第十話 【どうして、俺のことを……?】
六歳になった。
夏が始まった。
今年押し寄せた熱波は、例年のそれとは異なっていた。
それが意味するのは一つだけだ。
この夏は過去のどれよりも過酷な暑さになるということ。
所詮、今の俺の知覚能力で読み取れるのはその程度のことだ。
どうするべきか。
剣の訓練を続けること。
それが基本だ。
だが……。
何か、隠し事をされている気がする。
何だろうか。
奇妙なことだが、両親の様子が明らかに違っていた。
母様にいつものような明るさがない。
父様も執務机の椅子で落ち着かない様子だった。
盗み聞きなど、俺のすべきことではない。
だが、耳に入ってしまうのは避けようがなかった。
「本気なの」
「ああ、もちろんだ。鴉が一羽、届けてきた公式な書状だからな」
「でも、あなた。これは……素晴らしいことじゃない。皆が思っていたように、失われてはいなかったということよ」
「分かっているさ、ジュリー……だが、一番の問題はそこじゃない。最悪なのは……ん?」
しまった。
ドアが想定以上に開いてしまった。
「ダリアンくん。立ち聞きしていたの」
俺は何も言わず、うつむき加減で部屋に入った。
「ううん、ただ通りかかっただけ。何が最悪なの、父様。何の話をしてたの」
「何でもない。部屋に戻りなさい、ダリアン。こんな時間に出歩くものじゃない」
立ち去る直前、もう一言だけ耳に入ってきた。
「あの子に対して冷たすぎるわ、ヴァレリウス。もう少し配慮してあげて」
ドアが閉まる。
結局、彼らが何を話していたのかという謎だけが残された。
◇ ◇ ◇
翌日、俺は再び訓練に戻った。
今日の太陽はいつもよりずっと近くにあるように感じられる。王族の居住区には熱気を冷気に変換する魔法陣があるとはいえ、紫外線まで防ぐことはできない。
「こんなものは何でもない。戦士を目指すなら、太陽を味方につけろ。敵でも、重荷でもなくね。分かったか」
「はい。光は僕の道標になるべき、ですよね」
「その通りだ」
剣を握り直し、彼に向かって踏み込んだ。
体を捻り、斜め下から突きを放つ。
アレクシオはそれを防ぎ、横薙ぎの斬撃で応じた。
俺は反射的に一歩後退し、剣を掲げてその一撃を逸らそうとした。
『バキッ!』
手の中の木剣が折れた。アレクシオは俺の防御をすり抜け、その指を俺の額に突きつけていた。
「よし、今はここまでだ。容赦のない日差しだろう」
「はい、アレクシオ。少し目が回ります……まだ慣れていなくて」
「すぐに慣れるさ。ダリアン、どんなに寝苦しい熱帯夜でも、暗闇の中で目が利くように早く太陽が昇ってほしいと願うようになる。内部魔力で感覚を強化できるとはいえ、それは別の側面に使うべきだ。視覚だけに頼れば、隙が生まれる」
「分かりました、アレクシオ。ただ……少し休ませてください」
彼は頷き、タオルを手に取ると、再び護衛の任務へと戻っていった。
あの男……底知れない体力だ。
俺に座学と実技を教え、その後すぐに仕事へ向かう。
それら全てを、わずか数時間のうちにこなしている。
溜息をつき、折れた木剣の柄を手放した。
俺にもあんなことができるようになるのだろうか。
歯がゆい。
経験はあるのに、肉体がそれに追いついていない。
◇ ◇ ◇
その後、俺は冷蔵庫と名付けた地下室にこもり、しばらくそこで過ごした。
海へ行く前に、ルビー先生から渡された本を持っていた。
セレナに関する本だ。
『かくして、偉大なる戦士セレナは、沿岸を荒らす海魔に立ち向かった。
深淵より出でしその怪物は、海を捨てて脚を得ることで、大地にまで支配を広げようと目論んでいた。もしそれが成されていれば、地上の全生命は破滅していただろう。
しかし、セレナはそれを許さなかった。
祝福されし剣を手に、彼女は波打ち際で獣を迎え撃ち、変態が完了する前にこれを討ち果たした。
あの日以来、アントロポス王国の沿岸を襲おうとする海魔は二度と現れなかったのである』
この王国は、そんな名前だったのか……。
本には、彼女がどれほど長く生きたかは記されていない。
だが、英雄として、きっと孤独な死を望んだはずだ。
多くの場合、英雄というものは他人の目から見れば幸福な存在として映る。
前世の俺も、まさにそう感じていた。
他人の問題を背負い込み、過剰な期待を押し付けられ、一度でもミスをすればその結果の全責任を負わされる。彼女が同胞から憎悪されたように、そういう負の側面は物語では描かれないことが多い。
なぜ描かれないのか。
物語というものは、大衆を鼓舞するためのシステムだからだ。
もしセレナが孤独に死んだと語れば、多くの者は目立つことを恐れるようになる。
それでも、彼女はいつも微笑んでいたと言われている……。
実際に、彼女の肖像画も残っている。
何があっても、常に笑顔だった。
その点だけは、俺とは相容れない。
彼女に関するデータ:
セレナ・姓はなし
南部の村、ケラリスの出身。
プラチナブロンドの髪に、空色の瞳。
身長は推定一九〇センチメートル。
彼女は十代の頃からすでに相当な長身だったらしい。
同世代の中で最も背が高い女性。
その力を証明する前は、規格外の服や靴を身に着けているというだけで迫害されていたという。
ケラリスの人間の偽善には呆れるばかりだ。
第一に、自分たちの同胞を迫害した。
第二に、彼女が力を示した途端、手のひらを返してちやほやした。
そして第三に、彼女が旅立つと、今度は憎悪を向けた。
十代の彼女を見捨てたくせに、自分たちが見捨てられると怒り狂うとは。
『大衆というのは、本当に愚かだ』
残りのページは、彼女の生涯に関する推測ばかりだった。
溜息をつき、本を閉じる。
床から立ち上がり、服の埃を払って、自分の部屋へと戻った。
◇ ◇ ◇
氷の柱を生成するための魔法陣を描くことにした。
水属性魔法氷柱。
一定の冷気を保ち、食料などの物資を保存するためのものだ。
この手の処理には、複数の魔法が存在する。
風属性魔法:冷風。
風属性魔法:温度交換。
火属性魔法:吸熱。
一般的な想像とは裏腹に、明確な攻撃魔法というものは存在しない。
本にも記されていた通り、魔法は戦争という文脈から生まれた技術ではないからだ。
だから炎弾ファイヤーバレットのような都合のいい術はない。
だが、少し頭を使えば、これらの術を他者を傷つけるために転用することは可能だ。
もっとも、自身を危険に晒すことになるが。
火魔法の起動は決して無音ではないのだから。
氷柱の魔法陣に話を戻そう。
最初の工程はシンプルだ。
十字を描く。
なぜ十字なのか。
✞
十字には四つの端があるが、水魔法において使用されるのは三つだけだ。
垂直の線が最も長い。これは水の自然な状態……つまり液体を表しているからだ。
その状態から、他の二つの状態が派生する。
右の先端は気体を意味し、左の先端は固体を意味する。
十字は、あらゆる水魔法における根源的な構造である。
では、最初の起点はどこに置くべきか。
この場合、左側だ。
マナを固体の状態へと誘導するための基盤として、そこに1を配置する。
魔法陣のサイズに応じた小さな柱を形成するイメージを持つこと。
重要なポイント:冷気による白い煙と、結晶化した水のエフェクトを伴うこと。
術を構築し、手を伸ばす。手のひらからマナが淀みなく流れ出た。
「っ! 通常よりマナの消費量が異常に多い!」
何か手順を間違えたか……。
それとも、これが本来の仕様なのか。
全力で手を引き剥がそうとしたが、強烈な引力で吸い寄せられる。
「チッ……や、やめろ……ッ」
腕力で勝てると信じ、もう一度強く引いた瞬間、俺の意識は途切れた。
……。
「私の可愛い坊や、大丈夫! 本当に心配したのよ!」
目を開けると、俺は両親のベッドに寝かされていた。
『気絶したのか……マジかよ』
ジュリエットが、何が起きたかを全て話してくれた。
どうやら、術が完全に暴走したらしい。
自分自身に危害が及ぶ可能性がある魔法は、即座に強制解除される仕組みになっている。
その安全装置に救われた。でなければ、低体温症で死んでいただろう。
「ごめんなさい、氷柱の魔法を試していて……」
「ダリアン、次からはお庭でやりなさい。分かったわね」
『……え』
説教されると思っていた。
大人になるまで魔法は禁止、くらいの、もっと厳しい罰を予想していたのに。
「分かったよ、母様……」
「坊や、もしまた同じようなことが起きたら、原点に集中して……」
「うん、それはやったんだけど……反応しなかったんだ。ものすごく強い力に引っ張られて」
「うーん、本当に……。まあ、あなたがそう言うなら信じるわ」
だが、俺の予想に反して、結果的に大きな問題にはならなかった。
屋敷の換気システムが、冷気が全体に広がるのを防いでくれたからだ。
それでも、ダクトを伝ってヴァレリアのところまで冷たい風が届いたらしい。
バンッ!
ドアが勢いよく開いた。
「すっごくかっこよかったよ、ダイくん! あの冷たい風、今まででいっちばん最高だったんだよっ!」
彼女の呼び方はダリくんからダイくんへと変わっていた。
彼女曰く、こっちの方が響きがいいらしい。
「かっこよくなんかないよ。魔法が暴走して……」
「ぜったいすごかったもん! ねっ!」
ヴァレリアは心底興奮している様子だった。
ジュリエットの話では、彼女はずっと俺のそばにいてくれたらしい。
「ヴァレリアちゃん、うちの坊やを看病してくれてありがとうね」
「本をいーっぱい読んだんだもん! そこにはね、奥さんは旦那様の看病をするものだって書いてあったんだよっ!」
「そうね。男の人って時々おバカさんになっちゃうから……私たちがいないとダメなのよね」
「うん、本にはそう書いてあったけど……! でもね……! ダイくんはおバカじゃないもん、すっごくすごいんだからっ!」
ジュリエットが近づき、彼女を優しく抱きしめた。
「本当に、私にとって最高の姪っ子だわ……。さあ、行きましょうか。ダリアンくんはお風呂に入らなきゃいけないから」
彼女はコクンと頷き、二人で部屋を出て行った。俺は一人取り残された。
もうお風呂の準備ができているのか。
俺の手は、まだ小刻みに震えていた。
'……リ……'
『あの声!』
俺は弾かれたように身構えた。
ベッドから跳び起き、周囲を素早く見渡す。
何もない。だが、その声は確かに骨の髄まで響き渡った。
前は……ヒカと言ったか? そして今は、リ。
『どうして、俺の前世を……』




