三十六話 騎士庁舎
「……こうも簡単に侵入できるなんて」
おもむろにエクシリユスが呟いた。
今、彼女がいる場所は、暗く狭い細長い通路であった。
明かりは手元の松明のみであり、狭い視界の中をエクシリユスは一歩一歩慎重に進んでいた。
彼女の後ろには、セアレウスと前所長。
彼女達は、目的の場所を目指して、この通路を進んている最中だ。
つまり、この通路は騎士庁舎の地下、牢獄へと繋がっているのだ。
もちろん、出入り口となる場所は騎士達による厳重な警備が敷かれており、入ることも出ることも困難である。
前所長の立場を利用して、騎士達を説得しこの場所に入ることができた。
否、そのようなことはなく、見張りの騎士達を昏倒させ、その隙に侵入したのであった。
このやり方を提案したのは前所長本人で――
『前所長の立場? アテにしてたのらすまんの。そんなものはない』
と言い放った時には、セアレウスとエクシリユスは苦笑いを浮かべるしかなかった。
何はともあれ、三人は無事牢獄の中に侵入することができたのである。
「えーと、フェリックスさん」
エクシリユスが前所長へと声をかける。
彼女が呼んだ通り、彼の名前はフェリックス。
いつまでも前所長では呼びにくいだろうと、この道中に彼が二人に名前を教えていた。
「どうした? 」
「一応、脱出のことを聞いておきたいのですが……」
「うーん……その時でいいか? 」
フェリックスはポリポリと頭をかきながら答えた。
「あ……はい」
エクシリユスは諦めたかのように、乾いた声で返事をするのだった。
見るからに脱出のことは考えていないようであった。
「さて、ここから先……君達が探している人がどこにいるかはわしは知らん。どう探す? 」
フェリックスがそう言った途端、エクシリユスが懐からハンカチを取り出し――
「アランド」
と、魔法の言葉を口にした。
すると、ハンカチはヒラヒラと風に吹かれるように舞いながら、牢屋を出た先にある上層へと続く長い階段へと向かっていった。
「おおっ!? 」
フェリックスは口から驚きの声が漏れだす。
「そうか! あのハンカチを追っていけば辿りつくというわけか! 」
それから間もなく、彼はエクシリユスが魔法を行使した意味を理解した。
「便利な魔法だな。これなら意外と簡単に事が済みそうだな。いや、この先には見回りの騎士達がいる。わしの出番というわけだ」
フェリックスは神妙な顔つきで、腰に下げた鞘に納められた剣に手をかける。
彼が一般の騎士から所長になってからは、自ら戦うことはなくなったという。
戦い予感をして、彼は久々の実戦ということで臆するどころか、今か今かと戦いを待ち望んでいた。
現役を退いても不思議ではない初老の男性。
だが、彼が纏う戦士の空気は現役の騎士よりも鋭く、半端な実力であれば見るだけ圧倒されることだろう。
その証拠に、見張りの騎士達を昏倒させたのは彼一人であり、全員を昏倒させるのに一分の時間もかからなかった。
未だに誰一人として自分が気絶させられたことを認識していないだろう。
味方としては充分に頼もしい存在だ。
しかし――
「いえ、戦いは避ける方向で行くので見つからないように心掛けてください」
彼のその戦いに対するやる気は、まだ不要なものであった。
ここに入る前に騎士達を昏倒させたのは仕方ないとして、牢獄内での戦闘もとい騎士達に見つかりたくはないと考えていた。
イライザを探すことと脱出が困難になるからである。
無論、エクシリユスも彼女と同じ考えであった。
いくらフェリックスが強く見つかる前に気絶させられるとはいっても、戦いが避けられるのであれば避けるべきなのだ。
「エクシリユスさん」
「はい。騎士達の位置はこの暗がりでもわかりますし、床や壁の地形も把握できます。私に後をついていれば問題はありません」
「とのことです。まだ大丈夫です」
「そうか……」
フェリックスは、残念そうな顔で剣から手を離すのであった。
エクシリユスのアランドにより、イライザがいるであろう場所に向かっていたハンカチ。
そのハンカチがヒラヒラと宙を舞っていたのだがふわりと床の上に落ちた。
「……この場所なのか? 」
フェリックスがアランドの術者であるエクシリユスに問いかける。
彼はエクシリユスの顔を見てはおらず、床に落ちたハンカチを見下ろしていた。
「はい……そのはずです……」
返事をしたエクシリユスもハンカチを見下ろしている。
二人とも怪訝な面持ちである。
「む、不思議なことを言う……この牢屋に誰もいないというのに」
三人が辿り着いた場所は、牢獄の中の広い空間。
この空間の壁にはいくつもの牢屋があり、彼女達のその中の一つの牢屋の前にいた。
牢屋は三人のいる通路とは鉄の格子で隔たれており、中の様子は容易に窺い知ることができる。
中は一部屋分の広さがあり、石素材の壁と床は見えるのみ。
ハンカチは格子の隙間から牢屋の入ってゆき、何もない床の上に落ちたのであった。
これは、アランドによって追跡を続けていたハンカチが目的地に辿り着いたことを意味する。
つまり、ここにイライザがいるとハンカチは示しているのだ。
その落下した場所はおろか、この牢屋の中のどこを見ても彼女の姿は見当たらないというのに。
この不可解な状況に、エクシリユスとフェリックスは困惑していた。
さらに、術者であるエクシリユスは、内心強く動揺していた。
アランドにより、追跡が途絶えること。
これは彼女にとって初めての経験であった。
つまり、アランドによる追跡には絶対の自信があったということ。
今の状況は、彼女にとって到底あり得ない出来事であるのだ。
(どうして……アランドが獲物を見失うなんてありえない。おかしい……何かがおかしいはず……)
何故、このようなことが起きているのか。
エクシリユスは、その解明に頭のみみならず全身を集中する。
ハンカチを見下ろしたまま微動だにすることはなかった。
「エクシリユス、これは……ううむ、この魔法の使い手である君でも分からないか」
そんな様子を見て、フェリックスは彼女に話しかけるのをためらった。
「セアレウス、君は……ん? どこにいった? 」
代わりにセアレウスに話を振ろうとしたが、近くに彼女の姿は見当たらなかった。
この空間には、等間隔で壁に松明がつけられている。
それでも薄暗く遠い場所を見通すことは困難である。
フェリックスは目を細めて回りを見回してみた。
すると、セアレウスは姿を見つけることができた。
彼女は少し離れた場所で、キョロキョロと周りを見回しながら歩いている。
(……一応見てはみましたが、この近くの牢屋にもイライザさんはいない。というより、どの牢屋も誰も空っぽのようですが)
彼女は、近くの牢屋にイライザの姿がないか探していた。
その結果、イライザの姿は見つからず付近は無人の牢屋ばかりであった。
セアレウスは、フェリックスの視線に気づくと、彼とエクシリユスの元へ戻ってきた。
「一応、この近くの牢屋にいないか見ていました」
「おお、その可能性もあるか。それでどうだった? 」
「誰もいませんでした」
「ううむ、ダメか……」
セアレウスの報告に、フェリックスは肩を落として項垂れる。
「しかし、誰もいない……のか。わしが現役なら、今は冒険者共で入りきらん状態になっていただろうな。ははっ! 」
「あ、ははは……」
その場合は、自分達が捕まっていたかもしれない。
その考えがよぎり、微妙な笑いが出たセアレウスであった。
「エクシリユスさん、これは一体どういうことでしょうか? この場合、アランドはどうなったのです? 」
セアレウスは、エクシリユスに今のアランドの状態について訊ねる。
「アランドは……ハンカチの追跡は終わりました。つまり、ここにいる……か、あるいはお嬢様の匂いがここで断ち切られたか……」
「断ち切られた……そうか、どこか別の場所に連れていかれたのなら、その場所にハンカチは行くはずですよね? 」
「はい。でも、可能性としては考えにくいです。完全に匂いを断ち切って無臭になるくらいにならないとアランドの追跡は途切れません」
「ほぼ不可能ですか。しかし、この状況からすると匂いが断ち切られた可能性を低いと切り捨てるわけにはいきません」
「それはそうですが匂いを消すなんて存在そのものを消すようなものですよ? そんな難しいことを一体どうやって……」
セアレウスをエクシリユスは意見を言いながらアランドの追跡が中断された原因を追究し続ける。
アランドの魔法の特徴を確認しつつ、今の状況と照らし合わせながら答えを導き出そうというのだ。
地道な作業である。
加えて、魔法という専門的な分野についての話し合いだ。
「ううむ、難しい話をしておるのう……」
これまで剣一本で戦い抜き、魔法の知識の無いフェリックスは蚊帳の外であった。
しかし、そんな彼でも二人の話し合いがしばらく平行線を辿ることは予想することができた。
「あれこれとここで頭をひねっていても埒が明かん。とりあえず、中に入って調べてみようか」
このフェリックスの提案により、三人は牢屋の中に入ることにした。
幸いと言うべきか、中に誰もいないということで扉に鍵はかけられていなかった。
(鍵がかけられていない……誰もいないのだからかける必要はありませんか)
そんなことを思いながら、セアレウスは扉を開いて中に入る。
そして、床に落ちているハンカチに手を伸ばした。
「ん? 」
「どうしました? セアレウスさん」
セアレウスの後ろからエクシリユスが声をかける。
セアレウスがハンカチを拾い上げる際、ピクリと動きを止めたので不思議に思ったのだ。
「ハンカチを拾ったのですが……いえ、とりあえずこれを見てください」
セアレウスはそう言うと、拾ったハンカチを宙に放り投げた。
すると、ハンカチは先ほどと同じ場所へと落下する。
「……んん? 」
エクシリユスは、床に落ちたハンカチを凝視した。
何かがおかしかった。
そう言いたげに彼女は顔をしかめた。
「ふむ、何か不自然だったように見えたような……」
フェリックスも彼女と同じような感想を持っていた。
しかし、二人ともその何かを説明できるほど理解はしていなかった。
「もう一度やってくれるか? 」
「はい」
フェリックスに促され、セアレウスはハンカチを拾い上げると再び宙に放り投げた。
そして、ハンカチは先ほどと同じ場所に落下する。
「そういう……ことですか。ひとまず、ホッとしました」
「なるほどのう」
その瞬間、エクシリユスとフェリックスは理解した。
ハンカチが落下する速度が目に見えて速かいことに。
まるで、石のような物体を包み込んでいるかのように素早く落下していたのだ。
ハンカチのような薄く軽い布が落下する動きではない。
これが一度目に見た時に、二人が不自然に感じたものの正体であった。
「どうやらハンカチはこの床に吸い込まれているようなのです」
この現象を床に吸い込まれていると、セアレウスは言い放った。
遠回しな言い方ではあるが、アランドの効果は失われておらず追跡は続いているということ。
つまりは、この先があるということだ。
「道を開きます。二人とも離れていてください」
セアレウスは二人に離れるよう促すと、地面に伏せ左手を地面についた。
それから彼女の左手からゆっくりと水が溢れ出し、その周囲に水たまりが出来上がる。
やがて、水たまりからぶくぶくと泡が噴き出すと、その下にあった床の一部がゆっくりと浮き上がりだした。
「やれやれですね。ハンカチは落下していたわけではなく、下に向かって追跡を続けていたというわけでしたか」
その光景を見て、エクシリユスがやれやれと呟いた。
今、セアレウスが水を駆使して行ったのは、床を切り取り穴を開けたということ。
否、元々床は切り取られており、蓋として被せられた部分を持ち上げたのだ。
つまり、この牢屋には下の空間が存在することになる。
ハンカチはその先を示し続けていたのだ。
そのハンカチは、セアレウスが操る水によって持ち上げられた床の蓋の下にできた穴の中へと入ってゆく。
「大したもんだ。エクシリユスの魔法もすごいがセアレウスのもすごいのぅ」
「当然です」
「なぜエクシリユスさんが得意げなのですか。悪い気はしませんが……」
得意げに鼻を鳴らすエクシリユスに対して、セアレウスが僅かにはにかみながら言った。
「ハンカチが不自然な動きをするところで気づいたが……くそぅ、こんなところにさらに地下通路があるなんて、わしは知らんぞ」
先ほどセアレウスを誉めていた時はニコニコとしてしていたが、この時のフェリックスは苦虫を嚙み潰したかのように険しい表情をしていた。
「ふぅ……ということは、今の所長さんが作ったもので間違いないですね」
セアレウスは持ち上げた床の蓋を牢屋の中の隅に置く。
「まあいいわい。ともかく、この先に君達が探している嬢ちゃんがいるんだろう。どれ……」
そう言って、フェリックスが意気揚々と穴の中を覗き出す。
「うっ……」
その僅か一秒も経たないうちに、彼は短く呻くような声を上げた。
彼に続いて、穴の中を覗いた二人も言葉を詰まらせる。
少し前にフェリックスが言ったように、ハンカチが不自然に落下した様子を見てから、この下に空間があることは誰もが想像していたことであった。
この穴の中は、誰も想像すらしていない光景であり、まさに意表を突くものであった。
「な……何もない……だと? 」
フェリックスの乾いた声が牢屋の中にじんわりと響き渡る。
彼の言葉の通り、穴の中には何もなかったのだ。




