3.安寧の終わりは突然に
奴隷、つまり人間以下の存在として……主人からの乱暴な扱いに耐える日々。
暴言・暴力なんてまだいい方。
『なんとなくイライラしていた』とただの一時の気まぐれで突然仲間が殺されたり、気分次第では食事すら一口も与えてもらえない日だってあった。
過酷すぎる環境にまるで物のような扱い。
こんなの耐えきれない。
あの憎い主人を殺してやる。
いつかここを脱走してやる。
普通ならそういった類の思いを抱くのだろう、きっと。
実際、常に仲間の奴隷の多くがそういった類の事をブツブツと口にしていたから、おそらくそう。
きっとそれが正常な人間なのだろう。
しかし、私にはそういった感情が一切なかった。
異常な人間なのだろう、私は。
この事を奴隷仲間に話すと、皆信じられないといった風に目を丸くするのだから。
だが、それすら理解できないほどに、私の心は死んでしまっていた。
人間としてのあらゆる感情が抜け落ちてしまっていた。
私の人間としての心は、もうかなり昔にすっかり錆びついてしまって、今やほとんど動いていない。
『非人道的』だとか、『道徳に反する』だとか。
そういう概念はあるのは知っているけど……よく分からないというか、いまいち現実味がないのだ。
まるで食べたこともない異国の料理のようで……イメージなんて湧かないし、想像もつかなかった。
その代わりに……その時、唯一私の心の中にあったのはただ一つ。
殺しの対象が私ではなかった事に対する悲しみ……この先もまだずっと、長い間生き続けなければならない事に対する深い悲しみ。それだけだった。
おそらくこれは普通ではない。
世間からしたらおかしな奴なのだろう。
奇人・変人の類なのだろう。
しかし、変だと知ったところでどうする事もできず。
私は死にながら生きていた。
しかし、そんな生活はある日突然あっさりと終わりを迎えることになった。
屋敷の主人が突然死んでしまったのだ。
私は草むしりの最中だったため直接は見ていないが、メイド達が噂をしているのを聞いて初めてそこで知った。
それはちょうど午後、まさにアフタヌーンティーを始めようとしている時の出来事だったようだ。
そもそもの話、この屋敷の主人は元々多くの病を抱えていた。
豚のように丸々と太っていて、手足ははち切れそうなほどパンパン。
大量の酒やタバコ、さらには極端な偏食家で食事は油っこい物か甘いものしか食べず。
そして極め付けは、ほとんどソファに寝転がったままの運動不足の生活。
昔は毎日のようによくパーティやカジノに行って遊んでいたが、歳をとりそれすらやらなくなってきた今はより一層不健康に拍車がかかっていった。
そんなひどい生活習慣ゆえに糖尿病や高血圧、痛風などや、他にも色々と合併症を起こして多くの病を抱えていた。
そんなかなりの不健康体ではあったが、本人は全く気にする素振りを見せず元気に好き勝手していて、誰もそこまで本気で心配はしていなかった。
その日も主人はアフタヌーンティー用の広間に客人の誰よりも先に着くなり、いつものように三人がけのソファに一人陣取って寝っ転がり、砂糖を限界まで溶かした紅茶を豪快にガブガブ飲んでは、チョコがたっぷりかかったドーナッツを貪っていたのだが……
急にうめき声を上げてソファから転げ落ち、床の上でしばらくのたうち回った後、あっさりと息絶えてしまった。
何が死因なのかは、あまりはっきりしていない。
持病のどれもが死を誘発するようなものだったから、医者すら判断がつかなかったのだ。
逆に言えば、それほど生きていたのが不思議なくらいの生活だった。
だが、強いて言うなら……その日の分の薬を飲み忘れた事が引き金となったようだった。
本来なら食べる前にあらかじめ飲んでおくはずの、薬一式。
メイド達が言うに、主人が部屋に入る前にあらかじめテーブルの上に置かれていたようだが……事件の後、そのままの状態でまとめて部屋のゴミ箱から見つかったらしい。
その時主人の側にいたのは……西日が強いからと部屋のカーテンを閉めに来た執事と、同席していた主人のたった一人の息子だけ。
茶会の招待客はまだ誰一人として屋敷に到着していなかった。
執事の強い忠誠心は昔からよく知られていたし……かと言って息子は息子で、今まで人に叱られているところを見た事がないほどの品行方正な模範人間。
二人とも、まだ明るいうちに皆がいるところで堂々と事件を起こすような人間ではなかった。
だから真相は迷宮入りしてしまって、結局そのまま。
この一連の事件はとりあえず、病気による急死という形で収まったらしい。
しかし世間に報じられる前にその訃報はあっという間に屋敷中に知れ渡り、奴隷達は皆大喜びだった。
抱き合ったり、ハイタッチしたり、踊り出したり。
喜びムード一色、お祭り騒ぎだった。




