第八話 【その声は遠く響く】
ヒュンッ!
風切り音と共に、剣が俺の横を通り過ぎた。
刹那、俺は柄を掴み取り、即座に投げ返す。
「悪くないね、ダリアン。
だけど……」
アレクシオは空中でそれを受け止めると、流れるように距離を詰めてきた。
防御の姿勢を取る―――が、彼のアプローチの軌道が不可解に変化する。
「あ……」
漏れたのは、その一言だけ。
次の瞬間、わき腹に鈍い衝撃が走った。
革のベストが直撃を防いだが、殺しきれなかった慣性が俺の体を横へと吹き飛ばす。
両足が地面から離れる浮遊感。
空中で体をひねり、両手を地面について強引にブレーキをかけた。
その隙を、アレクシオが見逃すはずもない。追撃のフェイント。
俺は地面についた手を軸にし、旋回するように脚で円を描いた。
手足を逆転させた、カポエイラのような回転蹴りだ。
だが、アレクシオはつまらなそうに軽く蹴り返すだけで、俺の攻撃を相殺してしまった。
体勢を立て直す俺を、彼は静かに見下ろしている。
「また北部の技か…… 嫌いじゃないよ」
訓練はさらに一時間続いた。
ようやく終わった時、俺は地面に大の字になり、荒い息を吐いていた。
手にはまだ剣が握られたままだ。
最初は、訓練なんて簡単だと思っていた。
前世の動きをなぞればいいだけだと。
だが、現実はそう単純ではない。
体内のマナが目覚めようとする独特の感覚。
そして何より、アレクシオという指導者は決して甘くなかった。
「戦闘において重要なのは、敵は決して待ってくれないということだ。
だから、訓練でも指示は出さない。
僕はただ行動する。
それに対して君が反応するんだ。
予測した相手の、さらに先を読んだ者が勝つのだからね」
……。
「理屈は……分かってる。
でも、動きが追えないんだ。まだ本気も出してないくせに」
「まだね。
だが今はそれでいい。
君はまだたったの五歳だ。
何をそんなに急ぐ必要がある?」
いい質問だ。
なぜ急ぐのか。
俺はまだ五歳。
人生はこれからだ。
平均寿命は八十歳前後だし、王国一の資産家の家に生まれた。
何かに向かって焦燥感を抱く必要なんて、どこにもないはずだ。
だが……。
あの役に立つだろうという言葉。
もし祖母が未来を予見できる祝福者ならば、あの言葉には額面以上の意味があるはずだ。
確信はないけれど。
俺は溜息をつき、口を開いた。
「まあ……本には、子供の頃から鍛えればより良い結果が出ると書いてあったから」
俺は剣を木に立てかけた。
「正論だね、ダリアン。
僕もその時期をもっと有効に使うべきだったよ」
「じゃあ、アレクシオは若いうちから鍛えていなくても、そんなに強いんだね」
アレクシオは首を横に振った。
「勘違いしないでくれ、ダリアン。
僕も若い頃から長年鍛錬を積んだよ。
それでも……上には上がいるという話さ」
「そっか」
アレクシオの正確な年齢は知らない。
父より若く見えるが、
どこか父より賢明な雰囲気を纏っている。
不思議な感覚だ。
あえて聞こうとはしなかった。
無作法になるかもしれないからな。
◇ ◇ ◇
訓練の後は、授業の時間だ。
「では、ダリアン。
風魔法と水魔法を混ぜるとどうなりますか?」
「霧が発生する。
逆の比率なら靄もや。
同時に行えば雷雲。
世界の乾燥地帯では雷雲とも呼ばれてる」
「素晴らしいわ。
本当によく本を読んでいるのね」
ルビーについて詳しいことは知らないが、彼女が圧倒的に美しいことだけは確かだ。
つまり、なんだかんだ言っても、俺にはそれを認識する目があるということだ。
彼女の髪は赤かった。
赤褐色でもなければ、光の加減で赤く見えるオレンジでもない。
文字通りの、鮮血のような赤。
メラニーが緑の髪を持っていたように、彼女は燃えるような赤髪を持っていた。
ルビーはくすりと笑った。
「私の髪ばかり見ているわね、ダリアン」
「あ、ごめんなさい……」
「気にしないで。
まだあまり多くの人と会ったことがないのでしょう?
妹のマリアの方がもっと素敵な髪型をしているわよ。
短くしているのがもったいないけれど」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。
「どのくらい短いの?」
「肩につくくらいね」
「あ、そうなんだ」
ルビーは席を立った。
「ダリアン、一つ聞いてもいいかしら?」
「はい、先生」
「今の自分のこと、好き?」
不意打ちだった。
思考が停止し、言葉が出てこない。
答えられなかった。
「その……普段のあなたはどこか沈んで見えることがあるの。
でも、何かを学んでいる時のあなたはよく喋るし、生き生き としている。
だから、教師として、そして少し哲学の時間も含めて……こういう話をするのもいいかと思って」
ルビーは誠実だ。
実利的で。
俺の立場など気にせず、正面から物を言う。
だからこそ、俺の中のまだ認識できていない部分が彼女を賞賛し……
別の一部は、ただ凍りつく。
「学べば、誰かになれるような気がして……」
「立派な心がけね。
でも、あなたはもう誰かよ。
あなたを愛する両親がいて、心の底ではあなたを評価している教師がいて……冗談よ、評価しているわ。
……もっと広い視点で見れば、そうね例えば、救世主セレナがいなければ、今のゼレニアはどうなっていたかしら?」
確かに。
もしあの時、セレナが大陸中を旅していなければ、
あの人々を救うことはなくおそらく俺はこの世界にいなかっただろう。
それが良いことなのか悪いことなのか。
まだその思考を引きずっている。
セレナの出身地の人々は、彼女を憎んでいると言われている。首都に近づこうともしないほどに。
一千年も経っているのに、なぜ人々はいまだに彼女を憎むのか。
首都の歴史は千百年。
セレナは世界を救うために旅立ち、故郷を見捨てたとして憎まれた。
時として、人間は愚かな生き物だ。
セレナは二人目の暁の目醒めだった。
最初の一人は三千年以上前の存在だ。
彼に関する記録は残っていない。
何世紀にもわたって口伝で語り継がれてきたことだけだ。
「先生、聞いてもいいですか?」
「ええ、なぁに?」
「先生は、家族を愛していますか?」
「愛しているか、ですって? ええ、もちろんよ。
もっとも、私はあまり家にいなかったけれど。
それに……」
彼女はハッとして、口元を手で覆った。
クソッ、聞くんじゃなかった。
(……バカか、ヒカリ?)
俺は慌てて取り繕った。
「ごめんなさい、聞くべきじゃ―――」
「いいえ、気にしないで。
感情が不安定になると、マナも不安定になることがあるの。
でも大丈夫よ、ただ……母はマリアを産む時に亡くなって、父は……」
そこで言葉が途切れた。
「いいえ、言わなくていいです。授業を続けましょう、ね?」
彼女は袖で涙を拭った。
「ええ、そうね。
感情のコントロールも重要だわ」
痛いほど分かった。
彼女は何も知らない。
だから俺にできる唯一のことは、彼女を支えることだけだ。
それが今の俺にできる最善のことだ。
◇ ◇ ◇
魔法陣の話に戻った。
今では、石を投げるだけで魔法陣を形成できるようになった。
文字通り原始的なものだが、機能的には問題ない。
もちろん、より精密な呪文を石だけで構成することはできないが。
それでも、あらゆる可能性を網羅しておきたかった。
「ダリくん、なんでそんな魔法陣にこだわるの? 地味で退屈じゃん! そんなの人を雇えばいいでしょ」
「言いたいことは分かるけど、ヴァレリア。
これは君が思っているより実用的なんだ」
「そのうち屋敷を水浸しにしそう……」
「しないよ。
そんな大規模な呪文は、レオフル家が守る帯水層にあるんだ。
魔法書には載ってない」
彼女はじっと俺を見て、頬を膨らませた。
言い返せない時の彼女の癖だ。
大規模な呪文か……。
いつか俺がそれを作ろうとしたら、どうなるだろう?
ともあれ、四つの主要な帯水層を満たすには、膨大な数の魔法陣と、一日中岩の下で過ごすことを厭わない人々が必要だ。
報酬は良いが、家族に会えるのは夜だけになる。
多くのマナは必要としない。
魔法陣の数が多いため、負荷は全作業員に分散されるからだ。
レオフル家は飲料水を生成する魔法陣を所有している。
要するに、使用権を持っているということだ。
その魔法陣を担当するごく一部の人間だけが、その秘密に触れることができる。
高給だが、極度の集中力が要求される仕事だ。
常に魔法陣を稼働させ続けなければならない。
水があろうとなかろうと、帯水層の最深部まで降りていくこともある。
それでも、労働者たちの環境は悪くない。
食事は保証されているし、高価な本も読める。
大半の者は、生涯の付き合いになる仲間たちだ。
強靭な肉体を持つ者だけが、その仕事に適格とされる。
そして何より、強靭な精神を持っていることを証明しなければならない。
ガチャリ。
「坊や、少しお話いいかしら?」
母だった。
「うん」
母はヴァレリアに近づくと、その髪を優しく撫でた。
「息子の相手をしてくれてありがとうね。
なんて素敵な姪っ子なのかしら」
「そんなことないよ! 将来のお嫁さんとして基本だもん!」
母は微笑んだ。まるで、姪が息子と結婚したがるのが当たり前であるかのように。
ああ、そうか。
ここではそれが普通なのか。
もちろん。
従兄弟同士に限った話だが。
「ヴァレリアちゃん、お母様が呼んでたわよ。
木の根っこを処理するのに手伝ってほしいから、剣を持ってきてって」
「はーい、行く!」
彼女はぴょんぴょんと跳ねながら去っていった。
「母様、話って?」
「話? ああ、そうそう! 授業はどうかなって思って。
ルビー先生は良い先生?
ちゃんと教えてくれてる?
ほら、毎週大学に報告書を送らなきゃいけないから」
ここだ。ここで上手くやらなきゃいけない。
ルビーはいつも俺によくしてくれている。質問にも答えてくれるし、王族のような扱いもしない。
両親に良い印象を持ってもらいたいなら、子供が言いそうなことを言うべきだ。
たぶん。
「……彼女に教えてもらえると、幸せだよ。
楽しいし、好きだ。
だから、連れてきてくれてありがとう。……母様、大好き」
ジュリエットの瞳が一瞬、潤んだように輝いた。
「だったら……最高の決断だったわね!
今すぐにコービンを派遣して、直々に推薦状を出させるわ!」
彼女は俺の顔中にキスの雨を降らせた。
「私も大好きよ、私の坊や。
ママはあなたを愛してるわ!」
そして彼女は足早に去っていった。
上手くやれたかな。
ああ、大丈夫だ。
「……ヒ…………カ……………………リ……」
え。
何だ、今の……。
それは何か……元素よりも遥かに古い。
まさか。
いや、そんなはずは。
それともいや、分からない。




