刺青が通用するのは、人間相手の時だけですよ」
蚕の笑みが私の神経を逆撫でする。
「蝶と主様の間に縁が結ばれてしまえば、いかに貴女でも踏み込む事は敵いません。魔術を前にすれば刺青など無意味なもの。わざわざ遠くからいらっしゃったところ申し訳ありませんが、この先は一歩も通せませんよ」
引いてはいけない。動揺してもいけない。
蝶を救うのは、他ならぬ私の願いだ。それを阻止する者がいるならば、私は容赦なく斬り捨てられるはずだ。
「それなら強引に通るだけだ、蚕とやら。黙って通してくれないのであれば、この剣でその美しい肌に傷をつけなくてはならないのだが……」
私の言葉に蚕の目付きが変わる。
言葉の代わりに冷たい視線が返されてきた。それだけで彼の意思は分かった。
私は華から手を離した。
左手で剣を操る練習はこれまでもしてきた。実際に強敵と戦った事なんてないけれど、胡蝶相手ならばそう苦労はしないはずだ。
「月……待って……」
すぐに華の不安げな声が聞こえたが、私は振り返らずに答えた。
「華、皆の傍にいなさい」
その一言で華は大人しく下がった。
花達が距離を取るのを感じてから、私は蚕へと近寄った。彼もまた私へと近寄る。大した武器も持っていない。持っているとすれば、絡新婦の加護くらいのものだろう。それでも、彼は躊躇う事もなく私の行く手を阻もうとする。
これが絡新婦に捕まってしまった胡蝶の成れの果てだろうか。
今の彼には冷静な判断が出来ない。全ては絡新婦の為。その為に、自分が切り捨てられても構わないと本気で思っている顔だ。
それに気付いた瞬間、私の中である種の躊躇いが生じた。
「頼むから退いてくれ。無駄な殺生はしたくないんだ」
「戯れ事を」
蚕の短い返答は、ある意味想像していたものに違いなかった。
恐らく、動けなくなるほどまでに斬らねば、この胡蝶は本当に私を通さないように動き続けるだろう。もしかしたら、命を奪うまで、彼は私を阻む壁となり続けるかもしれない。
――それが、魔女の奴隷。
戦うしかない。
蝶を本気で助けたいのならば、敵に憐れみをかけてはならない。こうしている間にも、蝶は蜘蛛の糸に絡められている。絡新婦に何をされているか分かったものではない。幾ら胡蝶を生かすと言っても、所詮、蜘蛛だ。いつ気が変わって蝶を喰い殺すか分からない。限度が過ぎて殺してしまう事も考えられる。
だからこそ、早く助けなければ。
慣れない左手で聖剣を握りしめ、私は蚕へと飛びかかった。
聖剣の刃先で蚕の命を狩り取ろうとしたが、蚕は冷静にそれを避ける。思っていたよりも彼は身軽で、思っていたよりも自分の腕は鈍かった。
ただの胡蝶にしては身軽すぎる。
いや、それとも、自分の方が鈍すぎるのだろうか。斬ろうとしても妙な躊躇いが私の行動を阻んでいた。彼を斬り殺す事になっても、本当に構わないのだろうかという迷いを無視できない。
その所為だろうか。
斬っても、斬っても、私の聖剣が蚕を捉える事は無かった。それでも、蚕がずっと余裕でいるわけではない。避ければ避けるほど、彼にも疲れが見えてきた。
私の攻撃も大振りになり、彼の動きも大きく無駄が生まれる。
追い払うだけでもいい。私は段々とそう思ってきた。これなら、隙を見て先へ進む事も出来るかもしれない。問題は花達だ。彼らをどう誘導するか。
しかし、そんな私の疑問を打ち消す言葉が響いた。
「今だ」
少年の声と共に、花達が一斉に駆けだした。
その動きに私も蚕も視線を取られた。あっという間に彼らは私達を越え、蚕の阻んでいた道へと辿り着いた。
「月様、こっちです!」
少年が透かさず叫ぶ。
振り返った華と目があった。その姿を見て、ようやく私の中で止まっていた時が動き出した。花達が思い切った行動に出た。
後は私が行くだけだ。
しかし動いたのは私だけではなかった。蚕に迫られ、私は慌てて身を引いた。いつの間にか、小刀のような物を持っている。
絡新婦の為ならば、私を傷つけても構わないらしい。
「いけませんね、女神様。お話はまだ終わっていませんよ」
今度は避けるだけではないらしい。
私さえ通さなければいいとでも思っているのだろうか。いや、その通りかもしれない。幾らなんでも花達だけで蝶を救えるとは思えない。
それでも、今は時間が惜しかった。
「先に行ってくれ」
私は花達に向かって言った。
「絡新婦の邪魔をするんだ。私もすぐに追いかける」
華の残す香りを辿れば恐らく私にも行けるだろう。
それか蚕を脅せばいい。
どちらにせよ、今はか弱い花達の撹乱に期待するしかなかった。私の言葉にすぐさま日精と少年は従った。だが、華だけは動けないまま私を見ていた。不安で仕方ないといった様子。動くことが出来ていない。
「早く行け。彼らとはぐれては駄目だ」
声を強めて命じると、華は戸惑いつつもそれに従った。
そして、私と蚕だけが残された。




