第5話 栄光のミルフィーユと、迫りくる牙
待ちに待ったスイーツフェスティバルの当日、ディルフィア領は朝から快晴に恵まれた。領主の城へと続くメインストリートには色とりどりの旗がはためき、領内各地から集まった人々や、着飾った貴族たちの熱気で満ち溢れている。
会場の中心部に設けられた特設ブースエリアは、甘い香りと活気でむせ返るようだ。伝統的な焼き菓子を並べる老舗から、斬新なアイデアを競う新進気鋭の店まで、多種多様なブースが軒を連ねる中、私たちの「マティルドの菓子工房」もささやかながら存在感を放っていた。
純白のテーブルクロスの上には、朝一番で焼き上げた自慢の「リンゴのタルト」と数種類のクッキー、そして中央には、自信作である「ベリーのミルフィーユ」がガラスのショーケースの中で輝きを放っている。幾重にも重なった黄金色のパイ生地、純白のカスタードクリーム、そしてルビーのように艶めくベリーのコントラストは、道行く人々の足を止めさせるのに十分な魅力があった。
「わぁ、綺麗…! あれが噂の侯爵令嬢のお菓子?」
「晩餐会で皆を唸らせたとか…一度食べてみたいわね」
ひそひそと交わされる会話が耳に入る。昨夜の中傷ビラの影響は、幸いなことにほとんど見られないようだ。むしろ、あの騒ぎが逆に注目を集めたのかもしれない。フローラと二人、少し緊張しながらも、背筋を伸ばして客を迎える。
「さあ、皆さん、見てください! これがマティルド様特製のミルフィーユですよ! タルトも絶品ですからね!」
フローラの元気な声が響く。彼女の明るさが、場の雰囲気を和ませてくれる。
昼過ぎ、会場が一段とざわめき始めた。人垣がモーゼの海のように割れ、その中心から、煌びやかな衣装に身を包んだ一団が現れた。護衛の騎士たちに囲まれ、穏やかな笑みを浮かべて歩いてくるのは、隣国から訪れたレオニード王太子その人だった。
(いらっしゃった…!)
心臓がドクンと大きく跳ねる。フローラも息を呑むのが分かった。レオニード王太子は、まるで吸い寄せられるように、まっすぐ私たちのブースへと歩み寄ってきた。
「これはこれは…噂に違わぬ美しさだ。君が、マティルド嬢だね?」
穏やかで、涼やかな声。蜂蜜色の髪に、空を映したような青い瞳。間近で見る王太子は、想像以上の気品と、人を惹きつける不思議なオーラをまとっていた。
「は、はい! マティルド・フォン・グリュースと申します。ようこそお越しくださいました、レオニード殿下」
緊張で声が上ずりそうになるのを必死で抑え、淑女の礼をとる。フローラも慌てて隣で頭を下げた。
レオニード王太子は、興味深そうにミルフィーユを眺めた後、ふと隣に並べられたフルーツタルトに目を留めた。それは、晩餐会で出したものをベースに、フェスティバルのためにさらに改良を加えた、私の自信作の一つだ。
「このタルト…どこかで見たことがあるような…いや、しかし、この輝きは…」
「もしよろしければ、殿下。お味見なさってくださいませんか? このディルフィアの太陽をたっぷり浴びた果物を、心を込めて焼き上げました」
私は、震える手で一切れのタルトを銀の皿に乗せ、彼に差し出した。周囲の視線が痛いほど集まっている。この一瞬に、全てがかかっている。
レオニード王太子は、優雅な仕草でフォークを手に取ると、タルトを小さく切り分けて口へと運んだ。会場の誰もが、息を詰めて彼の反応を見守っている。
王太子の目が、わずかに見開かれた。そして、ゆっくりと咀嚼する彼の表情が、驚きから、深い感動へとみるみる変わっていく。彼はしばし目を閉じ、天上の音楽でも聴くかのように、その味を全身で受け止めているようだった。
やがて、ゆっくりと目を開けた彼の口から、感嘆のため息と共に言葉が紡がれた。
「素晴らしい…!」
その一言に、会場が安堵と期待で小さくどよめく。
「なんという調和だ。サクサクとした生地の香ばしさ、果実の鮮烈な甘みと酸味、そしてそれらをまとめ上げるクリームの繊細な香り…全てが完璧に計算されている。複雑でありながら、どこまでも澄み切っている。これぞ、まさしく…心を癒す味だ!」
レオニード王太子は、興奮した様子で私に向き直ると、その青い瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「マティルド嬢、君は天才だ!」
そして彼は、周囲に集まったディルフィア領の貴族たちや、他国の使節団を見回すと、やや大きな声で高らかに宣言した。
「皆も聞いたであろう! このディルフィア領の豊かな果実と、このマティルド嬢の見事な技術! 我が国は、この素晴らしい菓子を通じたディルフィア領との交易を、前向きに検討することを約束しよう!」
その言葉は、まさに外交的な一撃だった。会場は、わあっという歓声と拍手、そして興奮した人々のざわめきで満たされた。父である侯爵が、感極まった表情で私を見ている。やった…! 私のスイーツが、国境を越えるかもしれない!
しかし、その栄光の瞬間は、長くは続かなかった。
突如、会場の後方から、怒声が響き渡ったのだ。
「待った! その女を信用してはならない!」
騒ぎの中心にいたのは、みすぼらしい身なりながらも、ギラギラとした憎悪の光を目に宿した数人の男たちだった。彼らは、警備の制止を振り切り、人垣を乱暴にかき分けて、一直線に私たちのブースへと迫ってくる。
「その菓子には毒が入っているかもしれんぞ! 王太子殿下、お気をつけください!」
「そうだ! この女は、裏で汚い商人どもと手を組み、不正な手段で材料を仕入れている! 俺たちはその証拠を掴んでいるんだ!」
男たちの叫び声に、会場の空気は一変した。歓声は悲鳴と怒号に変わり、人々は混乱し、後ずさる。レオニード王太子の護衛騎士たちが、素早く彼の前に立ちはだかる。会場の隅では、アルト様が険しい表情で部下に何か指示を出しているのが見えた。
「な、なんですって!」
フローラが、私を守るように前に立ちはだかる。しかし、男たちの勢いは止まらない。その目は、明らかに私――マティルド・フォン・グリュースを、この栄光の場から引きずり下ろそうという、明確な悪意に満ちていた。
最高の瞬間から、一転して最悪の危機へ。降り注ぐ好奇と非難の視線の中、私はただ唇を噛みしめることしかできなかった。
(第五話 了)




