第二話 王都着
「それにしても、あの血判状が燃えてしまうとは……あいつの魔法はどうなっているんだ。王宮でも使われる特別な不燃紙を使ったというのに」
フラーム公爵は自室で嘆いた。
ここ数日、結婚に応じるようマリを説得してきたにもかかわらず、それが実らなかったのだから、落胆もひとしおだろう。
「いや、こうしてはいられない。こういうときのための『計画』だ。すぐにでも実行せねば」
しかし、公爵が落胆した様子を見せたのは僅か一、二分で、すぐにいつもの精悍な顔に切り替わっていた。
公爵はそそくさと部屋を後にし、誰にも見られないように屋敷を出て、夜闇に消えた。
♢♢♢
あの痛快だった婚約破棄から三日。私は冒険者になるため、今日王都へ発つことになっている。今は、王都までの馬車を待っているところだ。
待っていると言っても、わざわざ街に出向いているわけでは当然ない。屋敷の門に着くことになっている馬車を、自分の部屋で待っている。
だけど、一向に馬車は現れない。ここに紅茶とお茶菓子がなければ、屋敷を火事にしていたかもしれない。一体、いつになったら来るのかしら。
「遅いわね」
「予定の時間まで、まだありますので」
「最後の日までうるさいのね、ジローは」
「申し訳ございません」
ジローは空いたカップに紅茶を注ぎながら言った。本当に口うるさい男だ。この屋敷にいるのは今日で最後になるのだから、気持ちよく送り出そうという気はないのか。
「少し寝るわ。どうせまだ来ないでしょう」
「では、馬車が到着しましたらお知らせいたします」
「当たり前じゃない」
私は腕を組んで、椅子の背もたれに身体を預ける。椅子がギシッと鳴ると、呼応するように猫のミシェルもニャーンと鳴いた。足元に寄って来たミシェルを撫でてやってから、目を閉じて思索に耽る。
婚約が結ばれたと聞いたときには、ついに来たかと多少なりとも心躍った。退屈な日々を終わらせる福音に思えたからだ。
しかし相手がわかると、それは一瞬にして凶報に変わった。あのとき窓から見た、生気のない目をした金髪の男との結婚なんて考えられなかった。お父様はあの男を痛く気に入っていたようだけど、私にはどこにでもいるくだらない男に見えてならない。いや、それよりも質の悪いものに思われた。
お父様というと、あの夕食の席以来、しおらしくなってしまったわね。反対していた冒険者になることを認めてくれて、今回の馬車まで用意してくれたのだもの。もともと私に反対する人ではなかったけれど、家を出て行くと決めても協力してくれるとは思わなかった。
欠伸が出そうになるのを噛み殺す。小さいころに受けた躾は抜けないものだ。自分のこういうところがつくづく嫌になる。この屋敷を出たら、今までしてこなかった分の欠伸をしよう。
今の欠伸によって、ほどよい眠気が忍び寄って来ていることを自覚した。身を任せれば、いい眠りに就けることだろう。ジローは、まだ時間があると言っていたし、英気を養うためにもひと眠り――
「お嬢様、来ました」
「なんて間の悪い馬車なの!」
♢♢♢
馬車に揺られる。この揺れには、いくつになっても慣れない。この公爵領から王都までは馬車で一週間程度の道のりになるけれど、耐えられるかしら。いいえ、耐えるほかないのはわかっている。そうでなければ、冒険者なんてやっていけないでしょうから。
そんなことよりも心配なことが他にある。この御者のことだ。公爵からの呼び出しだということで張り切って予定よりも早く来たらしいけれど、こんなに間が合わない人と一週間も共に過ごすのは苦痛だわ。
「揺れはどうですかい?!」
「最悪よ」
「す、すんません!」
静かにしていてほしいのに、たまにこうやって話しかけて来るのがまず鬱陶しい。ついさっきも放っておけと言ったのだけれど、学習しないのかしら。それと、お父様が呼んだ割には言葉遣いも汚いし、御者としての腕もよくない。こんなことなら、ジローに頼めばよかった。
……ああ、これはよくない。これからお父様はもちろん、ジローやアンナもいないのだし、頼ろうと思ってはいけないわ。いかに公爵令嬢と言えど、一歩屋敷を出てしまえばただの炎魔法が得意な女の子に過ぎないのだから。いや、私は女の子って柄じゃないか。いずれせよ、そういうのも新鮮で面白いわね。
♢♢♢
新鮮で面白いなんて思っていた初日の自分が恨めしい。屋敷にいるのと同じくらい退屈な日々が続いている。屋敷がある街を離れてしまえば、代わり映えのない風景が続いていてつまらない。旅ってもっと刺激的なものだと思っていた。食事が美味しくなかったり、ベッドが硬かったりするのも、旅を不快なものにしている。
でも、そんな旅ももうすぐ終わる。御者の話によれば、今日中に冒険者の聖地である王都に着くらしいから。
冒険者になるだけなら王都に行く必要はないけれど、やっぱり冒険者になるなら人が集まる王都がいい。人が多く集まる場所で、私がどれだけやれるか試すのだ。というより、より多くの人に私の実力を知らしめるのだ。
「もうすぐ着きますぜ!」
「さっきも聞いたわよ。バカにしてるの?」
「す、すんません!」
一週間言い続けても、御者の間の悪さは治らなかった。間が悪いというより、むしろ頭が悪いのかもしれないわね。
窓の外を見れば、のどかな草原が広がっている。ちょうど若葉が芽生え始める季節であり、その明るい緑が目に鮮やか……だったのは、初日だけ。今では早くこれが途切れてほしいと願うばかりである。
「さあ、もうそろそろです!」
「しつこいわね!何回も――」
そこで私は気がついた。この馬車を引く馬の足音が変わっていることに。さっきまでよりも、大きく硬質なものに聞こえる。
「気づきましたかい?石畳ですぜ」
「言われなくてもわかるわ」
道が石畳で舗装されているということは、本格的に王都が近いということだ。鼓動が早まるのを感じる。
もうすぐ、私の冒険者生活が始まるのだ。
「さあ、ワシができるのはここまでです。いってらっしゃい」
王都の城壁前に着くと、いつものように御者が馬車の扉を開けながら言った。
「ここまでご苦労様」
「ありがとうございます!」
家の使用人にも言ったことなかったけれど、労いの言葉が口を突いて出た。狭い馬車から降りられることによる解放感か、新生活が始まることへの期待感か。何がそうさせたのかはわからないけど、悪い気分ではなかった。
「冒険者になるには、まずギルドに行かないとダメですよ」
私が馬車を降りると、御者はそう言った。はて、ギルドとは何か。お父様の口から何度か聞いた覚えはあるけど、それがなんなのかはわからない。こんなやつでも知っているものを知らないなんて、少しだけ自分が情けなくなった。
有名なレストランか何かだろうか。数時間何も食べていないし、王都でおすすめのレストランでも紹介してくれたのかもしれない。腹が減っては冒険もできないだろうし。
それとも、お父様が手配してくれた宿の名前だろうか。活動拠点を用意しないことには、冒険者をやっていけないしね。
もしかすると、武器屋のことかもしれない。でも、それなら余計なお世話だわ。私は武器を使わないから。……あ、防具は買わなきゃダメかしら。今はドレスだし。
それとも、それとも……ダメだ、さっぱりわからない。知らないものを考えたって、わかるわけはなかった。知っている人に聞けば、つまり目の前の御者に聞けば、答えはわかるはずだけど、それだけはしたくない。一度見下してしまった人間に対して、そんなことができるほど図々しくはないのだ。
「え、ええ、ギルドね。楽しみだわ」
私は御者に顔を見られないよう、王都を囲う城壁を見上げながら言った。フラーム公爵領のものよりさらに高く重厚そうなその城壁は、王都が巨大都市であることを雄弁に語っている。
「探せるかしら……」
「何か、言いましたかい?」
要らぬところに反応しないでほしい。
「いいえ、もう行くわ」
「お気をつけて!」
「ふんっ!」
こうして私は王都の土を、いや、石畳を踏んだ。
一話あたり三千から四千文字を目安に書いています。