ムーンリバー/1
読んでくださり、ありがとうございます。
ここは東国。
あの日、遥か雲の上ではこんなことが起きていた。
怪奇日食のため、口のデカイ狼が太陽神を追いかけていた。太陽神は、狼から全力で逃げている。
「畜生!またこの季節になったのか!」
「とっとと飲み込まれてさっさと済ませろ!」
「海外勢共が!他人事だと思いやがって!あの獣の口の中は臭いんだぞ!手前らも知っているだろう!あぁ嫌だ!」
狼が太陽を飲み込もうと口を大きく開けた。
モワっと熱気と口臭が太陽神に襲い掛かる。
「ああ汚らしい穢れが!邪神の子孫だからと調子に乗りやがって!」
太陽神は思いつく。遥か彼方、自分が引きこもったあの土地を。
「ハーハッハハハ!貴様等神共が!儂はいつかの日の如く引きこもるぞ!五分の臭い口の中より、百年の引きこもりじゃ!」
周りの神は驚いただろう。まず一番に驚いたのは弟の月神。
「はぁ?!馬鹿姉上、また引きこもる気ですか!正気か!?」
ピカァっと光ると、太陽神は消えていた。狼は消えた獲物に困惑し、悲し気に鼻を鳴らす。
「…どうするのです?」
見物に来ていた木の神が呆れながら言う。
「…はぁ。また苦労が始まる」
月神は大きな溜息を吐くと、早速太陽神を捜すために、自力で輝き、東国を照らし始めた。
・・・
太陽がいなくなって七年が経つ。
月は沈まず、消えた太陽を探すようにずっと昇っている。欠けることもせず、あの日からずっと満月。
この国は僅かな月明かりと大量に設置された街灯で明るさを保持している。それが無いと外は真っ暗だからね。昔の人は、月明かりで過ごしていたんだから尊敬に値するレベルだと思う。
(文明の利器に慣れ過ぎた人間の果て…)
今じゃ電気が無いと何もできない人も多いだろうな。
あと、七年前から変わったと言えば、時計だ。デジタルにしても、アナログにしても、PM・AM。午後・午前が必ず明記されるようになった。特にアナログの秒針時計は。
それが無いと、夜なのか昼なのか解らないからね。デジタルなら〇~二十四まで数字で表記できるから、まぁそんな変ってはいないか。
バイト先の喫茶店。客がお会計を済ませ、見送り、テーブルを片づける。
「すみません、お会計を…」
「はい、ただいま!」
僕はお盆をテーブルに置き、レジへ向かう。
レジの前にいるのは常連客の高校生くらいの女の子。週に二、三回の頻度で来てくれる。学校が終わってから来るからか、いつも制服を着ている。
お嬢様学校って言われている本州にある女子校の制服。
ミックスなのか、東国人離れした顔付きだけど、どこかこっち寄りの顔も見せる。
「お会計一〇八〇円になります」
「ここのスコーンセット、美味しいから…母国を思い出すの」
「そう、ですか」
ヤバイ
「きっと、貴方も一度本場のスコーンを食べてみるといいわ。こことの違いが解るかも」
「そう、ですね」
ヤバイ
「その、本場のスコーンを…」
カランコローンと扉に付けているベルが鳴る。お客さんが来店だ。
(助かった…)
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
お客さんは開いている席に座る。店長がお冷を提供すると、注文をする。
彼女は空気を呼んだのか、千円と百円をトレーに乗せる。
「二十円のおつりです」
「また来るわ」
「またのご来店を」
彼女が出ていく。
心の中がどっと疲れる。変な汗だって掻いている。バクバクと変な音を立てる。
「雲母坂君、もう上がりの時間だよ。お疲れ様!」
店長が時計を指すと、十八時。今日のバイトの終了時刻だった。
「あ…お疲れ様です。お先失礼します」
「お疲れ様。雲母坂君、入った当時に比べると凄く成長したよね。最初は上手にやり取りできなくて心配だったけど…さっきもお客さんとのマニュアル以外の会話もちゃんと受け答え出来てたし」
「そうでしょうか…」
「出来てたよ。もっと自信持ちなよ」
店長が笑う。
話している間にさっさか作ったカフェオレを提供しに行く。僕はテーブルに置きっぱなしにしていたお盆を片づけると、休憩室へ行く。
あのバイト先は一年前から務めている。
実質小卒の僕は、姉に勉強を教わりながら十八歳を迎えた。人と関わるのが苦手で、友達もいない。家族である姉だけが頼りで、初めてのバイトは緊張した。
だって、誰かと喋るのが嫌いだから。
苦手だから。
僕が紡ぐ言葉には呪いがあるから。
だから、余計なことは喋りたくない。
(小学校頃に傷つけちゃった礼音君は今、大丈夫かな…ちゃんと、癒えていてくれたらいいんだけど…)
七年前、僕が言った余計な一言で深い傷を負った友達。あれから僕は不登校になったから、彼が元気に戻れたか知る由は無い。
(僕が悪いのに、凄く嫌な気持ちになる)
嫌な思い出が煙のように頭に絡みつく。それを払うように首を振る。
帰り道、下校途中の小学生達が僕の自宅の前に群がり中を覗いていた。
「…おい」なるべく低い声で威嚇する。
「ヤベ!幽霊屋敷の住人だ!」
「逃げろ!」
蜘蛛の子散しのように一斉に逃げ出す子供達。
僕は盛大に溜息を吐く。
別に自宅がオンボロな訳ではない。ただ、死んだ両親が経営していた美容院。本当は遺品整理とかしないといけないんだろうけど、この七年間手が付けられずにいる。掃除はするけど、それも気が向いたとき。だから今はカット練習用の首だけのマネキンが陳列し、埃っぽさから荒れた室内に見えるのか、幽霊屋敷なんて言われるんだろうね。
「ただいまぁ」
自宅側の玄関を開ける。
まだ姉は帰ってきていない。
姉ちゃんは本州にある会社に勤めている。十八時に勤務終了。残業は基本無しだから大体十九時前には帰ってくる。
その前に僕は夕飯の支度をする。
ご飯を炊いて、昨日買っておいた鮭があるから焼いて。昨日の余った野菜炒めをみそ汁にして。あー…あとは冷凍食品のおかずでもチンすればいいや。
「ただいま~」
「おかえり」
「お腹空いたぁ」
「ご飯が炊けたらもう夕飯だよ」
早炊きにしたからもうそろそろ。
「今日、店長に褒められたんだ」
「ほう、なんて?」
「入った頃よりちゃんと喋るようになったねって」
それを聞いた姉ちゃんは二パッと笑顔がほころぶ。
「やったじゃん!え、え、じゃあさ、今度は店長や先輩以外にも話しかけてみたら?」
「は?」
姉ちゃんは何も考えていないように、深刻なんて言葉をしらないように無責任にツラツラと言葉を並べる。
「いい調子ってこと。ね?いい機会だしチャレンジしてみたら?他の人とも話すいい機会。適当に会話でもすればアンタの気にする‘呪い’だって効きやしないわよ」
「適当って…それが出来ないから苦労してるんじゃん」
「何も考えなきゃいいのよ。まずは『どうも~』って会釈すればいいじゃない。ね?」
無問題と言わんばかりにニコリと笑う。狐みたいに。
「簡単に言うな…」
もう無視して、さっさと夕飯を食べる。
風呂も終え、自室に籠りアコースティックギターを静かに鳴らす。お気に入りの歌を小さく口ずさむ。
この部屋は好きだ。電子ピアノもあるし、ギターもある。好きな本も揃っていて、パソコンがある。デジタルで絵も描ける。ノベルも書ける。投稿サイトにアップできる。
何も不自由はない。でも…
それは姉ちゃんがいるから成り立っている生活なわけで。
もし姉ちゃんが嫁に行くとなったら?僕は確実に独り暮らしを強いられる。しなければならない。自立だ。
現状、姉ちゃん以外に頼れる人と言えば…バイト先の店長だろうか。でも、店長に私生活について相談するのは物凄く気が引ける。そういう間柄でもないし。
そう考えると、少しずつ今からでも、誰か頼れる人…を、見つけておいた方がいいのだろうか。
頼れるっていうのは寄りかかっているみたいでなんかイヤだな。でも僕は何もできない。手助けの手すら伸ばしてやれないダメな男だ。
嫌なことを忘れさせてくれるギターを弾く手を止める。
(やっぱり、変わらないといけないのかな)
変らないといけない時期に来ているんだろう。そう思い込む。
今日のバイトは休み。
姉ちゃんを送り出し、歯を磨きふとカレンダーを見る。
「ゲ!今日欲しかった漫画の発売日!通販し忘れた!」
丁度、通販サイトでも在庫切れで入荷待ちだったのだ。すっかり忘れていた。
仕方が無いので家事を済ませて午後に本屋に行くことにする。頼むから町の本屋に置いてあってくれ。
「申し訳ございません。こちらの新刊はもう売り切れでして…」
「そう、ですか…」
「すみません。アニメ化の影響で飛ぶように売れてしまって。あ、お待ちくださいね」
僕は恐れていた事態に狼狽えていた。町の本屋で売り切れていたのだ。アニメ化が当たったらしく、本棚には一巻から最新刊まで綺麗に無かった。
「お客様、本州の本屋に、在庫が少量ですがあるそうです。よろしければ、お取り置きいたしますが、いかがなさいますか?」
「ほ、んしゅう…」
あまり町から出たくない。
あの橋を渡りたくない。
渡りたくない。
渡りたくない。
「お客様、大丈夫ですか…?顔色が、」
「え、あぁ…すみません。じゃあ…」
断わって、通販に頼ろう。そう思った。だけど。
――自立しないと。
ここで無駄なリフレインが起きる。
「…あの、お取り置きを、お願いできますか…?」
かしこまりました。と店員さんが笑顔で答える。
僕は名前を伝え、本州へ向かうバスへ行き、並ぶ。
本州に行くのは車移動しか方法が無い。自家用車。それが無い人はバス。この町に住んでいる人は大半が車を持っている。姉ちゃんも車出勤族。俺は免許を持っていないのでバス移動。
並んでいると、学生専用バスが停車する。ぞろぞろとそれぞれの学校の制服を着た学生が降りてくる。
まだ午後の早い時間なのに今日は下校が早いらしい。そのせいもあって新刊が売り切れるのも早かったのかも。
バスに乗り、窓際に座る。移動中、ずっと外を眺める。
ずっと夜の国。
太陽が消えた国。
それでも他の国や大陸には太陽が昇り、沈み、月が浮かぶ。
この国だけ。
この国だけが不思議な国。
不思議町や本州には東国の謎の解明に来た学者やなんかの調査団の外国人がワラワラと居る。ベットタウンみたいなもの。
(変な国になったなぁ)
揺れるバスの中で、ぼんやりと思う。
「こちらになります」
「ありがとうございます…」
念願の新刊をゲット。
ついでに気になっていた書籍も購入する。
(重たくなっちゃった)
袋を手に、嬉しさも重さの代償だと思い本屋を出ようとした時だった。
「新刊あるといいね」
「無いと困るわ。あの町じゃ絶対に売っていないからね」
「そんな断言しなくたっていいじゃない、アリス」
同じ顔が三人。
(あ…あれが噂の)
魅惑のトリプレット。
英国からやって来た、母が英国人のミックスの女の子達。華の女子高生。皆が皆、振り返る。
美少女
クセっ毛の子。ドーナツヘアの子。ストレートヘアの子。
(あ)
ストレートヘアのあの子。知った顔を見つける。バイト先の喫茶店の常連の彼女だ。
(ここでバッタリ会うとは、思わなかった)
――挨拶しなよ。
挨拶。
挨拶。挨拶。会釈。
こんにちは、こんばんは。
挨拶。
「ど、うも」
「どうも…」
軽く会釈し、少し足早で離れる。ボブヘアのクセっ毛の子がこっちを見ている。
「知り合い?」
「ううん。知らない人」
え
常連さんが困った声色で言う。
「ほら、早く行くわよ!在庫が無くなったら大変だもの」
ドーナツヘアの子が二人を連れてさっさと歩いて行く。まるで不審者の僕から離すように。
(僕は、やってしまったのかもしれない)
逃げるように町へ向かうバス停に並ぶ。
青ざめていく感覚。血の気が引いて行く感覚。
(顔を覚えてもらえていない)
店員とお客さん。所詮それだけの間柄で。顔見知りというにも厚かましい。
バスに乗り席に座る。
その間、ずっとマイナス思考で、消えたいということばかり考えていた。
自宅に着き、部屋に籠る。
ベッドに倒れ込み、落ち込む。
(頑張ろうとしたのが間違いだったのかな
今は誰にも会いたくない。
気持ちが落ち着くまでずっと寝ていたい)
誰にも。誰にも。姉にも。
独りでいたい。
心を閉ざす音がした。
***
私は玄関の前にいた。
帰って来て、鍵を開錠して入ろうとしたら、開かないの。玄関が。
「は、どうなってんの」
頑張って開けようとガチャガチャしても、窓を叩いて室内にいるはずの累を呼んでも居ない。二階の自室かと思い石を投げるが、バイーンと跳ね返される。
「…は?割れるどころか跳ね返されるとかどういうことよ」
もう一度上げるが、また跳ね返される。
「ちょっと、累!おい、累!寝るには早い時間よ!夕飯だって食べてないでしょ!」
叫んでも出てくる気配は無い。
「…こうなったら」
覚悟を決めバッグで窓を割ろうとした。だけど。
「ギャ!」
逆にバックが跳ね返り、手から飛んでいく。
「どういう事よ」
私は仁王立ちになって眉を顰める。窓も、玄関も、全て鍵が掛かっている。おまけに窓硝子は割れない。でも中に人がいる気配はする。累は絶対に中にいる。でも私に気づいてくれない。
「仕方ない。相談しにいくか」
私は落ちたバックを拾うと、累の自転車の鍵を壊して乗り、隣の不思議ヶ丘村へ向かい走っていく。
不思議ヶ丘村は、不思議町の隣にある村。
今、合併の話が出ているけれど、不思議ヶ丘の住人は反対している。そのせで、村に繋がる唯一の坂道にはバリケードとプラカードが並べられている。
『合併反対』
『町長を許さない!』
『不思議ヶ丘村を守る!』
『反対!反対!』
物騒な看板に反して「安全第一」と書かれたオレンジ色のバリケードを退かし、自転車を入れる。そして閉める。これをちゃんとしないと村人が五月蠅い。
「この坂道、ほんっとうに嫌い!」
私は自転車をそのまま端に止め、歩きで坂道を登っていく。夜の国になったくせに、この坂道には街灯が一つもない。
「どこに予算回してるんだか」
スマホのライトを点けて足元を照らす。
塗装もされていない地面剥き出しの道の先にある丘に、不思議ヶ丘村がある。人口の少ない、奇妙な奴等ばかりが住む屋敷がある。
十分以上歩いてようやく辿り着く不思議ヶ丘村。
そこに一軒、大きな屋敷がある。
通称・菊理屋敷
一階のバルコニーにもたれて煙草を吸う男がいる。
不気味なほど白い髪。暗闇に煌めく赤い瞳。
この男も、呪いにかかった人間。
「おや、どうしました。雲母坂さん」
私に気づいた男が視線を向ける。
「アンタに頼みがあって来たの」
「頼み?」手すりに肘をつき頬杖を突く。
「なんか弟のせいで家に入れなくなっちゃった!あの子の‘呪い’のせいかも」
「あぁ…以前言っていた言霊の力の呪いですか?そりゃ大変だ。一体どんな言葉で家ごと閉じこもってしまったんでしょうねぇ…」
「それもそうだけどさぁ!なんかあって部屋に籠ることはあっても、家ごと閉じこもることなんて今まで一度もなかったのよ?!なんかあったのかな…」
「心当たりはないんですか?」
心当たりと聞いて悩ませる。
「あー…あるかも。常連さんに挨拶してみたらって。余計なアドバイス…したかも」
「常連さんに?でも、あの町なら常連客と会ったら挨拶や、なんだったら世間話もするでしょう。この村でもそうですけど」
屋敷の横にある小さな喫茶店を指さす。もう閉店しているが、この村唯一の喫茶店。この男の同居人が経営している喫茶店。そしてその二号店で働いているのが、累。
「兎に角来なさいよ」
「強引だな」
男は部屋に戻ると、同居人に出かけることを伝え、玄関から出てくる。
「三月が終わったらお夕飯でもご一緒にどうですかって」
「急に増えた分のご飯用意するのは大変でしょう。あんたん所、姪っ子の他にも預かっている人いるんでしょ?」
「一人二人増えた所で三月にとっては変りませんよ」
「アンタ、三月さんに未来永劫頭上げないでね。ずっとお礼の土下座でもしていなさいよ」
「ひどい」
「お夕飯はまた別の機会に、ちゃんと予定を決めてごちそうになりに行くわ。この後、ちゃんと累と話し合いたいしね」
「そうですか。話し合う事は大事ですよ」
この男の名前は
八田真塔
デザイナーだか会社経営だかなんか衣服に関しての仕事をしている。もともと白髪でも赤眼でもなかったらしい。太陽が消えた七年前に、事故にあって、生死を彷徨って目覚めたら変っていたらしい。
「…七年前から、この町も、村も、変なことばっかり起きる」
「太陽って魔除けの効果でもあったんですかね」
「そうかも」
私達は適当な会話をしながら、町へと降りた。
***
寝ている時って、幸せな時と苦痛な時がある。
いい夢を見れたとき。熟睡出来た時。
悪夢を見たとき。寝つきが悪い時。
昔は夜が嫌いだった。ベッドに潜るのが嫌いだった。明日になったら、また朝が来て、嫌な世界と向き合わなきゃいけなかったから。
夜は余計な事を考えるにはいい時間だろう。憂鬱になる。
だけど、この国はずっと夜。
今見ている夢も、真っ暗な中をどこまでも沈んでいく。
「もう永遠に目を醒ましたくない」
「もう誰にも会いたくない」
「独りでいさせて」
「傷つきたくない」
「相手も、僕も」
――本当にそれでいいの?
誰。
あ、姉ちゃんの声だ。
――確かに今回は失敗したけど。人類があの子だけじゃないよ
そうだけども
だけども
――ここが嫌なら、新天地にでも行ってみない?新しい世界を見るのはいいことよ
一からやり直すつもりで?
――そう。累を知らない人達と、過ごすの。そして、そこから新しい累を知ってもらうの。どう?ずっとここに閉じこもっているより、私は良いと思う。
その…新天地に行けば常連さんとも会わなくて済むかな…
――たぶんね。…相当ショックだったんだ。
うん
――ごめんね、無茶なこと言って
ううん…僕の方こそ、ごめんなさい。立ち直れていなくて、ごめんなさい。
姉ちゃんが手を差し伸べてくれるから。
僕はその手を取った。
「累…?」
目を開けると、暗い部屋の中に姉ちゃんと、知らない男の人が僕を覗き込んでいた。
「あ…お帰り…?あの、どちら様?」
「この人のこと?私の知り合い。真塔って呼んであげて」
「どうも。君のお姉さんから助けを求められて馳せ参じました。大変だったんですよ。家全体の鍵が開かなくて。開いてもらうのに、随分時間がかかりました」
クスクスと嬉しそうに真塔さんは笑う。
「こ、こんにちは…。家の鍵、姉ちゃん無くしたの?」
「…まぁ、うん」
「もうこんばんは、の時間帯ですね」真塔が言う。
時刻は二十二時。
「…わぁ?!ごめん!夕飯の準備出来てない…」
「いや、いいのよ。夕飯は。それより、大事な話があるんだけど」
ここで僕は、初めて正夢を経験した。
要は、簡単だ。
この八田真塔さんのお宅で預かりとなった。居候。
不思議ヶ丘に行って、真塔さんのお家で暫く生活を送らせてもらう。新天地(と言っても隣村だけど)で心身ともに落ち着くまで。ちゃんと整えられるまでお世話になることになった。
バイト先にも事情を説明して、一旦辞めることにした。
「我が家には本やピアノにギターもあるよ。必要なら実家に戻ってくればいいさ。どうせ隣あっているんだから」
「ありがとうございます」
居候が決まれば、行動は早かった。
少ない衣服を鞄に詰め、パソコン一式を真塔さんの車に乗せる。そして、昔もらった缶と童話リュックに入れる。
「準備はいい?」
「はい。姉ちゃん、ちゃんとご飯食べるんだよ。睡眠も。朝もちゃんと起きてね」
「ご心配なく。お互い、姉弟離れするいい機会かもね…」
それだけ言うと、車はゆっくりと発進する。
こうして僕の新しい日々が始まる。
そして、とても不思議な体験をすることにもなる。