表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
濡れ翅  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
11/15

1.失踪


 窓の外を見ながら、季節の移り変わりを改めて実感した。

 ここ一年という月日はあまりにも短く感じたけれども、振り返ってみれば驚くほど濃い記憶が詰まっている事に気付かされる。

 蝶と出会い、華を金で買った日からそう経っていないようにも思えるけれど、彼女達との記憶は既に膨大なほどに膨れ上がっていて、私の中で、とてつもなく大きなものとして存在している。

 恐ろしい魔女の手から蝶共々逃れて一年。

 あれから蝶は城を出なくなった。常に壁に囲まれる事を望み、庭にすら出て行かない。胡蝶としては必要不可欠であるはずの蜜吸い自体を厭う事もあり、華の方が蝶を気遣って蜜を吸わせに来るくらいだ。

 森に行かなくなったのは安全な事なのかもしれない。


 私の名を持つあの城門の外の森は、名ばかりの女神である私にはとても制御しきれないほどの混沌が渦巻いている。今、こうして私がぼんやりと外を眺めている間にも、何処かで誰かが誰かに殺され、食されているような場所だ。

 一年前に蝶を失いかけて、私はその恐ろしさを知った。もしかしたら私は後数年経てば女神として命を落とすかもしれない。でも、せめてそれまでは、いや、それ以降も、蝶には生きていて欲しかった。

 それは華も同じだ。


 我が城の一角に今も飾られている肖像画の人工花にそっくりな華。

 肖像画の人工花はかつて私の命を救った母の忘れ形見だった。母の愛した花の最期はあまりに無残で、当時幼かった私はともかく、現場を見てしまった女中頭や執事、古くよりこの城に居座る使用人たちは、今でも忘れることが出来ないと言った。

 その最期を私も口伝で聞いた。

 犯人である蝙蝠を遣わした張本人――食虫花の口から。

 食虫花はまた同じ事を企てるかもしれない。生きていればきっと蝶だけではなく、蝙蝠を差し向けて華も襲うはずだ。

 その日が恐ろしくて仕方ない。


 しかし華は今日も外に出ている。どんなに恐ろしくても私はそれを止めることが出来ない。この心理は蝶の時と同じものだろう。華を閉じ込めてしまうことは、想像するだけでも気分が優れない事に思えたのだ。

 女中頭や執事からは遠まわしに華を温室に閉じ込めるように言われている。彼らとしては、今の蝶の状況は望ましいことなのかもしれない。華が野生花の少年と仲睦まじくしている事も不満らしい。花売りの一家が長年守ってきた血統を穢すつもりかと直接注意を受けた事もあった。

 それがどんなに罪深いかどうかはともかく、それでも私は華を閉じ込めておく気にはなれなかった。外に出ることが許されていない私や、外に出られなくなってしまった蝶の代わりに、とでも言うのだろうか。

 心配せずとも、華には守護者が付いている。

 一年前に蝶の危機を伝え、華を城から連れ出して、結果的に私と蝶を助ける事となった勇敢な少年だ。蝶は独りで森を彷徨っていたが、華は違う。仲間が一緒ならば、きっと大丈夫だろう。

 そう思っていたのだが――。


「だから言ったのです。人工花の管理が甘過ぎると」


 顔を赤らめて口うるさく言うのは執事だ。

 もうそろそろ年を考えて丸くなって貰いたいところだが、生憎今年もそのつもりはないらしい。彼は今日も憤慨をあからさまにしながら私を睨みつけている。だが、そんな彼の様子に呆れているような心の余裕は今の私にも無かった。

 華が帰って来ない。

 いつも帰って来るはずの時間をとっくに過ぎているのだが、森から戻って来る気配すらしないのだ。その報告を聞いた瞬間、血の気がすっと引いてしまった。華を連れだしたはずの少年の姿すら誰も見ていないという。


「そもそも人工花と野生花を……それも、幼子とは言え男女を共に遊ばせるという事自体がおかしいのです。月様は華お嬢様を何だとお思いですか!」


 溜め息が出そうで出なかった。

 小言なら言われ慣れている。それに、今の状況ならば何を言われても仕方ないかもしれない。華が外に出る事を許可していたのは他ならぬ私であるのだから。

 華が外で危険な目に遭った時、真っ先に駆けつけるべきなのは私に違いない。けれど、この城の者たちはそれを許さない。諦めるか城の者に任せるようにと言って聞かない。私が子を産む前に死ぬ事をこの大地の者達は一番恐れている。月という名の者がいなくなれば、この大地は枯れてしまうと言われているからだ。そうならないために、人間達は私をこの城に閉じ込める。

 女神なんて慰めの称号に過ぎない。

 この曖昧な立場のせいで、私は華を探しにもいけない。


 私は執事から目を逸らした。


「この事を蝶には言ったのか?」


 視界の端で執事の老い始めた顔が私に一瞥をくれたのが分かった。


「女中頭がただ今捜しております」

「捜している?」


 私は思わず執事の顔を再度見た。

 相変わらず顔が紅潮している。だが、そんな事はどうでもよかった。

 捜しているという言葉がどうも引っかかった。私の傍にいない時、蝶はいつだって私の寝室に閉じこもっている。本来ならば捜す必要なんて全くないはずだ。


「寝室にいないのか?」


 私の問いに執事がやや冷静さを取り戻した。


「ええ、そのようです。だから私もさっきまでこちらにいるとばかり――」


 蝶がいない。

 ここ最近ずっと私の傍か寝室にしかいなかった蝶の姿が見えない。そんな事があるのだろうか。あるとしても、どうしてこのタイミングで起こるのだろうか。

 嫌な予感が渦巻き始めて、何だか寒気がしてきた。


「……念のため、森も捜してくれ」

「ですが月様、蝶お嬢様は……」


 言いかけた執事が口を閉ざした。

 嫌な予感が彼にも伝わったのだろう。いつまで経っても城にいるはずという固定概念で捜しているのはまずい。安全であるはずのこの城内にて、かつて私の母の愛した人工花は殺されてしまったのだ。その手の魔物が、閉じこもっている蝶を誘き出すようなことがあっても不思議ではない。

 あまり考えたくは無いが、状況はかなり悪いのかもしれない。

 惑いつつも執事は姿勢を正し直し、ゆっくりと頭を下げた。


「かしこまりました。華お嬢様と蝶お嬢様を城の者達に捜させて参ります」

「頼んだ」


 私は短く頷いて、ちらりと部屋の片隅にかけられた聖剣に目をやった。部屋の壁できらりと光り、じっと出番を待っている忠実な武器。あれをいつまでも見つめていれば、また執事に小言を食らう羽目になるだろう。

 後生だから一年前のような真似はしないでくれと。

 幸いにも執事は気付かなかったらしい。


「失礼を」


 そう言って彼は下がっていった。



 蝶と華の捜索が続けられている。

 私は部屋に閉じこもったまま、その報告を聞いていた。別に何も言わずとも、引っ切り無しに城の誰かが私の部屋を訪れるから出られなかったのだ。きっと、私がここを抜けだす事を恐れて執事だか女中頭だかが命じているのだろう。

 そう思うに留まって、私は森を見つめた。

 華が帰って来る気配がない。蝶が近くにいる気配もない。

 二人が居ない事は繋がっているのだろうか。報告がある度に期待しては落胆し続けて、すでに一、二時間は経っている。時間が経てば経つほど、夜闇が深まれば深まるほど、恐ろしさは増大していった。

 夜の森は恐ろしい。

 胡蝶や花では到底敵わないような生き物が活動し始める。胡蝶の命を脅かすような生き物さえも、油断すれば誰かの糧となってしまいかねない時間なのだ。時間が経てば経つほど、森の危険度は増すばかりだ。


「何処に行ったんだ、二人とも……」


 嫌な予感が浮かんでは消えていく。

 もしかしたら待つだけ無駄なのかもしれないという絶望的な考えが少しずつ大きくなっていくのを感じて、私は必死に気を保ちなおした。

 大丈夫なはずだ。きっと。いや、絶対に。


「月様、もう日が落ち過ぎてしまいました」


 背後から女中頭の声が聞こえてきた。

 憔悴した声からして、彼女もまた何処か捜して来てくれたのだろう。

 振り返れば、女中頭のいつもの澄ました顔に陰りがある事に気付かされた。

 私の母を今でも崇拝し、時折、母の命を奪って生まれてきた私を憎んでいるのではないかと思ってしまうような態度を取る彼女だけれども、それでも、こういう時はある程度私の望みを聞いてくれるのは確かなのだ。

 そんな女中頭が暗い顔をしている。

 彼女だって、蝶や華が嫌いなわけではない。彼女なりに二人の事を好んでいるらしい事は私にも伝わってくる。けれど、彼女は私情にあまり惑わされない。個人的に二人の事を好いていたとしても、月の城に仕え、月の女神の命の連鎖を守るという使命は絶対に忘れない。私の命を守る為ならば、辛い諫言をしてくるのが彼女と執事なのだ。


 私は黙ったまま女中頭の言葉を待った。


「このままでは城の者達の身に危険が及びます。お辛い事では御座いますが……」


 言葉を濁しつつ私を窺う。

 珍しく私の心を気遣ってくれているようだ。


「そのようだな」


 私は大人しく頷いた。


「今日はもう休んでくれ。万が一、蝶や華が帰ってくることがあるかもしれないから、扉は施錠しないで欲しい」

「かしこまりました。見張りを立てるよう伝えましょう」

「頼む」


 気だるさが身体を覆った。

 まさか二人同時にいなくなってしまうとは思わなかった。いつもなら蝶と共に眠りに就いていたのに、今日は独りだ。蝶も華もいないこの城で、果して私は寝ることが出来るだろうか。不安のせいで一睡も出来ないような気がする。

 と、そんな思考に耽っていた時だった。

 突然扉が開かれ、思いがけない声が響き渡った。


「月!」


 扉の向こうに現れた少女の姿が真っ先に目に入り、私は思わず茫然としてしまった。

 白い髪に白い肌。深紅の目は頭に思い描いていたよりも更に美しく、その顔立ちもまた息を飲むほど整っている。


「華……」


 ややあって、私はようやくその名前を呼ぶことが出来た。

 やっと帰って来たのだ。やっと。

 ふと見れば、背後には少年もいる。二人して一体何処まで行っていたというのだろうか。何か危ない目にでも遭っていたのかもしれない。いや、確実にそうだろう。華も少年も、まだ興奮が抑え切れていない様子だった。


「大変なの――」


 華がそう言いかけた時、少年がそっと女中頭に視線を移した。それに釣られるように、華もまた女中頭を見やる。

 見れば、女中頭が威圧するような視線を二人の花の子供達に送っていた。

 女中頭も最初は安堵した事だろう。だがそれは最初の事だけ。華達が何か私に訴えようとしている事を感じて、すぐにその目を光らせたらしい。

 華も少年も動揺し始めていた。

 一刻も早く何かを伝えたいらしいのだが、女中頭の目が気になって仕方ないらしい。


「すまないが、席を外してくれるか?」


 思い切って私は女中頭に告げた。

 すぐに覚悟していた通りの物言いたげな強い視線がこちらに向かってきた。だが、華と少年の手前、彼女も少しは冷静になるものだ。多分、後々また小言を浴びせられることだろうが、そんな事も今は関係がない。

 女中頭は大人しく扉へと向かい、出ていく直前に私を振り返った。

 彼女が何を言いたいかは分かっているつもりだ。それを守るかどうかはともかくとして。

 私が黙って頷くのを見て、彼女はあっさりと出て行った。

 女中頭の足音が遠ざかると、すぐさま華が駆け寄ってきた。しっかりとそれを抱きとめてやると、華の震えが伝わってきた。

 やはり怯えている。


「どうした、華」


 声を駆けると華の目より涙が零れて行った。

 少年が静かにそれを見守っている。震えながら華が私を見上げてきた。


「大変なの、蝶が」


 その名を出された瞬間、血の気が引いたのが自分でも分かった。


「わたしのせいで、蝶が……」

「蝶に何かあったのか……」


 不安を隠せないまま私は華に訊ねた。

 華はまだ怯えから完全に立ち直っていない。震えと涙が彼女の思考を淀ませているのが見ているだけで理解出来た。


「落ち着いて何があったか話してくれ」


 私の言葉に華は必死に首を横に振った。


「時間がないの。早く助けなきゃ、蝶が食べられちゃう」

「食べられる……」


 その言葉に身震いを感じた。

 胡蝶を食べる生き物は恐ろしいほどに多い。その誰もが厄介であり、蝶に近づけてはならない者ばかりであるが、その中でも特に、蝶を狙うだろう相手が一人私の頭の中に浮かび上がったのだ。

 しかし、少年がそれを察したようにすぐさま冷静な声で付け加えた。


「食虫花ではありません」


 その短い言葉に、私の身体からやや力が抜けた。

 食虫花以外の者が恐ろしくないわけではない。それでも、私の身体に残る傷痕がどうしても彼女を恐れてしまっているらしい。


「じゃあ、何者だ? 何に捕まったんだ?」


 私の問いに華が声をひそめた。


「蜘蛛よ。絡新婦と名乗ったの」


 必死に押し殺すように華は言う。


「蜘蛛の魔女。胡蝶を捕まえて奴隷にする恐ろしい魔女よ」

「絡新婦……」


 頭の中にその言葉が引っかかった。


「女郎蜘蛛か……」


 胡蝶を捕まえて奴隷にする魔女。


「わたしのせいなの」


 考えている途中で、華が再び私に抱きついてきた。


「わたしが絡新婦の手下に捕まってしまったから……」


 見ているだけでも哀れなくらい華は追い詰められていた。

 違う。華は全く悪くない。悪いとすれば、あんな危険な森に花同士だけで行かせていた私の方だけだ。

 私はそっと華の頭に手を置いた。


「そいつの目的は蝶だけか……」


 何にせよ、相手が食虫花でないのなら恐れる必要は無い。

 胡蝶を奴隷にするというのなら、すぐに蝶を食べてしまう事はないはずだ。まだ救えるはずだ。

 真っ直ぐ聖剣を見つめていると、華がそっと離れるのを感じた。

 私が聖剣へと近づくのを止める者はこの場にいない。壁に掲げられているそれを右手で取ろうとして、私はふと肩の違和感に怯んだ。

 まだきちんと動かせない。

 ナイフやフォークでさえもたまに落としそうになるのだ。剣を操るなんて夢のまた夢だろうと考えなくても分かる。

 それでも、行くしかない。

 左手で剣を握りしめて、私は華と少年に告げた。


「城を出よう。続きは移動しながら聞かせてくれ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ