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第十一話 【鏡】

 全ては、俺が魔法具について尋ねたあの日から始まった。


 父様は、俺の知的好奇心が嬉しかったのか、一本の杖を渡してくれた。


「覚えておきなさい、ダリアン。杖は高価で数も少ない。正しく扱うんだよ」


 執務室に戻る前、彼はそう言い残した。

 さて、こいつの仕組みを解明するとしよう。


 ……


 だが、俺の目論見とは裏腹に、使用は許可されなかった。


 これから二週間の海へのバカンスがあることを忘れていた父様は、あっさりと杖を取り上げ、帰ってきたら使っていいと言い放ったのだ。


 海……か。


 前世では、訓練のために何度も足を運んだ場所だ。

 だが、リラックスするためや、家族と過ごすために行ったことなど一度もなかった。


「ダリくん、忘れ物はないかしら?」

「はい、母様……」

「きちんとお返事しなさい、いいわね? 杖を持っていきたかったのは分かるけれど、今は家族との時間なのよ」


 意味が分からない……。


 俺、何か失礼な言い方をしたか。


 母親特有の論理というやつだろうか。


 いや、待てよ……。

 荷造りを頼まれるたびに、俺ははい、母様と正確に返答していたはずだ。


「すみません、母様。もうしません」

「私をご主人様みたいに扱うのもやめてちょうだい、坊や」


 全く理解できない……。


 従えば不機嫌になり。

 否定しても不機嫌になる。

 何をどう最適化しようと、彼女を満足させる解が見当たらない。


( いや……これは俺の責任か…… )


 もっと子供らしく無邪気に喜んでみせれば、こんな摩擦は起きないのだろう。

 結局のところ、俺はすり替わった異物にすぎない。本来なら、海に行くとはしゃぐ普通の子供がいる、ただの幸せな家族だったはずなのだ。


 だが、俺にはその普通の子供になることはできない。演技だとしても。

 俺は過去を背負っている。望んだわけではない二度目の人生だが、今はもう、これを失いたくないと思っている。


「母様、一つ聞いてもいいですか?」

「もう聞いてるじゃない、坊や」

「その……ええと。どうして、僕のことを愛してくれているんですか?」


 思考を挟む前に、言葉がこぼれ落ちていた。


 六歳の子供が突然口にするような質問じゃない。


 それに……俺はなぜ、そんなことを知りたかったんだ。


 ジュリエットの瞳が揺れ、彼女は持っていたものを全て手放した。


 怒らせてしまったか……。


( いや……違うか )


 彼女はしゃがみ込み、俺を強く抱きしめた。


「あなたを愛するのに、理由が必要かしら? そんなもの、ないわよ、坊や……あるわけないじゃない」


 理由がない……。


 いや。全ての事象には必ず理由が存在する。


 だが……。


「でも、僕の話し方でいつも不機嫌になるから、だから……」


「不機嫌になんてなっていないわ、坊や。

 ただ、あなたが時々、形式に縛られすぎているように見えるだけ。本を読みすぎたのね。

 私には分かっているのよ。

 その心の中には、ルールなんて気にせずに、ただ無邪気に楽しみたい小さな男の子がいるってこと。

 違うかしら?」


 即答できなかった。


 彼女の言う通りなのだろうか。


 分からない。

 理解できない……。


 どうしてだ。どうやって。


 ああ。


 前世の母も、俺をこんな風に愛してくれていた。

 俺がどれだけ無愛想でも、彼女がどれだけ疲れ果てていても、俺のためには常に愛情を注いでくれた。


 これは……それと、同じなのか。


「分かりました、母様。海に行きましょう? もう暑いですし」

「ええ、行きましょう……! あ、坊や、お着替えはちゃんと鞄に入れた?」


 いつもの母様に戻った。


「はい……あ、リヴィアがやってくれました。いつも気が利くので」

「本当ね。彼女はとても優秀だわ」

「特に朝はそうですね、母様」

「彼女が一番一緒に時間を過ごしているのは、あら、これは歴史的快挙ね!」


 母様は俺の荷物を手に取り、俺を一人残して部屋を出て行った。

 一緒に時間を過ごしているというのは、コービンのことだろう。


 ◇ ◇ ◇


 海への道のりは平穏だった。


 まず、巨大な丘を下る。

 次に貴族街と中流階級の居住区を抜ける。

 商業区に入ると、道行く人々が俺たちに視線を向け始めた。


「セラフェル家だ!」

「近くで見るとさらに凄えな!」

「あの方はジュリエット様か? あの方がまだ小さかった頃、パンをあげたことがあってな、ヴァレリウス様と結ばれる前から、ずっとうちの家族を援助してくださってるんだ」


 アレクシオは馬上で周囲を警戒し、俺は木剣を携えていた。

 万が一の襲撃に備えなければならない。

 周囲の人間には、ただの可愛らしい子供にしか見えていないだろうが。


「あの子がダリアンくん、お母さん?」

「そうよ。失礼なことを言っちゃダメよ」

「お母さん、すごくかっこいい。私、あの子とお嫁さんになれるかな?」


 その少女の肩のあたりで、小さな閃光が瞬いたのが見えた。


 何だったんだ。

 深く考えるのはやめよう。太陽の光の反射か何かだろう。

 ……


 海岸に到着する頃には、人々のざわめきはすでに消え去っていた。


 そこで、俺はそれを見た。

 海岸の沖合に浮かぶ巨大な島。それを支えているのは。


 待て。

 本当にずっとそこにあったのか。

 海に向かっていたはずなのに、どうして今まで気づかなかったんだ。


 地面から突き出した二本の巨大な()が、島に向かって一直線に伸びている。

 その上には、統一された建築様式を持たない、巨大な城がそびえ立っていた。


 完成までにあまりにも長い歳月を要したため、各時代の様式が入り混じっているのだ。

 それでもなお、完璧なシンメトリーを保っている。

 だが、様式の変遷は一目瞭然だった。


 天恵者についての伝承は、全て真実だったというわけか……


「驚いた、坊や? 何度見ても圧倒されるわよね」


「俺、どうやって? つまり、どうやって建てたんだ? 

 海の上にこれだけの資材を運ぶには」


「坊や、あまり難しく考えないの、いいわね? 私たちはバカンスに来ているのよ、忘れたの?」


「ごめんなさい、母様」


 しかし、この疑問を放置するわけにはいかない。

「母様、どうして今まであれが見えなかったんですか?」


「あら? 今なんと言ったかしら?」


「お願いします、母様。この質問だけ」


「はいはい、分かったわ。どういうこと?」


 俺は深呼吸をして言った。


「あの城は巨大です。道中、どうして全く見えなかったんですか?」


「ああ、それならお父様が詳しいわ。私は聞いたことがないのよね」


 ああ、答えは持っていないのか。


「ダリアンさん、ジュリエット様!」


 振り返ると、そこにはルビー先生の姿があった。

「いらっしゃったんですね。フレリーさんは料理の腕は確かですけど、すごく気難しい人ですね、ご存じでした?」


 母様は微笑んだ。

「ルビーさん! 元気だった? ああ、フレリーね……彼は無愛想だけど、あれが彼なりの愛情表現なのよ。

 もし彼が微笑んできたら、警戒した方がいいわね」


 ルビー先生が俺の方を見た。


「ダリアン……私のお気に入り生徒。大きくなったわね! 何を食べてるの?」

「まだ二ヶ月しか経ってないよ、ルビー」

「相変わらず先生への敬語はなし、か。うん、間違いなく成長してるわね」


 反論できない論理だ。


「さて、何か疑問を持っていたみたいね? ああ、お城に関する定番の質問かしら、ダリアン?」


 彼女は俺を見つめた。


「うん。あんなに大きいのに、どうして直前まで見えなかったのか知りたくて」

「ああ、それは複雑でありながら簡単でもあるわ。構築するのは複雑だけど、理解するのは簡単よ」


 どうやら、あの島には(エリト)と呼ばれる巨大な魔法陣が張られているらしい。

 海岸から離れている間は、城の存在を隠蔽する役割を果たしている。

 要するに、海岸にいるか、海に近づかなければ視認できない仕組みだ。


「遠距離からの攻撃や、鷹の目の魔法陣によるスパイ行為を防ぐために作られたと言われているわ」

「どうやって……そんな魔法を機能させているんだ?」

「もちろん最高機密よ。どうやって作ったのかは、神のみぞ知るってところね」


 俺はエリトについて尋ねた。


「エリトっていうのは、何か重要な人物? それとも適当につけた名前?」

「エリトは特殊な魔物の名前よ。簡単に言うと、その目を見ると暗闇が見えて……その深淵に自ら身を投げたくなるの」

「深淵に落ちる……?」

「子供が知るべきことじゃないわね」


 言わんとしていることは理解できた……。

 ……自ら死を選ぶということだ。


「名前自体は……そうね、利便性でつけられただけよ。ただの隠蔽と呼ぶよりはマシだったからでしょうね。当時は(エリト)とした方がハクがつくとでも思ったんじゃないかしら。あのお城を見たからって、その魔物と同じ効果があるわけじゃないから安心して」


 ◇ ◇ ◇


「おしゃべりはそこまで! 

 さあ、楽しむわよ!」


 母様がきっぱりと言い放った。


 ルビー先生はドレスの砂を払い、立ち上がった。

「というわけよ。彼女の言う通りにね」


 俺は頷いた。


 ……


 木陰に留まる。


 今、何を考えるべきか。


 城は圧倒的だった。

 注意深く耳を澄ませば、あの骨が軋む音が聞こえてくるようだ。

 激しい波が打ち寄せているにもかかわらず、島は一ミリたりとも動いていない。


「ダイくん!」


 誰かが勢いよく立ち止まったせいで、俺の脚に砂がバサッと掛かった。


「海だよ! お母様が私たちの服を決めるのにすっごく時間かかっちゃった」


 従姉妹のヴァレリアだった。

 彼女はくるりと回り、新しいワンピースを披露した。


「どうかな? 私、すっごくお気に入りなんだ!」

「色がよく似合ってるよ、ヴァレリア」

「でしょでしょ!?」


 彼女は満面の笑みを浮かべ、俺の隣に座った。


「何を見てたの、ダイくん? すっごくぼーっとしてたよ」

「雲を見てたんだ」

「うーんと、あ! あの雲、アヒルさんの形してる!」

「俺にはニワトリに見えるけど」

「絶対アヒルさんだよ、ダイくん!」


 雲の形について語り合うなんて、いつ以来だろうか。


「ダイくん、またどこか行っちゃダメ! 私と一緒にここにいてよ! うー……分かった、ニワトリさんでいいよ!」

「アヒルだよ、ヴァレリア」

「むーっ! そんなのずるい!」


 彼女は頬を膨らませたが、すぐにケラケラと笑い出した。

 それこそが、俺の求めていた反応だった。


「このゲームでは、何でもありなんだ」

「ゲーム? これって名前あったの? 私はただあれ見て、何に見えるか言ってって呼んでたよ、ダイくん」

「ああ、ヌブキースって言うんだ」

「意味わかんないよ、ダイくん! 絶対今考えたでしょ!」

「さあね」


 ヴァレリアと一緒にいると楽しい。

 まだ自分でもよく分からないが、居心地がいいのだ。


 ……


 それからの数時間は、従兄弟たちと遊んで過ごした。


 一方、カンデリウスは木陰で一人の少女と一緒にいた。


「あの子はね、お兄ちゃんのお友達。ううん、恋人だと思うけど、まあどっちでもいいや!

 いつも一緒にいて、一緒にいる時はいつもお兄ちゃん笑ってるんだ。メラニーさんと同じ一族で、メラニーさんが紹介してくれたんだって」


 なるほど、あの緑色の髪が何よりの証拠だ。

 カッシウスが進み出て言った。


「兄さんは完全に惚れ込んでいるよ」


 ガイウスも言葉を続ける。


「自分の人生なんだから、好きにすればいいさ。そうだろ?」


 少女の名前はエラニー。

 エリやエリーと呼ばれるのが好きらしい。

 俺が彼女について知っているのはそれだけだ。


「ダイくんも挨拶しに行った方がいいよ! いかないのは失礼だもん!」

「ヴァレリア、それは統計的に見て危険だ。議論の余地はない」


 彼女は頬を膨らませた。

 俺はそれを無視した。


 水際まで歩いていき、波が足先を濡らすちょうどいい位置に腰を下ろした。


「物思いに耽っているのかしら、ダリアンさん?」

「あ、エメラルド叔母上。すみません、気づきませんでした」

「謝る必要はないわ。カンデリウスとあなたの間に何があるか、私は分かっているの。一つ言わせてちょうだい。あなたには何の責任もないわ。あれはルキウスと私の責任よ。あの子に希望を託して育ててきたけれど、ダリアン、あなたがこれほど規格外だとは思っていなかったの」

「僕は規格外なんかじゃありません。当主の座なんて」

「しっ。あなたがその座を望んでいないことは知っているわ。でも、家督を継ぐのがあなたかあの子のどちらかであることは事実でしょう?」


 エメラルド叔母上は、決して口を閉ざすような人ではない。

 彼女はその誠実さと率直さで、ルキウス叔父上を惚れさせたのだ。それが彼女の持ち味であり、常にそれを示している。


「カンデリウス従兄の夢を奪うつもりなんて、初めからないんです。彼がなりたいのなら、なればいい」


「でもね、ダリアンさん。

 自分自身を客観視できていないの? 私の息子も素晴らしいわ。同世代の中では最も聡明よ。でも、あなたは次元が違うの。赤い瞳、ヴァレリウスの息子。階級の異なる二人の愛の結晶。歴史書に記すなら、そちらの方が遥かに見栄えがいいのよ」

「そうかもしれませんね」

「あなたに当主になれと強要しているわけじゃないわ。ただ、少し考えてみてほしいの。

 もし正当な競争があれば、あの子はあなたに勝つことでより大きな達成感を得られるかもしれないわ」


 理にかなっている。

 俺が抵抗を示せば、彼は努力を続けなければならない。逆に、俺が適当に負けてやれば、彼はあっさりと勝利を手にし、恨みを忘れて満足感を得るかもしれない。


「つまり……彼を誘導しろと?」

「ええ。あの子は今、あの少女に夢中になりすぎているわ。もっと学業に集中させる必要があるの」

「分かりました。ありがとうございます」


 エメラルド叔母上は俺を少しの間見つめ、優しく髪を撫でてから立ち去った。


 ◇ ◇ ◇


 夜の帳が下りた。


 俺はヴァレリアに、少しだけ一人にしてほしいと頼んだ。戻ったらハグをしてあげると約束したからこそ、彼女は渋々承諾してくれたのだ。


(母様、俺のこと、誇りに思ってくれているかな。俺の今の生き方を。それとも、まだ弱き者を守るべきだと思っているだろうか)


 石を拾い上げ、暗闇の海に向かって投げた。


(ポチャンッ)


 冷静に考えれば、この新しい人生は完璧だった。


 俺を愛してくれる家族。

 あくせく働かなくとも、一生裕福に暮らしていける環境。

 高い魔法的、物理的なポテンシャル。

 そして、世界中の何よりも俺を大切にしてくれる従姉妹。


 これだけのものを手に入れていながら、俺はまだ自分がそれに相応しくないと感じている……あるいは、全てが夢なのではないかと。


 王国一の資産家であり、最も強固に保護された一族。

 火事などの壊滅的な事故に見舞われる確率はほぼゼロに等しい。あらゆる施設に、そうした事態を想定した魔法陣が組み込まれているからだ。


 なら……なぜ俺は未だに、彼らを守らなければという思考の呪縛から逃れられないんだ。


 論理的に推論すれば、最も脆弱なのは俺自身だというのに。


【……ちがう……ヒカリ……お前だけが……】


 突如、あの声が脳内に響き渡った。


(な、何だ……お前は)


【俺が知っているのは、お前は俺で、俺はお前だということだけだ】


 視界が激しく揺れ、強烈な目まいに襲われた俺は、そのまま意識を手放した。

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