第九話 【声の残響】
あの声は、二度と聞こえなかった。
だが、感覚としてはまだ残っている。
奇妙だ。
通常なら、前世の元素との繋がりが戻ってきたのだと考えただろう。
だが今、俺にとっての日常は別の形を取っていた。あの古の声だ。
俺は狂ったのか。
あるいは、この新しい肉体が、異世界からの魂という異物に反応しているだけなのかもしれない。
それとも、単純に気が触れたか。
そのどちらかだ。
元素と交信していた頃、それは外部からの干渉だった。
確かに脳内には空虚な感覚があったが、振動そのものは肌で感じる物理的なものだった。
だが、この声は違う。
骨に響いた。
内側に、確かに在る。
いや、馬鹿げている。
そんなはずがない。
俺にそんなことが起きるはずがない。
なぜだ。
分からない。
とりあえず今は、呼吸を続けよう。
◇ ◇ ◇
ルビー先生は世界についてという本を読み続けていた。前回とは違う本だ。
C・Cという謎の著者のものではなく、ラザム家のアルスという人物が書いたものらしい。
どうやら、C・Cの記述には多くの誤りがあったようだ。
原初の海は、かつて唯一存在したものだった。
だからこ名前だが、この本では今なお在り続けるものとして言及されていた。
「極北の寒気は過酷を極めます。ゆえに人類は、大都市『久里欧瓦』の要所に魔法陣を設置することに携わりました。それらの魔法陣は、その地で生命を維持するために不可欠なものでした。グリンベアの毛皮の主要な輸出都市として、そこには常に雇用の機会があります。だからこそ、一年中寒冷な都市であるにもかかわらず、人々は嘆きの山を越えることを厭わないのです」
ルビー先生が読み終えた。
「あは、あはは……前のページのところで少し読み間違えちゃったわ。悪い報告書を書かないでね」
「気にしないでください。今日は暑いですから、そのせいですよ」
彼女は手で額の汗を拭った。
「ええ、そうね。もうすぐ授業も終わる時期だから、空調の魔法陣を稼働させていないのよ。どうしてかしら。無駄な出費になるから」
授業期間は通常九ヶ月だ。
夏まであと二ヶ月あるが、春も十分に暑いことがある。
もっとも、ゼレニアは二つの気候のちょうど良い境目に位置しているのだが。
俺は立ち上がり、チョークを手に取った。
「え。何をするの、ダリアン」
「冷風の魔法陣を描くんです」
「でも……」
遅い。
もう描き終えた。
最後の点を繋ぎ、腕を伸ばす。
空気が循環し始め、ルビー先生の表情が和らいだ。
「あなたって……本当に役に立つわね。その若さでもう魔法陣を素早く描けるなんて、評価を上げなくちゃ」
その若さで……か。
そういえば、この世界で六歳になるまであと二ヶ月しかない。
全てがあまりに早く過ぎ去って、実感が湧かない。
「可能な限り勉強しましたから。そのおかげですかね」
「うーん……そうかもね、もしかしたら。あるいは。ふふ、冗談よ。努力の賜物ね」
ルビー先生は明るい人だ。
裏表がない。
悪い報告書を書かないでなんて言う時も、文字通りの意味ではない。
不思議な人だ。理解できない。
両親を亡くしているのに、どうしてあんなに幸せそうでいられるんだ。
その方程式を知りたい。いや……方程式なんてものじゃないな。
ルビー先生が本を片付けに行ったので、俺は頭を振って思考を追い払った。
彼女はエルピダという村の出身だ。
そこに住んでいない人々は、その村をオーキボと呼ぶ。意味は希望の樫だ。
村の近くには巨大な森があり、その名の通りの木々で溢れているらしい。
「すっごく大きな木なのよ!」と、彼女は興奮気味に話していた。
そして今、彼女は俺が描いた魔法陣のすぐ横に座り込んだ。
効果はあったようだ。俺の魔法で彼女は落ち着きを取り戻している。
「ダリアン」
彼女は真っ直ぐに俺を見た。
「ありがとう。あなたは私が受け持った中で最高の生徒よ。本当に……驚かされたわ。来年もまた会えるといいわね」
「この屋敷に部屋があるのに、どうして今生の別れみたいに言うんですか」
「あ、ごめんね。私ってつい大げさになっちゃうの……でも、感謝の気持ちは本当よ。ありがとう」
「どういたしまして。助けてくれたのは先生の方です……そういうことです」
彼女は首を横に振った。
「どうしていつも自分の歩みを否定するの。自分の足跡を見てごらんなさい、少年」
「足跡。そんなもの、すぐに消えますよ」
「いいえ。道は消えないわ」
「道。人が行き交うことで、時間の経過とともに自然にできるもののことですか」
「ええ、それよ。それって消えるかしら。私たちの行動も同じこと。あなたはもうすぐ六歳になる。素晴らしい剣士であり、魔術師であり、飲み込みが早く、高潔だわ。それが水で洗い流されると思うの。海の中のどんなに困難な足跡だって、見つけることはできるのよ」
……返す言葉が見つからなかった。
言葉になる前に、喉の奥で死んでしまった。
俺はまたニヒリズムに戻りつつあるのか……。
いや、いつだってそうだった。
「聞いて、ダリアン。道というのは、ただ絶えず通るだけでできるものじゃないわ。みんながそこを通ると決めたからできるの。良い道は活用されるべきだし、良い目的地には平穏に辿り着くべきよ。……聞くけれど、魔法と剣を学んで幸せだったの」
目的地……運命……。
その言葉。
俺がずっと拒絶してきたその忌々しい言葉が、
今、文学的な意味を帯びて迫ってくる。
ヴァレリウスの長男として生まれた。
予知能力を持つ祖母は、俺が役に立つだろうと言った。
そして今、その言葉がまた俺に返ってくる。
「幸せ。それは……満たされていること、嬉しいこと、満足すること、楽しいこと……定義するなら、俺は満足しています。なら、幸せだったんでしょう。ですが、幸せとは正確には何なのか、定義できません」
何だ。
母のチョコレートか。
ヴァレリアと過ごす午後か。
アレクシオとの訓練や、メラニーからの弓のアドバイスか。
疲れているにもかかわらず、父が必ず俺の部屋のドアを閉めに来てくれることか。
それが幸せなのか。
「そう。いつかそれが何なのか、分かるといいわね」
彼女は笑顔で締めくくった。
驚いたことに、俺もまた、そうなることを望んでいた。
◇ ◇ ◇
授業が終わった。
「ルビーさん。行ってしまうの」
ジュリエットが言った。緊張しているのが分かる。
彼女に愛着が湧いていたのだろうか。
「はい、でも長くはありません。海へ行こうかと思いまして。それに、ギルドへ行って妹への仕送りを送りたいので」
母は微笑むと近づき、彼女を抱きしめた。
ルビー先生は目を丸くし、瞳を輝かせながら、抱きしめ返した。
「ごめんなさいね、ルビーさん。私ってこういう……感情のままに動いちゃうタイプで、後先考えないのよ」
「い、いえ、お気になさらず。嬉しかったです。ご存じですか……このお屋敷は、私にとって我が家のように感じられました。たった九ヶ月しか経っていないのに」
「これからもそうよ」
ジュリエットが付け加えた。
「ああ、そうだわルビーさん。セラフェル家のプライベートビーチに行けばいいじゃない。静かだし、食事もあるし、何より安全よ。それに、キャラバンで送るのも難しくないわ」
「で、でも、セラフェル家のビーチだなんて……最もプライベートな場所じゃ……」
「だからこそよ、ルビーさん。今は誰も使っていなくて退屈しているから、少し活気が必要なの。それに、夏が始まったら私たちも行くわ。つまり、ダリアンが六歳になったらね」
そうして、ルビー先生は去っていった。
なぜ彼女に行ってほしくなかったのだろう。
奇妙だが、俺の一部は彼女を姉のように見ていたのかもしれない。
もう一方の俺、ヒカリは、情を移すべきではないと警告していたが。
なぜだ。
◇ ◇ ◇
「ダリくん、海はすごく綺麗なんだって。私たちも行くの」
ヴァレリアが俺の横で寝転がっていた。
俺たちは木陰にいた。
俺は両手を頭の後ろで組み、彼女を見た。
「六歳になったら二週間海に行くって、母様が言ってた。来たければ、来てもいいよ」
ヴァレリアの瞳がパッと輝いた。
「ほんとに!」
「家族だろ。つまり、来る権利があるってことだ。それに……どうせ母様が君を招待するだろうし、俺の従兄弟たちも来るはずだから、問題ないよ」
「うーん……私に来てほしいって、素直に言えばいいのに」
「君が来れば退屈しない。それが俺の答えだ」
彼女は俺を強く抱きしめると、兄弟たちに知らせるために走っていった。
「やっぱり理解できないな、ヴァレリア。俺の何がいいんだか」
彼女はあと数ヶ月で十歳になる。
嬉しいのだろうか。




