プロローグ 追放された巫女と、雪の果ての小さな神様
その日、王都には雪が降っていた。
季節はまだ秋の終わり。
本来ならば、冷たい風が少しずつ冬の気配を運んでくる頃だった。
けれど、その日の雪は妙に冷たかった。
まるで、空そのものが怒っているかのように。
王都の中心にそびえ立つ大神社。
その広い拝殿の前に、一人の少女が膝をついていた。
「……コハク。あなたには、王都大神社の巫女としてあるまじき罪がある」
高らかに響いた声。
その声の主は、大聖女エレナだった。
白銀の刺繍が施された豪華な聖衣。
宝石を散りばめた杖。
そして、何より目立つのは、周囲の人々を見下ろすようなその表情だった。
エレナの隣には、王国騎士団長サンドロスが立っている。
彼は険しい顔でコハクを見つめていた。
「コハク。大神社の聖なる結界を私物化し、さらに大聖女エレナ様の功績を横取りしたという訴えが出ている」
「……違います」
コハクは静かに答えた。
「私は、そんなことをしていません」
「まだ言い逃れをするの?」
エレナが鼻で笑う。
「あなたが巫女として行っていた祈りの数々。それが私の力によるものだということは、大神官たちも認めているわ」
「ですが……」
コハクは顔を上げた。
「大神社の結界は、私一人の力で作ったものではありません」
「まあ!」
エレナはわざとらしく驚いた。
「つまり、私が大聖女として授けた聖なる力を否定するのね?」
「そういう意味ではありません」
「もういいでしょう」
サンドロスが口を挟んだ。
その声に、コハクは彼を見る。
何度も大神社へ足を運び、神殿の警備をしてくれた騎士だった。
以前の彼なら、困っている巫女を見れば必ず声をかけてくれた。
けれど今は違う。
冷たい目をしている。
「証拠は揃っている。君を北方追放刑に処する」
「……北方?」
コハクの顔から血の気が引いた。
王国の北の果て。
一年の大半が雪に覆われ、魔物すら近づかない極寒の地。
そこには、かつて小さな神社があったと言われている。
しかし今では誰も住んでいない。
神社も長い年月の間に荒れ果て、土地そのものが死んでいると聞いていた。
「待ってください」
コハクは立ち上がった。
「私は本当に何もしていません。大神社の結界を守ってきたのは、私です。毎朝掃除をして、お札を取り替えて、傷んだところを直して……」
「だからこそ、あなたには責任があるのよ」
エレナが微笑んだ。
「あなたがいなくなっても、私が大神社を守るわ」
その言葉を聞いた瞬間。
コハクは、何かがおかしいと感じた。
けれど、それを証明することはできなかった。
彼女が毎日行っていたこと。
誰にも見られない場所の掃除。
古くなった結界石の手入れ。
神殿の隅々に残る小さな祈りの跡。
それらはすべて、「当たり前の仕事」として扱われていた。
そして。
コハクが積み重ねてきたものを、エレナは自分の功績として語った。
「……そうですか」
やがてコハクは、静かに笑った。
「わかりました」
「コハク?」
「もう、いいです」
怒りはなかった。
悔しさは、もちろんある。
悲しくないと言えば嘘になる。
けれど、それ以上に疲れていた。
誰かのために頑張って。
誰かが困らないように掃除をして。
誰かが安心して暮らせるように祈って。
それでも最後には、何もしていない人に全部持っていかれる。
だったら。
もういい。
「私を追放してください」
コハクは頭を下げた。
こうして彼女は、王都を追われることになった。
――そして。
それから三日後。
「さ、寒い……」
コハクは吹雪の中を歩いていた。
「聞いていたより……ずっと寒い……」
厚手の外套に身を包み、両手をこすり合わせる。
足元には雪。
前方にも雪。
後ろにも雪。
見渡す限り、一面の銀世界だった。
「本当に……こんなところに神社があるのかな……」
追放の際に渡された地図は、すでに半分ほど雪で濡れている。
それでも、コハクは歩き続けた。
なぜなら。
この先に、一つだけ古い神社があると書かれていたからだ。
「……せめて、屋根があるところで休みたいな」
独り言をこぼす。
すると。
吹雪の向こうに、何かが見えた。
「……あれ?」
コハクは目を細める。
白い世界の中。
ぽつん、と黒い影が立っていた。
「建物……?」
一歩。
また一歩。
雪をかき分けて進む。
やがて、その正体が見えてきた。
「……神社」
古びた鳥居。
半分折れた石灯籠。
雪に埋もれた参道。
そして、その奥に建っている小さな社。
屋根には大きな穴が開いている。
壁板は外れかけている。
扉も傾いている。
「……ボロボロ」
思わずコハクは呟いた。
けれど。
彼女は小さく笑った。
「でも……神社だ」
懐かしかった。
たとえ小さくても。
たとえ古くても。
神社は神社だ。
コハクは雪を払いながら鳥居をくぐった。
「お邪魔します」
誰もいないと思っていた。
けれど。
その瞬間。
「……くぅ」
小さな声が聞こえた。
「……え?」
コハクが振り返る。
「くぅ……」
もう一度。
今度は、社の中から聞こえた。
「誰か……いるの?」
コハクは慎重に扉を開けた。
ギィィ……。
古びた扉が軋む。
薄暗い社の中。
雪が吹き込んでいて、床には薄く雪が積もっていた。
そして。
祭壇の前に。
何かがいた。
「…………」
コハクは固まった。
そこにいたのは。
小さな生き物だった。
全長は、ほんの二十センチほど。
白銀の体。
小さな四本の足。
頭には、ちょこんと二本の角。
そして、細い尻尾。
どう見ても――
「……龍?」
小さな龍だった。
しかも。
ぶるぶる震えている。
「……寒いの?」
「くぅ……」
小さな龍は、弱々しく鳴いた。
コハクは胸が痛くなった。
「こんなところに一人でいたの?」
「……」
龍は答えない。
ただ、コハクをじっと見つめている。
その瞳は、まるで夜空のように深く澄んでいた。
「大丈夫」
コハクはゆっくりと手を伸ばした。
「もう、怖くないよ」
小さな龍は、逃げなかった。
むしろ。
コハクの手に、そっと鼻先を近づけた。
「……冷たい」
コハクは驚いた。
龍の体は、雪よりも冷たかった。
「こんなに冷えて……」
そっと両手で包み込む。
すると。
「……あったかい」
コハクの手の中で、龍が小さく丸くなった。
その瞬間。
コハクの胸の奥に、懐かしい感覚が走った。
神社で長年祈り続けてきた巫女だけが感じられる、神聖な気配。
けれど。
目の前の小さな龍から感じるものは、あまりにも弱かった。
まるで消えかけた小さな灯火のように。
「あなた……もしかして」
コハクは、古い祭壇を見る。
そこには、ひび割れた小さな石碑があった。
文字はほとんど消えている。
それでも、かろうじて一文字だけ読めた。
――土地神。
「……土地神様?」
「きゅ」
小さな龍が返事をした。
「えっ」
コハクは目を丸くする。
「もしかして、あなたがこの土地の神様?」
「きゅう」
龍は小さく頷いた。
そして。
ぐぅぅぅ。
「…………」
「…………」
社の中に、可愛らしいお腹の音が響いた。
コハクは思わず瞬きをする。
小さな龍も、自分のお腹を見ている。
「……お腹、空いてるの?」
「きゅ……」
「寒くて、お腹も空いてたんだね」
「きゅう……」
しょんぼりと項垂れる姿があまりにも可愛くて。
コハクの胸に、何かが灯った。
追放された。
騙された。
居場所を失った。
全部、悲しい。
でも。
目の前には、自分を必要としている小さな存在がいる。
「……よし」
コハクは立ち上がった。
「まずは、お掃除しよう」
「きゅ?」
「それから、屋根を直して。隙間を塞いで。暖かくして」
小さな龍が首を傾げる。
「そして……」
コハクはにっこり笑った。
「温かいものを作ろう」
「……!」
龍の目が、ほんの少し輝いた。
「甘酒とか」
「きゅっ!」
「おでんとか」
「きゅきゅっ!」
「お布団も必要だね」
「きゅー!」
どうやら最後のほうは、かなり気に入ったらしい。
コハクは笑った。
「ふふっ。じゃあ、頑張ろうね」
小さな龍は、コハクの手の中で嬉しそうに尻尾を振った。
その名は――ハク。
そして、この日。
世界の果てにある、誰にも忘れられた小さな神社で。
一人の追放された巫女と。
一匹の手のひらサイズの土地神が出会った。
このときのコハクは、まだ知らない。
自分がここで暮らし始めたことで。
やがてこの荒れ果てた神社が、王国中から人々が訪れる奇跡の場所になることを。
そして。
小さな神様や妖怪たちが。
コハクを大好きになりすぎて――
「恩返ししなきゃ!」
と、秘密裏に神社をとんでもないパワースポットへ変えていくことを。
ただ一つ確かなこと。
それは。
この日から。
コハクの、ぬくぬくでもふもふな第二の人生が始まったということだった。




