第百四十四話「アリシア問題」
翌朝、柔らかな朝日が窓から差し込む中、俺は深刻な問題について真剣に考えていた。
アリシアのキス中毒の件だ。
最近の彼女は、もはや常軌を逸している。
俺を見つけるたびに……いや、見つけるよりも早く、まるでレーダーで感知しているかのように俺の気配を察知して、獲物を狙う肉食獣のような俊敏さでキスを求めてくる。
妻たちとの大切な時間を邪魔されることも日に日に増えて、正直なところ、非常に困っていた。
でも、それ以上に、何よりも心配なのは、アリシア自身のことだった。
あんな風に、呼吸をするように、生きるために不可欠なもののように誰かに依存するのは、彼女にとって良いことじゃない。
健全じゃない。
彼女の人生を、彼女自身の手で豊かにしていくためにも、俺たちがお互いに本当の意味で幸せになるためにも、この異常な状況をどうにかしなければならない。
俺は、依存症を治すためには何が必要なのかを、医学書を読みながら考えた。
医学的な専門知識はないけれど、一般的な依存症治療の原則として、きっと別のことに集中させること、新しい目標や生きがいを見つけさせることが大切なのだろう。
そうだ、アリシアには優秀な魔法使いとしての、Sクラスに匹敵する素晴らしい才能がある。
それを活かせるような、彼女が夢中になれるような何かを提案してみよう。
俺の得意な銅像造りなんてどうだろうか。
彼女の高度な造形魔法と組み合わせれば、きっと世界でも類を見ない素晴らしい芸術作品が作れるはずだ。
創作活動に没頭すれば、彼女の意識も少しずつ変わっていくかもしれない。
俺は決意を固めて、リビングでソファに腰掛けてくつろいでいるアリシアの元へ、できるだけ自然な足取りで向かった。
でも、その瞬間……
アリシアが、まるで獲物の匂いを嗅ぎつけた野生動物のように、ピタリと動きを止めた。
彼女の目が、レーダーのように、熱感知センサーのように俺を正確に捉える。
そして、その視線は一直線に、迷うことなく、執拗に俺の唇に固定された。
「タクヤ…」
アリシアが立ち上がる。
その動きは、もはや人間のものではなく、まるで獲物を見つけた捕食者のようだった。
ゆっくりと、しかし確実に、一歩一歩、俺との距離を詰めてくる。
その目は完全に焦点が定まっていて、俺の唇以外は視界に入っていないかのようだった。
「アリシア、ちょっと話が……」
俺が声をかけた瞬間、アリシアが信じられない速さで飛びついてきた。
「タクヤ!」
アリシアが勢いよく、まるで飢えた獣のように俺に抱きついて、そのまま床に倒れ込む。
彼女の体重が俺にのしかかり、バランスを失って倒れる。
「ちょっと待て、話があるんだ……」
「魔力補給です!」
アリシアが興奮した、理性を失ったような声で叫ぶ。
その声は震えていて、切羽詰まった響きがあった。
「私、もう限界なんです!
魔力が足りなくて、足りなくて、このままでは死んでしまいそうなんです! 頭が痛くて、体が重くて、息をするのも苦しいんです!」
「んー!」
俺の言葉は、アリシアの唇によって完全に遮られた。
彼女が俺の首に腕を回して、まるで溺れる者が浮き木にしがみつくように、必死に、狂おしいほど積極的にキスしてくる。
いや、積極的というレベルではない。
これはもう、生存本能だ。
まるで、溺れる者が空気を求めるように、砂漠で水を求めるように、生きるために不可欠なものを渇望するように、必死にキスを続ける。
「んーんー」
俺は必死に、全力で離れようとするが、アリシアの腕力は思った以上に、想像を絶するほど強い。
Sクラス相当の魔力を持つ彼女の身体能力も、魔力で強化されているのか、相当なものなのだろう。
俺の力では、彼女を引き剥がすことができない。
しかも、彼女の舌が、まるで生き物のように俺の口の中を積極的に、貪欲に探ってくる。
一滴も逃さないように、歯茎も、上顎も、舌の裏側も、隅々まで執拗に舐め回す。
「んっ…はぁ…美味しい…甘い…濃厚…」
アリシアが一瞬だけ、ほんの一瞬だけ唇を離して、恍惚とした表情で呟く。
「タクヤの魔力…最高です…天国です…もっと…もっと…」
そして、再び、さらに激しく、狂気じみた情熱でキスを続ける。
「んー、んー!」
俺が激しく抵抗しても、アリシアは全然、まったく離してくれない。
むしろ、より深く、より強く、より貪欲にキスしようとしてくる。
彼女の体重が俺に完全にのしかかって、身動きが取れない。呼吸も苦しい。
この状況、本当にまずい。
妻たちに見つかったら、また誤解されてしまう。いや、誤解どころか、本当に怒られる。
俺が必死にもがいていると、タイミング悪く、ルナが部屋に入ってきた。
「タクヤさん、朝食の準備が……」
ルナの言葉が、途中でピタリと止まった。
彼女が俺とアリシアの状況……床に倒れ込んで、激しくキスをしている光景を見て、目を見開いて困惑している。
「あの、これは……」
「んー、んー!」
俺が助けを求めるように、必死に手を振る。
目で訴える。
助けてくれ、と。
アリシアは、ルナの存在に気づいても全く止まらない。
むしろ、誰かに邪魔される前に、もっともっと吸わなければ、取られる前に独占しなければ、という焦りと独占欲が見える。
「んっ…んっ…もっと…もっと…」
彼女の呼吸が荒くなっている。
完全に、完全に中毒者の症状だった。
理性のブレーキが壊れている。
ルナが慌てて、でも冷静に駆け寄ってきた。
「アリシアさん、タクヤさんが困っていますよ」
でも、アリシアは聞こえていないようだった。
彼女の世界には、俺の唇しか存在していない。
「アリシアさん」
ルナが少し強めに、しかし優しさを失わずに肩を掴む。
ようやく、ようやくアリシアが俺から離れた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
俺が激しく、荒々しく息を整える。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。
唇が腫れている。
熱を持って、ヒリヒリと痛む。
アリシアは満足そうな、至福に満ちた表情で、自分の唇をゆっくりと、味わうように舐めている。
目が恍惚としていて、まるでトランス状態だ。
頬が赤く染まり、呼吸も荒い。
「ありがとう、ルナ。
実は、アリシアに提案したいことがあったんだ。
でも、話す前に、こうして襲われてしまって」
「提案、ですか?」
ルナは興味深そうに、でもどこか警戒するような目で聞いた。
「ああ、銅像造りを一緒にやらないかって。
君の素晴らしい造形魔法と組み合わせれば、きっと世界でも類を見ない素晴らしい作品が……」
「タクヤ♪」
またアリシアが、まるで何も聞いていなかったかのように俺に近づいてくる。
その目は、完全に獲物を捕らえた捕食者のものだった。
理性の光が消えて、欲望だけが燃えている。
やばい、また話を遮られる。
「ルナ、頼む」
藁にもすがる思いでルナに助けを求める。
「代わりに説明してもらえないか? このままじゃ、俺は一言も喋れない」
「わかりました」
ルナが優しく頷いて、アリシアの前に立ち塞がった。
まるで盾のように。
「アリシアさん、タクヤさんが銅像造りを一緒にやりませんかと提案されています」
ルナが丁寧に、母親が子供に言い聞かせるように説明する。
「タクヤさんの造形技術と、アリシアさんの素晴らしい造形魔法を組み合わせれば、きっと世界中の人々を感動させる素晴らしい芸術作品が作れると思うのです」
「銅像造り?」
アリシアが首をかしげる。
でも、その目は、まったく、一瞬たりとも俺の唇から離れない。
「でも、私はタクヤとキスする方が大切です。何よりも大切。
これは魔力補給なんですから。生きるために必要なことなんですから」
「魔力補給がないと、私は魔法が使えなくなるんです。体も動かなくなるんです。それに、魔力が足りないと体調も悪くなりますし、頭痛もしますし、吐き気もします」
アリシアが必死に、まくし立てるように理由を並べる。その声は切羽詰まっていた。
「だから、銅像造りよりもキスの方が重要です。比べ物にならないくらい重要なんです」
そう言って、また俺に近づこうとする。
その動きは、まるでゾンビのように執拗だった。
「魔力補給、ですか?」
ルナの声が、いつもと少し違った。
まるで、何か重大な秘密を見抜いたような、探るような、試すような口調だった。
その目には、鋭い洞察力が宿っている。
「はい」
アリシアが自信満々に、胸を張って答える。
まるで完璧な論理を述べているかのように。
「私がタクヤにキスすることで、お互いに魔力を補給し合っているんです。
これは、Sクラス魔法使いにとって必要不可欠なことなんですよ。生命維持活動の一つなんです」
「魔力が足りないと、最悪の場合、死んでしまうこともあるんです。本当に死ぬんです」
アリシアが真剣な顔で、まるで科学的事実を説明するかのように淡々と説明する。
「だから、一日に何度も、できれば一時間に何度もキスをしないといけないんです。これは義務なんです」
「そうなんですか」
ルナが納得したような、でもどこか疑わしいものを感じているような表情になる。
「それは大変ですね。Sクラス魔法使いは、そんなに苦労しているんですね」
そして、ルナが爆弾を落とした。
「実は、私もタクヤさんに魔力を分けていただきたいと思っていたんです」
「え?」
???
アリシアの顔が、一瞬で、見る見るうちに血の気が引いて青ざめた。
まるで幽霊を見たかのように。
「ル、ルナさん?」
アリシアが明らかに動揺して、声を震わせながら警戒するように聞く。
「あなたも、魔力補給が必要なんですか? エルフなのに?」
「はい」
ルナが優しく、天使のように微笑む。
でも、その微笑みには、どこか恐ろしいものが潜んでいた。
「私も魔法使いですから、魔力補給が必要なんです。アリシアさんと同じように。
タクヤさん、私にも魔力補給をお願いします」
そう言って、ルナが俺に、ゆっくりと、優雅に近づいてきた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
アリシアが慌てて、パニックになって二人の間に割り込もうとする。
「魔力補給は、私だけの特権なんです! 私だけのものなんです!
タクヤの魔力は、私だけのものなんです! 誰にも渡さない!」
でも、ルナは優しく微笑んだまま、まるで何も聞こえていないかのように、俺に顔を近づけてキスをしてきた。
彼女の柔らかな唇が、俺の唇に優しく、羽根のように軽く触れる。
ルナのキスは、アリシアのそれとは全然、まったく違った。
優しくて、温かくて、愛情に満ちている。
包み込むような優しさがあった。
決して貪欲ではなく、ゆっくりと、丁寧に、相手を思いやるように。
数秒後、ルナが俺から静かに、名残惜しそうに離れた。
彼女が不思議そうに首をかしげている。
「あれ?」
「魔力補給された感じがしませんね。何も感じません」
その言葉を聞いて、アリシアの顔が真っ青になった。
まるで世界が終わったかのように。
「そ、そんなはずありません!」
アリシアは慌てて、必死に、声を張り上げて言った。
「きっと、ルナさんの感覚が鈍いだけですよ! エルフは魔力感知が苦手なんです! 魔力補給は、とても微妙な、繊細な感覚なんです!
慣れていないと、分からないこともあるんです! 私は何ヶ月も訓練したから分かるんです!」
アリシアが必死に、まくし立てるように言い訳をする。
その声は明らかに焦っていた。
「そうでしょうか」
ルナが首をかしげる。
その表情は、まるで科学者が実験結果を分析しているかのようだった。
「私もタクヤさんの魔力を全く感じませんでした。
体の中に流れ込んでくる感覚も、温かさも、何もありませんでした。
タクヤさん、あなたはどうですか? 魔力が減った感じはしますか?」
「いや、特に何も」
正直に答えた。
「ルナとキスしても、魔力が減った感じは全くしないな。体も軽いし、疲れてもいない」
「そうですか」
その目には、確信の光が宿っていた。
「では、もしかして、アリシアさんが言っている魔力補給というのは……」
「ち、違います!」
アリシアが慌てて、まるで溺れる者のように必死に否定する。
「魔力補給は、本当に必要なんです! 嘘じゃないんです!」
「私の魔力が、今にも、本当に今にも尽きそうなんです!
だから、タクヤとキスをしないといけないんです! 今すぐに!」
アリシアが涙目になっている。
その目は、明らかに嘘をついている時の目だった。
焦りと恐怖が入り混じっている。
「お願い、信じてください! 私、本当に死んじゃうんです!」
「いや……うそ……かも」
アリシアが青ざめる。
血の気が完全に引いて、まるで死人のようだ。
ルナの優しい笑顔が、逆に恐ろしく見える。
天使の笑顔が、悪魔の笑顔に見えた。
つまり、アリシアはずっと嘘をついてキスをしていたことになる。
魔力補給なんて必要なかった。
最初から、そんなものは存在しなかった。
彼女は、ただキスがしたかっただけだったのだ。
俺の唇が欲しかっただけなのだ。
「なによそれ!」
突然、エリカが現れて、怒りに満ちた声で怒鳴った。
その声は、家中に響き渡るほど大きかった。
「魔力補給だなんて嘘ついて、タクヤにキスしてたってこと? 毎日毎日、朝から晩まで?」
エリカが呆れたような、怒ったような、信じられないという表情でアリシアを見る。
その目には、明らかな敵意が燃えていた。
「なにやってんのよ、もう! 私たちを騙して! タクヤを独占して!
私だって、タクヤとキスしたかったのに! でも、あんたが魔力補給って言うから、我慢してたのに!
それが全部嘘だったなんて! 許せない!」
「で、でも……」
アリシアが慌てて、必死に弁解しようとする。
その声は震えて、涙声になっている。
「本当に、本当に魔力補給だったんです! 嘘じゃないんです! ただ、ルナさんとタクヤさんには、その感覚が分からなかっただけで。
「私には、ちゃんと、はっきりと感じられたんです!
タクヤの魔力が、私の体に流れ込んでくるのが! 温かくて、力強くて、生命力に満ちた魔力が!」
アリシアが必死に、涙を流しながら言い訳をする。
でも、その声は震えている。
嘘をついている自覚があるからだ。
「それに、魔力補給をしないと、私は本当に死んでしまうんです! 体が衰弱して、魔法も使えなくなって、最後には心臓が止まるんです!
だから、お願い、信じてください! これは命に関わることなんです!」
アリシアが俺にすがりつく。
その目は、懇願に満ちていた。
でも、さすがに言い訳のしようがない。
ルナの冷静な実験によって、魔力補給が完全な嘘だとばれてしまったのだから。
彼女は、ずっと、一瞬たりとも俺の唇から視線を離さずに見つめている。
まるで、また吸い寄せられそうになっているみたいだ。磁石に引き寄せられる鉄のように。
「アリシアさん」
ルナは優しく、しかし断固とした口調で言った。
「嘘をつくのは、良くありませんよ。私たちは家族です。家族は正直でなければなりません。
正直に話してくれませんか? 本当のことを」
ルナの声は、怒っていない。
むしろ、心配しているような、悲しんでいるような、優しい口調だった。
「アリシア。
なんで君がこんなふうになったのか、教えてくれないか? 俺たちは、君を助けたいんだ」
「それは……」
アリシアは恥ずかしそうに、顔を真っ赤にしながら答えた。
「セリア大陸で、偶然唇が当たったでしょう? あの時、タクヤが私を助けてくれた時。あの時から、ずっと、ずっとタクヤのキスが忘れられないです。
四六時中、タクヤの唇のことを考えています。朝起きた瞬間から、夜眠るまで。
夜も眠れないし、ご飯も喉を通らないの。タクヤのことしか考えられません。
タクヤとキスをしていない時間は、まるで地獄なんです。息ができないくらい苦しいんです」
アリシアが涙を流しながら、切々と告白する。
その声は、本当に苦しんでいる人間の声だった。
「それだけで?」
エリカが呆れる。
その声には、明らかな嫉妬が混じっていた。
「偶然触れただけで、そんなことになるの? たった一回のキスで?」
「それだけじゃないんです!」
アリシアが反論する。
涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。
「あれは私の初体験だったんですよ! 人生で初めてのキスだったんです!
初めてのキスだったんです! そんな大切なものを奪われたんです!
初体験を奪ったんだから、タクヤは責任を取って、ずっと私とキスするべきです! 一生、一生よ! 死ぬまで私とキスをし続ける義務があるのよ!」
アリシアが逆ギレしている。
その論理は、完全に破綻していた。
「それに、タクヤだって悪いんですよ! タクヤのせいです!
「あんなに美味しいキスをするから! あんなに甘くて、濃厚で、忘れられないキスをするから! 一度味わったら、もう戻れないじゃないですか! 中毒になるじゃないですか!」
「タクヤの唇は、麻薬みたいなものです! 違法薬物なんです!
一度吸ったら、もう二度と戻れないないんです! 一生、一生求め続けます!」
アリシアが自分勝手な理屈を、涙と鼻水にまみれながら並べる。
初体験って、キスのことか。
確かに、アリシアは十六歳だし、魔法の訓練ばかりしていて今まで異性と接触する機会も少なかっただろう。
でも、だからといって……
「でも、それは俺の責任じゃ……」
「責任です!」
アリシアが強い口調で、まるで裁判官が判決を下すかのように断言する。
「私の大切な、かけがえのない初体験を奪ったんだから、ちゃんと責任を取りなさい!」
「一生、私とキスをし続ける義務があるのよ! 契約です、契約! 毎日、毎時間、毎分、毎秒!」
「ずっと、ずっと、永遠にキスをし続けるべきなんです! それが責任ってものです!」
この理屈、完全に無茶苦茶だ。
論理が破綻している。
でも、アリシアは本気でそう思っているらしい。
その目は、狂気じみた確信に満ちていた。
「アリシアさん。
その気持ちは、分からなくもありません。
初体験の相手は、女性にとって特別なものですから。一生忘れられないものですから」
「でしょう? でしょう?」
アリシアがルナに縋りつく。
藁にもすがる思いで。
「ルナさんも、分かってくれますよね? 女性なら分かるはずですよね?
初体験の相手を、忘れられないのは当然ですよね? 一生追い続けるのは当然ですよね?」
「はい、分かります」
ルナ優しく頷いた。
でも、その目には断固とした意志が宿っていた。
「でも、だからといって、こんなに依存するのは良くありませんよ。
アリシアさんには、もっともっと素晴らしい人生が待っているはずです。タクヤさんへの依存ではなく、自分自身の力で、自分の足で幸せを掴んでほしいんです」
ルナの言葉は、優しく、そして深い愛情と説得力に満ちていた。
「で、でも」
アリシアが涙声で抵抗する。
「私は、タクヤとキスをしないと生きていけないんです! 本当に、本当に死んでしまうんです! 心臓が止まるんです!」
「魔力補給は嘘だったけど、でも、精神的には本当に、本当に必要なんです!
タクヤのキスがないと、私の心が死んでしまうんです! 魂が消えてしまうんです!」
アリシアが必死に、狂ったように訴える。
その姿は、もはや哀れだった。
俺が困惑して、どうすればいいのか分からず立ち尽くしていると、オルテンシアが優雅な足取りで現れた。
「何を騒いでいるのよ」
オルテンシアが状況を、まるで理解していないという表情で見回す。
「アタシの勉強の邪魔じゃない。
貴族のアタシは、毎日五時間は勉強しなければならないのよ。
歴史も、文学も、芸術も、すべてを学ばなければならないの。貴族の義務なのよ」
「オルテンシア、ちょうど良かった」
オルテンシアに、藁にもすがる思いで頼む。
「アリシアを、しばらく別の場所に隔離してもらえないか? 俺から離してほしいんだ」
「隔離?」
オルテンシアが首をかしげる。
その表情は、本当に言葉の意味を理解していないようだった。
「隔離って、牢屋に入れるってこと? それとも、地下牢?」
「いや、そうじゃなくて……」
「ああ、分かったわ!」
オルテンシアが手を叩く。
まるで世紀の大発見をしたかのように。
「つまり、お預かりすればいいのね。貴族の館で、客人をもてなすみたいに」
「そういうことだ」
もう、細かい説明は諦めた。
「彼女のキス中毒を治すために、少し距離を置く必要があるんだ」
「キス中毒?」
オルテンシアが不思議そうに聞く。
「キスで中毒になるの? キスって毒なの?」
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃあ、タクヤのキスには毒が入ってるの?」
オルテンシアの顔は真剣そのものだった。
「タクヤの唇に、毒蛇の毒でも塗ってあるの?
それは危険ね。アタシもタクヤとキスしたら、中毒になっちゃうじゃない
貴族のアタシが、毒で死ぬわけにはいかないわ」
オルテンシアの思考回路は、もはや理解不能だった。
「いやです!」
アリシアが子供みたいに、まるで駄々をこねる幼児のように泣き叫んだ。
「タクヤから離れるなんて、絶対に、絶対にいやです!」
彼女が俺にしがみついてくる。
その力は、魔力で強化されているのか、異常に強い。
十六歳とは思えない、完全に駄々っ子みたいな、理性を失った行動だった。
「離れたら、私は死んでしまいます!
本当に、本当に死んでしまいます!」
「タクヤのキスがないと、私の心臓が止まってしまうんです! 呼吸もできなくなって、血も流れなくなって、体が冷たくなって、意識が遠のいていくんです!
お願い、離さないで! お願い! お願い!」
アリシアが必死に、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で懇願する。
「うわーん、うわーん!」
アリシアが本当に子供みたいに、幼稚園児のように泣いている。
涙と鼻水と、よだれまで垂らして、顔がぐちゃぐちゃになっている。
「離れたくない、離れたくないよー!
一秒だって、一瞬だって、タクヤから離れたくないです! ずっと、ずっと一緒にいたいてわす!」
「キスをし続けたいでーす! 永遠にキスをし続けたいです!」
その姿は、まるで親と離ればなれになる幼い子供のようだった。
いや、それ以上に幼稚だった。
Sクラス魔法使いという彼女の立場、十六歳という年齢を考えると、この姿は信じられないほど、異常なまでに幼稚だった。
「楽しそうね」
オルテンシアが、完全に状況を誤解した、頭の悪い発言をした。
その顔は、純粋な笑顔だった。
「楽しそうって……
アリシアが泣いてるんだぞ。苦しんでるんだぞ」
「でも、仲良しさんみたいで、とっても楽しそうじゃない」
オルテンシアが屈託なく、無邪気に笑う。
「抱き合って、くっついて、まるで親子みたいよ。
アタシも、タクヤとそんな風に抱き合いたいわ。貴族のアタシには、特別な扱いが必要なのよ。
レーヴェン家の娘として、最高級の愛情表現を受ける権利があるの」
この人の天然っぷりは、本当に、度を越してすごい。
次元が違う。
「とにかく、お願いします」
俺がオルテンシアに深々と頭を下げる。
「アリシアを連れて行ってください。俺から離してください」
「わかったわ」
オルテンシアが優雅に頷く。
そして、泣きじゃくるアリシアを、まるで荷物を持ち上げるように軽々と抱え上げた。
その腕力は、驚異的だった。
「いやー、タクヤー!」
アリシアが必死に手を伸ばして、まるで溺れる者が助けを求めるように俺を呼ぶ。
「タクヤー、タクヤー!
お願い、離さないで! 私を見捨てないで!
私を捨てないで! 私を一人にしないで!」
「キスさせて、お願い、もう一回だけ! たった一回だけでいいから! 最後にもう一回だけキスさせて! それで我慢するから!
お願い、お願い、お願い! お願いします!」
アリシアが狂ったように、まるで世界の終わりが来たかのように懇願する。
その声が、だんだん遠くなっていく。
オルテンシアがアリシアを、まるで軽い荷物のように軽々と抱えて、外へ出て行った。
「タクヤああああああ!」
アリシアの最後の叫び声が、断末魔のように家中に響き渡った。
その声は、悲痛で、切なく、そして狂気に満ちていた。
「やれやれ」
俺がため息をつく。
心の底から疲れを感じる。
ようやく、ようやく平穏が戻った。
この静寂が、どれほど貴重か。
「タクヤったら、大変ね」
エリカは同情するような、でも呆れるような、そして少し嫉妬を含んだ複雑な口調で言った。
「でも、アリシアちゃんの気持ちも、少しは、ほんの少しは分かるわよ。私だって、タクヤと毎日キスしたいもの」
「どういうことだ?」
「初体験って、女の子にとっては本当に、本当に特別なものなのよ」
エリカが真剣な表情で説明する。
「たとえキスだとしても、いや、キスだからこそ、初めての相手は一生忘れられないものなの。唇の感触、温かさ、味、すべてが記憶に刻まれるの」
「そうなんですか」
ルナが興味深そうに、でもどこか共感するように聞く。
「私も、タクヤさんが初体験でしたが、確かに忘れられませんね。あの日のこと、あの瞬間のこと、今でも鮮明に覚えています」
ルナの言葉に、俺は少し、心臓がドキッとした。
そういえば、ルナにとって俺が初めての相手だった。
エリカも、クロエも、オルテンシア(?)も、ユリエルも、みんなそうだ。
俺は、彼女たち全員の初体験の相手なのだ。
その責任の重さを、改めて、深く感じる。胸が重くなる。
「でも、だからといって、あんなふうに依存するのは良くないわ」
その声には、明らかな嫉妬が混じっていた。
「アリシアちゃんには、自分の人生を生きてもらわないと。それに、タクヤを独占するのは許せないわ。私だって、タクヤともっとキスしたいのに。
毎日毎日、アリシアちゃんがタクヤを独占して、私たちは我慢してたのよ」
「それが全部嘘だったなんて、本当に許せない」
エリカの目には、嫉妬の炎が燃えていた。
「そうだね。彼女の才能を、もっと有効活用できるはずなんだ。アリシアは、本当に優秀な魔法使いだから」
「アリシアさんは、とても優しい方です」
その声は、本当に心からアリシアを心配しているようだった。
「きっと、人を助けることに喜びを感じられると思います。治癒魔法の才能もありますし、医療の分野で活躍できるはずです」
「そうだな」
アリシアの才能を活かして、彼女が充実感を得られるような、生きがいを感じられるような何かを見つけたい。
医療関係はどうだろうか。
リオ先生の病院で、研修をさせてもらうとか。
アリシアの高度な治癒魔法の才能なら、きっと多くの人を救える。
役に立つはずだ。
人を助けることで、人の笑顔を見ることで、彼女も生きがいを感じられるかもしれない。
「リオ先生に相談してみよう。
アリシアの才能を活かせる場所を、見つけてもらえるかもしれない。彼女に、新しい目標を与えられるかもしれない」
「それは良いアイデアですね」
ルナが賛成する。
その顔は、希望に満ちていた。
「アリシアさんも、やりがいのある仕事があれば、きっと変われると思います。人を助けることで、自分自身も救われるはずです。
私たちも、できる限りサポートしましょう」
その時、外から大きな、悲痛な声が聞こえてきた。
「タクヤー! タクヤー!」
アリシアの声だった。
まだ諦めていないようだ。
まだオルテンシアと一緒にいるはずなのに、なぜ俺を呼んでいるのだろう。
「なんだか、騒がしいですね」
ルナは心配そうに、でもどこか呆れたように言った。
「見に行ってみましょうか」
◇ ◇ ◇
俺たちが外に出ると、オルテンシアがアリシアを両腕で、まるで暴れ馬を押さえるように押さえつけているところだった。
「放して、放してよ!」
アリシアが暴れている。
その力は、魔力で強化されているのか、凄まじい。
「タクヤに会わせて! お願い!
もう一回だけ、もう一回だけキスさせて! たった一回、たった一回でいいの!
お願い、お願い!」
「だめよ」
オルテンシアが力づくで、圧倒的な腕力でアリシアを制止している。
「アタシがタクヤに頼まれたんだから。貴族のアタシは、約束を守るの
約束を破るのは、貴族の恥なのよ。レーヴェン家の名に傷をつけるわけにはいかないの」
オルテンシアの圧倒的な、生まれ持った天然の腕力で、アリシアは身動きが取れないようだった。
「でも、すごいパワーね」
オルテンシアが感心している。
まるで珍しい動物を観察しているかのように。
「この子、魔力で身体能力を強化してるみたい。すごい魔力の流れだわ。
貴族のアタシに対抗しようなんて、生意気ね。でも、面白いわ」
確かに、アリシアの体から強烈な魔力のオーラが立ち上っている。
無意識に、本能的に魔力を使って、力を劇的に高めているのだろう。
でも、オルテンシアの生まれ持った天然の、異常な腕力には敵わないらしい。
「タクヤ!」
アリシアが俺を見つけて、涙目で、魂を込めて訴えてくる。
「お願い、離さないで! 私を見捨てないで!
私、もうキスしないから! 絶対にしないから!」
「ちゃんと言うことを聞くから! 何でも言うこと聞くから!」
「嘘はつかないから! 二度と嘘はつかないから!
だから、お願い! お願いします!」
彼女が必死に懇願している。
でも、その目は、明らかに、あまりにも明らかに嘘をついている。
キスしないなんて、絶対に、絶対に守れない約束だ。彼女自身も分かっているはずだ。
「アリシア、君のためなんだ」
俺ができるだけ優しく、でも断固として説明する。
「少し距離を置いて、冷静になる時間が必要だと思う。君自身のために、これが一番いいんだ」
「いや、いやよ!」
アリシアが激しく首を振る。
涙が飛び散る。
「冷静になんて、なりたくない! このままがいいの! ずっとタクヤのことを考えていたいの! 一秒も忘れたくないの!
タクヤの唇の感触を、ずっとずっと思い出していたいの! 永遠に!」
「お願い、お願い!」
この依存症状は、思った以上に、想像を絶するほど深刻だった。
専門的な、本格的な治療が絶対に必要だ。
「アリシアさん。
これは、あなたのためなんですよ。私たちは、あなたを傷つけたいわけじゃないんです。
私たちは、あなたが幸せになってほしいんです。本当の意味で、心の底から幸せになってほしいんです」
ルナの声は、怒っていない。
むしろ、心から、本当に心から心配しているような、愛情に満ちた優しい口調だった。
「私たちは、あなたの味方ですから。いつでも、どんな時でも。
一緒に、この問題を乗り越えましょう。必ず、必ず乗り越えられます」
ルナの優しさが、アリシアの荒れた心に少しだけ届いたようだった。
アリシアの抵抗が、少しだけ、ほんの少しだけ弱まる。
「でも…」
アリシアが涙を流す。
その涙は、本物の悲しみだった。
「でも、タクヤがいないと…私…私、本当に生きていけないの…死んでしまうの…」
「大丈夫です」
ルナが優しく、母親のように微笑む。
「私たちが、ついていますから。あなたは一人じゃありません。一緒に頑張りましょう。必ず、明るい未来が待っています」
◇ ◇ ◇
「リオ先生に相談してみるか。医学的なアドバイスをもらえるかもしれない。専門家の意見が必要だ」
「それは良いアイデアですね」
その表情は、希望に満ちていた。
「アリシアさんの状態について、専門的な意見を聞いてみましょう。そして、アリシアさんには新しい目標を見つけてもらいましょう。
人を助ける仕事、人の役に立つ仕事」
「きっと、素晴らしい未来が待っていますよ」
ルナの優しい言葉に、アリシアは少しだけ、ほんの少しだけ落ち着いたようだった。
でも、まだ俺の方を見つめている。
その目は、諦めていない。まったく諦めていない。
隙あらば、また俺にキスをしようとしている。
その執念は、恐ろしいほどだった。
「オルテンシア、アリシアをお願い
しばらく、俺から離しておいて。頼む」
「わかったわ」
オルテンシアが優雅に頷く。
「でも、この子、すごく力が強いのね。魔法で強化してるからかしら。
貴族のアタシでも、押さえるのが大変よ。でも、楽しいわ」
「魔力で身体能力を強化してるからな」
いつからこんなふうになったのだろう。
「でも、オルテンシアの方が強いみたいだから、安心だ」
「もちろんよ」
オルテンシアが自信満々に、胸を張って言う。
「アタシに任せておきなさい。貴族の力を見せてあげるわ。レーヴェン家の腕力は、代々受け継がれてきた伝統なのよ」
そして、暴れるアリシアを、まるで子供を抱えるように軽々と抱えて、どこかへ連れて行った。
「タクヤー! タクヤー!」
アリシアの声が、だんだん小さくなっていく。
「お願い、振り向いて! 一度だけでいいから!
もう一度だけ、私を見て! 私の顔を見て!
タクヤの顔を見ないと、死んでしまうの!」
「タクヤああああああ!」
最後の叫び声が、悲痛な叫びが、遠くに消えていった。
「可哀想ですけど、仕方ありませんね」
ルナが同情する。
その表情には、深い悲しみがあった。
でも、その表情は優しく、そして強い決意に満ちていた。
「アリシアさんのためですから。これが、彼女のためなんです。私たちが、しっかりサポートしてあげましょう。諦めずに」
「そうだな。きっと、これが一番良い方法だと信じてる」
でも、心の奥では、少し、確かに罪悪感も感じていた。
アリシアの涙を見ていると、彼女の悲痛な叫びを聞いていると、本当にこれで良いのか迷ってしまう。
でも、このままでは、お互いにとって良くない。
破滅への道だ。
アリシアには、もっと充実した、もっと豊かな人生を送ってもらいたい。
俺への依存ではなく、自分自身の力で、自分の足で幸せを掴んでもらいたい。
そのためには、今は心を鬼にする必要がある。
辛くても、耐えなければならない。
「リオ先生に、すぐに連絡してみよう。
アリシアの治療法について、専門的な相談をしてみる」
「はい。私も、できることがあれば全力で協力します。
アリシアさんが、本当の幸せを見つけられるように。自分自身の人生を、自分の力で切り開けるように」
エリカも、同意してくれた。
でも、その目には、まだ嫉妬の炎が残っていた。
「私たちみんなで、アリシアちゃんを支えてあげましょう。でも、もうタクヤを独占するのは許さないわよ。
きっと、大丈夫よ。私たちなら、できるわ」
俺は、家族の絆の強さを改めて、深く感じた。
みんなで力を合わせれば、きっとアリシアも救える。
必ず救えるはずだ。
そして、彼女が本当の意味で幸せになれる道を、必ず見つけてあげたい。
それが、俺たちにできることだった。俺たちの使命だった。
遠くから、まだアリシアの叫び声が、風に乗って聞こえてくる。
「タクヤああああ」
でも、俺は振り向かなかった。
今は、心を強く持たなければならない。
アリシアのために。
そして、家族全員のために。
俺は、前を向いて歩き続けた。
新しい希望に向かって。
必ず、すべてがうまくいくと信じて。




