身だしなみは基本の基。
悠利は何だかんだで馴染んでます。
早いもので、悠利が《真紅の山猫》に身を寄せてから、二週間ほどが経過していた。それはつまり、悠利がこの異世界に転移してきて二週間ほどが過ぎ去った、ということだ。
その間に、悠利は何だかんだで《真紅の山猫》に、王都ドラヘルンに、馴染んだ。元々が脳天気で楽観的な性格をしていたからだろうか。少なくとも悠利は、誰にも文句を言われること無く、一日三回の食事の支度と、掃除と洗濯をすることが求められる生活を、満喫していた。思いっきり主夫のライフスタイルなのだが、本人はむしろ喜んでいる。
ちょくちょく市場にも出かけて、もはや店の人間とは顔馴染みになった。市場だけでなく、商店にも出かけている。そちらはそちらで、値段はそれなりだが質の良い商品が大量に出回っていたし、既製品を探すならばそちらの方が楽しかったというのもある。どちらが良いというわけではない。悠利は双方の利点をちゃんと理解していて、そのどちらもで少しずつ顔馴染みを増やしていた。
また、アリーからこの世界の常識を叩き込まれてもいる。色々と世間知らず全開でぽろっとうっかりやらかしてしまう悠利なので、アリーは懇々と常識を叩き込み、鑑定系持ちがどうするべきかなど、様々なことを教わった。ただし、悠利は冒険者ではないし、なりたいとも思っていないので、護身術に該当するようなことはまだあまり教わっていない。そのうち、何が向いているのか解ったら教えるとは言われているが。
あと、悠利はとりあえず、鑑定士組合に登録をした。
冒険者になるつもりは無かったし、依頼をこなすつもりも無かったので、とりあえず身分証明書として、鑑定士組合の登録証を手に入れたのだ。普通は手っ取り早く冒険者ギルドでギルドカードを作って貰うのだが、期間内に一つ依頼を達成しなければ登録を取り消されるので、悠利はそっちは諦めた。もとい、アリーが止めさせた。
そもそもが、悠利は超レア技能の【神の瞳】を所持する探求者である。職業や技能の登録が必須であるギルドカードなんぞ、うっかり発行したら大変なことになる。あと、鑑定でステータスを確認したいのに、それが不可能なのだから、色々面倒なことにしかならない。その点、鑑定士組合は、鑑定が出来れば登録証を発行してくれる。そちらの方が悠利には向いていたのだ。
勿論、悠利が探求者であることは伏せてある。鑑定の技能を持っているという触れ込みだ。職業は鑑定師で登録をしておいた。鑑定士組合では無断で鑑定をすることは無いし、悠利の場合、保護者としてアリーが出向いたので、技能と職業はアリーが太鼓判を押す形になった。冒険者ギルドと違ってステータスを記入する必要が無いので、実に悠利向きだったのである。
そんなわけで、悠利は、ここの生活を満喫していた。満喫しすぎていた。というか、違和感無く存在していた。
「ユーリ、オイラ達、鍛錬に行ってくるね?」
「うん、気をつけてね。いってらっしゃい。夕飯までには帰ってきてね?」
「戻るよ。今日の夕飯当番、オイラだもん」
ヤックを始めとする見習い少年達は、それぞれ自分用の護身武器を手に走っていった。魔物と戦うわけではない。彼らは体力作りをするために出かけていっただけだ。悠利も同行するかと聞かれていたのだが、興味が無かったのと向いていないと思ったので、お断りしておいた。人間、気のないことをやっても成果はでない。
なので悠利は、今現在は趣味の一つである裁縫をやっていた。食堂のテーブルにクロスの一つもかかっていないのが寂しかったからだ。とはいえ、クロスを作るのは手間がかかるので、ランチョンマットの作成をしている。生地を購入した後、色とりどりの刺繍糸で模様を縫っているのだ。
…なお、悠利が使っている裁縫道具は、彼の学生鞄にいつものごとく入っていた裁縫セットである。
しかもこの裁縫道具、こちらの世界に来てから、チェンジしてしまった。というか、学生鞄を含め、悠利の持ち物が全て、魔法道具になってしまったのだ。学生鞄は魔法鞄へと変化してしまい、薄っぺらい普通の鞄だった筈が、容量無制限かつ時間停止付きかつソート機能付きという、何か色々アレなレアアイテムへと変貌していた。異世界転移怖いと悠利は思った。
その他、鞄の中に入っていた道具類も、全て色々あり得ない方向に変化した。とはいえ、そこまで物騒ではない。…単純に、使っても使っても、壊れない、減らない、無くならない、というチートっぷりなだけだ。例えば、ボールペンならばインク切れを起こさない。ノート類ならば、何故か白紙のページが使った分だけ増える。ハサミや針の類は、壊れなくなったし、どんなモノでも切れたり刺せたり出来るようになった。色々あり得ないのだが、便利なのでそのまま有り難く使わせて貰うことにした悠利である。
ただし、この世界に電気が存在しないので、スマホやウォークマンの類は、充電切れでただの鉄の塊と化した。とはいえ、捨てるのも勿体ないので、魔法鞄と化した学生鞄の中で眠って貰っている。
そんなわけなので、悠利が趣味の裁縫を延々と行ったところで、刺繍糸は減らない。手持ちの糸を使っている限り、少しも減らないのだ。とはいえ、それだけでは色が寂しいので、勿論市販の刺繍糸も購入して使っているのだが。
「糸が減らないのは便利だよね~」
と暢気なことを言いながら、鼻歌を歌いながら刺繍を続けている悠利。…なお、魔法道具はほどよくお高いアイテムである。このアジトはアリー達指導係組の腕が良いので冒険者としても稼いでいるため、あちこちに魔導具や魔法道具があるが、普通はそんなモノは所持できない。買い出し用の魔法鞄だって、一般人から見たら羨ましすぎる一品である。…が、悠利にその手の自覚は無いので、使い慣れた道具が壊れないことが有り難い、程度の認識であった。
「ユーリ、俺、これから出かけるけど、何か買ってくるものあるか?」
「クーレ?どこ行くの?」
「依頼人に頼まれてた採取品を届けに行ってくるんだ」
「そうなんだ。特にお使いのお願いはないかなー」
「了解-」
笑顔のクーレッシュを見送ろうとして、悠利は首を捻った。待って、と呼び止めたのは反射だった。不思議そうに振り返るクーレッシュに、悠利は質問をする。
「クーレ、時間ある?」
「え?あぁ、別に依頼人と約束してるわけじゃないし」
「じゃあ、ボタンが取れかかってるから、上着貸して」
「…うん?あぁ、これぐらい大丈夫だって。まだ平気」
「駄目」
「え?」
いつものほほんと笑っている悠利が、ちょっと真面目な顔をして駄目と言い切った。前髪で目元が見えにくいのだが、眼鏡の奥の顔がいつもより真面目な顔をしているのはクーレッシュにも理解出来た。なので大人しくしたがって側に来ると、悠利に上着を渡した。
ジャケットタイプの上着は普通に前ボタンなのだが、その一番下の部分が取れかかっていたのだ。糸がちょろりと出ているのだ。もう、ほんの少しでも引っ張ったら千切れてしまいそうなのだ。悠利はそれが見逃せなかった。慣れた手つきで糸を切ってボタンを外すと、そのまま丁寧に付け直している。
「ユーリ、手先器用だなぁ…」
「ボタン付けぐらいは誰でも出来るよ。…はい、できあがり。依頼人さんに会うんだったら、身だしなみはちゃんとしないとね?」
「……身だしなみ、ねぇ…」
悠利に手渡された上着を羽織りながら、クーレッシュは苦虫を噛み潰したような顔をする。悠利が不思議そうに首を捻れば、ひょいと肩を竦める。同年代というのもあって、クーレッシュは悠利に気安い。…まぁ、基本的に、《真紅の山猫》の面々は、誰も彼もが悠利に好意的すぎるのだが。別に、運が∞という能力値の影響ではないだろう。むしろ、餌付け効果だと思われる。
「クーレ?」
「身だしなみとか出来るほど、金ねーしなー」
ぼやくクーレッシュに、悠利は首を捻った。悠利は身だしなみを説いただけであって、別にお洒落をしろとは言っていない。悠利の中で身だしなみとお洒落は別だ。身だしなみ=清潔できちんとした格好であって、お金をかけてブランド品を身につけろという話ではない。
が、どうやらクーレッシュはそこら辺を誤解しているらしい。なので、悠利はそこはちゃんと訂正しておこうと思った。
「別に、お洒落しろって言ってないよ?僕はただ、依頼人さんに会うなら、できる限り清潔に、きちんとした格好で、と思っただけ」
「…うん?」
「例えばね?綺麗に洗濯して、皺一つ無いようにしたシャツと、数日着回して、皺だらけの服だったら、どっちが綺麗?」
「……あー、あー、そういうの?」
「そう。そういうの。だから、このボタンも、取れかかってるより、綺麗な方が良いでしょ?」
「…了解。そっかー、そういう考え方か-」
あまり馴染みが無かったのか、クーレッシュはしみじみと頷いていた。悠利はついでとばかりに、袖や裾のほつれも綺麗に直してあげた。なお、裁縫の技能レベルが高い悠利なので、その作業は無茶苦茶早かった。本人も、自分の手が日本にいた頃より素早く動いているのは自覚しているが、作業が早くなって良かった程度の認識だった。流石である。
その後、クーレッシュは依頼人の元へと向かい、悠利は相変わらず暢気に刺繍をしていた。
なお、この話には後日談がある。
悠利に言われて、クーレッシュは身だしなみに気を配るようになった。トレジャーハンターを目指す冒険者である。そこまで身綺麗にしているわけではない彼らである。だが、悠利の言葉には一理あると考えたのか、金をかけることは無いが、清潔と綺麗さを心がけた。
その結果。
依頼人やギルドの職員など、関わる全ての人々から好意的な評価を頂くようになった。
彼らとしても人間である。心がある。無論、外側だけが全てではなく、内面を見ることを心がけている人はいる。だが、例え質素な身なりでも、清潔に、身綺麗にしている相手に対しては、好意的になるのは道理だ。そうなれば、話も通りやすくなる。結果として、彼らは仕事がスムーズに行えるようになったのだ。
ランクが低くても構わない。年齢が若くても構わない。お金が無くても構わない。身だしなみを整えるのは、極論、子供でも出来ることだ。そんな簡単な事で仕事がスムーズになると思っていなかった彼らは、揃って悠利に感謝の言葉を伝えた。勿論、一番最初に教えて貰ったクーレッシュは誰よりも熱心に。
けれど、それに対する悠利の返答は、実にあっさりだった。
「え?だって、身だしなみがちゃんとしてたら、自分も相手も嬉しいでしょ?」
自分は身だしなみを整えれば、気分が晴れる。相手はそんな自分を見て好意的になる。たったそれだけのことだし、別にお金もそこまでかからないし、悠利にしてみれば普通のことだ。…悠利は、現代日本の一般家庭の基準が、こちらの世界では色々アレなことに、まだ気づいていなかった。相変わらずである。
だが、これにより、徐々に、徐々に冒険者達に身だしなみを整えるという心構えが広まっていく。それは同時に、ほんの少しだが冒険者達のイメージを向上させた。自分がそんなことに関与しているなど悠利は気にしていないし、誰もそれを告げることは無かったのだが。
身だしなみは、社会生活の基本中の、基本だという、そういう話である。
まぁ、身だしなみは基本ですよね?という話です。
悠利は別に特別なことを口にしたつもりはないのですが…。
荒事担当みたいな冒険者が、身だしなみを気にすることはあまりなかったようです…。
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